雪まつり/コショウジ君の3
リヤカーを引いたコショウジ君が、宗谷岬に到達したのは昭和43年の8月22日のことである。
3月30日に東京を出発してから5カ月だと、本人も感動したのか、日誌のこの部分は目立つように大きく書いてある。
彼はこの前年に東京から鹿児島まで歩いているから、これで日本縦断を成し遂げたことになるのだ。
最近では若者の移動範囲は地球儀の目盛りがふさわしくなっているから、このくらいでは驚く人はいないかもしれないけど、コショウジ君がリヤカーを引いたころ、徒歩による日本縦断は、現在のアメリカ大陸横断に匹敵するような価値のある冒険だったんだよ。
え、お若いの。
宗谷岬からはオホーツクの海岸線にそって南下することになる。
ここは15年後に、わたしが逆の方向からたどった道である。
もちろんわたしはリヤカーを引いてなかったけど、コショウジ君のころはまだ道路が舗装されてなく、牛馬と化した彼は砂利道に苦しめられたらしい。
更科源蔵の「北海道の旅」には、まだ僻地という言葉がふさわしかったむかしの北海道の描写があちこちに出てくる。
文庫本だけど写真も載っていて、舗装されていない田舎道で道産子が荷車を引く写真や、絶壁の下のかよう道もないような集落の写真が随所にはさまれる。
このブログでは、絶望や悲しみをもとめて旅をする人もいることを強調しているけど、昭和の前半あたりまで、北海道は日本ではまれな、ロマンと冒険の舞台でもあったのだ。
わたしはコショウジ君ほどの根性がないから、ひとりで冬のオホーツクを旅をしたときは、もうすこし文明的な宿屋や国民宿舎に泊まった。
とはいうものの、そのとき泊まった旅館は、朱鞠内の「谷川荘」、紋別の「紋別館」、北見枝幸の駅前にあった「たつのや旅館」など、ほとんどが廃業したようだ。
わたしの泊まる旅館は、当時からはやっていない感じの宿が多かったほから仕方ないけど。
3番目の写真は、チップを固めた固形燃料で、当時あちこちの宿屋でストーブの燃料として使われていたもの。
浜頓別で泊まったのは「東雲旅館」といって、おかみさんがアイヌのバンダナを巻いた愉快な人だった。
料金のわりにはえらく豪華な食事が出たから、いいんですかと聞くと、
同じ晩にどこかの団体の宴会があって、それがわたしのところへもまわってきたんだそうだ。
人間どこにツキが落ちているかわからない。
この旅館についてはネットでその後の消息を見つけたけど、あとつぎがいなくて廃業したらしい。
あとつぎぎがいなくてといえば、稚内で泊まった「船木旅館」もそうだった。
ほかに客がいないからという理由で、宿のおかみさんと台所で差し向かいの食事をしたんだけど、おかみさんがこぼすには、あんた、ウチの娘なんかもう30よ。
結婚もしないで遊んでばかりいてと、あれはひょっとすると、わたしを見込んで宿のあと取りにでもしたかったのかもしれない。
たまたま娘が留守だったから顔を見なかったけど、おたがい気に入れば、わたしも稚内で旅館の経営者におさまっていた可能性もあったわけだ。
まったく人間の運命なんてどこで変わるかわからない。
こういうのもロマンと冒険の範疇に入るのかしら。
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