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2018年8月

2018年8月31日 (金)

ニュールンベルグ裁判B

Nbe09

最近の日本では、障害者に対する過去の強制不妊手術が問題になっている。
その是非はともかくとして、障害者や薄弱者に対する迫害は、過去にどの国にもあった。
だからナチスの断種(去勢)法はわるくないと力説するのは、熱血弁護士のマクシミリアン・シェル。

最初に証言台に立った老教授、彼は大学でヤニングの教師をつとめた人だけど、ナチスによってドイツの司法制度が崩壊していくさまをたんたんと説明する。
自分はそれに危機感を感じて教職をしりぞいたと、この教授の説明はしごく良識的なものだ。
しかし熱血弁護士は、この教授がそれ以前に、みずからすすんでナチスに入党したではないかと詰め寄る。
当時のドイツ人ならだれでもそうするよりほかはなかったと教授は弁解するんだけど、ああ、そうなんですかと、弁護士は手持ちのメモをわざとらしく破って捨てる。
わたしのいいたいことはこれだけですを強調するしぐさのようである。
つまり裁判というものは、いかに裁判官に自説を印象づけられるかで決まってしまうものらしい。

みかねた軍人検事のリチャード・ウィドマークが、異議ありで割り込み、熱血弁護士と取っ組み合いに・・・・はならんけど、このへんのやりとりは早くも手に汗にぎる迫力だ。

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軍人検事は証人として、断種政策の犠牲者となったユダヤ人を法廷に呼ぶ。
このユダヤ人を演じたのが、ゲイじゃないかと噂された米国の人気俳優モンゴメリー・クリフトで、わたしの映画ライブラリーの中には、彼の出演作として「赤い河」、「地上より永遠に」、「荒馬と女」などがある。

ほんとにゲイだったのかどうか、ネットをいろいろ調べてみたけど、はっきりそうだと書いた記事はひとつも見つからなかった。
でもマッチョのロック・ハドソンでさえゲイだったのだから、わたし個人的にはモンティ(M・クリフトの愛称)もそうだったろうと思っている。
断種された被害者にゲイ役者を当てるというのは、適役といえなくもないではないか。

軍人検事が被害者を目のまえに置いてナチスの非道を訴えれば、熱血弁護士は被害者が精神的に不安定な薄弱児であることを暴露して、冒頭の、どこの国にも断種法はあったと反論するのである。
しかも彼がひきあいに出した法令は、アメリカの法学者が書いた文章だったから、軍人検事もたじたじだ。

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ここでは弁護士に追及されて、じょじょに自分の知恵遅れを露呈するモンティの演技が圧巻だ。
どことなく落ち着きがないものの、最初はまともに受けごたえしていたのが、弁護士の執拗な追及に耐えきれなくなって、顔をゆがめて絶叫するところは、キューブリックの「博士の異常な愛情」で、狂気を発するスターリング・ヘイドンの司令官と双璧だな。

この間、B・ランカスターふんする被告のエルンスト・ヤニングは、あいかわらずひとこともしゃべらない。
しかし拘置所にもどると、共闘しましょうとささやく他の被告に、きみに対等の口を聞かれるおぼえはないと一喝するから、その心情はあるていど理解できる。

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スペンサー・トレイシーの田舎判事は、裁判のあいまにコンサートに行ったり、そこで紹介されたドイツ人貴族の女性と食事をしたりする。
この女性役が、リリー・マルレーンの歌で知られるマリーネ・ディートリッヒだけど、彼女は現実にナチスを嫌って米国に亡命したドイツ人なのだ(残念ながらこの映画は、色気の介入する余地のないまじめな映画なので、彼女の百万ドルの脚線美は披露されない)。

彼女は田舎判事にいう。
わたしにはすべてのドイツ人が怪物ではないことを、アメリカ人に知らせる義務があります。
わたしの夫はドイツ軍の将軍でしたけど、ヒトラーを嫌っていました。
おかげで罪をこうむって、第三帝国の法律で粛清されました。
勝者による報復であったことはあきらかですと、目下ナチスの被告を裁いている最中の田舎判事にはぐさりとくるようなことをいう。

そして被告のヤニングについては、立派な人ですと支持をする。
ものごしは丁寧だけど、彼女もアメリカ人の判事に好感はもってないのである。
だから彼女の丁寧さはあくまで京都人のそれで、内心を隠したまま、冷ややかにコーヒーをそそぐのだ。

Nbe12

彼女だけではない。
映画に登場するドイツ人たちは、悪いことばかりじゃなかったと、微妙な言い方でナチスを擁護する。
あの時代は食べ物にも事欠いていました。
でもヒトラーのおかげで仕事が増えました、道路も整備されましたなどと。
こんなドイツ人の話ばかり聞いて、判事のほうもいくらか影響されないわけにはいかない。

