生きとし生けるもの
わが屋の庭で、ただいま無慈悲な殺戮が進行中。
庭のケヤキの古木が、情け容赦なく伐採されているところなのだ。
電動ノコギリの音がわたしの脳髄を切り裂くようだけど、地権者でもないわたしは、悲しい気持ちで傍観するのみ。
いったい植物というのは痛みを感じないのだろうか。
彼らに感情はないのだろうか。
べつに神経も脳みそもあるようには見えないから、そういうものはないんだろうという人が多いと思われる。
そんな心配をしていたら、お米もバナナもリンゴもナシも食えないではないか。
でも彼らもわたしたちと同じ地球型の、つまり炭素生物だ。
人間とは伝達速度やスタイルが異なるから、意志の疎通ができないだけで、とにかく彼らも呼吸をし、養分を吸収し、子孫を残すために努力をしていることはまちがいない。
痛みは知らないかもしれないけど、樹木も切られれば、自分がまもなく死んでいくことぐらいは察知しているだろう。
ずっとむかし、建材屋さんと話をしたときは、天然の石材ってのは生きているんだよと、人工石材と天然石材のちがいを教えられたことがある。
生きるということはいったいナンダ。
たんに繁殖する、子孫を残すということではなく、その人生を通して、喜びや悲しみを知るってことじゃないか。
石材の生きるスピードはわたしたちより極端に遅いから、彼らが愛を知るスピードは何千年もかかるかもしれないけど、植物の生きるスピードはもっと人間に近い。
わたしたちはもうすこしで彼らと会話できたかもしれないのに。
このケヤキがなくなったら、あとに新しいマンションか、建売住宅ができるらしい。
最近の地主は金儲け第一主義って人が多いから、植木なんか要らん、土地を目いっぱい使おうと考えるかもしれない。
よそ様の計画にいちゃもんをつけるわけじゃないけど、おかげでわたしの部屋から、手をのばせばとどく場所に生えていた樹木がみんななくなってしまった。
ここへ越してきたときは、その豊かな緑こそが魅力だったんだけどねえ。
こうやってわたしの生存できる範囲はますますせばまる。
ええ、死ねばいいんでしょ、年寄りは、さっさと。
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コメント
古木の欅倒れて、人の住む建物出来。
我がO町では空き地という空き地にソーラー発電のパネルが設置されています。とっても狭くて、しかも日当たりだって良くなさそうな場所にも。中には、監視カメラ付きのもあり、「敷地内に入るな」なんて標識が、さも、わざとらしく立っているのも有ります。最も恐ろしいのは。「加須の大凧」の如く天に向かって聳え立っているのが、少なくとも、町内に二つあります。大風や台風の時、宙に舞って我が家に直撃したらどうしようなんて、思わないようにはしていますが。
これに比べたら、人がいる建物はいいですよ。
投稿: 女音恋音 | 2018年1月26日 (金) 16時17分
気をつけなさい。
むかし宮古島に行ったとき、てっぺんに金魚みたいな物体がついた高いポールが立ってましたので、あれナーニと訊いてみたら、風力発電用の風車だったんですが、台風で羽根が飛んじゃってといってました。
風の強い日は、年寄りはそういうものに近づかないのがいちばんです。
人がいる建物がいいというのはふつうの人の感覚でしょうけど、孤独を愛するわたしは、やっぱりなにもない森の中のほうが。
投稿: 酔いどれ李白 | 2018年1月26日 (金) 17時02分