2016年6月30日 (木)
タイでヒマつぶしに読もうとして、沢木耕太郎の「深夜特急」という本を選んだけど、全6巻のうち、アジア関連の1〜4巻を出発まえに読み終えてしまって、はて、どうしょう。
図書館で書架をながめているうち、むかし読んだポール・セローの「鉄道大バザール」や「ゴースト・トレインは東の星へ」という本を思い出した。
アメリカ人作家のP・セローが、ヨーロッパからアジアを経て、日本まで来るという紀行記で、たしかこれにも経由地としてタイが出てきたはず。
内容もそんじょそこいらの小説よりレベルが高いし、おかげでいちど読んだだけではまったく頭に入らない。
レベルが高いというのはこういうことだ。
「旅行記のほとんどは結論に飛びつく傾向を有し、それゆえになくなっても困らない」
「衰えを評価する能力は、年をとって初めて身につくものなのだ」
「年をとる楽しみのひとつは、世界の動乱の生き証人になること、そして不可逆的な変化というものを目にすることである」
「楽しい本の多くがそうであるように、それは苦悶の中で書かれた」
これは「ゴースト・トレイン」から拾ったものだけど、こういった警句が、ものの20ページも読み進まないうちに、矢継ぎ早に現れるのだ。
警句のほとんどは、読んだとたんに右から左へと消えていく。
ジャズという音楽が、聞いているときは楽しいが、終わるとあとかたも残らないのと似ている。
内容をほとんどおぼえていないのだから、これを旅の道連れにして、もういちどじっくり読んでもいいのではないか。
しかし「鉄道バザール」はハードカバーで353ページ、「ゴースト・トレイン」は560ページちかくもある本なので、両方とも持参したらアルプスの歩荷なみの苦行を強いられることは間違いがない。
それにそんなぶ厚い本を、たかが8日間の旅で2冊も読み切れるはずがない。
どっちかひとつだけにするとしたらどっちがいいだろう。
「鉄道バザール」の旅は1975年の旅で、「ゴースト・トレイン」は2008年の旅である。
どうせ異次元の旅をするなら、時間差があるほうがおもしろい。
というわけで、今回のには「鉄道バザール」のほうを持っていくことにした。
わたしは今回の旅と並行して、40年ちかくまえの旅も体験しようというのである。
紀行記のいい点は、だらだらと同じような記述が続くだけで、ふつうの小説のような起承転結があるわけでもないから、とちゅうから読んでもいいし、いいかげんなところでやめてもかまわないことだ。
ホテルにひっくり返って、だらしなく読むのに適している本なのである。
ただヒマつぶしが過ぎて、あちらでは本を読むだけで終わってしまうかもしれない。
本を読むなら日本にいたってできる。
そういう人もいるだろう。
そういう人は本など読んだことのないのにちがいない。
ちなみに独身男がうす汚いベッドに横たわって読む本を、豪華ホテルのプールのわきに寝ころんで読んでみよ。
下ごころのある美女がにじりよってくるかどうかは知らないけど、環境が変わるだけで、本から受ける喜びはまったくちがったものになるはずだ。
ひとり旅なんて現実逃避とたいして変わらないのだから、たまには自分が知的で金持ちという妄想の中に逃避してみるといい。
スターバッークスでアップルPCを広げている若者も、たぶん同じ心境だろう。
ホント、見えっ張りだよな、わたしって。
添付した写真は、プーケットのホテル・フロントで働いていた娘で、ちょっとエキゾチックで高貴なほほえみが、タイの仏像のモデルみたい。
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2016年6月29日 (水)
朝になって寝つき、午後に起きたら、なんとなく右腕がしびれている感じ。
歯をみがくと、くちびるの右のほうにも違和感があった。
いよいよ来るべきものが来たかと思う。
なにしろ血圧はあいかわらず高止まりだし、薬も飲んでないし。
わたしもいよいよ終末が近いようだよ。
あわててネットで脳梗塞の症状について調べてみた。
両手のひとさし指を目の前で接触させたり、目をつぶって指で鼻をつけるかどうかなど、脳に異常がある場合のチェックしてみたけど、とくに問題はなし。
頭痛がある場合はくも膜下出血の怖れアリらしいけど、それもぜんぜんなし。
わたしのむかしの友人は、今日はパソコンでやけにミスタッチをするなと思っていたら、それが軽い脳梗塞の前兆だったそうだ。
しかしわたしの場合、あいかわらずブログの更新なんかやっていて、少なくとも文章を書くうえで支障は出てないようである。
ヤケになって、昨日は国立まで出かけて知り合いと会食。
今日は飲みませんよといっておきながら、軽くビールとハイボールをあけてきた。
今日は食事も控えめにしますといいながら、最後はイクラ丼で腹がきつくなってしまった。
でもそのころにはしびれも違和感も消えていたから、また先行き不透明。
もういつ死んだってかまわんと思っているからどうでもいいようなものだけど、脳梗塞で半身不随ってのはイヤだな。
ミスタッチの友人はその後自殺した。
わたしもさっさと人生をリセットして楽になりたい反面、ひとりで海外旅行に行くくらい元気なのに死ぬのもつまらないと、いろいろ迷ってます。
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2016年6月28日 (火)
ブログネタがないとき、頼りになるのはやはりウチの新聞だ。
最初は投書欄なんだけど、今朝のウチの新聞にこんな投書があった。
EUからの離脱を問う英国の国民投票で、テレビ局が街の英国人にインタビューするのを観ていたら、みんな外国との関係をしっかり把握し、先を見据えた客観的な意見を表明していた。
だから英国人はえらくて、それに比べたら日本人は、というのが投書の趣旨らしいんだけど、そうかあ?
どこのテレビ局だ、そんなインタビューをしたのは。
ちょっとまえにこのブログに書いたように、英国では投票が終わったあとで、あわててEUってナーニ?とGoogleで調べた人が多かったという。
英国にも先を見据えてない人が多いじゃないか。
それが証拠には、今日の新聞にも載っていたけど、離脱派が約束した公約はウソでしたと離脱派議員が告白して、ふざけるな、投票をやり直せという騒ぎになっているらしい。
上記の投書をしたのはJK(女子高生)らしいから、わたしは彼女を責めない。
彼女は政治に興味を持ち始めたばかりなのだろう。
それはとってもいいことだ。
そういう若者が経験を積んで、(たぶん)日本を背負って立つ人材になるにちがいない。
このJKにアドバイスするとしたら、テレビだけではなく、たまにはネットの「海外の万国反応記」も読むことだといっておこう。
もうひとつのネタは、ウチの新聞に掲載されていた週刊朝日の広告なんだけど。
「森山農水相、西川もと農水相に、TPPをめぐり、養鶏協会から現金授受」という大きな見出し。
そういう協会もあるのかいとはじめて知ったけど、そのあとに「計80万円を自民3議員へ」だって。
しかもこれ、スクープだって。
8000万円の間違いじゃないのか。
80万円を3人じゃ、ひとり27万足らず。
当節は議員もみみっちくなったもんだ。
額が少ないからいいってもんでもないけど、重箱のすみをつっつくようなことをしていたら、舛添サンのあとがまを引き受けようなんてキトクな人はとても見つからないよな。
見つかったとしても、またすぐ袋叩きだ。
日本中が他人のアラ探しに熱中しているみたいでコワイわー。
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2016年6月27日 (月)
わたしは動物ならたいていのものが好きである。
といっても面倒見のいいほうではないから、動物のほうで迷惑だろうと考え、自分で飼うことはしない。
階下の金髪クンの家では、毛の長い、高そうなネコを飼っている(サイベリアンという種類らしい)。
やっこさんをなんとか手なずけようと、出会うたびにお世辞をふりまいていたんだけど、ネコというやつは気位が高くて、なかなかこちらの思い通りにならない。
それでも最近はやっと、頭をなでさせてくれる程度にはなついてきた。
今日、ゴミ出しをしようと、朝の早い時間にドアの外に出てみたら、道路のはじになにやら茶色い毛皮のようなものが。
おいおいおい。
あわてて近づいてみたら、案の定金髪クンの家のサイベリアンだった。
車にはねられたらしい。
外傷はないけど、すでにたましいは、ネコにもたましいというものがあるならば、肉体をはなれて雲の彼方に飛び去っていた。
というのが今朝のできごと。
さっそくブログに書こうとしたら、今朝は@ニフティにシステムの異常が生じたとかで、すぐには更新ができなかった。
やれやれである。
動物好きには怒られるかもしれないけど、この機会にわたしの動物に対するスタンスを発表してしまう。
わたしは動物には動物の分際というものがあると考えているので、ネコやイヌを溺愛する人の気持ちが理解できない。
子供のころ、我が家でも雑種のネコを飼っていたことがあるけど、そのころはみんな放任主義で、食事は人間の余りもの、飼いネコも野良もそのへんで勝手に遊びまわり、ときどきお腹が大きくなって飼い主を困らせていた。
ひどい家だと生まれたばかりの子ネコを、まとめて川に投げ込んでしまうこともあった。
それでもネコたちがいまより不幸だったような気がしない。
彼らが自由を愛する動物だからこそ、わたしはネコたちに、そんな時代と現代では、いったいどちらが幸せなのかいと聞いてみたくなる。
うちのネコは幸せだという人がいたら、その1匹のかげにどれだけ不幸なネコ、つまりペットショップで売れないまま殺処分になるネコがいるのやらと。
どうも余計なことに気をまわしすぎるのがわたしの欠点だよな。
世間はそれで無事にまわっていくのだから、偽善者ぶりは止めとけという人がいたら、ゴモットモといって引き下がっておくか。
でももうあのネコの頭をなでられないのは悲しい。
わたしが仕事から帰ってくるころ、よく玄関まえで寝転がっていた彼の頭を。
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はからずも読み始めた沢木耕太郎著「深夜特急」。
