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2017年11月 2日 (木)

青森/三内丸山遺跡の2

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わたしが三内丸山遺跡に寄ったのは、津軽をうろうろしたあげく、岩木山も雨でさっぱり見えず、ほかに行くところもないという消極的な理由だった。
ここは東北縦貫道の青森ICを下りると、すぐ目の前なので、わたしみたいな運転ギライにも都合がいい。
駐車場料金を含めて、入場料は全部タダなのも気に入った。
入口は縄文時遊館という建物で、そのとなりにただいま縄文センターなるものが建設中。

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ウィキペディアによると縄文時代というのは、紀元前1万5千年から、紀元前2300年までぐらいと幅が広い。
とはいうものの、東北や北海道では弥生時代になってもまだしばらくは縄文の時代が続いていたというから、三内丸山遺跡がそれほど古いとはかぎらない。
いずれにしても、ヤマトタケルも聖徳太子もまだ生まれてなかったし、そもそも文字というものさえ生まれてなかった時代だから、わたしみたいに通俗的な歴史愛好家にとっては歴史以前の時代ともいえる。
これでなにか書けといわれても困ってしまう。

遺跡の一隅に立っている巨大なやぐらの柱は、人間ふたりで手をつないでやっとかかえられる太さ。
こんな太い柱の建物がなにに使われていたのかわからないというので、そのへんはわたしの興味をひく。

なにかの祭壇にも見えるけど、古代中国やインカみたいに人間を生贄にしていたわけでもなさそうだから、ここに住んでいた人たちは無慈悲ではなかったようだ。
卑弥呼みたいな女王がいるとおもしろいけど、いまのところそういう話もない。
人間というのは集まるとケンカばかりしている生きものだから、集落対抗の合戦でもあればドラマチックだけど、それも、少なくともその痕跡は発見されてないようだ。
こういう穏やかな生活ぶりと、青森の冬の寒さをものともしない生き方を考えると、住人はアイヌのような北方民族であったことが考えられる。

日本人が稲を育てることをおぼえると、やがてこの遺跡に住んでいた人たちの生活も衰退していった。
モンゴル人が中国の農民に北へ北へと追いやられたのといっしょ。
いったい彼らはどこに行ったのだろう。
駆逐されて北海道にでも移動したのか、それとも稲作文明に呑み込まれたのか。
稲作は原始的な採集生活よりも大人口を養えるって話だけど、そのかわり冷害などに遭いやすい。
彼らが稲作に方向転換したとしたら、まほろばといわれるほど豊かな土地に住んでいた人々にとって、割りに合うことだったんだろうか。

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確実なのは、三内丸山遺跡ではかなりの数の人間が、雨風をしのぐ住まいを協力してつくり、採取した食べ物を持ち寄り、それを高床式の倉庫に保管し、老人でも子供でも死ねばちゃんと葬ってもらえて、現代のホームレスなんかよりずっと幸福に暮らしていたこと。
わたしはついやぐらをの周辺を、縄文の子供たちが駈けまわっているようすを想像してしまった。

現代の日本人は不平たらたらで生きているけど、この遺跡で自然の恵みに感謝して生きていた人々を思うと、またまた人間の幸せというのはなんだろうと考えてしまう。
わたしもヤキがまわったか。
このへんまで考察すれば、ようやく哲学的命題にぶち当たるんだけど、この先はこのブログに取り上げるには荷が重い。
あとはみんな勝手に考えてチョーダイ。

三内丸山遺跡を見学し終えるころ、ようやく雨は上がった。

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