そんなこんなで、映画の前半は熱血弁護士の優勢勝ちというところだけど、さて後半は。
というわけで、このブログネタはまだ続きます。

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今朝の新聞

今朝のウチの新聞のわりあい目立つところに、小池知事が朝鮮人犠牲者への追悼文見送りがケシカランという記事。
この朝鮮人というのは1923年の関東大震災の話だから、もうすぐ百年まえのことになる。
そんなむかしのことにいつまで追悼文を書いていたら気がすむのか。
わたしは毎度毎度、追悼文さえ書いてりゃ満足という、新聞の姿勢に反発を感じるものである。

こんなことを書くと集中攻撃をあびるかもしれないけど、考えてもみよ。
せいぜい7年まえの東北大震災のとき、外国人の虐殺などまったく起こらなかったし、むしろ中国人研修生を救おうとして、亡くなった日本人さえいたくらいだ。
わたしは日本人が過去に学んでいると思うし、朝鮮人虐殺もだれもが知っている常識だと思う。
それでもまわりの雰囲気に流される馬鹿者はいるかもしれないけど、そういう人間を教育するには、追悼文を書くこと以外にやることがあるはずだ。

もはや世界はグローバルの時代で、つぎの世代は百年まえの日本人より、はるかにフランクに外国人と付き合える時代に生きているのだ。
そういうことを認められないウチの新聞(朝日)はガチガチの保守で、うん、わたしぐらいリベラルな人間はいないね。

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2018年8月30日 (木)

ニュールンベルグ裁判A

ちょっとまえに、これからは映画の話題が増えるかもと書いたけど、さっそく映画の話題だ。
わたしのDVDライブラリーの中から引っぱり出したのは、スタンリー・クレイマー監督の「ニュールンベルグ裁判」。
1961年の映画なので、映画に出演した俳優はいまひとりも生存していない。
映画のタイトルでは “ニュールンベルグ” だけど、現代では “ニュルンベルク” のほうが一般的なので、はっきり映画のタイトルとして使う場合以外はそれでいくことにする。
評判は聞いていたけど、じっくり観るのは初めてだ。

第二次世界大戦が終了したあと、ドイツのニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を追及する裁判が行われた。
この映画では、戦争の直接の責任者ではなく、ナチスドイツの第三帝国で、法律を担当した責任者に対する裁判が描かれる。
つまり法が法を裁くわけで、堅っ苦しい映画になるという予感がありありだけど、よい映画というのはカタくてもヤワラカくても、たいていおもしろいものだから、悲観的になるのは早い。

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アメリカから裁判長を務めるために、スペンサー・トレイシー扮する判事が、まだ戦争の傷跡もいえないドイツ・ニュルンベルクにやってくる。
判事はメイン州の田舎出身という設定である。
自殺したヒトラーやヒムラーは別として、この時点でゲーリングやガルテンブルンナーら、戦争責任者の裁判は終了していたけど、法曹関係者の裁判については、彼以外にだれも裁判長を引き受けたがらなかったのだそうだ。

全体にがちがちの法廷劇であるけど、ほんのりユーモアの感じられるシーンも、ないわけじゃない。
田舎判事が街を散策しているとき、若い美人からなにかいわれ、ドイツ語のわからない彼が、なんていったんだろうとかたわらの人に尋ねると、“じゃあね、おじいちやん” だったことがわかり、残念ともなんともいえない表情をするところがおかしい。

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裁判は被告の罪状認否から始まる。
被告席にならぶのは、第三帝国時代のドイツ法曹界の重鎮が4人で、バート・ランカスター扮する、もと法務大臣だったエルンスト・ヤニングが最重要人物だ。
この映画は事実にもとづいているけど、ヤニング(ほかの登場人物もすべて)は映画のために創出された架空の人物である。
彼は第三帝国の法務大臣であったと同時に、ワイマール憲法を廃止して第三帝国憲法をつくった最高責任者だったから、いわばナチスの戦争犯罪に法的お墨付きを与えた人物といえる。
同じ立場の人間は現実にもいたのだろう。

ここでのB・ランカスターは、「ヴェラクルス」の粗暴なならず者ではなく、知性と重厚さをあわせ持った人物として描かれ、その存在感は圧倒的だ。
ヴィスコンティの「山猫」がこの2年後だから、ニュルンベルクの演技がシチリア貴族につながったのはまちがいがない(とわたしは思う)。

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そしてヤニングの責任を追及する、米軍軍属の検事リチャード・ウィドマークと、ヤニングの弁護を担当する、熱血のドイツ人弁護士マクシミリアン・シェル。