そもそもは、これからわたしが行こうとしているタイという国について、どんなことが書かれているかを読みたかったんだけど、バンコクの評価はあまりいいものてはなかった。
それでもどんどん読み進んで、香港からスタートしたこの旅は、マレーシア半島を経てインド、ネパールへ、そしてシルクロードへとさしかかった。
もうこのへんでタイと縁のない国ばかりになってしまうので、読むのをやめてもよかったけど、シルクロードというから、わたしも行ったことのある中国の西域がでてくるのではないかと思って、もののついでに読んでみた。
シルクロードはシルクロードでも、この本のそれはネパール、カザフスタン、イランを通るコースで、中国はぜんぜん出てこない。
カザフスタンなどは、現在ではひじょうに危険な国になってしまったので、そういう意味では貴重な旅行記かもしれない。
と思ったけど、このへんの記述はちょっとあっさりしていてもの足りなかった。
この本はヒッピーのバイブルといわれることもあるそうだ。
たしかに主人公の、できるだけ安いホテル、安い交通機関をというケチケチぶりをみると、同じような貧乏旅行をこころざす若者にとってガイドブックとなってもおかしくない。
道中のあちこちにヒッピー宿というものが出てくる。
貧乏旅行をする若者たちが、あそこへ行ったらこの宿屋が安いと、口コミで伝えた情報が評判になり、いつのまにかヒッピーのたまり場になったホテルのことだ。
この本の中にはそうした宿も実名で出てくるから、わずかな金で旅をする若者たちにとっては頼りになる本だったろう。
ただこの本からは、貧乏旅行のガイドというだけではなく、もうすこし突っ込んだものまで感じられる。
主人公は旅の途中で、ロッテルダムから来た貧しいヒッピーと出会う。
バスの乗客がみな食事をしているのに彼だけは何も食べず、落ちたクラッカーをひろって食べたりしているところからして、貧乏なヒッピーの中でもとりわけ貧しい人間にちがいないけど、この彼が現地の子供たちにもの乞いをされると、なけなしの金を等分して分け与えてしまう。
いったいこの先どうする気だろうと心配になってしまうくらい。
主人公は自分なりの考えから、けっしてもの乞いに応じない決意だったのに、彼を見て貧しさや豊かさとはなんなのかと考える。
なんだかできすぎた話に思えるかもしれないけど、沢木耕太郎という人の文章には誇張や創作めいたものが感じられないし、いかにもありそうなことばかりだから、これも彼がじっさいに体験したことなのだろう。
イランのドミトリーでは、病気で宿屋にふせっているヒッピーに出会う。
同情した主人公は食べ物を差し入れたりするのだけど、相手は世捨て人のような拒絶を示して、なかなか打ち解けようとしない。
それでもじょじょに言葉を交わすようになり、主人公の出発する日になると、彼はいっしょに行こうかななどと、ちょっと弱気な発言をする。
しかし主人公もさすがにそれ以上面倒をみられないというので、ひとりでさっさと出発してしまうのである。
あとで後悔するのだけど、わたしにはこのあたりの描写が、ちょっとオーバーだけど、ヒッピー精神を象徴しているようで興味深かった。
グループでにぎやかに旅をするヒッピーもたしかにいただろうけど、その反面、失恋や挫折、自責、迷いなどがきっかけで、孤独な旅に出た若者もけっして少なくなかったと思う。
旅先での出会いなんて一期一会で、頼りになるのは自分だけという強固な意志がなければ、ノミシラミのわくホテルに泊まり、おんぼろバスにゆられ、故国から遠くはなれたヒッピー宿で行き倒れになるかもしれない、そんな自虐的ともいえる旅なんぞできるはずがない。
他人の助けなど期待するほうがまちがっているのだ。
この本の主人公がわたしでも、やはり病気の彼を置いて出発したんじゃないか。
そして同じように後悔したんじゃないだろうか。
これは若者が自由に海外に飛躍できた景気のいい時代の物語だという人がいるかもしれないけど、最近のISに身を投ずる若者たちも、人生に投げやりになって旅に出たヒッピーと、遠いところでつながっているのではないかと、つい思ってしまう。
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2016年6月26日 (日)
わたしがよく見る「海外の万国反応記」というサイトに、英国では離脱をめぐる国民投票後に、EUってナニ?とネットで調べた人が多くて、googleの検索トレンド・ランキングで2位になったという記事が出ていた。
ちなみに1位は「EUを離脱するってどういうこと?」で、3位は「どの国がEUに加盟しているの?」だそうだ。
これは、つまりEU離脱を支持した国民の中に、肝心のEUについて知らなかった人が多かったということになる。
これに対する反応が
「どんな国でも有権者を平均するとこれくらいのアホさ加減でしょう」とか
「うちのばあちゃんはむかしシラク大統領に投票するのに、他人よりスーツの着こなしが上手かったからといっていた」
「なんで知りもしないのに投票するんだよ」
「女性というものは政治に深く踏み込まないから」
「EUが何カ国かなんてナイジェリアの高校生にだって答えられるぞ」
と、まあ散々。
どこまで信用していいのか迷うけど、こういう人たちが今回の結果を左右したのは事実のようだ。
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2016年6月25日 (土)
タイの写真を検索しているとき、素晴らしい写真を見つけた。
添付したのがそれだけど、ナショナル・ジオグラフィックに採用されてもおかしくない素晴らしい写真だ。
太陽がのぼる直前の平野を、仏像が静かに見守っている。
このブログではいくらか縮小してあるけど、じっさいにはもっと大きな写真で、それだけでもだいぶイメージが異なる。
最初は直立不動かと思ったけど、この像は足をたがいちがいに交差させて、つまり歩行中の姿だ。
これだけで無神論者のわたしでさえ、思わず敬虔な気持ちになり、意味もわからないまま感動してしまった。
(この写真には撮影者がわかるように、下のほうにロゴが入っているけど、あまり素晴らしい写真なので、そのままコピーしてしまう)
この仏像を見物に行こうかと考え、いろいろ調べてみた。
これはどうやらナーンという街にある、ワットプラタート・カオ・ノイという寺にある仏像らしかったけど、残念なことにべつの時間の、べつの角度から撮られた写真で見ると、あまりありがたみが感じられなくなる。
金色に塗られているのは我慢するにしても、どうもスタイルが、頭でっかちで、プロポーションがよろしくないせいだ。
法隆寺の百済観音が9頭身のスマートな仏像で、それだけでえもいわれぬ崇高なエロチシズムを感じさせるのと大違い。
それともこれは、ミケランジェロのダビデ像のように、ま下から仰ぎ見た場合、ちょうどバランスがとれるようにとの計算かしら。
2枚目の写真は、べつの時間にべつの角度から撮られたもの。
この写真に感動した欧米人は多いとみえて、ネット上には同じアングルの写真がたくさん見つかる。
ほとんどの写真がうしろ姿なので、どうしてかと思ったら、正面から撮ると平野がのぞめない、平凡な背景になってしまうからのようだ。
終活中のわたしにはいろいろ迷いも多い。
たぶんたくさん見ることになるであろうタイの仏たちが、無神論者であるわたしのこころに、なにかを示唆してくれるってことはないだろうか。
ちょうど暁の寺(ワットアルン)が、小説の主人公に、ホントかウソか、輪廻転生について示唆したように。
そういうものを感じとるためにも、やはり旅はひとりで行くべきだな。
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2016年6月24日 (金)
英国がEU離脱だって。
わたしもあわてて手持ちのユーロを確認してみた。
これが紙クズになる日も近いのか。
遠い島国の住人にとってたいして影響のないことかもしれないけど、これは近視眼的な人々が勝ちをおさめたってことでいいんじゃないか。
自分たちの税金を外国に使われたくない。
とりあえず自分の仕事が、守れればなんだっていい。
女王さまもEUがキライらしいし。
でも、そんなうまくいくかしら。
EUの理念というのはもっとずっと高いところにあったはずだけど、理念じゃ食えないっていうんだな。
日本みたいに移民も受け入れたくないっていうんだな。
日本人としちゃあまりイバれないか・・・・・
でも、かって世界中に植民地を持っていた英国は、そのころの植民地の人々を拒絶することはできないぞ。
地獄に行け。
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BSで放映された、「鍵」という古い映画を観た。
これは老人の性を描いた谷崎潤一郎の小説を、市川崑が監督した、まあ、まじめな映画である。
いちいちまじめな映画とことわる必要はないけれど、どうもこのころの映画というと、新東宝のピンク映画しか思い浮かばないもんで、ほんと、ませガキだったよな、わたしって、あの頃から。
この映画の冒頭に、医師が人間の老いについて説明するシーンがある。
彼は年とともに人体が老いる徴候を、年令に応じてあれやこれやと説明するんだけど、60では臭いの感覚がにぶり、70で人間の力の2/3を失い、やがて迫りくる老衰は誰も逃れることはできないという。
わたしはまだ70じゃないけど、人間の力を失ったのでは大変だ。
でも気になって調べてみた。
この映画っていつの映画なのさ。
主人公のじいさんは金持ちに見えるけど、台所にはまだ冷蔵庫がないね。
京マチ子さん扮する官能的な人妻が、牛乳を取り出すのは、ただのアイスボックスらしい。
調査の結果、これは1959年の映画であるということがわかった。
つぎにそのころの日本の男性の平均寿命を調べてみた。
調査の結果、59年は65ぐらい(現在は80以上)ということがわかった。
なるほどね。
平均寿命を5年もオーバーすりゃ、だれだって力を失うわいな。
でも現在は平均寿命が80以上ってホントかい?
