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2018年3月21日 (水)

荼毘と桜

先日、親戚に不幸があって帰省するとちゅう、ケータイにさらにひとつの訃報が舞い込んできた。
おいおいおいというところ。
新しい仏さまは、以前から肝臓ガンを患っていた、わたしより歳下の友人である。
おれのガンて治しようがないんだってさと、本人から説明があってものの半年、別れを告げる余裕もないあっという間の死だった。

わたしは彼との約束を守らなければならない。
奥さん思いの彼は、少しでも奥さんに金を残そうと、葬儀や墓などにかける費用をすべて拒絶した。
つまり葬儀行為はいっさいなし、火葬後は野山へ散骨してほしいということである。
そういう簡素化した葬儀はわたしの信念とも通じるので、彼の死後の始末はわたしが引き受けることにしたのだ。
簡単そうだけど、わたし以外にそんなことを気安く引き受ける人間はなかなかいない。
わたしも自分の骨は棒で砕いて、そのへんの川に流してくれといってるのに、親族も友人もみんな尻込みするのである。

わたしは郷里で親戚の葬儀をすませてきたばかりだ。
親戚は地方ではそれなりの名士といっていい人だったから、そちらの葬儀は古式にのっとった荘重なものである。
つまりお坊さんを呼び、戒名をつけてもらい、斎場に花輪をずらりと並べ、大勢の参列者から香典を集めるというもので、派手さがそのまま故人の評価につながっている。
当人もおそらく満足だったんじゃないか。

たまたま好対照なふたつの葬儀が重なったわけで、これはまたわたしにいろいろなことを考えさせる。
以前にも書いたけど、一見無駄と思える田舎の葬儀は、田舎のコミュニティを維持するのに必要という側面を持っている。
だれも彼もが合理的な考えを主張しだしたら、お寺や斎場はやっていけない。
それでは日本の伝統も、いい意味での互助精神もすたれてしまう。
だから田舎の人たちが派手で旧弊な葬式をしようとするのも理解できる。

それでは一般サラリーマンが、家族のために葬式をはしょるというのはどうなのか。
最近の主流になっている家族葬はどうか。
どっちも言い分はあるだろうけど、式場にならべる花輪や来賓の序列に頭をいためる親戚と、妻に財産を残すために葬式を簡素化する友人を比較すれば、わたしは後者のほうにより人間味を感じてしまうのだ。

でもここで優劣つけるのはよそう。
お金持ちが自分のやりたい葬式をするのに、どうして他人がいちゃもんをつけられようか(貧乏人のわたしには辛いけど)。
先週の金曜日に親戚を送ってきたばかりのわたしは、昨日は友人を荼毘に付した。
冷たい雨がようやくいくつかほころびたサクラの花をぬらしていた。
もうすこし、もうすこし頑張れば、気のドクな友人も満ち足りた親戚も、今年の満開のサクラを見られたものを。

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