富山湾/また新幹線
富山からの帰京は、湯沢温泉についで今年2度目の新幹線だ。
東京まで3時間半で、1万3千円。
高いか安いかといわれると、むろん高い。
終活中で、さっさと貯金をはたいてしまえというわたしみたいな人間でなければ、おいそれと投じられる金額ではない。
でもそういう人間であるならば、駅からふいと乗れて、空港ターミナルみたいに爆弾チェックもない新幹線は、それなり価値がある。
同じような時間で着くなら飛行機のほうがいいという人も多いとみえて、新幹線はがらがらだった。
これは無駄といえば無駄だけど、もういいトシのわたしには、網の目のような新幹線がこの国のインフラに必要なものなのかと、いちいち運輸行政に文句をいう気にもなれない。
人間というのは欲得抜きで、とことんまで便利さを追求する動物なんだろう。
じろじろと車内を観察する。
見たところUSBコネクタも無線LANも付いてないようだった。
便利さを追求する割りには手抜きもあるようだ。
さて、今回の旅。
いつものようにだらしない旅である。
ホタルイカの身投げを見に行くといって、けっきょく見られず、これではなにをしに行ったのかわからない。
でも、見られないから失敗とは思わない。
この旅でわたしの満足感はけっして少なくなかった。
満足感?
いったいわたしは何を求めて旅をするのだろう。
名所旧跡でもなく、美味しいものでもなく、特別に欲しいもの、買いたいものがあるわけでもない。
バスで富山に到着したときは、すてきなところだなと思った。
のんびりしていて楽しそうなところだなと思ったけど、ほんの4日滞在しただけで、その呑気さがかえってわたしには向かないと思うようになった。
ということは、田舎の素朴な生活や人情にあこがれているわけでもない。
これはたぶん、誰にも声をかけられたくない、他人といっさいの関わりを持ちたくない、ひとりでぼんやりと空想にふけっているのが幸せという、現実逃避症候群のあらわれなんだろう。
つまりわたしは人間社会の、メンドくさいものすべてを拒否したいのだ。
そう考えれば、刑務所みたいな小部屋に押し込まれて、テレビも観ない、外界との接触はインターネットだけ、そんな旅行も天国みたいという気持ちはよくわかる。
英国の女性紀行作家クリスティナ・ドッドウェルも、森の中でひとりぼっちでいるのが好きと書いていた。
彼女の場合、性格が複雑化する原因に思い当たるけど、孤独を偏愛する性格は人間にとって、けっしてめずらしくない特質なんだとも思える。
そう考えて自分を慰めよう。
まだ貯金は残っている。
わたしの足はいよいよ衰える。
時間との勝負だ。
さあ、つぎはどこへ行こうかと、最近変更したこのブログのタイトルのように、前期高齢者のヤケッパチ放浪はまだまだ続くのだ。
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