こないだ鳩ポッポ君の弟が亡くなったけど、あれってまだ60代だぜ。
疑問はさておいて、わたしのいわんとすることは、当時の学説はまったく現代にそぐわないということである。
つまり、わたしはいまだに元気だということである。
谷崎潤一郎にしても川端康成にしても、みんな老いと性について悩んでいたんだねえ。
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2016年6月23日 (木)
雨だ。
よく考えたら梅雨のまっ最中だから、雨が降ってもぜんぜんおかしくないのに、なんとなく意気消沈。
このままタイに出発する日までベッドで寝てようかしら。
仕事なんかやる気がおきないね。
あいかわらず反社会的に生きているなと思う。
ふだんエラそうなことをいってるんだから、すこしは青少年のためになることでも書けばいいのに。
今朝の新聞を読むと、これまでの選挙に比べて、首相の演説に勢いがないだって。
与党の肩を持つわけじゃないけど、そりゃそうだよな。
ただもう相手をひきずり下ろせばいいという節制のない烏合の野党を相手に、やる気を出せっていうほうが無理。
ほっといても今度の選挙は自民党のひとり勝ち。
あまりやる気を出して、国民に嫌われたくないんでしょ、きっと。
うちの近所でも候補者のポスターがいっせいに公示されたけど、どいつもこいつもロクなのがいないね。
いっちゃわるいけど、ロクなのが。
ところで投票日っていつだよ。
もしかするとその日はわたし、タイかもよ。
ええ、結果なんて見たくありません。
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気をとりなおして、タイについて勉強しておかないと、年寄りには光陰はますます矢の如しで、あ、もう出発まで10日もないよ。
「深夜特急」の主人公(沢木耕太郎さん)は、ほんとうに行き当たりバッタリだ。
バンコクでも観光地にはほとんど興味がなくて、せいぜいワットポーに出かけているくらいで、三島由紀夫の「暁の寺」にはひとことも触れてない。
見ず知らずの土地で下車したり、気がむけば居座ったりする、ヒッピーの鑑のような旅である。
こういう旅もわるくない。
わるくないどころか、むかし中国の西安に出かけたとき、出発まえには有名な兵馬俑のことをぜんぜん知らず、現地に着いてからようやく知ったわたしとよく似ている。
興味があるのは、とにかく街をぶらつくことなのだ。
ぶらついて、なにか崇高な哲学や真理にでも思い当たるならけっこうだけど、そんなことはめったになくて、たいていはヒマを持て余しているのだ。
目的さだめぬ旅枕を理想としながらも、最近ではわたしは出発まえに、現地について徹底的に調査をするようになった。
これは部屋にいながら現地のことを詳しく調べられるという、インターネットの発達のおかげである。
街の移動の仕方や、自分が見たいものがどのへんにあるか、そのていどのことは知っておかないと、現地でまごまごしたり、お釣りをごまかされたり、話のタネを見逃したりして、やはり帰国してから後悔することになってしまう。
そうならないように、机のまえで調査をする楽しみを知ってしまったというわけだ。
わたしの旅は、費用を徹底的にケチる貧乏旅行ではなく、カリマンタンで説明したような、特権階級による、いわばモーム流の旅である。
つまりそこそこ贅沢な宿に泊まり、そこそこ快適な生活をし、いくらか高みからよその国の人々の生活をながめようというのだ。
あまりほめられたものではないけど、誰もが沢木さんと同じような旅ができるわけでもないし、わたしの場合、いまさら現地の人に交わっても得るものは少ないという事情がある。
センチメンタル・ジャーニーならぬ、終活ジャーニーだからね。
録画しておいたBSの「怪魚ハンター」という番組を観ていたら、タイのバンコクが出てきた。
バンコク市内にはチャオプラヤー川という大きな川が流れていて、場所によっては、餌付けされたナマズなどが観光客をよろこばせている。
この番組の中にもナマズが出てきたけど、それよりびっくりしたのは畳2枚分ぐらいある巨大なエイである。
エイって海の魚じゃないの、っていうほどわたしは無知じゃない。
南米のアマゾン川にもエイだとかフグ、カレイ、イルカのような、どう見ても海の住人としかみえない魚が棲息していることを知っているのだ。
わたしはこういうものに興味があるので、バンコクに水族館でもないかと思ったけど、考えてみたら、わたしがいつでもどこでもしているように、魚市場を見にいけばいいだけのハナシではないか。
そういうわけで魚市場の場所もしっかりチェックした。
朝いちで出かけないとダメらしいので、寝坊なわたしはいささかビビっちゃっているけど、タイでいちばんの目標は魚市場で決まり。
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2016年6月22日 (水)
新刊を買ったり、図書館を利用したりして、タイ出発まえに全巻を読み終えてしまいそうな「深夜特急」という本。
現在はバンコクやマレー半島を読み終えて、インドあたりへ差しかかったところだ。
香港やバンコクあたりでは、主人公の旅がわたしのそれと似てるなんてうそぶいていたけど、このあたりにくると、わたしは愕然としないわけにいかなくなってきた。
いやはやね、ひどいもんだね。
この世で地獄を体験したかったらインドでカースト最下位の、さらに下にある “不可触民” とよばれる階層に生まれればよい。
そういいたくなるほど。
若いころ、わたしもインドに行ってみたいと思ったことがある。
若者たちが猫も杓子もインドにかぶれていた時代で、ビートルズもいちじインドの行者に帰依していたことがあるし、インドにはヒッピーたちの桃源郷があるって聞いていたもので。
でも知れば知るほど、この国が桃源郷どころか、目も当てられないひどい国ということがわかってきた。
現在のインドはIT先進国で、それなり域内の大国でもあるけど、これはすべて上流階級だけのハナシ。
不可触民と呼ばれる層の悲惨さは、いまでもほとんど変わってないようだ。
戦前の上海あたりがインドに似ていたようだけど、少なくともわたしが最初に出かけたころの中国でさえ、そんなにひどい国ではなかった。
インドに出かけたら、わたしは人間の残酷さ、業の深さをまっ正面からながめることになっていただろう。
沢木耕太郎さんがこの本のもとになった旅をしたのは70年代の始めらしい(まだパソコンもインターネットもないころだ)。
主人公が街を歩いていると、まだ10歳にもならない少女が体を買ってくれとつきまとってくる。
こればっかりはフィクションだろうと思ったけど、ずっとあとに作られた「スラムドック・ミリオネア(2008)」という映画にも、人身売買の犠牲になる子供たちが出てくるから、これはけっして創作ではなさそうなのだ。
悲劇に遭うまえに子供たちを救おうと、外国からの支援で浮浪児を保護する施設を経営している人々がいる。
「深夜特急」の主人公も、ボランティアと知り合って、ほんの束の間だけそんな施設で働いてみることになる。
彼は施設までトラックに乗って行くのだけど、たまたま保護されたばかりの幼い少女2人が、施設に入るためにいっしょに乗せられる。
身寄りがないわけではないのに、誰ひとり彼女たちの見送りにこない。
不可触民の親たちにとって、これは口べらしの方便なのだろうと、主人公は理解する。
この少女たちが、自分の運命に対して、絶望的なまでに無関心、無表情という描写には胸をうたれた。
椎名誠さんの紀行記には、インドは神様がやたらに多いという記述がある。
日本でいえばお地蔵さんだとか、道祖神、台所の神様、厩の神様みたいな、あまりご利益のありそうもない神様が、街中のいたるところに飾られているらしい。
しかし救いようのないインドの状況を見ていると、神様は雁首さえそろえれば役に立つというものでもないようだし、むしろこの連中の存在が人々の無知を増大させているような気がしてならない。
わたしの無神論にますます拍車がかかりそうだ。
早朝の川べりで、大勢の人々が沐浴するすばらしい写真を見たことがある。
敬虔ということばがふさわしい感動的な写真だったけど、そこへ人間の死骸も流れてくるのだ。
わたしがけっきょくインドへ行かなかったのは、そんな景色を見たいと思わなかったからだ。
「深夜特急」を読むんじゃなかった。
タイで歓楽街を見て歩くぞというわたしは、これを読んだおかげで、自分がいかに下らない人間であるかをつくづく思い知らされることになってしまった。
自分は屑だ、ヘンタイだ、人間以下だ。
そうはいっても、いまから世界のためになにか貢献できそうもないわたしは、せめてタイでは品行方正な男でいるしかないようだ。
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2016年6月21日 (火)
ぜんぜん「旅から旅へ」というカテゴリーに入らないけど、もののついでに沢木耕太郎さんの「深夜特急」にまた触れてしまう。
わたしは賭け事をやらない。
勇気がないということもあるし、賭け事の大半が偶然に賭けるだけで、自分の頭をふりしぼって結果を出せるわけではないらしいから。
でも賭け事にすなおに熱中する人を見ると、熱中できない自分がなにか大きなハンデを背負って生まれたようなくやしさもある。
ところで賭け事っていうのはほんとうに偶然に賭けるものだろうか。
なにかで読んだ文章によると、ある財閥のお嬢さんが、知り合いといっしょにカジノに行ったそうである。
この知り合いというのはカジノに顔のきく有力者で、ディーラー(サイコロやルーレットの球を操作する人)に対して、この人はわたしの友達だから勝たしてやってくれといったそうだ。
するとじっさいに、ほどほどに勝てたという。
このお嬢さんは、カジノというのはそういうところかと納得したというのである。
香港にしばらく居すわった「深夜特急」の主人公は、当然のようにマカオに立ち寄り、当然のようにカジノにも顔を出す。
最初は見ているだけだったけど、そのうち必勝方法があるのではないかと推理を働かせ始める。
サイコロの目が大か小かを当てるゲームがある。
前記のお嬢さんのことを主人公は知らないはずだけど、じっと見ているうちに、どうやらディーラーは自由に目を操作できるらしいことを悟る。
それならディーラーのくせを呑み込んでしまえばいいではないか。
