管理社会
ちょっとまえにこのブログについたコメントについて、前項で触れたけど、都会人のものの考え方がいかに自分と乖離しているかを思い知った。
わたしは自然が豊かであればあるほどいいと考える人間だけど、都会の人は、あるいは現代人というものは、あらゆるものがきちんと芽をつまれ、頭を刈りそろえられた管理社会でないと生きられなくなっているらしい。
自然を愛するということは誰でもいうくせに、ただしそれが自分の家のまわりにないことという但し書きがつく。
総論賛成、各論反対ってやつね。
以前は世田谷区あたりでも、場違いなくらい樹木にかこまれた家があちこちにあって、たまたま通りかかったわたしは、おお、ここにも同好の士が住んでいるなと思わせられたものだった。
でもわたしにとっては好ましい家でも、住んでいる当人にとっては、さぞかし周囲の目は冷たかったにちがいない。
となりの農家のおじさん、去年の5月に亡くなったけど、彼もさぞかし肩身の狭い生き方を強いられていたんじゃないか。
カヤぶきとまではいわないけど、なにしろ古い農家だ。
建物もうす汚く見えるし、物置きにホコリにまみれた農機具が積まれているさまを見れば、都会人にとってはゴミ屋敷と変わらないように見えただろう。
こんな家がとなりにあったんじゃ迷惑だ、という声なき非難を、亡くなったご主人はわたしなんかよりずっと切実に感じていたんじゃないか。
うちの近所には園芸農家に転身して、大規模に植木や花の栽培をしている農家もあるけど、花の栽培なら近所で文句を言う人もいない。
しかしそんなあざやかな転身は、誰にでもできるものじゃない。
さっさと農業をやめて、アパート経営でもすればよかったという人もいるかもしれない。
それだって農業ひとすじに生きてきた農民に、おいそれと決断できるものじゃないし、じっさい、最近はアパートやマンション経営も曲がり角だ。
農民やわたしのような変人を締めつける輪は、ますます狭くなっているのだ。
でも考えてみればば、となりの農家が更地になったって嘆いているのはわたしだけだな。
わたしの場合、まだまだ農地がたくさん残り、しかも急速にそれがすたれゆく大沢村に住んだことで、よけいそういう思いが強いのかもしれない。
あるいはわたしが感傷的すぎるのがイケナイのかもかもしれない。
植物だって生きているんですなんていっても、アホかと一蹴されてしまうだろう。
現実に、農業をしているわたしの親戚に、野草の花っていいもんですねと吹聴したら、あんな迷惑なもののどこがいいのかと逆襲されたことがある。
やっぱりおかしいのはわたしのほうか。
あるがままの自然を無理に整頓させようという管理社会の未来ってそんなにいいものか。
いまに見ていろ、天変地異か、核戦争か、コンピューターの反乱か、きっと天罰が下るから。
なんていちゃもんをほざこうと思ったけど、ミミズのたわごとみたい。
天罰はわたしだけを避けてくれるわけでもなさそうだし、いえばいうほど、書けば書くほど負け惜しみになってしまう。
つまり、なにもかもわたし自身のほうに責任があるわけだ。
そう認めれば万事まるく収まるのだ。
心配するな、わたしはこれを読んでいるたいていの人よりは先に死ぬ。
となりの家を更地にしたのは農協や三鷹市が主導したことだそうだ。
彼らも汚らしい農家を撤去して、跡地をうるわしい更地にするために、家の主人が亡くなるのを千秋の思いで待っていたにちがいない。
わたしの郷里にも、拡張される道路がすぐ近くまで完成しているのに、わたしの親戚が死ぬのを待って、工事をストップさせている市役所がある。
それでも市民の税金をムダに使いしたくないのだといわれたら、わたしには反論できそうもない。
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