話が脱線するけど、熱血弁護士を演じるM・シェルを観て、なにかの映画でわりあいひんぱんに見たことのある役者だなと思った。
ところがググッてみると、彼の出演した映画で、わたしが観たことのあるのは 「トプカピ」、「遠すぎた橋」、「ジュリア」ぐらいしかなかった。
これは彼が「俺たちに明日はない」のウォーレン・ベイティに似ているので、わたしがカン違いをして、ふたりをごちゃまぜにしていたせいだった。
ちなみにシェルは「ニュールンベルグ裁判」で、1961年のアカデミー主演男優賞を受賞している。

この軍人検事と熱血弁護士が、被告の法的責任をめぐって丁々発止の論戦をくりひろげるんだけど、被告であるヤニングだけは、なぜか最初から黙して語らず、熱血弁護士にすべてを一任したようにみえる。
法律の専門家である彼は、自分の裁判を他人がどう裁くか、客観的に見極めようとしている設定かもしれない。

映画の前半は、第三帝国に存在した断種(去勢)法という非人道的な刑罰に、後半では、あるユダヤ人を抹殺するためにでっち上げられた事件に、ヤニングが関わったかどうかが問われる。
断種法の裁判には米国の人気俳優だったモンゴメリー・クリフトが、でっちあげ事件の裁判にはミュージカル・スターのジュディ・ガーランドが、そして法廷の外の重要人物としてドイツ人の女優マリーネ・ディートリッヒが出演している。

はじめから終わりまで論争ばかりのおカタい法廷劇だけど、息抜きのようにところどころに休廷中の場面がはさまり、当時のドイツの置かれていた状況が、市民の口を借りたりして語られる。
たとえば田舎判事は、ニュルンベルク滞在中に身のまわりの世話をしてくれるドイツ人夫婦に、この近くのバッハウを知っているかいとさりげなく尋ねるんだけど、彼らは知りませんと口ごもる。
バッハウは強制収容所があったところで、ユダヤ人の大量虐殺が行われたところだから、ふつうのドイツ人なら知っていても話したがらない場所だ。

こんな具合に、あちらこちらで終戦時のドイツ人の心境が描かれるけど、当時のドイツ人なら当然そうするだろうということばかりだ。
ストーリーをわかりやすくするための作為や、これっておかしいんじゃないのと矛盾を指摘できる部分がひとつもない。
だいたいわたしは、趣味があら探しというヒトのわるい男だけど、そんな人間からみても、見つかるアラがひとつもないのである。
この映画はまず脚本がすばらしい。

前置きが長くなったので、このブログネタはひとまずここまでにして、次回でまず断種法をめぐるやりとりに話をしぼってみよう。

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2018年8月29日 (水)

今日の夕刊

夕刊を読んだら、またトランプネタ。
トランプさんが安倍首相に、わたしは真珠湾を忘れてないといったそうだ。
なんてまあ、大時代的な。
アメリカでは日本と米国が戦争をしたことさえ知らない若者が増えているというのに。
て、どっちが勝ったんですかと聞かれて、高校の先生が絶句したということは、このブログにも書いたことがあったっけね。

とにかくトランプさんのいうことは、人気取りのためにとうとうと溢れ出す妄言と思ったほうがいい。
これを勘違いしたのが北朝鮮だ。
中間選挙をひかえたトランプなら脅しが効くだろうと、アメリカが約束を守らないなら、核兵器廃絶もやらんとかましたら、そんならポンペオを北にやるのも止めだ、止めだと、もうとりつくシマもない。
こういう相手とまともな交渉ができると思ったのが、北朝鮮の悲劇である。

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欠ける

なんかブログのネタがないかと新聞をながめたら、青森ねぶたで駐車場が1時間5千円とあった。
おお、これはいいネタになりそうと思ったものの、その先の記事を考えるのがおっくうで、本日のブログは中身のないパッケージだけで終わり。
暑さも一段落だけど、最近は栄養のあるものを食べてないから、どうもなんかやろうという意欲に欠ける。

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2018年8月28日 (火)

シルク・ドゥラ・シンフォニー

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「シルク・ドゥ・ソレイユ」というものがある。
いま日本でも公演しているけど、これは世界的に有名なサーカス団のことだ。

昨日は、なにげなくテレビ欄を見ていたら、「シルク・ドゥラ・シンフォニー」という文字が目についた。
文字づらからどうしても上記のサーカスを連想してしまう。
それで予約録画してみたら、これはサーカスとクラシックの演奏会が合体したもので、チャイコフスキーやオッヘンバックの名曲にあわせて、曲芸や奇術などを披露するものだった(日本公演は終了)。
なかなかユニークで楽しい番組だったけど、ひとつ問題があるな。