そう考えてディーラーをじいっと観察し、あるていど効果を上げるんだけど、そのうちディーラーが交代してこの方法はおじゃんになってしまった。
つぎに彼が考えたのはゾロ目を見抜くことである。
詳しい説明ははぶくけど、ただ大小に賭けさせるだけでは、客のあいだをお金が行ったり来たりしているだけで、カジノの儲けにならない。
そこでゾロ目が出た場合だけ、カジノ側の総取りになる規定があるのだそうだ。
三つのサイコロの目がそろうなんてことはめったにないから、このときゾロ目に賭けていれば客も大儲けできる。
だから主人公は、ディーラーがゾロ目を出すタイミングを見計らって、相手の裏をかこうとする。
賭場が過熱して客が大金を賭ける。
そういうときにゾロ目を出せばカジノは大儲けだ。
だから自分もそういうときにゾロ目に賭けてやろう。
主人公は賭場の過熱具合を慎重に見きわめて、ここぞというときになけなしの金をぶちこむのである。
で、どうなったかというと、少ない旅行費がますます少なくなっただけだった。
カジノのディーラーも百戦錬磨のプロだから、そんな推理をする客がたまにいるということをとっくに承知しているのだろう。
やっぱりカジノなんて素人が勝とうと思って出かけるところじゃない。
それでもこのあたりの描写は、この本のハイライトのひとつといっていいくらいおもしろい。
敗北感に打ちひしがれてカジノをあとにする主人公だけど、じつはカジノ必勝法というものも存在するのである。
この本の中に、姉妹らしい2人連れが、みごとにディーラーの裏をかく場面が出てくる。
彼女らがどんな手を使ったのか、興味のある人は本を読んでみればよい。
べつにむずかしいことじゃないので、それができるかどうかはあなた次第だ。
でも、そもそもバクチで熱くなるような人には無理だな。
添付した写真は、両方ともマカオで、下はカジノと、顔にぼかしを入れる必要はないんだけど、このブログでおなじみの金持ちのO君。
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2016年6月20日 (月)
蓮舫サンが都知事に立候補しませんとのこと。
それはなかなか賢明なことのように思われる。
舛添サンの例をみてもわかるように、最近はちょっとでも不正があると政治家はこてんこてんに叩かれる。
蓮舫サンに不正があるというわけじゃないけど、文春が探せば何か出てくるかもしれないし、たとい出てこなくても、彼女だってフツーの人だから、都知事になれば公金でリップステックやバスの切符や水虫の薬なんかを、ついなにげなしに買ってしまわないともかぎらない。
美しい彼女が都庁で弁明におわれるすがたを見たくない。
わたしはまじめな人間だけど、それでも立ち小便をしたことがあるし、となりの家のグミの実をつまんだこともあるし、むかしはデイトした女の子のくちびるを盗んだこともある。
さいわいわたしは無名の人だからいいけど、政治家なら過去のこういう不正まであばかれて、徹底的に糾弾されるのが最近の風潮だ。
ウチの新聞には、都知事選が何度も繰り返されて、そのたびに都民の税金がなん億円も消えていくという記事があった。
そういうことはなんで知事が辞めるまえにいわないのか。
税金がムダになると知っていれば、それじゃあマズイと考える都民もいて、舛添サンだって首がつながったかもしれないのに。
自民党の渡辺美樹サンも、わたしは出ませんといっているらしい。
彼なんか叩けばホコリがたくさん出そうだから、これも賢明だ。
作家の百田尚樹サンは出てもいいなんていってるらしいけど、向こうから出たいという人はあまり信用したくない。
これじゃ、そして誰もいなくなったということで、またふさわしい候補者のいない選挙になりそう。
でも厚顔無恥でなければ勤まらないのが政治家だから、上記のみんなが様子見してるだけで、勝てると思えばみんなやっぱり出ますってことになっても、わたしは驚かない。
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タイについてのお勉強。
わたしは現在のタイについてはわりあいよく知ってるけど、その歴史になるとさっぱり。
だからまず現在のタイについて考え、それから過去にさかのぼってみることにする。
行き先国の歴史に通じてもあまりこれからの人生に役に立たないと思うけど、わたしはいつもドロ縄的に勉強するほうなのだ。
タイは日本と同じ立憲君主制の国で、現在の国王はラーマ九世のプミポン殿下。
日本と同じように国民のあつい信頼を得ており、国内でなにかゴタゴタが起こった場合、国王のツルのひと声で解決することもあるくらい。
ただし、その威厳にもいくらかかげりが出ているようで、最近ではもと首相のタクシン、その妹のインラック派と、実権をにぎる軍部がはげしく対立して、国内を二分する騒動になっている状況だ。
プミポン国王もよる年波だから、いつ崩御なんてことになるかわからず、ヘタするとわたしの旅行中にそんなことになって、大混乱の中でわたしも右往左往という可能性もないわけじゃない。
タイという国は第二次世界大戦前後の混乱の中でも、独立を保っためずらしい国である。
さらにそのあとベトナム戦争で、ラオスやカンボジアといった周辺国までがおおいに揉めたさいにも、この国だけはほとんど影響を受けなかった。
混乱の多い東南アジア諸国の中でもきわめて安定した国であり、同じ立憲君主国として日本の皇室とも仲がよい。
先ごろ井の頭自然文化園で死んだゾウのはな子は、親善施設として戦後すぐにタイからやってきたものだ。
わたしの歴史の知識は映画から来ているものが多いんだけど、そっち方面で忘れられないのが、名作「戦場にかける橋」で、これは第二次世界大戦当時の日本と英国の兵士を描いた、タイが舞台の映画である。
もう何度も観たことのある大作で、日本が登場するほかの映画に比べればマシかもしれないけど、イギリス人の視点が強すぎて、そのへんがちと気にくわない。
この橋がかかっているのが、タイ西部に源を発するクワイ川で、このあたりはいま有名な観光地になっているそうだ。
黒部峡谷のトロッコ列車みたいなのが走っているというから、行ってみたいけど、泰緬鉄道に郷愁を感じるトシでもないし、今回の日程では無理だな。
映画といえば、ミュージカル「王様と私」で、ユル・ブリンナーが、最近では渡辺謙が扮した坊主あたまの王様は、タイの王様ってことになっているらしい。
ただ、映画も舞台も観ていないので、王様がどんなふうに描かれているのかわからない。
なんでもアジアの王様と、その家庭教師として赴任した英国女性の話だというから、西洋と東洋のカルチャーギャップを描いたものらしく、ハリウッドの代表的スターが演じるくらいだから、まあ、いい役なんだろう。
どんどん過去にさかのぼってみる。
シャムと呼ばれたむかしから日本とも縁があって、ここで活躍した山田長政なんて人もいる。
経歴を調べてみると、国際版幡随院長兵衛さんかって気がするぐらいで、それ以上はとくに知りたいとも思わない。
吉祥寺にスコータイというタイ料理の店があるけど、これはいちばん古いタイ族の王朝の名前とされる。
スコータイ王朝の成立が1240年ごろで、これは日本の鎌倉時代、モンゴル帝国が日本に襲来する30年ぐらいまえといえば、歴史上のおおよその位置がわかるだろう。
その後もアユタヤー、トンブリー、そしてラーマ九世の先祖が興したチャクリーと、いくつかの王朝が興亡した(このへんはウィキペディアのまる写し)。
タイ族はもともと中国の少数民族だったという説もある。
でも民族の概念自体があやふやなので、わたし的にはそんなものどうでもいという立場。
わたしは以前タイに行ったとき、飛行機の中にから夕陽にかがやく水田をながめた。
それはわたしの子供のころの日本の風景そのものだった。
タイといえばタイ米といわれるくらい、稲作国としても有名だ。
あの国には、日本人が失ったものがまだ残っているような気がする。
いまさらバイヤグラでもあるまいし、わたしはタイでそういうものを感じたい。
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2016年6月19日 (日)
昨日はホヤを食べた。
いっしょに呑み会に参加した人間が7人いたにもかかわらず、ホヤを食べたのはわたしだけ。
そのくせ厚揚げだとかトリの唐揚げのように、わたしのきらいなものは嬉々として食べる。
どうもわたしへの嫌がらせのようだ。
被害妄想におちいりそう。
やっぱりタイはひとりで行くしかないみたい。
見てろ、凡人ども。
世界はわたしのまえに開かれているのだ。
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2016年6月18日 (土)
今日は午後からパソコン同好会という集まりがある。
それが終わるととうぜん呑み会ってことになるので、そこで今夜は宮城県産のホヤをつまむことにした。
なんでホヤなのか。
ネットニュースを読んでいたら、韓国の禁輸措置のおかげで、生産過多になった1万トンものホヤが廃棄されることになったという。
わたしの大好物のホヤがそんな可哀想な境遇にあるとは知らなかった。
ここはおおいに食べて、彼ら(ホヤ)に、世のため人のためになっていることを自覚させてやらなければ。
廃棄されるくらいなら値段も下がってるんじゃないか。
それにしても韓国のいやがらせ攻勢は止むところがないな。
困ってますとか、原発事故の影響はもうありませんなんて、むきになって説明すると相手は喜んでしまうから、できるだけ平静をよそおって、おおいに食べよう。
そう思ったら、このニュースソースは産経だった。
ま、どっちもどっちか。
政府の残酷な措置のおかげで、日本の珍味(ホヤ)が食べられず、悲しんでいる韓国人もきっといるにちがいないのに。
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2016年6月17日 (金)
前項でナイトバザールの写真を見ていたら、イスラム教徒の女性が写っているのに気がついた。
タイは仏教国だけど、平和でのんびりしていていいというので、イスラム教徒も観光に来るらしい。
以前タイに行った時は、有名なお寺で白人の女性までが仏像に手をあわせていたくらいだから、イスラムの女性も、あら、きれいな仏さまなんていってお賽銭を投げているんじゃないか。
本来のイスラムというのは他の宗教にも寛容だと聞いている。
