タイ/仏像
タイの写真を検索しているとき、素晴らしい写真を見つけた。
添付したのがそれだけど、ナショナル・ジオグラフィックに採用されてもおかしくない素晴らしい写真だ。
太陽がのぼる直前の平野を、仏像が静かに見守っている。
このブログではいくらか縮小してあるけど、じっさいにはもっと大きな写真で、それだけでもだいぶイメージが異なる。
最初は直立不動かと思ったけど、この像は足をたがいちがいに交差させて、つまり歩行中の姿だ。
これだけで無神論者のわたしでさえ、思わず敬虔な気持ちになり、意味もわからないまま感動してしまった。
(この写真には撮影者がわかるように、下のほうにロゴが入っているけど、あまり素晴らしい写真なので、そのままコピーしてしまう)
この仏像を見物に行こうかと考え、いろいろ調べてみた。
これはどうやらナーンという街にある、ワットプラタート・カオ・ノイという寺にある仏像らしかったけど、残念なことにべつの時間の、べつの角度から撮られた写真で見ると、あまりありがたみが感じられなくなる。
金色に塗られているのは我慢するにしても、どうもスタイルが、頭でっかちで、プロポーションがよろしくないせいだ。
法隆寺の百済観音が9頭身のスマートな仏像で、それだけでえもいわれぬ崇高なエロチシズムを感じさせるのと大違い。
それともこれは、ミケランジェロのダビデ像のように、ま下から仰ぎ見た場合、ちょうどバランスがとれるようにとの計算かしら。
2枚目の写真は、べつの時間にべつの角度から撮られたもの。
この写真に感動した欧米人は多いとみえて、ネット上には同じアングルの写真がたくさん見つかる。
ほとんどの写真がうしろ姿なので、どうしてかと思ったら、正面から撮ると平野がのぞめない、平凡な背景になってしまうからのようだ。
終活中のわたしにはいろいろ迷いも多い。
たぶんたくさん見ることになるであろうタイの仏たちが、無神論者であるわたしのこころに、なにかを示唆してくれるってことはないだろうか。
ちょうど暁の寺(ワットアルン)が、小説の主人公に、ホントかウソか、輪廻転生について示唆したように。
そういうものを感じとるためにも、やはり旅はひとりで行くべきだな。
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