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2018年6月

2018年6月30日 (土)

今朝の疑問

今朝のウチの新聞に目を通したら、敗戦イングランドの無気力試合に批判という、Wカップ関連の記事が出ていた。
一字一句までどこかで読んだ内容なので、はてね、昨日の夕刊にでも出ていたのかなと考えたあげく、そうか、ヤフーのニュースにあったものじゃないかと思い当たった。
ようするにヤフーのニュースのソースが朝日新聞だったということなんだけど、問題は時間差だな。
昨夜読まされた記事を、また朝になって読まされる。
ネットを人一倍活用しているわたしに、はたして新聞の購読が必要なのかと、ちょっぴり考えさせる出来事だった。

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2018年6月29日 (金)

自炊完了

やっと親戚からもらってきた「支那事変・戦跡の栞」という古い小冊子の自炊(電子化)が終わったよ。
おかげで老眼ぎみのわたしにも、パソコンで大きく拡大して読めるようになったわけだ。
でもこの作業だけで、ますます老眼が進行したような気がするし、おもしろければ2巻、3巻も読みたくなるだろうし、先行き展望はあいかわらず開けまへん。

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2018年6月28日 (木)

映画と歴史

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「アメリカ アメリカ」という映画を観ていろいろ考えている。
この映画は移民や民族という、いまでも通じる普遍的、国際的、歴史的な問題を、客観的に描いているので、考えてもバチは当たらない。
むしろ、いまだからこそ考えたい。

国内の少数民族の反乱に手をやいたトルコ政府は、なにしろ第一次世界大戦よりまえ、まだ国連も国際連盟もなかったころだ。
めんどくさい、ひとり残らず片付けてしまえと、そこまで乱暴だったかどうかは知らないけど、いまでも問題になっているアルメニア人の大量虐殺をやってのけた。

こんな書き方をすると、トルコ人は残忍だということになってしまう。
しかしアルメニア人虐殺についてウィキペディアなんかを調べてみると、原因はそうとうに根深く、たどればたどるほど過去へさかのぼらざるを得なくなる。
さればこそ、知性と理性をかねそなえたエリア・カザン監督は、この映画を単純な勧善懲悪の映画にしなかったようだ。

映画のなかでトルコの将校が、アルメニア人の知り合いをつかまえて、われわれの銀行を焼き討ちしてただですむと思ったのかという場面がある。
これだけ観れば、虐殺の原因を作ったのはアルメニア人という見方もできる。
トルコ軍の襲撃やむなしを悟ったアルメニア人たちが、教会に集まって祈りを捧げるシーンもある。
このあと彼らは焼き討ちされて皆殺しにされるんだけど、アルメニア人はキリスト教徒であり、トルコ人はイスラム教徒だから、これは宗教紛争であったともいえる。
宗教紛争であるならば、十字軍を持ち出すまでもなく、ヨーロッパの歴史は焼き討ちだ虐殺だと、おびただしい血で塗りかためられている。
ジェノサイドということでトルコ人を責めるのも気のドクだし、アルメニア人も一方的に気のドクがられるわけでもない。
教会で皆殺しにされたアルメニア人たちは、同じアルメニア人過激派のために、トルコの憎しみを買うことになったわけだけど、この場合、いったいだれがだれを恨めばいいだろう。

映画の主人公であるカザン監督の祖父は、アルメニア人と同じ、トルコ国内の少数民族であるギリシア人だった。
映画のなかにトルコ人が、ギリシア人はおとなしいけど、アルメニア人はうるさいと発言するシーンがある。
トルコ人もおとなしく商売をしているギリシア人には手荒なマネをしなかったようだ。
この映画は事実に基づいているけど、カザン監督の祖父はやがて米国で成功し、家族をアメリカに呼び寄せる。
成功するまでに何年かかったか知らないけど、家族はトルコで虐殺されることもなく、それまでなんとか商売を続けていたわけだ。

わたしの書きようは奥歯にものがはさまったようなところがあるので、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、民族が異なっても、たいていの人は平和に暮らすことを望んでおり、それをひっかきまわすのは一部の過激な人間、問題をさらに拡大させるのは扇動にのりやすい人々ということだ。
最近の映画(ネット上の掲示板なども)は、シロクロのはっきりした単細胞的主張が多いので、「アメリカ アメリカ」を観てしみじみと考えてしまう。

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2018年6月27日 (水)

欲しい

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若いころのわたしは、欲しいものがあると、多少無理しても買ってしまう主義。
たとえばというわけで、ビデオカメラを例にあげると、そのころはやりたいことがたくさんあり、撮りたいものもたくさんあった。
山に登る、海に潜る、温泉に行く、海外旅行に行く、オートバイに乗る、四駆でドライブする、他人の結婚式に参加する、頼まれて野球やカラオケを撮影する、そんなふうになんでもかんでも記録したいと思ったものだ。
だからカメラを買ってから目的を考えても遅くはなかった。

鈍牛みたいなおまえでもバイクに乗れるのかという失敬なやつがいたので、その証拠写真を貼っておくことにする。
これは40年もまえの写真で、けっしてカッコつけるほど上手なライダーじゃなかったけどね。

しかし最近はトシだからなあ。
じつは昨日、街へ出てGoProを見てきたんだけどね。
いま世界的に大流行の、小さなアクションカメラというやつだ。
マッチ箱みたいなサイズなのに、最新のそれは4K画質だそうで、大きなテレビで見てもひじょうにきれい。
うーん、欲しいなあと悩んでしまう。

でもいまのわたしは慎重だ。
YouTubeなんかには、これで撮った映像がゴマンと上がっているけど、最近のわたしはバイクも四駆も売り飛ばしたし、ずっとむかしにスキー道具もダイビング用品も処分したし、旅行ももう半年も出かけてないし、ようするに映像にしたいと思うようなことをみんな止めちまったんで、これではこのカメラの能力を発揮できんわ。
ドローンこみでなんぼという値段は魅力的だったけど、うちの近所じゃそんなもの飛ばす場所もないしねえ。

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2018年6月26日 (火)

アメリカ アメリカの3

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エリア・カザン監督の祖父をモデルにした若者は、金を稼ぐためにコンスタンチノープルで沖仲仕の重労働を始める。
ところが彼もまだ血の気の多い若者だ。
悲惨な生活のあいまに、魔がさしたというか、たまたま買った娼婦に枕探しをされて、数ヶ月間、必死に働いて貯めた金を盗まれ、努力は振り出しにもどってしまう。
ちなみにイスラムの戒律のきびしいトルコにも娼婦は存在したらしい。
わたしもトルコに行ったことがあるけど、なんせカタブツだったからなあ。
そういえば女性は肌を見せるなとうるさいくせに、おへそ丸出しでおどる官能的なベリーダンスはトルコの名物だよ。