そんな中、アメリカでは数日まえの銃の乱射事件のせいで、またイスラム教徒への非難や攻撃が激しくなっているそうだ。
IS憎ければイスラムみんな憎いと短絡的に考える人が多いけど、ISってのはイスラム教徒じゃないという意見が、ウチの新聞に載っていたことがある。
そういわれてみればそのとおり。
ISは同じイスラム教徒でも平気で殺すし、そもそも戒律なんか守っているかどうかも疑わしい。
1日に何度もお祈りをしているようにも思えないし、腹が減ればトンカツでもなんでも食べ、のどが乾けばバーボンでもなんでも飲みそうだ。
ようするに、たんなる不満分子が、イスラムを代紋にして集まっただけじゃないのか。
世間には不満分子が多い。
わたしの周辺にも派閥争いをあおって喜んでいる人がいるんだけど、ああいうのがAK-47をぶっ放すんだよな。
ちっと旅行のことでも考えてりゃいいものを。
えっ、キミのことだよ、キミの。
こういう不満分子のおかげで、いちばん迷惑をこうむっているのはイスラム教徒らしい。
パリのシャルリー・エブド襲撃のさいに、犯人に情け容赦もなく殺された警察官は、イスラム教徒だったことを忘れちゃいけないと思う。
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チェンマイってどんなところだろう。
そう思って、ネットでチェンマイの写真を検索してみた。
若いきれいな女の子の写真がたくさん見つかるけど、そういうものではなくて、市街地を俯瞰するような写真がいい。
ここに挙げたのはそんな写真だけど、街の中にも緑が多く、高層ビルはあまりないようだ。
去年行ってきたカリマンタンとそれほど変わらない、東南アジアの地方都市という感じである。
とがった屋根をもつ金ピカの寺院や、ごみごみした屋台や市場などもたくさんあるようだから、こういうものを見物しているだけでも3、4日は退屈しないんじゃないか。
ついでにわたしが泊まるはずのホテルも調べてみた。
チェンマイで宿泊するのは「99ギャラリーホテル」というところ。
じつはタイにはホテルが多く、それもピンからキリまでという感じで、ネットで調べるだけでうんざりしてしまったくらい。
で、しまいにはどうでもよくなって、料金が日本の民宿より安いところならどこでもいいやと、写真でみると白と黒を基調にした、モダーンな内装(らしい)のこのホテルに決めてしまったのである。
チェンマイもかっては城郭都市だったらしく、正方形の堀にかこまれた旧市街というものが残っている。
わたしの泊まるホテルはその内側にあるから、古い街並みをぶらつくのが好きなわたしにも不足はないと思われる。
あとで口コミ情報を読んでみたら、食事も含めてあまりいい評価のものはなかったけど、1泊4000円ていどのホテルに文句をいってもはじまらない。
さらについでに、バンコクのホテルについても調べてみた。
こちらは「サクラレジデンス」といって、わりあい簡単に決めることができた。
すぐとなりが日本食レストランなのだ。
これなら外国料理がニガ手で、最近食が細くて困っているわたしでも飢え死にすることはないだろう。
こちらも1泊4000円見当で、日本ではいまどきあり得ない価格だけど、タイでは中ぐらいのレベルか。
写真で見ているかぎり、わたしにはもったいないホテルのようにも見える。
でもネットに載っている写真と、じっさいに見る建物がぜんぜん違っている場合もあることは覚悟してるのだ。
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2016年6月16日 (木)
トリップアドバイザーからお知らせがきた。
なんと、チェンマイのホテルの紹介だ。
ええっ、なんでおまえら、わたしがチェンマイに行くのを知ってんのさ。
そういえば “るるぶ” や “じゃらん” からも、ここんところタイ旅行のお知らせや広告ばかりが来る。
これはスパイウェアのせいだろう。
どうもわたしのパソコンの中は、わたしの行動を探ろうと間諜が暗躍する、戦前の上海みたいな無法地帯になっているらしい。
しかしもう飛行機もホテルも予約済みだわさ。
いくら格安ホテルを紹介されたって、ご希望にはそえないのだ。
でも、これじゃわたしの個人情報までが、湯水のごとく溢れ出しているにちがいない。
こないだなんか、わたしも利用したことのあるJTBでも顧客情報が盗まれたなんていってたしな。
人に知られて困るような情報は持ってないから、べつに構わんけど。
今朝はトリップアドバイザーからお知らせの第2弾。
今度はチェンマイの観光名所を教えますだって。
こういうお知らせなら、参考にならないでもないから、まあガマンしよう。
それによると
屋根が半分吹き飛んだワットチェディルアン(チェディルアン寺院)とか、これでもかと金ピカのまばゆい寺院、芸術的センス皆無の仏像、3Dアート美術館、チェンマイの人気レストラン・トップスリー、空港からの送迎が1389円なんてお知らせの中に、ワットプラタートという寺院にある子供の石像写真があった。
この写真を見たとたん、井の頭公園の彫刻館にある北村西望の「笑う少女」を思い出した。
この彫刻をよくおぼえているのは、彫刻館にある西望の作品の中で、これがわたしが感心した数少ない作品のひとつだったから。
両方とも愛くるしい所作がよく似ている。
どうせ行くアテがないのだから、チェンマイではこれでも見に行くか。
調べてみたら、ワットプラタートというのは山の上にあり、ひじょうに眺めがいいところらしい。
ただ駐車場はいつも大混雑というから、チェンマイは欧米人にも人気のある観光地のようだ。
考えてみれば、いまや欧米人にとっても、安全で快適に観光できる国といえば、タイやインドネシアや日本ぐらいしか思い当たらないものねえ。
この寺院の子供の石像には、背景の壁にヤモリが写っているけど、わたしはこういうのが見たいんだよ。
添付した画像は、左がワットプラタートの石像、右が北村西望のブロンズ像。
こうやって、まだ行くまえから紀行記を書く。
じっさいには出発直前になって、ケガや病気をして、旅そのものが挫折するかもしれない。
それでもいいんだ。
わたしはコンピューターやネット環境が発達した現在、リアルタイムで紀行記を発信するという試みに挑戦したいんだよね。
ちょうど宮沢賢治が「小岩井農場」という詩で実行しようとしたことを。
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2016年6月15日 (水)
舛添サンが辞めるというニュース。
どういうわけかぜんぜん関心がわかない。
そうか、舛添サンもそのへんのフツーの人、世間の誰もがやってることだぐらいにしか考えてなかったんだなと思う。
べつに彼を弁護しようという気はないけれど、汚職や使い込みでは億単位の金が動くのが当然の外国からみると、税金で家族旅行をした、漫画を買ったなんて、えらいせこい事件にしか見えないらしい。
これも日本が平和すぎるせいだよな。
他人のアラ探しが、ネットで大々的に拡散する時代、つぎの知事さんは異常なくらい潔癖な人でないと勤まらない。
でも、政治家や知事に立候補しようという人間に、異常な人なんているんだろうか。
どっちを見てもフツーの人ばかりと、わたしは現在の日本にへきえきしてるんだけどね。
旅行の下調べでもしてるほうがよほど楽しいわ。
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新品を買ってしまった沢木耕太郎の「深夜特急」という本。
6巻はすでに読んだけど、いくら図書館ににそれしかなかったからといって、ものの順番からいけば、まず第1巻から読むのが妥当だ。
いったいなぜ主人公は日本を発って、アジアからヨーロッパへの旅に出たのだろう。
疑問の答えは第1巻を読まないとわからない。
これがわからないまま、この本を純粋な紀行記と結論づけたのは乱暴だったかもしれない。
ひょっとすると第1巻に、映画「80日間世界一周」のような、旅立ちのきっかけとなる壮大なフィクションが描かれているかもしれないではないか。
第1巻を読んでみたけど、どうもそんなものはなさそうだった。
しいていえば、「80日間」と同じような、友人たちとの論争がきっかけといえなくもない。
「深夜特急」の主人公は、友人たちと、インドからロンドンまでバスで行けるかどうか賭けをして、自分の言い分の正しさを立証するために旅に出るのである。
とはいうものの、どうも映画に比べるとみみっちい。
この第1巻は、インドのデリーの安宿で主人公が目をさます場面から始まるんだけど、ここで主人公は朝起きてもなにもすることがなくて、だらしなく街をぶらつき、安食堂でメシを食い、夕方になるとまたホテルにもどってくるという怠惰な生活におぼれているのである。
なんかわたしの旅によく似てる。
五木寛之のデビュー作となった「さらばモスクワ愚連隊」では、主人公はやみくもにシベリア鉄道に乗るけれど、あれほどの積極性はないし、こちらの主人公はインドが気にいって、なぜかそこに停滞してしまうのである。
ドラマチックな要素はぜんぜんなく、このていどならひとり旅でだれでも体験するようなあっさりした描写ばかりだ。
本を読みすすんでも創作と思える内容はほとんど出てこないからして、これはやはり、作家がじっさいに体験したことをつづっただけの、純粋な紀行記と結論づけてもかまわないと思う。
主人公、この場合は作者の沢木耕太郎さんだけど、彼はこんなふうにバックパックひとつで、確たる目的もなしに海外を見て歩く。
気にいった場所があると居座ってしまったりする。
ヒッピー文化も遠くなりにけりのいまでも、そんな日本の若者がいるかどうか知らないけど、こういう生き方がニートたちのひとつのライフスタイルだった時代もあったんだよな。
わたしの場合、人生の終盤にさしかかってまだそんな状態だから、進歩がないといわれても返す言葉がないんだけどねえ。
作者が旅に出たのは1970年代の前半というから、そのときわたしは何をしていただろうと考えると、忸怩たる思いがいっぱいだ。
怠惰におぼれていた主人公は、ついにインドを発つ気になる。
すでに日本を出発してから半年も経っていたそうだ。
ここで舞台は香港に移る。
インドからロンドンに行くはずが、なんで香港にいるのか。
じつは前後が交錯しているというだけで、この旅のふり出し地点は香港なのだ。
香港のとなりにはマカオがある。
