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2018年2月 4日 (日)

万葉集

今朝の新聞の35面に万葉集が取り上げられていて、いくつかの歌とともに、その解説がされていた。
それを読んでふと思ったこと。

万葉集ができた飛鳥、奈良時代には、まだ日本語をどう表記するか決まってなかった。
つまりそれまであった日本の言葉を、中国から渡来した漢字で表現するために、当て字やこじつけまでしていろいろ苦心したんだそうだ。
たとえばこんな感じ。
 宇都曽見乃人尓有吾哉従明日者ニ上山乎弟世登吾将見
ことわっておくけど、基本的に音を漢字にあてただけだから、"吾" は自分のこと、"弟" は弟のことだと思ってはいけないのである。
そう考えるとさっぱり意味がわからない。

その後いろんな学者が研究し、ロゼッタ・ストーンのシャンポリオンみたいに、苦心さんたんして歌の意味をときほぐした。
日本人が見ればもっともらしい解釈がされているけど、これは正しいのだろうか。
という疑問をもった韓国の女性学者が、万葉集は韓国語で解釈することができるなんて言いだして、日本の学者からつるしあげをくらったこともある。
わたしも今朝の新聞を読んで疑問を感じた。

額田王というオンナの人の有名な
 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(原文はもちろんぜんぶ漢字)
という歌が引用されているけど、これは 「草むらを行ったり来たりして袖をふっていると、番人に見られますよ」 という恋の歌だそうだ。
感心した。
“紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き”なんて、現代の小説にもなかなかない表現だぜ。
これってほんとに万葉時代の人がつくった歌なのかい。
これを最初に解釈した人が、自分の心情で勝手にこじつけた解釈と違うか。

とはいえ、わたしに自説があるわけでもなく、こういう解釈はだれのものであろうとロマンがあっていい。
ちょいと疑問を感じたってだけ、べつに反対やいちゃもんをつけようって気はないので、みなさんは世間に流布しているとおりに解釈してもかまいません。

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