ミッション
また古い映画だけど、1986年製の「ミッション」という映画を観た。
冒頭に十字架にしばりつけられた男が、イグアスの滝からまっさかさまに墜落するシーンがある。
これだけでも、録画したものを、ついブルーレイに焼いて保存しようかという気になるけど、最後まで観るとそんな気が失せる。
背景は素晴らしいのに映画はろくなもんではないというやつ。
こういうのは脚本がわるいのだろう。
わたしのブログでは映画をけなしてばかりいるようだけど、ほめたい映画がないんだから仕方がない。
とくにわたしはこだわるんだけど、物語のつじつまを合わせることは大切だ。
この映画では最初に、滝の上にある原住民の部落へ布教に行く宣教師が登場する。
険しい絶壁を命がけで登ってようやくたどりつくくらいだから、この部落はギアナ高地みたいに、容易にたどりつけない奥地にあるのだなと思ってしまう。
彼に続いて、改心した奴隷商人(ロバート・デ・ニーロ)も同じように絶壁をよじ登る。
改心のこころいきを、体を張って示そうというんだろう。
このへんは背景が雄大なイグアスの滝であるだけに、なかなかの迫力だ。
ところがこのあと、教会のエライさんである枢機卿が、事情説明のためにこの部落におもむくことになるんだけど、彼は年寄りで太っているという設定だ。
そんな人物が舟に乗って、いともかんたんに部落にたどりついてしまう。
こんなにかんたんに行けるなら宣教師やデ・ニーロは、なんで危険をおかして絶壁を登ったのか。
細かいことに拘泥していたのでは映画にならないというファンもいるかもしれないけど、これは拘泥しなくていいという問題じゃないね。
もうこれだけでこの映画がご都合主義のアホらしいものであることは確実だ。
奴隷商人だったデ・ニーロが、やすやすと原住民に受け入れられる設定も納得できない。
彼はこの部落の住人を狩って、奴隷として売り飛ばしていた張本人なのだから、ふつうならたちまち十字架にはりつけになって、滝から落っことされて当然だ。
つじつまが合わない、脚本がわるいというのはこういうことである。
わたしが脚本家なら、こんな設定にするゾ。
つまらぬいさかいから弟を殺してしまって苦しんでいたデ・ニーロは、街で虐待されていた奴隷の子供に遭遇し、後悔の念から改心してこの子供を救出する。
そんな事情があってこの子供と仲良くなった彼は、子供を生まれ故郷の部落まで送り届けることにするのである。
絶壁をよじ登り、命がけで子供を送り届けるのだから、さすがに部落の人間も彼を攻撃するようなことはしないだろう。
この子供が部落の長の息子であったということにしても許容の範囲だ。
これなら部落に居すわった彼を、原住民たちが仲間として受け入れてくれても不思議じゃない。
このていどの設定を付け加えるだけで、ちゃんとつじつまのあうものになるではないか。
いったいこんな馬鹿らしい脚本を書いたのはだれだ。
そう思って調べてみたら、これがなんと「アラビアのロレンス」を書いたロバート・ボルト。
監督がデヴィッド・リーンならちゃんとつじつまを合わせたに違いない。
背景が雄大な南米の密林だけに、ほかにもちょいと設定を変えれば、異色の傑作になったと思える部分があるのに残念だ。
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