ここのカジノで勝負をする描写がすこぶるおもしろいけど、あまりべらべらしゃべってしまうと、タイでヒマつぶしのために読み、なにか書こうと思っていた本が、出発するまえにお役御免になってしまう。
ま、ゆるゆると行きましょう。
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2016年6月14日 (火)
まえに触れたことのある沢木耕太郎の「深夜特急」という本。
その後何回か図書館に行ってみたけど、あるのは6巻だけで、ほかはいつも貸し出し中になっている。
そんなら買ってしまえと、わたしは書物には銭を惜しまない人間なのだ。
しかし、さすがに読み終わったあと、捨ててしまうに決まっている本を新品で買うのはもったいない。
そういうわけでヤフオクに当たってみたら、1〜6巻までそろって700円ぐらいという商品が見つかった。
読めればなんだっていいのだから、入札に参加してみた。
すると、すぐに10円上乗せしてきたライバルがいた。
これだけでアホらしくなって入札から下りてしまった。
こういうのって、値をつり上げるために、出品者が知り合いに頼んで入札に参加してるってことはないのだろうか。
新品で買っても1冊せいぜい400円ていどの本を、そんなにムキになって欲しがる人がいるんだろうか。
ムキにならないわたしはさっさとあきらめて、昨日は街の本屋で新品を買ってきてしまった。
読み終わった本(どこにでもある文庫本)を、ヤフオクに出したり、古本屋に持ち込む人というのは読書の楽しみを知らない人じゃないのか。
わたしの知り合いには、もったいないといって新聞もとってない人間がいるけど、読書ってのは時間や金銭に換算できないような気がする。
だからわたしはいつまでも貧乏人なんだといわれると、ゴモットモとしか言いようがありませんけど。
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2016年6月13日 (月)
来月からのタイ旅行、目的地はバンコクとチェンマイにした。
チェンマイというと、わたしの世代はついにんまりする。
わたしの同輩にもよからぬ詮索をする輩がいそうだ。
団塊の世代にとって、チェンマイといえばタマモトトシオさんである。
若い人はこの名前を知らないだろうし、知る必要もないけど、ハーレムという男の夢を実現させ、チェンマイの名前を日本の津々浦々にまで知らしめた偉大なおじさんだ。
彼の功績のおかげで、チェンマイというと、どうしても一種のよからぬ連想が働くのはやむを得ない。
いや、わたしは品行方正な人間だからと弁解しても、品行方正でない人間ほど、他人も同じことをすると思うものだ。
弁解なんかするとよけい怪しまれる。
こういう場合はどうしたらいいだろう。
以前の旅ではプーケットに行った。
そこがリゾートであることぐらい知っていたけど、わたしはじっさいに行くまで、タイのリゾートが何を意味するのかぜんぜん知らなかった。
夜になってホテルの近所の歓楽街に歩み出でて、わたしははじめてこの国を訪れる日本人、欧米人が求めるものの実体を知ったのである。
いやもう、新宿の歌舞伎町なんてメじゃないね。
けばけばしいネオンと騒々しい音楽の下に、カワイ子ちゃんの娼婦から男娼、オカマまで、そしてそういうものを求める世界中から集まった男たち(女も)の、あからさまな欲望がうずまいて、リオのカーニバルか、はめをはずした日本のハロウィン・パーティーみたいなところだった。
つくづく思ったのは、これこそが人間のあるべき姿。
おたがいに得るものがあるなら、これはもう、そこでやっていたムエタイ(タイ式ボクシング)みたいなものではないか。
おたがいにいい汗をかいて、終わったあとは握手して別れる。
じつに健康的。
プーケットでは、わたしも一軒の店に入って、やり手ババアや、そこで働いている女の子と会話してきたけど、彼女らのあっけらかんとした態度には感心した。
最近の日本はまじめすぎて、ちょっとでもそういう方面で目立つ行為をすると、世間やマスコミから袋だたきにされる。
これって偽善じゃないのか。
開高健さんの紀行記を読むと、南米まで同行した雑誌の編集者、カメラマンも、あちらの歓楽街で盛大に励んでいるくらいだ。
とにかく、歓楽街というのは見ているだけで退屈しない。
ひょっとするとおもしろい探訪記が書けるかもしれないと、そんな期待を抱いてわたしはチェンマイに行くのである。
じつはもういちどプーケットに行こうかと思ったんだけど、タイという国はどこの観光地にも似たような歓楽街があるらしいので、今度はチェンマイにした。
まじめなわたしのこと、あまり深い潜入を期待されても困るんだけどね。
そんなわたしだって、ヘタすると誘惑に負けるかもしれない。
そんなとき同行者がいると、わたしの知り合いには口の軽いのが多いから、帰国してからわたしの悪行は、アッという間に日本中、世界中に拡散することとなってしまう。
だから今回は誰も誘わないことにしたのである。
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2016年6月12日 (日)
中国の知り合いがとうとう運転免許証を取得したらしい。
“5月23号终于拿到驾照了 不容易啊”
ムズカシイ、ムズカシイとぼやいていたから、てっきりこれ以上スモッグを増やしたくない中国政府のさしがねかと思っていたけど、執念は政治をも超えるってやつだな。
こうなると車が欲しくなるのも当然だ。
日本車がいいぞとそそのかしておいたけど、彼女はドイツ車にしようかと悩んでいるらしい。
日本車の場合、反日運動の高まり如何で焼き打ちされたりするから、無理に勧められないんだけど、それにしてもやけに景気がいいみたい。
いったい何をしてるんだろう。
コワイそのすじの情婦なんてものでなければいいが。
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2016年6月11日 (土)
録画しておいた「寒い国から帰ったスパイ」を観た。
1965年の映画だから、何にでも影響されてしまう年ごろだったということで、これもわたしの世代の映画といっていいんじゃないか。
えっ、むかしはこんなおもしろい映画があったんだよ、お若いの。
といいたくなるけど、またアナクロ(時代錯誤)といわれそう。
「007/ロシアより愛をこめて」が公開されたのがこの2年前で、それに代表される荒唐無稽なスパイ映画が世間にあふれていたころ、そのアンチテーゼみたいなかたちで公開された本格的なミステリー映画だ。
本格的ということはひじょうに複雑ということでもある。
あまり簡単に結果がわかってしまうようでは、“本格的” という形容詞はつかないのだ。
この映画のストーリーもややこしいけど、結果を話すのはそれこそネタバレであり、原作に対する不敬罪であるから、ここんところは巧妙にぼかして書こう。
ベルリンが壁で仕切られていた東西冷戦のころ、ある作戦のために失業者に身を落とした英国の諜報員が、ようやく図書館事務員の仕事を手にする。
ここで彼を好きになるのが共産主義にオルグされた女性。
うちにゴハン食べに来ないって誘うんだけど、英国の女性ってのはさえない中年男をすぐに好きになっちゃうのかいと突っ込みを入れたくなる。
男がそれほどでもないリチャード・バートンで、女が魅力的なクレア・ブルームだから、よけいそう思う。
でも、じつはこれは巧妙に仕組まれた罠であって、女が男を好きになるのは筋書きどおりということがわかる。
この映画は、まず脚本がすばらしい。
突っ込みどころがあっても、終わりのころにはすべて納得できるようになっているのだ。
こういうややこしい映画を、予備知識なしに観ても意味がさっぱりわからない。
で、わたしはおおよそのあらすじを頭に入れてから観た。
映画の後半は一種の法廷劇になる。
なにしろわたしはあらすじを知っているのだ。
映画と同時進行で、この場面ではAが知っているのはここまで、Bは何も知らない、しかしCはすべてを知っている、だからCは落ちつき払ってるのか、などと納得しながら観る。
結果がわかっていても、いい文学作品をじっくりと読んでいるような気分にさせられる映画である。
映画のラストは、非情なスパイ合戦に翻弄されて殺される女と、その女に惚れられた男が、ベルリンの壁のまえで手に手をとって死んでいく場面で終わる。
思わずジーンとさせられてしまう。
そりゃまあ、健さんの映画もいいけどね。
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2016年6月10日 (金)
貧乏旅行で有名な紀行作家の下川裕治さんは、タイに親近感を持っているらしく、この国に関する著書が多い。
わたしは貧乏旅行をするつもりがないけど、いろいろ参考になりそうだから、彼の本の何冊かを出発まえに読んでおくことにした。
そういうわけで、図書館で借りてきた本の第二弾は、「12万円で世界を歩く」と「新バンコク探検」という本。
「12万円で」のほうは週刊朝日に連載中に読んだもので、そうとうむかしだったよなとあとがきを確認してみたら、もう30年ちかく前だった。
「新バンコク」のほうは1998年発行だから、こちらも20年ちかく前のものである。
当然ながら内容は現代の旅にあまり参考にならない。
たとえば、わたしは10年前にバンコクへ出かけているんだけど、観光バスで市内をめぐって、そんなにひどい渋滞に遭った記憶がない。
ところが下川さんの本によると、バンコク市内の渋滞はおそるべきものだそうで、わたしが過去に行った経験がなかったら、これだけでタイ旅行を断念していたところだ。
彼の本には、バンコク市内にはまだ地下鉄や高架電車が工事中とあるから、これが完成した現在は、劇的に渋滞が緩和されたのかもしれない。
「新バンコク」では交通機関の説明に、半分以上のページが費やされている。
でもわたしにはあまり参考になりそうもない。
いくらバンコクの路線バスの乗り方を詳しく教えてもらっても、せいぜい1週間ていどの旅行者であるわたしが、そんなものに乗るはずがないからだ。
あちらのタクシーはひじょうに安いので、おそらくわたしはどこへ行くにもタクシーを使うだろう(あるいはトゥクトゥクか)。
食事の説明にもかなりのページが費やされている。
タイの料理の特徴が香辛料の豊富さであることぐらいは知っているけど、これだって外国料理がニガテ手なわたしが美味しいと思うかどうか。