現実の重さに絶望した若者は、誘われてテロリストの仲間に入ったり、しかもそこを官憲に襲撃されて重傷を負ったり、このへんは現代のテロリストと同じ心情かもしれない。
わたしには真似どころか想像もできない悲惨さだ。
あまり苦労もしないで外国に行ったなんてイバっているわたしは、生まれた時代がよかったのか、生まれた場所がよかったのか。
あ、またオカルトになってしまいそう・・・・

単純労働で金持ちになることのむずかしさを知った若者は、いとこの手引きで金持ちの娘と結婚することにする。
これじゃ結婚詐欺だけど、若者はイケメンだし、相手の娘は不器量ということになっているから、できすぎた話でもない。
でも不器量のはずの娘が、これが不器量なら日本の娘はどうなるのかというくらいの美人だし、やさしくておとなしくて性格もいいのだ。
いくら映画とはいえ、これは調子がよすぎるワ。

しかしどうしてもアメリカに渡りたい若者は、せっかくの逆玉の輿をすてて、今度は金持ちの人妻のツバメに成り下がる。
この人妻の欲求不満も、丁寧に、要領よく描かれているので、ストーリーに無理はない。
こうなるともうなりふり構わずという感じだけど、映画はわたしの文章みたいに不真面目なものではないのである。
目的のためには堕落もやむを得ないと、教訓的でないのはいい。

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この人妻が旦那とともに米国航路の船に乗り込むのに、若者はなんとか同船を許される。
こうして艱難辛苦のはてに、若者はようやく自由の女神を見ることになるんだけど、上陸まえに最後の関門が待っていた。
それがどんなものか、どうやって危機を脱出するのか、ネタバレがすぎて不興を買いたくないから、この最後の山場には触れないでおく。
興味のある人はレンタルビデオ屋に行けばよいと書こうとしたけど、わたしの文章に誘発されて、観てみようなんて人がいるだろうか。

逆効果みたいな気がしないでもないけど、なんとか最後の関門を突破して米国上陸を果たした若者は、ニューヨークでまず靴磨きを始める。
最下層からのスタートだけど、彼の顔にようやく希望があふれたところで、この映画は終わりである。
エリア・カザン監督の祖父は、やがて認められ、米国で確固たる地位を築くのは周知の事実だから、その後のことははしょってもいいのである。

この映画を要約すると、ひとりの若者が苦労して身を立てる物語といえばそのとおり。
でもそれだけじゃないような気がする。
むずかしい理屈をならべても1円にもならないわたしは、また映画のなかでとくに印象に残った人物をあげて、そのへんの感想をはしょってしまうのだ。

映画の始めのほうに登場する、物乞いをしながら、徒歩(!)でアメリカを目指そうとする、元祖ヒッピーみたいなアルメニア人の若者。
彼は映画の終わりにふたたび登場して、重要な役割をになうんだけど、こうした若者を異国に駆り立てたのはいったいなんなのか。
時代が変わってもぜんぜん変わらない、あるいはもっとひどくなっているものが存在するではないか。

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というわけで、できればわたしたちが、たまには思い出すべきだという写真を最後に載せておこう。

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2018年6月25日 (月)

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「アメリカ アメリカ」は、苦労してアメリカに渡り、そこで足場を築いたエリア・カザン監督の祖父の人生を映画化したものだという。
時代背景はというと、映画のはじめに1896年のことという説明があるから、日本でいうと明治29年ごろのことである。

映画を観てもわかるとおり、このころのトルコはギリシアやアルメニアなどの少数民族をかかえこみ、各地で民族紛争が勃発して、それをトルコ軍が鎮圧するという状況だった。
それなら少数民族同士は仲がよかったかというと、けっしてそうでもなかったようだから、当時から欧州の民族問題は、幸せな日本人には想像もできないくらい複雑怪奇なものだったのである。

トルコと少数民族の軋轢というと、民族浄化ではないかとされるアルメニア人の大量虐殺が有名だ。
この映画にもトルコ軍による虐殺が出てくる。
しかし虐殺する側にも情け深い軍人はいたとか、少数民族の側にもこすっからい人間はいたというふうに、わりあい客観的で、ナショナリズムを鼓舞するような描き方はされてない。
わたしはこういう映画が好きである。

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映画のなかに、トルコの寒村にある少数民族の部落が出てくるけど、あちらの役者が無精ヒゲを生やすと、ドキュメンタリーではないかと思うくらいリアル。
こういう点、どうも日本や中国の役者はにやけていてダメだな。
余計なことはさておいて、その貧しい境遇、置かれた不安定な立場も描かれていて、これじゃ移民したくなる気持ちもよくわかる。

トルコの圧政に苦しんだ少数民族の若者たちは、こぞって、まだトランプさんのいなかった新天地アメリカをめざした。
映画のなかに、物乞いをしながら徒歩で首都をめざすアルメニア人の若者が出てくるけど、ヒゲぼうぼうで、肺を病んでいるこの若者の、せっぱつまった気持ちもよくわかるのである。
トルコ生まれのギリシア人だったカザン監督の祖父も、けっきょくはこの物乞いのあとを追うのだ。

中国の華僑などもそうだけど、一族のなかの優秀な人間に望みをかけて、親戚の金をかきあつめ、そのひとりを異国へ送り出すということが、外国ではよくあった。
送り出された人間の大半が異国で野たれ死したとしても、ひとりかふたりが成功して故郷に錦を飾れればいいという、一将功なって万骨枯るの精神である。
これもまたノーテンキな日本人には想像しにくいことだ。

主人公の若者も一族の期待をになって、首都のコンスタンチノープル(現イスタンブール)へ向かう。
ここからはアメリカ行きの船が出ているのである。
しかしロバに乗って出発した若者は、途中でゴマの蠅や汚職警察官にあって、たちまち身ぐるみはがれてしまう。
一文なしで首都にたどりついたものの、そのへんのはなたれ小僧でさえ、気楽に外国旅行ができる現代とはちがい、当時の船賃は貧しい青年には手も足も出ないものだった。

ということで、この項はまだ続きます。

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2018年6月24日 (日)

朝鮮の運命

わたしのブログに幼なじみからコメントがついて、日本の徳川政権と、朝鮮通信使との関係についてどう思うかという。
ちょっと返事が長くなりそうなので、これはコメント欄ではなく、ブログの本記事にすることにした。

