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2017年4月10日 (月)

夜桜

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いまはサクラの季節。
サクラって満開になると木のまわりに妖気がただようってのは、これは文学的修辞ではなく、ホントの話。
信じられない人は、満開になったサクラを、できるだけ枝をいっぱいに広げた古木がいいんだけど、ひと気のない夜に見に行ってごらんなさい。
闇の中の桜の木に、ぼうっとした雲気のようなものがまとわりついているでしょう?
こいつの正体はいったいなんなのか。

サクラというのは花期がみじかいから、短期間のあいだになんとか子孫を残したいという怨念が、こういうかたちであふれ出しちゃうんだろうと思っていることは、このブログでも書いたことがある。

こういう観念的な物質を感じられるのは、詩人か、あるいは古びたネコが猫又になるように、人生経験を積んだ年寄りだけの特権かもしれない。
わたしの場合、詩人というにはおこがましいから、やっぱり経験のほうだろうな。
むかし読んだ梶井基次郎の小説には、「桜の下には死人が埋まっている」というフレーズがあったけど、作家というものは詩人の要素もそなえている場合が多いから、彼は若くしてこういう空気を感じることができたのだろう。

0706b

日本にはサクラの登場する文学作品が数え切れないくらいある。
むかしはウメのほうが多かったらしいけど、最近ではサクラのほうが多いのではないか。
女の子の名前だって、サクラというとモダーンだけど、おウメさんというと田舎のおばあさんになってしまう。
今回はそんなサクラのおぼろさを描いた小説で、わたしの記憶に残っているものを紹介してしまおう。
谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」。
滋幹は"しげもと"と読むんだからね、え、お若いの。

さいわいいま谷崎文学は、ネット上の青空文庫でタダで読むことができる。
それを図々しくコピペしてしまうのだ。
ただし、近代文学ではあるものの、原文のままではわたしでも読みにくい部分があるので、すこしだけ、小説の情緒を失わないていどに改変してある。
ぜんぜんおもしろくないという人がいるだろうけど、そりゃ想像力の欠如だな。
文学というものはしょせん、たんなる文字の羅列で、人間を空想の世界にいざなう道しるべにすぎないものなのだから。

ふとむこうを見ると、谷川の岸の崖の上に、一本の大きな桜が、周囲にただよう夕闇をははじき返すようにして、爛漫と咲いているのであった。
あたかもそれは、路より少し高い所に生えているので、その一本だけが、ひとり離れてそびえつつ傘のように枝をひろげ、その立っている周辺を艶麗なほの明るさで照らしているのであった。

土の上はしっとりと湿っていて、空気の肌ざわりはつめたいのだけれども、空は弥生のものらしくうっすらと曇って、朧々とかすんだ月が花の雲をとおして照っているので、その夕桜のほの匂う谷あいの一角が、まぼろしじみた光線の中にあるのであった。

今宵こよいの月はそこらにあるものを、たとえば糸のような清水の流れ、風もないのに散りかかる桜の一片ひとひら二片、山吹の花の黄色などを、あるがままに見せていながら、それらのすべてを幻燈の絵のようにぼうっとした線で縁取っていて、何か現実ばなれのした、蜃気楼のようにほんの一時空中に描き出された、眼をしばだたくと消え失せてしまう世界のように感じさせる・・・・・

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この小説は平安時代が舞台なので、まだソメイヨシノは存在してなかったはずだけど、ここはやっぱりソメイヨシノでなくちゃ話にならないと、強引に主張しておく。
わたしの住む大沢村が、かくれたサクラの名所であることはこのブログで広報ずみで、ここに載せた写真は、いちばん上が基督教大学の校内のもの、あとの2枚はウチの近所のものである。

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