火曜日の早朝の5時からだなんて、え、そんな時間にテレビを観ている人間がいんのか。
それともこれって、以前はもっとまともな時間に放映したものの再放送だったのかしら。
知らないのはわたしだけだったのかしら。

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2018年8月27日 (月)

最近の傾向

これからはこのブログに、いままで以上に映画の話題が増えるかも。
なぜかというと、わたしは映画が好きで、気になる映画がテレビで放映されると、そのたび録画してDVD(最近はブルーレイ)に焼いてきた。
それがもう20年以上も続いているもんだから、アナログ時代のものまで含めれば、溜まったディスクが800枚ほど。
映画というものは1本観るのに、ふつうは1時間半から2時間ぐらいかかる。
毎日そんなものを観ていられるほど、わたしはヒマ人じゃないから、どうしてもほかの用事をしながら片手間に観ることになる。
するとさっぱり意味もストーリーもわからない。

わたしの部屋のディスクは、ほとんどが観る人もおらず、むなしくホコリにまみれていくのだ。
それじゃあいったいなんのためにそんなものを集めたのか。
という質問はごもっともだけど、そこにある本をすべて読んだ人がいなくても、本があるだけで図書館というものは価値があるのといっしょ。
映画好きにとって集めたディスクは一種のデータベースで、あの映画のあの場面、この映画のこのシーンを、いつでも観られるというのはとてもタノシイことなのだ。
そんならレンタルビデオ屋に行けばいいって?
メンドくさいでしょ。
しかも他人のものだと思うと、ぜんぜんタノシクないの。

若いころのわたしは山登りや旅行も好きで、しょっちゅうあちこちに出かけていたけど、最近はよる年波で、足がへなへな、旅行へ出かけるほどの気力もなくなってきた。
それで、部屋にひきこもってできるヒマつぶしということで、これからは溜まった映画を少しづつ鑑賞することにした。
自然に溜まったものだから、これならあらたな投資が必要なわけでもなく、ブログに映画の感想でも書いてりゃ、独居老人の無聊をなぐさめるのにこんな役立つものはない。
映画の話題が増えるかもというのはこういうことだ。
どっちかというと昭和の名画みたいなのが多いから、こんなものでブログのアクセスが増えるとは思っていませんけどね。

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2018年8月26日 (日)

晴れた疑問

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以前、チェンマイに行ったとき、タイのホテルで、トイレに意味のわからないホースとシャワー口がついているのを見たことがある。
写真がそれだけど、これはこれで具合がいいから、深く考えずにそのままになっていた。

ところが今日、ネット掲示板の「カイカイ反応通信」を読んでいたら、このホースの使用目的がわかった。
インドネシアでも標準になっているそうだけど、あちらではウンコをしても紙を使わず、水と手(左手)で後始末をする人が多いのだそうだ。
インドあたりの流儀ということも聞いたことがあるけど、紙を使うのが当然とこころえる日本人には想像もできないことである。

でも自分が食べたもの残骸でしょ。
汚いと考えるほうが異常で、水と手でぬぐうほうが清潔かもしれない。
痔にもなりにくいかもしれないし。
いずれにしても、長生きをしていると、ある日とつぜん長らくの疑問が晴れることもあるわけだ。
べつに晴れなくても困るようなことじゃないけど。

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人間の運命の2

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前項で戦犯として処刑されたふたりの憲兵について触れた。
彼らについて調べたとき、やはり処刑されたほかの戦犯についても知ったけど、そんな中に南京で百人斬りの競争をしたってことで、終戦後に死刑になった3人の軍人がいた。
これは日中戦争で南京が陥落する直前のころ、日本の軍人が日本刀で中国人を何人殺せるか競争をしたという、当時の東京日日新聞の記事にもとづいている。
そもそもはマスコミがでっち上げた事件らしいけど、これが南京虐殺の有力な証拠とされたこともあって、いまでも虐殺を否定する派と肯定する派で論争になっているようだ。

いくら達人でも日本刀で百人は斬れないというのが否定派の主張で、わたしもそう思うけど、真偽のほどはともかく、そんな新聞記事で有名になったのが当人たちの不運だった。
じっさいに斬ったのはせいぜい3、4人だと言い張っても、だから死刑を免れるってわけにはいかなかっただろう。
ぜんぜん身に覚えがないなら、新聞に載った時点で抗議をするべきだけど、そのころはまだ日本が負けるなんてだれも思ってなかったから、彼らは英雄きどりでいたかもしれない。
そんな報道をおもしろがって読んでいた国民にも問題がある。