徳川家康というと、つい静岡あたりの人と思ってしまうけど、彼のルーツは群馬県の尾島町あたりで、わたしの郷里とほんの目と鼻の先である。
わたしの郷里ということは、幼なじみにも郷里というわけで、それでこんなことを書いてきたのかもしれない。

豊臣秀吉が朝鮮を傘下に収めようと、それまでの日本としてはきわめてめずらしいことに、外国に兵を出したことはよく知られている。
しかし徳川政権になると、一転して宥和政策になり、朝鮮とも友好的な交流が続いて、あちらから何度も使節がやってきた。
日本の文物は中国産のものが多く、それらはほとんどが朝鮮を介してやってきた。
だから中国が親で、朝鮮が兄貴、日本は末弟という見方は、あながち間違ってはいない。

ただこの兄貴は困った兄貴で、兄貴風を吹かし、日本をさげすむことが多かった。
欧米列強の東洋進出に危機感をいだいた日本は、西洋の知識、技術を取り入れようと、血のにじむような努力をしたのに、これを見たはずの朝鮮通信使は、まったく見習おうとしなかった。
これは中華思想や儒教の影響といわれるけど、日本が明治維新で近代化に成功したあとも、朝鮮および中国は古いまま太平をむさぼっていたのである。

歴史というものは、偶然よりも必然のほうが多いと、わたしは思う。
その後の朝鮮の運命を思うと、彼らが日本に侵略されたのも当然ではないか。

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死後の功績

韓国で親日家として知られる、金鍾泌さんという古い政治家が亡くなった。
日韓国交正常化に貢献した人だそうだけど、この人がおもに活躍したころ、わたしはまだあまり政治に関心がなかったので、どんな人なのかほとんど記憶にない。
ただ亡くなったおかげで、またひとつ日韓友好のために功績をあげたといえるかもしれない。

今朝のウチの新聞によると、国交正常化後に日本からの無償支援3憶ドル、有償支援2憶ドル(当時の金で)の支援策をまとめた人とある。
いまの韓国人はそういうところをすぐに忘れてしまうけど、韓国の発展のために、そして戦後補償のために、日本はそうした支援を続けてきたのだということを、あらためて確認させた人ということになりそうだ。

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2018年6月23日 (土)

雨の日

雨の日の独居老人はヒマである。
これでは認知症がひどくなる一方だ。
というふうに、世間に周知されている常識を、わたしにあてはめてはいけない。
もうやることが多すぎて困るくらい。
ブログのネタを考えたり、古い本をスキャンしたり、セピア色の写真を修整したり、録画したテレビ番組をブルーレイに焼いて、そのディスクのデザインを考えたり、ネットを閲覧したり、旅行の妄想にふけったり、そのあいまに自分でメシを作って食べるのだ。
年金だけに頼らないように、お金も少しは稼いでいるし、ほんと、充実した生活なんだから。

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2018年6月22日 (金)

アメリカ アメリカ

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エリア・カザン監督の「アメリカ アメリカ」を観た。
監督が古い人だから、映画も古い映画である(1963)。
この監督の映画については、すこしまえにこのブログで、「エデンの東」を、図式が単純すぎるとけなしたばかりだけど、はたして「アメリカ」のほうはどうだろう。

映画好きなわたしのことだから、この映画にも多少の知識はあった。
でもモノクロの地味な映画のせいか、日本ではあまり評判にならず、わたしも観たのは今回BSで放映されたのが初めてである。
欧州でしょぼくれた生活をおくっていた青年が、自由の国アメリカをめざすという話らしいので、ゴッドファーザー・パート2みたいな映画かと、ずっと思っていた。

ところが予想外だったのは、若者がアメリカに到着するのが、3時間ちかくもある映画の、ほんとうにラスト1/10あたり。
映画の大半は、ギリシア人の主人公がトルコから米国に出発するまでの、現地の複雑な民族問題を描いている。

そして感心したのが、映画の冒頭ちかくにギリシア人とアルメニア人のコンビが、トルコの軍隊から検問を受けるシーンがあるんだけど、安っぽい映画なら敵味方がはっきりしていて、二人はねちねちといじめられることになるのが相場。
じっさい二人はいじめられるけど、このトルコ軍の隊長というのが情け深い味わいのある人物で、もうこのへんから、この映画はただモノではないなと思わせる。

で、映画の感想でも書こうと思ったけど、見ごたえのある作品だけに、軽々しいことは書けない。
この映画からは、いま世界的に問題になっている移民の問題、生まれ故郷を捨てざるをえない人間の心境がうかがえる。
ま、今回はこのくらいにしておこう。

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2018年6月21日 (木)

田んぼの写真

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ネット掲示板の「海外の万国反応記」をのぞいたら、こんな写真が載っていた。
なんとなく後ろ立山連峰をのぞむ富山あたりかなと思ったけど、これってじつはイタリアの景色だそうだ。
 
イタリアに田んぼってピンとこないけど、そういわれると、戦後まもないころのイタリア映画に 「にがい米」 という映画があって、これはあまり田舎娘に見えないイタリアの美女たちが、太ももをあらわにして田植えをするという、サービス満点の映画だった。
イタリアというと連想されるのは葡萄やオリーブなので、米というのは予想外である。
 
でもわたしは、もっと予想外のところで田んぼを見たことがある。
むかし中国の新疆ウイグル自治区に旅をしたときのこと。
南疆鉄道の果てのカシュガルで、カシュガルといえば砂漠のまん中の町というイメージだから、そこで田んぼに出くわしたときには、天地がひっくり返るくらいおどろいた(下の写真)。

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ま、いつまでおどろいてもいられない。
わたしみたいな人間がコスモポリタンであると自慢できるとしたら、こういうちっちゃな経験を積み重ねたということかもしれない。

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2018年6月20日 (水)

またアホ

今朝のウチの新聞がまた特筆すべきアホをしている。
国会での首相の答弁を「信号無視話法」という方法で分析しようという。
野党の質問に首相がきちんと答えたら青、内容を繰り返したら黄色、質問に無関係な答えだったら赤と分析するんだんだそうだ。
いうことに事欠いてよくもまあ。

この記事でひきあいに出されたのが立憲民主の枝野サン。
彼の顔をみると、まっ先に連想されるのが、政策に関係ない質問をだらだらと繰り返すことだから、信号無視話法で分析されるのは、どっちかというと野党のほうがふさわしいということに気がつかないのだろうか。
意義ある質問だったら青、くだらない質問だったら赤、朝日新聞のネタによる質問だったら黄色ということにすれば、枝野サンの赤や黄色は何パーセントになるだろう。