せいぜいそのうちに、吉祥寺のタイ料理店で予備知識でも仕入れておこう。
食べれば出るのも当然だ。
でもトイレについては、わたしも中国の辺境を旅した豪の者だから、それほど驚くようなものではないだろう。
それに、これも下川さんの時代とは一線を画しているはず。
バンコク市内には洋式の清潔なトイレが、あるいは日本のウォシュレットでさえ、もうかなり普及しているのではないか。
ウンコなんて、朝一回ホテルですませればいいだけだし。
そうなると「新バンコク」という本で役に立つ知識は、たとえばバンコクは世界の三大性都ということぐらい。
ホントかウソか、確かめてみたいのもこのへんだ。
わたしの知り合いの中には、若いころフィリピンに遊んで、わるい病気をもらったというのを自慢にしていた男がいた。
わたしは品行方正な(?)人間だし、もはやそんな元気はないから、せいぜい上っつらを眺めるくらいで終わるだろうけど。
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2016年6月 9日 (木)
恐れていたものがとうとう来たかって感じ。
今日の新聞に、東シナ海で中国の底引き網漁船が大掛かりに活動中で、日本の漁業がピンチという記事。
あまりわたしみたいな凡人には影響がなさそうな出来事だけど、これのどこが恐れていたものなのか。
むかし中国をほっつき歩いていたころ、よく市場を見にいった。
当時(改革開放政策がようやく軌道に乗ったころ)は、市場で売られている魚はほとんどが川や湖の魚で、こういう点では大陸の淡水魚博物館を見ているようで、なかなかおもしろかった。
なんでも食べるといわれた民族にしては不思議なことだけど、どうももともと中国人は海の魚はあまり食べなかったらしい。
わたしが出かけたのは華中から西域にかけてがほとんどだったので、もっと他の地域に行ってみれば事情は変わっていたかもしれないけど、邱永漢さんの本などを読んでも、あまり海水魚に熱意が感じられないのである。
淡水魚ばかり食べていた中国人が、マグロやサンマやフグを食べ始めたらどうなるか。
なにしろ14億の人口(文字通りヒトの口だ)をかかえる国だ。
これがみんな海水魚嗜好に変わり、マグロのトロに舌鼓をうつようになったら、海の魚をめぐって熾烈な争奪戦になるに決まっている。
だから、どうか中国人の寝た子を起こさないようにと、わたしも密かに念じていた。
しかしいまはネットの時代である。
おりしも日本を訪れる中国人の爆買いが話題になっている。
いくら隠しても海水魚のうまさは中国人の知るところとなる。
いったんその味を知ってしまえば、機をみて敏なる中国人がこれに乗り出さないはずはない。
恐れていたこがというのはこのことである。
ケシカランと彼らを責める資格はないのだ。
寿司や刺身のうまさを教えたのはわたしたちなのだから。
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2016年6月 8日 (水)
コンビニで売ってるモモ生ハムの切り落としというのが酒のつまみにいいというんで、最近は部屋で飲むときはこればっかり。
いや、ほかに野菜や漬け物もありますけどね。
添付した写真は今日撮ったもので、引きこもりばかりしているわけではないということの証明のつもり。
ああ、また仕事は休んでしまいそう。
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2016年6月 7日 (火)

いまBSで「荒野の七人」を観てます。
まあ、わたしの時代の映画で、これじゃあアナクロ人間といわれても仕方ないね。
いまさら感心するのもおかしいってなもんだけど、ただ感心するのは山賊たちの親分役のイーライ・ウォラックという役者。
オリジナルの「七人の侍」では、山賊の親分の人物像なんてまったく描かれていないのに、こちらではなかなか味のある人物になっている。
地味な役者だけど、わたしは彼のファンなのだ。
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2016年6月 6日 (月)
沢木耕太郎の「深夜特急6」をたちまち読み終えた。
読後感としては、これはやっぱり小説(フィクション)というより紀行記(ノンフィクション)だと思う。
ここに描かれた旅は、ひとり旅をする人間にはそれほどめずらしいことではないことがほとんどだ。
しいて探せば、たとえばローマで、知り合いに紹介された未亡人の世話になるエピソードがあるけど、女性というのは61歳で、もちろん主人公と怪しい関係になるわけでもない。
小説なら相手はまだまだ魅力的なオバハンで、主人公とベッドでひと晩を過ごさなければならない。
そうならないということは、これはほとんど作家の沢木耕太郎さんが、じっさいに体験したことをそのまま書いたものなのだろう。
ローマのオバハンの話はそれほどおもしろくないのに、そのすぐあとに、イタリアでは買い物をしたあと、お釣りをもらうのがむずかしいというエピソードがある。
わたしも中国で経験があるけど、安い果物を買うのに、うっかりお釣りのたくさん出る紙幣なんかを渡すと、なんだかんだといって正規の釣りを寄こさないことがある。
こういう話のほうがおもしろいし、これから海外に行こうという人には役に立つ。
沢木耕太郎という人は、写真でみると、スリムでイケメンの作家だけど、みかけによらずバクチが好きらしい。
マカオのカジオですった分をモナコで取り戻そうというエピソードもある。
こういう話になると、本領発揮なのか、俄然おもしろくなる。
これが小説なら、返り討ちにあって大負けするか、あるいは首尾よく大儲けをするところだけど、そのどちらにもならないのである。
純然たる紀行記として読めば、これはひじょうにおもしろい本だ。
惜しむらくは端折らないで、もっと詳細に書いてほしかったということ。
たとえばローマから、寄り道をしてスペイン、ポルトガルに寄る描写がある。
フランスのマルセーユから国境を越えてバルセロナへ、そしてバレンシア、マドリードへと続く路線バスの旅だから、もっとゆっくり見て歩けばいいのにと思うけど、ちょっと展開が早すぎる気がしないでもない。
どうもこの作家の旅はわたしと同様に、名所旧跡にはあまり関心がないようだ。
マルセーユではヒマつぶしに映画館に入り、それを観終えるともうやることがないとぼやいたりしている。
レストランをのぞいて高そうだと迷い、けっきょくスーパーで買ったハムやワインで食事をすませるなんて描写もあちこちに出てくる。
わたしもそういうタイプだから、身につまされてしまう。
それでもこの本には、ひとりで旅をする日本人に好意的な人々が何人も登場する。
たとえば宿が見つからなくて困っている主人公を、格安で泊めてくれる宿のオーナーや、ファドと呼ばれるポルトガルの音楽を聴きたくて仕方がないのだが、金がなくて躊躇している主人公を、オレについて来いといって、首尾よく金を払わないで聴かせてくれる男など。
グループで旅をしている人間にこんな幸運があり得るだろうか。
これをもってフィクションだという人がいるかもしれないけど、わたしは同じような体験をたくさんしているからわかるのだ。
この本がひとり旅讃歌の本であることはまちがいないと思う。
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2016年6月 5日 (日)
今朝の新聞に「ネット時間減らそう」という記事。
最近は歩きスマホが大はやりで、電車やバスの中でもネットをしている人が多い。
これでは健康によくないし、暮らしの質を下げてしまうから注意しましょうというものだった。
わたしも他人のことはいえないくらい、ネットでヒマつぶしをするけど、ただスマホは持っていないし、ゲームというものをまったくやらない人間である。
ブログは自己中心的、フェイスブックもいやいやながらやっているくらいだから、他人とコミュニケーションを図りたいわけではなく、この点では時代遅れといわれても仕方がないくらい。
わたしがパソコン(タブレット)にしがみつくのは、情報を得たり、なにかを調べたりするのが目的で、読書の延長みたいなものだ。
おもに見るのは、YouTube 以外では、「世界の万国反応記」と「カイカイ反応通信」で、前者は海外の人のものの考え方を知るのに役立つし、後者は韓国人の考え方を、ただ罵倒するだけの嫌韓サイトとは異なる方法で教えてくれる。
いずれも皮肉とユーモアがあって、書物を読んでいるような楽しさがある。
定年退職をしてやることがないという人には、有害どころか、これほど有益なヒマつぶしはないと思われる。
しかもタブレットはネット契約をしておらず、もっぱら無線LANを愛用だから、家計にもあまりひびかないのである。
というわけで、わたしがみじめな引きこもりと考えている知り合いがいたら、イイエ、わたしぐらいすこやかにネットを楽しんでいるおじさんはいませんといっとこう。
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タイで雨に降りこめられたさいに読んでいようと、また旅の道連れになりそうな本を物色している。
湯沢温泉では川端康成の「雪国」を、富山では高橋治の「風の盆恋歌」を持参したわたしだから、ここはとうぜん三島由紀夫の「暁の寺」になるところだ。
でもこの本は、以前のタイ旅行のさいに読んだ。
そしてつまらなかったことは、このブログの2011年1月5日に書いたことがある。
いろいろ物色したすえに、沢木耕太郎の「深夜特急2」という本に的をしぼった。
これは作家の旅行体験をもとにした、紀行記のような小説らしく、1巻から6巻まで文庫本が出ている。
この中にタイも出てくるから、これを読みながら旅をすれば、過去と現在のタイを比較しながら行くことになるではないか。
こういうわけで、昨日は図書館に行ってこの本があるかどうか確認してきた。
あるにはあったが、6巻以外は貸し出し中だった。
タイが出てくるのは2巻なのである。
でもとりあえず傾向を探るために、6巻を読んで見ることにした。
最初の30ページくらいを読んで思ったのは、これのどこが小説なのってコト。
「深夜特急6」は、主人公がイタリアのブリンディジという街からローマに、バスで移動しようとするシーンから始まる。
