青森/三内丸山遺跡の1
わたしの旅にはいっしょに持っていく本が欠かせないけど、青森の旅は急に思い立って出かけたので、それを用意する時間がなかった。
もしも時間があれば、とうぜん持っていったと思える本を、帰京してから読み返してみた。
そして持参しなかったことをつくづく後悔した。
司馬遼太郎の「街道をゆく/北のまほろば」である。
この本にわたしが行ってきたばかりの鯵ヶ沢、五所川原、むつ市、大湊、津軽と南部、岩木山などの地名、太宰治や石坂洋次郎、棟方志功、今東光、考古学の専門家、その地にまつわる人々、下北半島に流刑になった会津藩の末裔などの人名がたくさん出てくる。
旅先でこれを読めば、もうすこしはマシな旅ができたのにと思う。
またこの本の中には青森市にある、縄文時代の三内丸山遺跡のことが出てくる。
これこそ東北地方がかってはまほろば(豊かでうるわしいこと)だったという、内容にふさわしい話題だけど、作者は当初、この遺跡のことを書くつもりがなかった。
ところがなんと、週刊朝日に北のまほろばを連載しているまさにその最中に、この遺跡が発見されたのである。
状況証拠だけで犯人を追求していたら、どかんと物的証拠が出てきたようなものだ。
おおむかしの青森はまぎれもなくまほろばだったという証拠が。
東北というと、わたしなんかまず冷害による凶作や飢饉を連想してしまうので、それがまほろばというのはどういうことだろう。
三内丸山遺跡からは木の柱を組んだ巨大なやぐらの跡も見つかっている。
そんなものをいったいなにに使ったのだろう。
盆踊り大会でもしていたんだろうか。
冗談はさておき、専門家ではないわたしでも、これだけ大きな建造物を建てることができたということは、ここにかなり大きな人間集落があったことぐらいわかる。
そうした人たちが定住して暮らせたということは、それだけこの地方が豊かであったこともわかる。
でも考えてみれば、そんなに驚くことではないのかも。
縄文時代というのはまだ作物をみずから育てて収穫する以前の時代で、食べ物の多くはそのへんにいる野生動物や、自然に生えている天然の穀物や果実で間に合っていた。
こうなると雨が多くて自然の豊かな日本は有利である。
海が目の前ということは、漁業をする人にも有利だ。
遺跡からは食料保存用の倉庫まで見つかっているのだ。
ごみ捨て場も見つかっている。
なんだ、ごみ捨て場かとバカにしちゃいけない。
ごみ捨て場ぐらい当時の人々の生活を教えてくれるものはないのである。
三内丸山遺跡のごみ捨て場からは、クジラやタイ、ヒラメの食べ残しも見つかっているそうだから、海鮮の好きなわたしにもここは天国だった可能性があるのだ。
| 固定リンク | 0
コメント