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勝った

うわあ、勝っちゃったあ。
ええ、日本がコロンビアに。
ついこのあいだ、選手が監督と対等の口をききだしたら、もうそのチームは勝てんよとえらそうな予想をしたばかりなのに。

でも今回のW杯はあのドイツも番狂わせだ。
ドイツが負けるようじゃ仕方がないねと、みんなドイツに責任を押しつけて、わたしは知らん顔をするのだ。

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2018年6月19日 (火)

バレエふたつ

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土曜日(17日)の深夜に、BSのプレミアムシアターでバレエ番組を放映していた。
キライじゃないので録画しておいたら、今回のそれは「ジゼル」と「ル・ソンジュ」という作品だった。
わたしはいばれるほどバレエに詳しいわけじゃないけど、両方とも古典的なバレエ作品(ソンジュのほうは「真夏の夜の夢」)の現代版らしい。
チュチュに代表される、いわゆるバレエ衣装とは異なるいでたちで、これはもう現代舞踊といっていい作品になっていた。

バレエのダンサーというのは、人間としてこれ以上のものはないくらい、理想的なプロポーションをしている(容貌はフツー)。
そんな美女たち(男もいるけど、とりあえずそっちは棚上げ)が薄モノをまとって、うちの、まあまあ大きなテレビ画面で、しかもデジタルの精緻な映像で迫ってくるのだから、ずっとむかしにシネマ歌舞伎というものを、はじめて観たときと同じ感動があった。

たしかに美しい肉体が、人間わざと思えないようなつま先立ちをするのは、サッカー選手が人間の垣根をかいくぐって、ボールをポストに叩っこむのと変わらないくらい人々を感動させる。
どちらも芸術といってさしつかえない。
ただしプロポーションでいえば、サッカーがとてもバレエにはかなわないことは、なでしこジャパンを見ればあきらかだ。
美の基準は人それぞれというけど、わたしはやはり歴史的にも認められている、普遍的なもののほうに軍配を上げてしまう。

それにしても、どうしてバレエダンサーは必要以上に肉体を誇示するのだろう。
やっぱり苦労してきたえあげた体を、服の下に秘蔵しておくのはモッタイナイと考えるのだろうか。
なんだか知らないけど、そうとうにむかしからバレエというのは、踊りもさることながら、美しい肉体を誇示するものだったようである。
そりゃ百貫デブみたいな肉体が踊るより、魅惑的な肉体が飛んだりはねたりするほうが、バレエの主観客だった王侯貴族を満足させただろう。
オペラもそうとうむかしからあるけど、柳腰の美女では声量に難があったらしく、あちらはあまりプロポーションは問題にされない。

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裸体が透けてみえるようなバレエを観て、ニタニタと口もとをゆるめるというのは、あまりいい鑑賞方法とはいえないかも。
そんなイヤらしい目で観ているというのは、これもセクハラになるんじゃないか。
だんだんいつものわたしになっちゃうけど、バレエを観る男の本心を弁解しようとは思わない。
録画した映像のなかには、どうみても官能的すぎるシーンもあったくらいだし。

調べてみたら、両方とも映画として制作され、ディスクも売り出されているというから、タダで録画して得をした気分だ。
NHKの受信料はこういうときモトを取らなくちゃ。

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2018年6月18日 (月)

万引き家族

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「万引き家族」はつまらない映画だった。
と書くと、わたしの頭のほうが疑われそう。
たんに成功した映画に嫉妬する意見じゃないかと思われてしまいそう。

ネタバレにならないように、なんでつまらなかったのか説明しとこう。
映画自体はとくに欠点があるわけでもないし、演技者も芸たっしゃな人ばかりだから、わるい映画ではない。
しょぼくれたおっさん役のリリー・フランキー、樹木希林のおばあさん演技なんかたいしたものである。

いっしょに行った知り合いにいわせると、これはいじめや虐待が横行する現代に、異色の家族を通して、家族のきずなというのは何かを追求した映画でしょうとのこと。
それはそうかもしれないけど、わたしはこういうまじめなテーマを、正面からふり下ろす映画がニガ手である。

映画が始まってすぐに彼らの住まいの内部が映るけど、生活用品を山積みにして、その中で6人家族がなんとかスペースを確保している部屋のようすには、どこかなつかしい気持ちがした。
考えてみると、むかし(戦後10年目くらいまで)は6畳2間に、夫婦と子供、おばあさんの、5人、6人家族はめずらしくなかった。
団塊の世代というのは、本物の家族のきずなが存在していた時代を知っているのだ。
そしてそろそろこの世からおさらばしようとしているのだ。
家族のいないわたしが、いまさら家族のきずなについて考えても、なんの役にも立たない。

この映画は、現代や、これからの時代を生きる若者が観れば、それなり意義のあるものだろうけど、わたしにはもどってくるはずのない、過去のある時間をながめさせてくれるだけだった。
そこへもってきて、皮肉やユーモアが欠如しているので、退屈するばかりである。
そこにいるだけでしょぼいおっさんだとか、見舞金をありがたく押し頂いたおばあさんが、相手の家を出るなり、封筒の中味を確認してぼやくなどという、おかしい場面はいくつかあったけど、それは創意されたものではなく、日常にありふれた人間の行動のひとコマをそのまま描いたもので、わたしがいうところのユーモアではない。

わたしぐらい年期を重ねると、もうなにがあっても驚かないのだ。
子供が虐待死しても、こういう時代にはこういうバカ親も出てくるんだろうなと、諦観の方が先に立ってしまう。
かわいそうな子供を生んだのは、この社会全体の、流され感、余裕のなさに決まってると無力感におそわれてしまう。
ひょっとすると小津安二郎の映画のように、ほのぼの感でも残るかと思ったら、逆にあと味のわるさのほうが残ってしまった。
「万引き家族」はそういう映画だった。

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2018年6月17日 (日)

話題の映画

是枝裕和監督の「万引き家族」を観てきた。
監督については自民党政権に批判的だとか、そうではないとか、いろいろいわれているけど、そんなことはどうでもいい。
問題はいい映画なのかどうかということだ。

カンヌ映画祭でパルムドール賞をもらって、それをウチの新聞が1面のトップ記事にしたくらいだから、いい映画なんだろうという人がいるかもしれない。
しかし最近はアカデミー賞もカンヌも、ノーベル文学賞も、芥川賞も、さらにいえば朝日新聞も、マンネリや特権階級クラブみたいになっちゃって、かってほどの権威はなくなっているのだ。
疑いぶかいわたしの満足できる映画なのか、ま、観もしないでごちゃごちゃいっても始まらない。

