湯沢温泉/芸者の値段
みつまたかぐらスキー場への路線バスは湯沢駅の東口から出ている。
乗り場でバスを待っていると、苗場プリンスホテルの送迎バスが、目の前で外国人らしい客をぞろぞろ下ろした。
苗場はみつまたかぐらの先だから、帰り便に乗せてもらえると助かる。
で、これってホテルの客しか乗せてくれないんですかと訊いてみた。
ええ、そうですといって、バスは空っぽで帰っていった。
やってきた路線バスに乗り込んだのはわたしひとりである。
いまに始まったことじゃないが、世間に対してなんか壮大な不条理を感じてしまう。
バスの中でまた思索の続き。
いったい芸者をあげるといくらかかるのか。
島村の場合、駒子を2時間や3時間だけお座敷に呼んだわけではなく、へたすればひと晩中いっしよにいることがしょっちゅうある。
彼女は湯沢では売れっ子の芸者だったらしいから、そんな芸者とこれだけ親密になったら、あとの支払いが大変だ。
プラトニックな関係なのだから金は払ってないのではないかという人がいるかも。
しかし小説の中に、ちゃんと時間いくらで料金を清算する場面も出てくる。
ただ売れっ子芸者になると、けっこう自分の裁量がきいたようで、駒子もひいきの島村には時間を割り引いているのである。
線香がなん本でいくらとか、芸者の給与のしくみもわかっておもしろい。
川端康成という作家の経歴をみると、若くして両親を失い、若いころは今東光の家に世話になったり、いろいろと苦学をした人のようである。
その一方で、「伊豆の踊り子」などを読んでも、これが彼の実体験に基づくものなら、けっこう若いころから花柳界の遊びにも詳しかったようだ。
むかしの作家って、芸者をあげるほど儲かったのか。
それともこのていどは、当時の常識だったのか。
いずれにしたって島村がそうとうに資産家でなければ、この小説は成り立たない。
わたしみたいにひきこもり傾向の、さえない男にとっては、「雪国」はやっぱり男の願望を体現した小説なのだ。
それなのに島村はあいかわらず、どこまでも頼りない男なのである。
このへんの事情は川端康成本人が語っている。
つまり島村は駒子を写す鏡でありさえすればいいのであって、いてもいなくてもいい存在だそうだ。
おかげでこの本の中では、駒子さんが一方的に身もだえしているような雰囲気もある。
本の主題をひとことでいうと、〝徒労〟ということだそうだ。
添付したいちばん上の画像は、湯沢温泉の帰りに乗った新幹線の車内誌より。
| 固定リンク | 0
コメント