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前項で書いたふたりの憲兵が、軍服を着たまま銃殺されたのに比べ、百人斬りのほうは民間人の服装のまま処刑されている。
処刑まえに3人がタバコを吸っている写真を見ると、なにいっても無駄だったなあ、さっさと殺されようぜと、たんたんとしているようにみえる。
これも人間の運命だ。
あの戦争で死んだ何百万もの人間のことを考えれば、70年もあとのわたしたちが、真実はどっちだなんてごちゃごちゃいっても仕方がない。
こういうことを教訓にして、というのは簡単だけど、わたしたちの運命がどこで、なにが原因で狂うか、わかる人間などいやしないのだ。

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2018年8月25日 (土)

人間の運命

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ずっとむかしのことだけど、わたしが見た大戦中のドキュメンタリー映像の中に、戦犯としてトラックで処刑場に運ばれるふたりの日本軍兵士のものがあった。
大勢の中国人の怒声の中を、ふたりが胸をはって毅然とした態度でいるのが印象的だった。

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その後、このふたりのことは忘れていたけど、つい最近になって彼らの名前がわかった。
このふたりは中国侵略の責任をとらされて、上海の軍事裁判所で死刑の判決をいいわたされた米村春喜憲兵隊長と、下田次郎憲兵軍曹である。
風貌が性格をあらわすものなら、このふたりは現代の日本の政治家なんぞよりは、よっぽど職務に厳格で気骨ある人間に見える。

ところで憲兵隊というのはなにをするところなのか。
これは軍隊内部の警察の役割を担うもので、戦争を立案したり、その遂行に責任を持つものではなく、情報収集、要人警護、敵対する抗日分子を取り締まったり、兵士の規律の乱れを正したりするのが本来の仕事だ。
彼らはほんとうに死刑に値する犯罪行為をしたのだろうか。
もちろん憲兵隊が止めなかったから、南京虐殺のようなことが起こったという理屈も成り立つけど、彼らは、たとえば南京でも最前線にいたわけではない。
虐殺があったとしても、ふたりがそれを止められる場所にいたとは思えないのである。

わたしは知らないんだけど、憲兵という職務は、戦犯の裁判をするさい、罪の軽重にどのくらい影響したのだろうか。
戦犯のなかに憲兵の割合はどのくらいあったのだろう。
戦争を指導した軍人や政治家はさておいて、もっと末端で女性をレイプしたとか、なぐさみで一般市民を虐殺した兵士もたしかにいただろうけど、そんなひとりひとりの兵士の罪まで問うていたらきりがない。
しかし、あれだけの戦争を引き起こしたのだから、だれかがスケイブゴートにならなければ収まらない。
ふたりはそのために選ばれたということはなかったのだろうか。

この先はわたしの想像だけど、裁判でいくら抗弁したって、けっきょくだれかが死ななければ収まらないなら、日本を代表して責任をとろうと、ふたりは覚悟を決めたのではないか。
日本の軍人として、大勢の中国民衆のまえで、みっともない態度だけは見せないようにしよう。
これがふたりの毅然とした態度にあらわれているように思う。

Sen02

もういちどふたりの風貌をながめてみよう。
米村憲兵隊長のほうが年上で、すでに相応に人生の山河を越えてきて、まあ仕方がないな、責任をとりましょというゆとりが感じられるのに対し、下田軍曹のほうはまだ若く、死を覚悟するまえにいろいろかっとうがあったんじゃないかと想像できる。
こんな対照的なふたりに加え、時代背景や家族のこと、ふたりを処刑するにしのびないと苦悶する中国側の将校や、ずるがしこくたちまわった他の戦犯などをからませれば、いい小説や映画のネタになるのに、まだだれもやってないなんて。

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2018年8月24日 (金)

無気力

昨日はひさしぶりに散歩に行ったけど、家を出るときはそんなことはないだろうと思ったのに、とちゅうで雨に遭ってほうほうの体でもどってきた。
雨の日はどうやって過ごせばいいだろう。
世間と交りの減っている当方としては、やらなければいけない用事もあまりないし、録画した映画を観るなんてのもひとつの方法だ。
つまらないブログをひねるという方法もある。
いずれもあまり金はかからないから、独居老人にはふさわしいヒマつぶしだ。

それに加えて、あらたに思いついたのが、このブログを読み返すってやつ。
なにしろ開始してから10年以上たつブログだから、量もハンパじゃない。
ずっとむかしの記事を読み返して、あははと笑っているところなど、書いたのがわたし自身だと思えば、その気持ちわるさもハンパじゃない。

書いたり校正したりをひとりでやっているものだから、そうやって過去ログを読み返していると、あちこちで過ちや誤植も見つかる。
そういうものをぽつりぽつりと訂正する。
何年もまえの記事を訂正したって、気がつかない人がほとんどだろうけど、ホント、いいヒマつぶしになってるんですよ。

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2018年8月23日 (木)