というわけで観てきたんだけど、帰りにイッパイやって、いい機嫌で帰宅したもんだから、感想を書くまえに眠くなってしまった。
ひと眠りして、いまようやく起きたけど、まだ頭はもうろう、ブログに書くのは明日以降にしよう。

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2018年6月16日 (土)

戦中派

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中国人と思しき人たちに混じって、ひとりだけ日本の軍人がいる。
この人は、風貌からして、わたしの従兄弟の父親らしい。
そういえば、目下わたしが自炊中の「支那事変・戦跡の栞」という本、あれは末尾に所有者のサインがあって、それはこの父親の名前になっていた。
つまり日本軍の将兵だったこの人は、「戦跡の栞」を読みつつ、中国大陸を転戦していたらしい。
そして終戦後に、この本を持ったまま、わたしの親戚の家に帰郷し、結婚して家を出るんだけど、本だけは親戚に残されたということのようだ。

なんてことのない写真だけど、「戦跡の栞」を読みながらいろいろなことを想像すると、わたしの生まれるまえの時代がまざまざとよみがえってくる。
この写真に写っているいちばん若い人でさえ、いまでも生きているだろうかと気になるくらいの時間差があるのだ。

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2018年6月15日 (金)

露呈

今日のウチの新聞に、国交正常化が実現すれば、北朝鮮は日本から経済支援として、1兆1千億から2兆2千億円が受け取れると試算しているという記事があった。
これは韓国が正常化したときの、日本からの支援をもとに計算したらしいけど、あまりでっかい金額なのにたまげた。
ぜひ試算の内訳や根拠について、詳しい解説をしてほしいけど、ウチの新聞は例によって相手の迷惑になることには口をつぐむのだ(そのくせ国内のモリカケなんかにはあきれるくらいこと細かい)。

でもこの記事からは、はからずもべつの事情が露呈することとなった。
日本は韓国にそれだけの支援をしてきたのに、まだ足りない、もっと金だ、謝罪だとたかられっぱなしなのである。
日本が韓国に支出してきた金額をおおやけにすることで、朝日新聞もいよいよ韓国を責める側にまわったのかと、長い暗雲がようやく晴れた気がする。
この金額を韓国の人もしっかりこころに刻んでほしいものだ。

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サワーの素

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スーパーでレモンサワーのボトルを買ってきた。
サワーだから7度か8度ぐらいだろうと思って、たちまち1本を飲みほした。
すると、なんだか酔いが早い。
よく見たら25度だった。
しかもレモンサワーではなく、レモンサワーの素と書いてあった。
本来はこれを薄めてサワーにするものらしい。
でも美味しいし、早く酔いたいときには便利なので、また2本も買ってきてしまった。
これは鋼鉄の肝臓を持ち、なおかつ自制心というものを知っているわたしだからできることかもしれない。

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2018年6月14日 (木)

未来の構図

日本人にとってはあまりおもしろくないだろうけど、いま韓国では統一地方選挙が終わったばかりで、文在寅大統領の与党が大勝利だそうだ。
文サンというと、自分の兄弟身内まで抹殺するような、あの非人道国家の北朝鮮と仲良くしようという人である。
そんな政治家の政党が躍進するなんて、いったいあの国の人はなにを考えているのかと、日本人なら不思議に思ってしまう。

てもまあ、ここはまた相手の立場で考えてみよう。
つまり韓国人にとっては、分断された国家の統合がそれだけ悲願であるということではないか。
北朝鮮と統合したら共産主義化するとか、古くさい王朝制度の国になってしまうとか、外野がいろいろやかましいけど、現実的にはいまの北に武力侵攻の力はないし、統合するなら韓国が主体になるだろうと、わたしでさえ思っているくらいだ。
平和的に統合がすすめば、北は韓国に飲み込まれ、民主的な選挙が行われれ、正恩クンは失脚、でなくてもそのうち糖尿かなんかでポックリいくだろう。
韓国人はそう考えて、宥和政策をとる文サンを熱狂的に支持しているのではないか。

かりにそんなかたちで朝鮮半島の統合がなった場合、日本はどうすべきか。
ま、あまり心配することはないだろう。
統合後にはどうしたって日本の支援が必要になるだろうし、それがきっかけになって、日韓の雪解けもすすむかもしれない。
そうでなくても、地球上にはいまのヨーロッパの国々のように、本心では相手のことをこころよく思ってないくせに、表面的には仲良くしている国がいくらでもある。
当分はそんなふうな関係で推移するんじゃないか。

ひとつだけ異なるファクターがある。
韓国主体の統合をおもしろく思わない中国の対応だ。
北が韓国に飲み込まれるなら、統合後の朝鮮半島全体を、さらに自分たちが飲み込んでしまおうと考えてもおかしくない。
いや、べつに戦車と人民軍を派遣する必要はないのだ。
いまでさえ韓国は経済的に中国に依存するところが大きい。
韓国にできることは中国にもできるということで、サムスンのような製造業はますます衰退するだけだから、けっきょくのところ、韓国の未来は中国の下請け国でしかないだろう。

この場合は日本はどうすべきか。
中国の横暴はますますひどくなりそうな気がするけど、まあ、いろんな国をかかえこんじゃって、いつ背後から叩かれるかわからんから、あちらものんびり侵略戦争なんかやっとられんはず。
いざとなったら、いまの北朝鮮の正恩クンみたいに、日本も核やミサイルを持って、くるなら来いと開きなおる手もある。
日本は話せばわかる先進国グループの傘の下で、つねに科学技術の最先端に立ち、マスコミのフェイクに踊らされないようにして、わが道をつき進むしかない。
なんだか百年も2百年もまえの、極東の地図を見ているようだけど、いまんとこ、これ以外の結果を思いつきませんワ。

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2018年6月13日 (水)

今日の新聞

今日のウチの新聞を読むと、あいかわらず浜の真砂は尽きるとも、ブログのネタはなんとかというやつ。
そりゃまあ、常識的なことばかり書いていたら、産経や読売と変わらなくなってしまうのはわかるけど、いくら非常識でも、わたしみたいな素人のネタにされる書き方はやめてほしいやね。

昨日の米朝会談について、ウチの新聞は北朝鮮よりの意見だ。
北は非核化について具体的な行程を示さず、体制保証だけは勝ち取ったって。
バカいってんじゃない。
だいたい体制保証ってなにをすればいいのさ。
経済制裁で国が傾いちゃっているから、援助してほしいというと、そんなものは国内問題だろ、経済政策の失敗まで保証はできんよと、トランプさんならいいそう。