いまでもそうかは知らないけど(この旅は1970年代前半のもの)、当時のイタリアには長距離バスというものが存在しなかったそうである。
なにがなんでもバスで旅がしたい彼は、ローカルバスを乗り継いで行く決心をする。
ローカルバスだからいろんな人との出会いがある。
彼も知り合った若い娘から、宿が見つからなかったらうちに泊まればなんていわれている。
小説ならここで彼と彼女に愛情がめばえ、やがて2人は行きつくところまで行ってしまうはずなんだけど、バスの運転手が余計なお世話で割って入って、話はおじゃんになる。
このていどなら現実にもよくある話だ。
わたしも中国を旅しているとき、自転車のチェンがはずれて困っている娘に遭遇し、ほいほいと直してあげて感謝されたことがある。
でもアリガトウといわれただけで、このあとわたしたちが親密になることはぜんぜんなかった。
だから沢木さんの本も小説(フィクション)ではなく、作家の実体験にもとずいたノンフィクションといったほうがいい。
じつはわたしが読みたいのはノンフィクション、つまり純然たる紀行記なのである。
小説だと作為が目立ったり、作者のおもわくがからんだりして、皮肉屋のわたしには不満が蓄積することが多い。
だから小説ではない「深夜特急」はひじょうにおもしろかった(まだ30ページだけど)。
こうなったら1巻から6巻までぜんぶ持参して、タイのホテルでこれに読みふけっていようかと思う。
家にいたって出来ることを、外国でやることに意義を見出すのがわたしのブログなのだ。
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2016年6月 4日 (土)
あいかわらずわたしのところに、フォローして下さいというお願いがツィッターから舞い込む。
昨日はSasha Dugdaleという詩人から、もうひとつはIan Duhigという、こちらも詩人なのか、写真でみるとえらい哲学的風貌のおじさん。
スパイウェアのせいで、わたしの趣味が世界に知れわたったのなら名誉なことだけど、全部英語だからね。
フォローしてといわれても、英語のわからないわたしには無理よ、ムリ。
それ以前に、わたしツィッターに興味ありません。
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2016年6月 3日 (金)
子供が人や車に石を投げる。
怒った親がお仕置きだといってその場に子供を置き去りにする。
いたずらをするくらいだから子供もしぶとい。
ふん、そんな親を頼りにするかってなもん。
ひとりでずんずん歩き出す。
自分を呼ぶ声が聞こえても、すぐに返事をすると親がつけあがる。
親へのお仕置きのつもりでものかげに隠れ、返事をしない。
たまたま自衛隊の避難所があった。
その中のマットにくるまりながら、自分の来し方ゆく末、いかに親から自立して生きるかということをしみじみ考える。
そんな気がする、今回の事件。
ホント、子供のしつけというのはムズカシイ(と、子供のいないわたしでさえ考える)。
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タイに出発するのは来月だけど、調べてみたら、そのころのタイは旅行をするのに最悪の季節らしい。
いちおう北半球の国だから、7月はとうぜん夏である。
ただでさえ暑い南の国に行くのに、なんでそんな季節を選んだのか。
でもわたしはいちどタイに行ったことがあるけれど、椎名誠さんの本によれば、暑いというより熱いという言葉がふさわしいインドなんかより、むしろしのぎやすく感じた。
ずっとむかし、中国の南京や蘇州へ真夏に出かけたときは、あまりの暑さにエアコンの効いた観光バスから降りられず、帰国してから膀胱炎をわずらってしまったくらいだ。
タイではそんなにめちゃくちゃ暑かったという記憶がない。
どっちにしたって、タイは1年中暑いのだ。
むしろ観光客が少なくていいかもしれない。
という根性で、わたしはわざわざいちばん寒い季節にロシアに出かけた猛者である。
むしろ心配なのは雨季であることだ。
これについては不思議なことがあって、ネットで現地の気象について調べていたら、7月は12月、1月とならんで、もっとも雨の少ない時期という情報を見つけた。
添付した画像はその気象のグラフだけど、これを見るかぎり、7月は雨の少ないほうの時期になっている。
ちょっと信じられないので、べつの情報に当たってみたら、やっぱりそんなことはなかった。
えっ、間違った情報をいつまで載せておくなよ、「地球の歩き方」さん。
それはともかくとして、やはり雨季っていうのはありがたくない。
でも、これもネットの情報によると、タイの雨季は日本のように終日じくじくと降り続けるわけではなく、いちにちのうちの特定の時間にどさっと降って、すぐ上がるということである。
なんだ、そうか、あははってわけで、ま、なんでもいいや。
雨に降りこめられたら、またホテルでビールでも飲んでひきこもっていればいいという、わたしのいつものスタンス。
タイはインドネシアみたいな禁酒国家じゃないからね。
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2016年6月 2日 (木)
ちょっと調べものをしようとしてグーグルを開いたら、またロゴが変わっていた。
ロゴの上でクリックすると、影絵によるアニメーションが始まる。
英語なのでよくわからないけど、Lotte Reinigerという女性の生誕を記念して制作されたものらしい。
この名前、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、「007ロシアより愛をこめて」に登場した、靴の先に匕首をひそませたコワイおばさんじゃないか。
むかしは「三文オペラ」などに出演した、かなり有名な歌手だった人だけど、このおばさんて、グーグルのロゴになるほどエライ人だったっけと疑問に思って、調べてみたら名前のスペルが違っていた。
というわけで、わたしにはぜんぜん知識も関係もなさそうなので、いったい誰なのかこれ以上詮索しないことにした。
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またぐだぐだと屁理屈を並べなくてはならない。
わたしはまだまだ旅行がしたい。
といっても、よくテレビでやってる秘境なんてところへの旅はもう無理である。
猛獣毒蛇をかきわけてアフリカ大陸横断だとか、怪魚か跳梁するアマゾン源流までの船旅はとてもとても、足がなえてきたからギアナ高地もサハラ砂漠もムリ、耳をこわしてダイビングも断念したし、ブリザードの吹きすさぶ極地もダメ、すぐに他人の首を切りたがるテロリストがいるような国もイヤだ。
どっちかというと、そういう国に行きたい気持ちが山々なんだけどね。
人間トシをとると、どうしても安全で快適な場所ということになり、つまりリゾートのようなところがいいということになる。
たとえばハワイやグアムや香港なんかがそうだけど、つい先ごろまでわたしはこういうところを軽蔑していた。
けっ、俗物どもめが。
アンタらといっしょにしないでくれろってな調子。
しかし寄る年波には勝てない。
弁解しつつ、いくらか方向を転回中なのだ。
何年かまえにタイに行ったことがある。
バンコクからプーケットまでを駆け足でめぐる団体旅行で、もちろんおもしろくも楽しくもなかった。
でもここで失望したのは、のんびり見物する余裕がなかったからで、タイそのものはなかなかすてきなところだと思った。
人々はおだやかで、女性も風景も美しい(食べ物もほめたいところだけど、わたしは偏食だから、和食以外のものをおいそれとほめることはできない)。
プーケットでゾウを見物に行ったときには、森の樹木に大きなヤモリが貼りついているのや、トイレの屋根にコウモリが棲みついているのに関心を持った。
わたしの趣味はいつもそういうものにあるのだ。
ここに添付した画像は、バンコクの土産物屋で見たもので、わたしにはめずらしい宝石のように思える。
今年の正月ごろ、ハスの花を見物に行くついでにまたタイを再訪してやろうと思っていたけど、諸般の事情でもたついて機会をのがしてしまった。
そうしているあいだにもわたしはトシをとる。
もはや一刻の猶予もならない。
わたしの旅はひとりでぶらぶら出来なければ意味がないのだ。
つまり歩けるうちがハナなのよってことなのだ。
というわけで、今度はタイへ行くことにした。
まだ先の話だけど、すでに航空券とホテルの手配をすませた。
いま例によってネットで目的地についていろいろと勉強中。
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2016年6月 1日 (水)
安倍クンはとうとう消費税増税の先送りを決めたようだ。
わたしはすべての政策が成功するはずはないという考えだから、アベノミクスは失敗だ、辞めちまえなんて野党の言い分の肩を持つ気はないけど、それでもすこし気になる。
どうも安倍クンは臆病風に吹かれて慎重になりすぎているようだ。
選挙の結果が心配で、ここはやっぱり延期しとこうってことになったんじゃないか。
現在の状況なら選挙をやったって自民党が負けるはずはない。
しかし、たとえ勝ったとしても、成績いかんでは党首の責任論が噴出して、自分の人気もそこまでということもあり得る。
なにしろ与党の中にも、あとがまを狙う輩はごろごろしているのだ。
それで慎重になりすぎた安倍クンは、景気の動向や世論を見極めて、やっぱりいまの増税はマズイということになったんじゃないか。
しかし消費税増税は国民のコンセンサスだ。
反対する人ももちろんいるけど、それでも大半の国民が、将来のことを考えれば仕方がないと、なんとか納得したんじゃなかったっけ。
それを自分の地位を守りたいためにまた延期ってのは、それでもほんとうに日本の将来を考えているといえるのか。
将来景気がよくなるという保証はないのだから、ヘタすればこのまま永遠に消費税の増税は不可能ということも考えられる。
子供たちに負担をかけたくないという理想はどこへいった。
政治家なら信念を持ち、自らの首が飛ぶのを覚悟で、政策を推し進めるという気にならないものか。
野党もそうだけど、どいつもこいつも、自分のことしか考えないアホばかりだ。
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