ホンドー

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また映画の話題で、先日テレビ放映された「ホンドー」という西部劇。
主演がジョン・ウェインだけど、あまり聞いたことのない映画だから、念のため録画してみた。
でもなんとなくいやな予感。
彼の映画で傑作と呼べるのは「駅馬車」や「赤い河」、「リオ・ブラボー」、「騎兵隊」あたりで、それ以降となるとマンネリという言葉がぴったりの作品が多い。
だからわたしは、ひとりの俳優の生涯のうちに、西部劇の隆盛から衰退までを体現した役者と、皮肉をこめて彼のことを呼ぶ。

ただ録画した映画の冒頭部分を観てみたら、アパッチの酋長がなかなかものわかりのいい人物として描かれていた。
これはひょっとすると、白人至上主義ではなく、アメリカ・インディアンを公平な見方で描いた映画かと思い、調べてみたら製作されたのは1953年になっていた。
ジョン・フォードがインディアンを、あまりに悪役として描きすぎたと反省の意味をこめて、「シャイアン」を作ったのは1964年だから、「ホンドー」の時代には、まだインディアンを被害者とするムーヴメントは起きてなかったと思う。

案の定、観ているうちにボロが出て、内容は通俗すぎて鼻持ちならないものになった。
アパッチは頼りない連中ばかりで、ものわかりのいい酋長、ものわかりのよくない後継ぎの酋長、獰猛なはずの飼い犬、これらはみんなあっけなく死んでしまう。
テレビ番組の「ガンスモーク」に出ていたジェームス・アーネスが、こすっからい白人の仇役で出ていたけど、彼もなにもしないうちに終わっちゃうし。
けっきょくジョン・ウェイン映画によくあるような、白人以外はその他大勢というレイシスト映画だった。

わたしがこの映画を録画しようと思った理由はもうひとつあって、このブログで「渇いた太陽」という映画について書いたとき、観ているだけでタノシイ年増女優と評価した、ジェラルディン・ペイジという女優さんがヒロインだったこと。
あのときの女優が、今度はどんな顔をして西部劇に出てくるのかと興味があったんだけど(じっさいにはこっちの映画のほうが古い)、彼女の役割も荒野で家庭を守るしっかり者の主婦という、よくあるパターンだった。
ウェインとのラブシーンも野暮ったいし、わたしの好きな女優さんだけど、この映画については残念な結果。

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2018年8月22日 (水)

高校野球

高校野球がやっと終わった。
それにぜんぜん関心のない当方としてはどうでもいことだけど、今期の大会で金足農高の投手が投げた球数が881球だそうだ。
外国でもあきれられていたけど、これでは甲子園残酷物語だ。
いま世間でスポーツの不祥事が相次いでいるのは、こういう勝つために無理を承知でという意識に原因があるのではないか。
アメリカなんか選手の人権がよく守られているから、ダルビッシュでも大谷でも、ちょっと肩がイタイといったら、すぐ故障者入りだ。
大新聞の意向を怖れて、著名なスポーツ評論家でさえ口をつぐんでいるけど、選手の投球数をなぜ制限しないのだろう。

いまの甲子園では、監督はみずからのクビがかっている試合で、選手の体調を気遣っている余裕がない。
なにがなんでも勝たにゃいかんというのがチームに課せられた使命では、また太平洋戦争末期のような精神論が出てくるのではないかと心配だ。
長く続いたものはかならず腐敗するのが現代の日本だから、こういうときこそ、リベラル新聞が是正を求めなければいけないのに、ウチの新聞がゼッタイにそんなことをするはずがない。
今日の新聞の1面トップが高校野球なのを見てもわかるように、高校野球は落ち目の朝日新聞のドル箱だし、いまや日本中が地域ナショナリズムに熱狂する国民あげての恒例行事なのだ。
理性を保っているのはわたしのブログだけで、それは当然のごとく、世間の慣習というポピュリズムに粉砕されるのである。

この記事を書いた後でヤフーニュースをのぞいたら、桑田真澄さんを始めとして、これを問題視する関係者は多いようである。
肝心の朝日新聞のスタンスがわからないけど、来期あたりから制限がかかることになるかもで、これはまあいいことだ。

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2018年8月21日 (火)

また「モア」

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家のブルーレイ録画機がイカれた。
わたしにとって情報収集のために必要不可欠の機械なので、すぐさま新しいものを購入した。
値段は4万円くらいだから、そんなに高級品でもないけど、こういう機械も安くなったなあ(同時に小さくなった)と思う。
むかしならテレビの録画機がこんな値段で買えたはずがないと、VHSから8ミリビデオ、DVDまでの流れを知ってるおじさんは、しみじみ感慨にふけってしまう。