ようするにこちらから武力攻撃をしないというだけで、制裁を解除するとはひとこともいってないのだ。
北でクーデターが起きても、これを鎮圧するためにアメリカ海兵隊が出動するわけもないし、体制保証なんて絵に描いたモチといっしょ。

非核化のほうはそうじゃない。
偵察衛星で見つけたあの施設、この施設、いまあるミサイルもすぐにぶっ壊せ、査察もさっさと受け入れろと、具体的な行動を迫ることができる。
制裁というカードを手放さないかぎり、勝者はつねにアメリカのほうだ。

正恩クンはおおいに不満で、約束がちがう、援助してくれるといったじゃないかとわめくかもしれない。
でもトランプさんは冷静だ。
それは非核化を忠実に履行したあとで、日本や韓国と相談してみればいい。
もっとも日本は拉致が片づくまで1円も出さんだろうけどな。
日本が出さなきゃ、オレんところはハナから出さんよ。

こういわれて、北になにか打つ手はあるだろうか。
非核化の中止?
それじゃ永遠に経済制裁はなくならん。
戦争?
またバカいってんじゃない。
まえにアメリカが朝鮮半島に空母を近づけたとき、北朝鮮はぜんぜんこれに気がつかなかったらしいと、ウチの新聞に書いてあった。
現在の戦争は最新のレーダーや通信機器と併用しなければ、いくらミサイルや核兵器を持っていたって役に立たないのだ。

ひとのわるいトランプさんは、必死になって虚勢を張りまくる正恩クンを、リップサービスで嬉しがらせておいて、内心ひややかにながめていたにちがいない(わたしもそうだった)。
ウチの新聞も、北の肩を持つなら、もうすこし現実に即したことを書いてほしいものだ。

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2018年6月11日 (月)

希望的観測

いよいよ明日だな。
いまごろはドキドキして眠れないんじゃないかな。
だれがって?
もちろん正恩クン。
まわりにとりまきがいてこその指導者さまであるのに、明日はトランプさんと通訳を介してふたりきりの会談だそうだ。
恥をかかないように、あらかじめ綿密な打ち合わせをしておこうにも、相手がどう出るかさっぱりわからないトランプさんだ。
いや、それは英哲に聞いてくれ、それは与正と話してくれ、それは善姫となんて時間稼ぎをすると、ふざけるな、オレは夜の飛行機で帰るからなと、もう釘をさされてしまっているし。

おい、偉大なる指導者クン、元気かと、トランプさんに肩を抱かれて、顔面蒼白の正恩クンの顔が見えるようだ。
このようすをテレビで北に流せればなあ。
指導者さまの威厳失墜で、クーデター間違いなしなのに。

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身のほど

日本のサッカーが、これではひとつも勝てずにW杯敗退と書いても、予想にもならない情勢だ。
勝てないのは直前になって監督を替えたせいばかりじゃないんだろうけど、替えた理由は選手と監督のあいだの不協和音だったそうだ。

選手が監督に対して対等の口をきくようになると、ロクな結果にならないということは、歴史が、というより企業の労使交渉が証明しているな。
むかし日産自動車労組が、会社の経営陣と蜜月なんて時代があって、 その結果どうなったかというと、製品の質がガタ落ちになって、トヨタとトップの座を争っていたニッサンが、斜陽の憂き目に遭い、外部から招聘したゴーンさんのおかげでようやく立ち直ったところ。
労働者が経営にまで口を出すんじゃないよとは、サッカーの日本代表にもいえるかもね。

じつはわたしはサッカーより、まだしも野球のほうがいくらか興味があるという立場。
それはMLBの大谷クンがいるおかげ。
彼が故障者リストに入ったというんでツマラナイと思っていたら、MLBの日本人先発は全員故障者入りなんだってね。
BS観る楽しみがなくなったワ。
今日みたいな雨の日はなにして過ごせっていうのさ。

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2018年6月10日 (日)

中国人

訪日した中国人女性が、日本のレストランで出ていけとののしられた事件があったそうだ。
なんだ、また中国人ギライの店主による差別かなんかかと思ったけど、そうではないらしい。
この件では中国人からたくさんの反応があり、その大半が、どうせ日本のしきたりを知らず、店に迷惑をかけたんだろうというもの。
中国の恥さらしだ、もうそんなやつは日本に行くななんてのも。

どうやら真相は、中国の女性が食い放題のレストランに入って、食べガラを食い散らかし、時間になっても出ていかず、おまけに食べきれずに残したものもたくさんあったということらしい。
この女性が文句をいうのが筋ちがいである。
でも中国人の多くが、女性のほうが間違っていると判断したのだから、中国もじょじょにグローバル化に目覚めているようだ。

わたしにも経験がある。
むかし無錫から上海まで列車に乗っていたときのこと。
わたしのはす向かいの席に座っていた家族が、まわりに盛大にヒマワリの種のカラをまき散らしていた。
いくら中国4千年の伝統だとしても、これはちょっとひどすぎる。
わたしが眉をひそめているうちに家族は途中の駅で降りてしまった。
あとにどこかのおじさんが座った。
そこへ車掌がやってきて、なんでこんなに散らかすんだとおじさんをどやしつけていた。
始めから終いまで、神のごとくに眺めていたわたしは、おかしくてたまらなかったけど。

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2018年6月 9日 (土)

自炊中

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"自炊" たけなわの「支那事変・戦跡の栞 (しおり)」 という本。
日中戦争のころ、陸軍画報社というところから刊行された本である。
ヒマつぶしでやってるもんだから自炊のほうは遅々としてはかどらないけど、日本軍とともに涿州市(たくしゅう)というところまで進軍してきた。
ここは三国志でおなじみの劉備玄徳のふるさとだそうだ。
とうぜん彼についての記述がある。
 
【彼は家では母親とともにムシロなどを編んで暮らしていたが、志ははなはだ大であり、性は勇武であった】
【身の丈が七尺五寸というのだから、いまの世ならば波止場の苦力をやっても、そうとうにイケるだろうし、またオリンピックの選手になるというテもある】
【彼は力のやり場に困って、高さ50尺の桑の木に旗飾りを立て、その木のまたにフンぞり返り、いまに見ろ、おらぁ龍車に乗ってみせるだと豪語していた】
 
