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2018年6月28日 (木)

映画と歴史

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「アメリカ アメリカ」という映画を観ていろいろ考えている。
この映画は移民や民族という、いまでも通じる普遍的、国際的、歴史的な問題を、客観的に描いているので、考えてもバチは当たらない。
むしろ、いまだからこそ考えたい。

国内の少数民族の反乱に手をやいたトルコ政府は、なにしろ第一次世界大戦よりまえ、まだ国連も国際連盟もなかったころだ。
めんどくさい、ひとり残らず片付けてしまえと、そこまで乱暴だったかどうかは知らないけど、いまでも問題になっているアルメニア人の大量虐殺をやってのけた。

こんな書き方をすると、トルコ人は残忍だということになってしまう。
しかしアルメニア人虐殺についてウィキペディアなんかを調べてみると、原因はそうとうに根深く、たどればたどるほど過去へさかのぼらざるを得なくなる。
さればこそ、知性と理性をかねそなえたエリア・カザン監督は、この映画を単純な勧善懲悪の映画にしなかったようだ。

映画のなかでトルコの将校が、アルメニア人の知り合いをつかまえて、われわれの銀行を焼き討ちしてただですむと思ったのかという場面がある。
これだけ観れば、虐殺の原因を作ったのはアルメニア人という見方もできる。
トルコ軍の襲撃やむなしを悟ったアルメニア人たちが、教会に集まって祈りを捧げるシーンもある。
このあと彼らは焼き討ちされて皆殺しにされるんだけど、アルメニア人はキリスト教徒であり、トルコ人はイスラム教徒だから、これは宗教紛争であったともいえる。
宗教紛争であるならば、十字軍を持ち出すまでもなく、ヨーロッパの歴史は焼き討ちだ虐殺だと、おびただしい血で塗りかためられている。
ジェノサイドということでトルコ人を責めるのも気のドクだし、アルメニア人も一方的に気のドクがられるわけでもない。
教会で皆殺しにされたアルメニア人たちは、同じアルメニア人過激派のために、トルコの憎しみを買うことになったわけだけど、この場合、いったいだれがだれを恨めばいいだろう。

映画の主人公であるカザン監督の祖父は、アルメニア人と同じ、トルコ国内の少数民族であるギリシア人だった。
映画のなかにトルコ人が、ギリシア人はおとなしいけど、アルメニア人はうるさいと発言するシーンがある。
トルコ人もおとなしく商売をしているギリシア人には手荒なマネをしなかったようだ。
この映画は事実に基づいているけど、カザン監督の祖父はやがて米国で成功し、家族をアメリカに呼び寄せる。
成功するまでに何年かかったか知らないけど、家族はトルコで虐殺されることもなく、それまでなんとか商売を続けていたわけだ。

わたしの書きようは奥歯にものがはさまったようなところがあるので、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、民族が異なっても、たいていの人は平和に暮らすことを望んでおり、それをひっかきまわすのは一部の過激な人間、問題をさらに拡大させるのは扇動にのりやすい人々ということだ。
最近の映画(ネット上の掲示板なども)は、シロクロのはっきりした単細胞的主張が多いので、「アメリカ アメリカ」を観てしみじみと考えてしまう。

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