このあいだまで使っていたBD録画機は、むかしDVDで保存した映像を観ようとすると、縦横比が変わってしまうという欠点があった。
新しい機械ではどうかという実験のために、たまたま引っ張り出したDVDが、古い映画で「モア」。
最近の若者にはわからんと思うけど、ピンク・フロイドが音楽を担当したアレである。

今回の録画機では縦横比も調整できるので、その点は文句がなかった。
DVDだからもちろん画像はBDより粗いけど、ちゃんとしたサイズで観られるというだけで、映画好きにはありがたいのである。

前置きが長くなったけど、ついしみじみと最後まで観てしまった「モア」。
この映画については、以前にもこのブログに書いたことがある。
とくべつに素晴らしいわけじゃないけど、青春の思い出を回顧させてくれる映画、というのがわたしの感想だった。
劇場で初めて観たのが、わたしが20代のころで、いまのわたしはそろそろ棺桶に片足つっこむ歳だ。
なつかしい気持ちはいよいよつのる。

映画は、まじめな青年が麻薬におぼれて破滅するまでを描いたもので、彼に麻薬を指導するヒッピー娘が、すっぽんぽんをいとわないミムジー・ファーマー。
ヒロインを観てるだけで退屈しない映画もあると書いたことがあるけど、これもそのひとつだ。
マリファナやLSDに興味はあるけど、じっさいに体験する勇気のないわたしみたいなヒッピーかぶれには、代わって体験してくれるような映画だった。

映画の主舞台はスペインに近い、地中海にあるイビザ島というところ。
風光が明媚で、自由な雰囲気と独特の民族音楽などで、当時からヒッピーたちのたまり場として有名だったところだそうだ。
行ってみたいなと思ったけど、若いころのわたしには金がなく、行けるほど金ができたころは、もうヒッピーやってる歳じゃなかったし。

ネット上の映画評のなかには、だらだらしていてつまらないというものもあったけど、わたしはあらためて観て、それが最近のアップテンポでせせこましい映画に比べたら、かえってちょっとした文学作品にあたったみたいで、好ましいと思えるようになった。
同じ映画でもそれを観る人の重ねた年月が、評価をプラスにさせてくれることがあるものだ(逆のほうが多いんだけどね)。

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2018年8月20日 (月)

終末

だいぶ目がショボショボしてきた。
べつに体はどこもわるくないのに、足もへなへなになってきた。
いまが人生最高と思えるくらい気楽に生きているけど、ときどき終末について考える。
わたしがもっとべつの、少しはまともな人生を選んだとしても、いまぐらいの年齢になれば、きっと考えていただろう。

わたしに子供がいれば、わたしは子供に頼って、幸福な終末を迎えることができただろうか。

そりゃ無理だ。
そんな幸せな老人が、世間にいったいどれだけいるって。
寝たきりになって、家族の全員から、はやく死んでほしいと望まれるのがせいぜい。
行く手に巨大な滝壺が待ち構えていることを知っていながら、流れに身をまかせているほうが気持ちいいので、みんな必死で見ないふりをしているのだ。

夏休みが終わると、そして秋の気配を感じると、ロクなことを考えない。
これがわたしの子供のころからの傾向。

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2018年8月19日 (日)

おふざけ

今朝の新聞に作家の椎名誠さんが書いていたけど、彼は漁師の使う浮き玉をボールとして利用した、三角ベースの野球大会を主催しているんだそうだ。
もちろんお遊びだから、ルールも厳格なものではなく、メンバー7人のうち2人は女性にかぎるとか、ピッチャーは女性、移籍はビール3ケースでOKだとか、ふざけた内容がいっぱいらしい。
こういう姿勢は、ユーモアを愛するわたしの信念とも通じるよな。

じつはわたしも、会員がせいぜい10人ていどの、パソコン同好会ってところの会員なんだけど、それは独立したものではなく、とある団体の下部組織に属している。
とはいえ、だれにも束縛されることはなく、イヤになったらいつでも解散できるていどの無責任なものだ。

会が発足してしばらくすると、ここに本格的で、まじめな会規約を持ち込もうというメンバーがあらわれた。
これはお遊びみたいなもんだよ。
そんなにおカタくやってどうしようってのさと、規約はわたしが考えることにした。
わたしが考えるとどうなるか。

会長は年にいちどの総会で、まわりから推挙された者が、つべこべいわずに引き受けることとか、会員は組織員にかぎります、ただし会員の家族も女性にかぎり認めることにします、脱会は本人の音信が3カ月以上途絶えた場合は無届けでもOKとか、ユーモアというよりふざけているというほうがピッタリ。