ユーモアというにはちとぎくしゃくしてるけど、そのへんは軍隊が編纂した本の限界だろう。
それでもこんな調子でなかなかおもしろい。
 
ところでこの本は、その後の1983年に、国書刊行会というところから復刻出版されていることがわかった。
そんなものがあるなら苦労して自炊なんかせずに、それを買えばよかった。
手もとにあるボロ本はオークションに出して、復刻版を買う足しにするテもあった。
と思ったけど、たぶんそうはいかない。
 
わたしが自炊を始めたのは、親戚からタダでめずらしい本をもらってきたというのがきっかけで、新しい本をわざわざ金を出して買おうという気にはならなかったはず。

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2018年6月 8日 (金)

悔いる

わたしはブログにありのままを書いている。
恥ずかしくて書けないこともたくさんあるけど、すくなくても、書いてあることはウソではないし、自分を美化するような捏造もないはずである。
だから精神分析医が読めば、これだけでわたしの性格を言い当てるだろう。

でも世間は精神分析医ばかりじゃないもんな。
たとえばわたしが自分の墓や死後の始末に対して、無関心であったり、ぞんざいであったりすると、それだけで、こいつは変人だと決めつけられてしまう。
変人というのは世の中の慣習に従わない人のことをいうのだから、それはまあ、間違いじゃない。

しかし精神分析医なら、なぜこの男はこういう変人になったのかと考えるだろう。
わたしの性格を分析してくれる医者が手近にいないから、ここはわたしが自分で性格分析をしてみよう。

幼いころからわたしは引っ込み思案なところがあって、ひとりで虫や植物を相手にしているほうが好きだった。
おかげで人間との付き合いがニガテで、挨拶はできない、敬語は使えない、電話の応答もできないという、常識も知らない人間に育ってしまった。
はじめて社会に出たころのわたしを振り返ると、穴があったら入りたいと思うことがしょっちゅうある。

過去はいまさらどうになるわけもないけど、わたしはそんな自分がイヤでたまらない。
わざわざ墓石を作って、自分のいまわしい過去を記念したいとは思わないし、とにかく早く、だれからも忘れられたいというのが本音だから、自分の骨についてもぞんざいなのである。
変人のかげにはそれなりの悲しみもあるんだけどねと、ふつうにお墓に入りたがっている健全な諸君に告ぐ。

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2018年6月 7日 (木)

今日はあきる野市の◯◯霊園というところに行ってきた。
申し訳ないけど、墓参りではないから、Tシャツ、チノパンに、手ぶらのままである。
最近亡くなった知り合いと、それ以前に亡くなった知り合いが同じ墓地に入ってるというので、どんな墓なのかと確認に行ったのである。

でっかい墓地なので、受付で地図をもらっても、まだ見つけるのに苦労した。
ようやく発見したそれは、両者とも平凡な市民のわりには、まあ、日当たりのいい場所にあった。
墓石は、安くあげるために大量生産されたような、つまらないものだった。
それは仕方がないだろう。
墓が必須のものと考えている人なら、墓石があるだけマシだし、他人と異なる個性的な墓を作れるのは、ひとにぎりの金持ちだけだろうから。

ここでまたわたしのへそ曲がり。
そんな没個性的な墓に入っても仕方がない。
墓を作る金があるなら、外国旅行でもするほうがいい。
どちらもできるなら問題はないんだけど、わたしの場合はどちらかひとつを選ばなければならない貧乏人だから。
いやいや、そうじゃない。
どちらも可能なくらい金があったとしても、わたしの場合、墓をケチって旅行のほうをひとつ増やしてしまう人間だから。

墓に対面すれば故人と会話でもできるかと思ったけど、ただ暑い日差しの下にさわやかな風が通りすぎていただけだった。
お盆じゃないから仏さまは留守だったというのかねえ。

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2018年6月 6日 (水)

今朝の新聞

今朝の新聞の「ひと」というコラムに、韓国MBCの社長さんという人が取り上げられている。
なんでも政治権力がテレビ局に介入するのがケシカランというドキュメンタリーを作った人らしいけど、この人が反権力の英雄とされることに大きな疑問を感じてしまう。
おそらくウチの新聞内でも、みんな疑問を感じているんだろうけど、これほどわかりやすいことを正直に書かないのだから、あ、やっぱり捏造かと思われてしまうのだ。

反権力というのは、時の権力に立ち向かってこそ、そういわれるのである。
この社長さんのように、文在寅サンの政権になってから、李明博、朴槿恵政権に抗議するようなドキュメンタリーを公開したのでは、たんなるゴマスリ男ではないか。
このつぎはぜひ、文サンが現職のうちに、彼の放送局への介入や、局の側の忖度を扱ったドキュメンタリーを作ってほしいものだ。
韓国では政権のマスコミ介入が当然のことだから、ネタに不自由はしないはず。
なんだったら、これほど明白な事実を、そうと書かないウチの新聞をまきこんだ、壮大なドキュメンタリーにしてもらってもいい。

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2018年6月 5日 (火)

古い写真

0808

ちょっとまえに田舎の親戚からもらってきた古いアルバムの写真を、このブログに載せたことがあるけど、そのときおさななじみの女音恋音クンから、古い写真をもっと見たいという反応があった。
でも残念なことに、風景だけを撮った写真はそんなに多くなかった。
むかしはいまみたいに、みんながやたらに写真を撮りまくる時代ではなかったから、フィルム代、現像代を負担してまで、風景ばかりの写真を残したいと考える親戚がいなかったのだろう。
 
ここに載せたのは、この3月に寡婦になった親戚の女性の、その父親の団体旅行のさいのものだけど、背景に特徴的なアーチ橋がかかっている。
これはどこだろう。
同じ旅行のさいに撮ったらしい写真がもう1枚あって、それによると昭和29年の鬼怒川温泉のものらしい。
そのころの田舎の団体旅行というと、伊香保や鬼怒川温泉、ちょっと遠くて箱根や熱海あたりが妥当なところだから、たぶん鬼怒川でまちがいないと思う。
だとすればとググってみたら、この橋は龍王峡にかかる虹見橋という橋に似ている。
しかし目を皿にしてにらむと、この橋とは異なる部分もいくつかある。
それじゃいったいどこなのだ。
頑丈そうな橋だから、おいそれと架けなおすことはなさそうだけど、昭和29年(1954)から現在までは64年も経過しており、そのあいだにはバブルの好景気もあった。
やっぱり架け替えられて、現在は存在しない橋と思ったほうがよさそう。
 
