インドの悲劇
新刊を買ったり、図書館を利用したりして、タイ出発まえに全巻を読み終えてしまいそうな「深夜特急」という本。
現在はバンコクやマレー半島を読み終えて、インドあたりへ差しかかったところだ。
香港やバンコクあたりでは、主人公の旅がわたしのそれと似てるなんてうそぶいていたけど、このあたりにくると、わたしは愕然としないわけにいかなくなってきた。
いやはやね、ひどいもんだね。
この世で地獄を体験したかったらインドでカースト最下位の、さらに下にある “不可触民” とよばれる階層に生まれればよい。
そういいたくなるほど。
若いころ、わたしもインドに行ってみたいと思ったことがある。
若者たちが猫も杓子もインドにかぶれていた時代で、ビートルズもいちじインドの行者に帰依していたことがあるし、インドにはヒッピーたちの桃源郷があるって聞いていたもので。
でも知れば知るほど、この国が桃源郷どころか、目も当てられないひどい国ということがわかってきた。
現在のインドはIT先進国で、それなり域内の大国でもあるけど、これはすべて上流階級だけのハナシ。
不可触民と呼ばれる層の悲惨さは、いまでもほとんど変わってないようだ。
戦前の上海あたりがインドに似ていたようだけど、少なくともわたしが最初に出かけたころの中国でさえ、そんなにひどい国ではなかった。
インドに出かけたら、わたしは人間の残酷さ、業の深さをまっ正面からながめることになっていただろう。
沢木耕太郎さんがこの本のもとになった旅をしたのは70年代の始めらしい(まだパソコンもインターネットもないころだ)。
主人公が街を歩いていると、まだ10歳にもならない少女が体を買ってくれとつきまとってくる。
こればっかりはフィクションだろうと思ったけど、ずっとあとに作られた「スラムドック・ミリオネア(2008)」という映画にも、人身売買の犠牲になる子供たちが出てくるから、これはけっして創作ではなさそうなのだ。
悲劇に遭うまえに子供たちを救おうと、外国からの支援で浮浪児を保護する施設を経営している人々がいる。
「深夜特急」の主人公も、ボランティアと知り合って、ほんの束の間だけそんな施設で働いてみることになる。
彼は施設までトラックに乗って行くのだけど、たまたま保護されたばかりの幼い少女2人が、施設に入るためにいっしょに乗せられる。
身寄りがないわけではないのに、誰ひとり彼女たちの見送りにこない。
不可触民の親たちにとって、これは口べらしの方便なのだろうと、主人公は理解する。
この少女たちが、自分の運命に対して、絶望的なまでに無関心、無表情という描写には胸をうたれた。
椎名誠さんの紀行記には、インドは神様がやたらに多いという記述がある。
日本でいえばお地蔵さんだとか、道祖神、台所の神様、厩の神様みたいな、あまりご利益のありそうもない神様が、街中のいたるところに飾られているらしい。
しかし救いようのないインドの状況を見ていると、神様は雁首さえそろえれば役に立つというものでもないようだし、むしろこの連中の存在が人々の無知を増大させているような気がしてならない。
わたしの無神論にますます拍車がかかりそうだ。
早朝の川べりで、大勢の人々が沐浴するすばらしい写真を見たことがある。
敬虔ということばがふさわしい感動的な写真だったけど、そこへ人間の死骸も流れてくるのだ。
わたしがけっきょくインドへ行かなかったのは、そんな景色を見たいと思わなかったからだ。
「深夜特急」を読むんじゃなかった。
タイで歓楽街を見て歩くぞというわたしは、これを読んだおかげで、自分がいかに下らない人間であるかをつくづく思い知らされることになってしまった。
自分は屑だ、ヘンタイだ、人間以下だ。
そうはいっても、いまから世界のためになにか貢献できそうもないわたしは、せめてタイでは品行方正な男でいるしかないようだ。
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