くだらないことに安堵しているようだけど、わたしは古い写真をながめて、いろいろ空想するのが好きなのである。

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もはや

どうしても因縁をつけ続けていたいなら、新聞のどこかに専用ページを作って、そこで永遠に取り上げればいいのに。
今朝のウチの新聞は、森友関連ニュースは1面、2面、3面、4面、5面、7面、12面、13面、30面、31面でやってますって索引つき。
それだけのページをもっとほかのニュースのために使ったら。
もはやまっとうな報道機関ではなく、カルト新聞だね。

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2018年6月 4日 (月)

SF的発想

今朝の新聞に「通行人、特殊眼鏡で識別」という見出し。
このメガネをかけて相手を見ると、たちどころに警察のデータベースと照合され、犯罪者なら即逮捕できるという優れものだそうだ。
インターネットの発達で、権力者が個人情報を掌握し、プライバシーもヘチマもないというおっそろしい管理社会が、もうついそこまで迫っているというのである。

現代は情報の価値が信じられないくらい重要になっているので、これを防ぐためにいろいろと対策を立てておくべきだというのが、記事の主旨らしいけど、科学の発達を止めるすべはないのだから、未来がいまよりずっと進んだ管理社会になっていることはまちがいがない。
これからの社会に生きるしかない若いモンは、さっさとあきらめて、そういう社会に順応しとくことだ。
おれはどうしてもプライバシーのない社会はいやだという人もいるかもしれない。
そういう時代遅れの人のために、わたしが代わって頭をしぼってみた。

シュアハウスならぬシュアバシーなんてのはどうだろう。
これはシュアとプライバシーを掛け合わせた造語だけど、つまり個人情報を共有するのだ。
わかりやすくいうと、ある日Aさんが、Bさんの仕事、住まい、家族、名前までそっくり借りて、Bさんの職場に行くのだ。
今日はシュアバシーしましたといえば職場も了解する。

Bさんの奥さんは美人だからと不埒な考えでいてもダメである。
こういうことはオンナの人も権利があるから、仕事を終えてBさんの家にもどってみたら、奥さんの代わりにべつのおばさんがいる可能性もあるわけだ。

それはともかく、1週間もそんなことをしたあと、今度はCさんのプライバシーを借りることにする。
もちろんこの間、BさんもCさんも他人のプライバシーを借用しているわけだ。
そんなふうにみんながみんな納得したうえでプライバシーを共有すれば、しまいには自分が誰なのかサッパリということになるけど、パソコンは大混乱で、管理社会があっけなく崩壊することはまちがいがない。
まるでSFだけど、そういう社会に生きるにはSF的発想が大切だ。

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2018年6月 3日 (日)

ドドメ・ジャム

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わたしの散歩みちのわきには、いまちょうどドドメが熟している。
ドドメというのは桑の実のことで、養蚕の盛んだったわたしの郷里では、子供のころからめずらしいものではなかった。
小学校の行き帰りによくつまんで食べたものだ。
中国のトルファンあたりでも、これの白い実を見たことがある。
白いから熟してないのかと思ったら、味は日本の完熟したものと同じだった。

散歩みちのドドメは、あまりつまんでいる人を見たことがない。
時期が異なるけど、散歩みちにはビワやヤマモモも実る。
個人の所有地ではないからだれがつまんでも苦情はないはずだけど、やはりそれを収穫しようという人間は見たことがない。
現代の日本では果物は八百屋で買うものと相場が決まっていて、そのへんにやたらになっているものは、お腹でもこわしたら大変という感覚かもしれない。

むなしく地におちるドドメを見ているうちに、これでジャムを作れないかと思いたった。
ドドメの形状はイチゴを小型にしたようなもので、イチゴのジャムならちまたにあふれているし、レシピを読んでも簡単そうである。
さいわいわたしのキッチンには、何年前に買ったのかも忘れてしまった砂糖がひと袋あるので、あれも消費したい。

そういうわけで、昨日は散歩のついでにドドメを摘んできた。
帰宅して水洗いをしたあと、適量の水と適量の砂糖(適量が多いのはレシピ通りの分量がそろわなかったのと、わたしのいいかげんな性格による)をぶちこんで煮立ててみた。
水と砂糖が多すぎて、ジャムほど粘着性のないものが出来上がった。
カレーを作るつもりでスープを作ったようなものだ。
少量の寒天か、かたくり粉でも加えればよかったかしら。

パンに塗れなければ、砂糖代わりにロシアンティーに入れればいいさと、今夜はこれから勇気を出して味わってみるつもり。
添付した画像が完成したドドメ・ジャムだけど、見たかぎりではあんまり気持ちいいもんじゃないね。

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2018年6月 2日 (土)

ドドメ

Img_2933

いまロシア人と飲んでいる。
いい気分なので、このままではブログ更新を休んでしまいそう。
本当は、今日はドドメ・ジャムを作るという記事を書くつもりだったのだ。
とりあえずその原料だけを載せておいいて、あとは明日の記事にしよう。

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2018年6月 1日 (金)

あっ

今日の新聞はと書くと、それだけで、ああまたウチの新聞をけなすんだなと思われてしまうこのブログ。
たまにはほめたいのは山々なんだけど、たとえば今日の見出しは「佐川氏ら38人全員不起訴」だって。
自分の思い通りにいかないと、ぶちぶちと負け惜しみをいうのがインテリの習性だから、今日の新聞は、なんと1面、2面、3面、4面、14面、34面、35面を使って、ぶちぶちのオンパードだ。
日本は韓国などとは異なる、れっきとした法治国家なんだから、裁判の結果について文句をいうのはやめてほしいやね。
それともなにか、ぶちぶちいえば新事実でも出てくるってのか。
この1年以上の歳月はなんだったのか。
モリカケ以外に使えばもっと有効に使えたはずの紙面を考えると、しみじみもったいないと思う。

問題の先が見えて、いちばんホッとしているのは、じつはウチの新聞かもしれない。
騒げば騒ぐほど、落ち目なのはウチの新聞と、それにしがみつく野党ばかりということがハッキリしたもので。
やめたいのにやめられないリベラル新聞の苦悩は、みんなが忖度してやらなければいけない。

そんなことよりも今日、あっと気がついたこと。
なんと今年はもう6月になるのに、まだいちども旅行に出かけてない。
去年の10月に青森に行って、それからもう7カ月だ。
旅行好き、しかもブログの副タイトルが「前期高齢者のヤケッパチ放浪記」である当方としては、看板にいつわりアリではないか。

どうしたらいいだろう。
と悩む必要はぜんぜんないんだけど、ぼちぼちどこかに出かけなきゃいけないかなと、罪の意識にさいなまされる今日このごろだ。
また沖縄にでも行こうかしら。

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