これを発表すると、みんな目が点になっちゃって、しばし無言。
あまりにもふざけすぎということで、この規約が陽の目を見ることはとうとうなかった。
でもわたしは後悔していない。
わたしのブログも椎名誠スタイルだし、たまたま会のメンバーに、そんなユーモアを解する人間がいなかっただけだろうから。

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がっかり

なんだ、心配していたとおりだったな。
アジア大会のイラン女子。
開幕から閉会式みたいにくだけた雰囲気で。
行進しながらスマホで自撮りしている選手までいる始末。
以前見たイラン選手の美しさは、あれは夢かまぼろしだったのか。
やっぱりなんだな。
それがいいとはいわないけど、入場行進ぐらいはナチスか北朝鮮式に、一糸乱れぬ方式でやってもらわないと。
それでも、やはりというかなんというか、美女はヒジャブをかぶった中東系に多かった。

アジア大会はあっても、ヨーロッパ大会、アメリカ大会、アフリカ大会はない。
世界をひっかきまわしているイスラム教徒とも、呉越同舟で行進ができるなんて、今世紀はアジアの時代だという感をしみじみ。
これからどんなガラガラポンになるのか知らんけど。

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2018年8月18日 (土)

アジア大会

Irang

さあ、いよいよ今夜ですよ。
なにがって?
4年にいちどの美の祭典、アジア競技大会が始まるのだ。
いやいや、誤植やカン違いじゃない。
わたしにとって競技はどうでもよくって、ひさしぶりにお揃いのユニフォームを着たイランの女性選手を鑑賞できる機会なのだ。

わたしがはじめてイランの女性選手の美しさを知ったのが、中国広州で開かれたアジア大会だった。
ヒジャブという頭巾で髪を隠し、けっしてスカートなんてやぼなものを身につけてないくせに、彼女たちの美しさはきわ立っていた。
オリンピックだとほかにも美女が参加する可能性があるけど、アジア大会では、とくに極東アジアあたりには狆くしゃタイプが多いから、国威発揚というわけで、ここぞとばかりに選りすぐりの美女ばかり集めてくるのかもしれない。

イラン人というと、日本人はついアラブ人と同一視してしまうけど(わたしも最近までそう思っていた)、彼らは誇り高きペルシアの末裔である。
ペルシアの末裔だとなんで美人なのか。
あのへんはヨーロッパ系、アフリカ系、アジア系など、いろんな民族が興亡をくりかえしてきたところだから、ハーフは美人が多いということの証明なのかもしれない。

ひとつ心配なのは、中国や日本には融通の利かないカタブツが多くて、入場行進でもナチスの行進のように厳格な規律を守らせようとする。
それがかえってイラン女子の美しさをきわだたせたということもあったのに、今回はルーズなことで知られるインドネシアが舞台だ。
どのくらいルーズかというと、カリマンタンに行ったわたしの荷物が、翌日まで届かなかったくらいだ。
入場行進からして閉会式みたいにだらしないものだったら、イラン女子の美しさもおおいにスポイルされてしまいそう。

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2018年8月17日 (金)

今朝の新聞

今朝の新聞の社会面に「戦後5年、また赤紙」というでっかい活字。
一読してまた憂鬱になる記事だ。
内容が暗いというのではなく、こんなものを載せたというウチの新聞の姿勢に。

新聞の書きようをみると、朝鮮戦争のおかげでまた強制的な徴兵が復活し、無理やり危険な仕事に従事させられたとか、日本は戦争特需で大儲けしたとか、朝鮮戦争当時のことを知らない若者がこれを読んだら、誤解しかねないことばかりではないか。
一歩ゆずって朝日新聞が、日本にとって都合のいいことばかり書くわけにはいかないのだと主張したとしよう。
しかし公平を期すならば、内容もだれがみても公平でなければいけないはずである。
これでは読んでムカついて、微力ではあるけど、またわたしがひと肌脱がなければならないではないか。

じつはわたしの父親も、戦後の一時期、アメリカの進駐軍で働いたことがある。
幼少のころのわたしは、米軍キャンプ内の祭りに連れていってもらって、生まれて初めてホットドックを食べた思い出を持っている。
日本国内がなべて不景気だったその当時、米軍の仕事は割がいいので有名だった。

さて朝鮮戦争の勃発だ。
韓国を支援する立場の米軍が、日本で後方支援の兵士を募集したとしよう。
危険はあるかもしれなけど、給料はいい。
新聞には、当時の米軍の意向には逆らえないと書いてあるけど、けっして戦中の赤紙のように強制ではなかったはずだ。
うーんとここが悩みどころなのは、慰安婦と立場が似ている。
なに、後方支援なんだし、給料がいいなら働こうという人が8千人ぐらい(新聞によると)応募したって不思議じゃない。
慰安婦だって、ものの本によっては何万人も応募したってことじゃないか。

海上保安庁の職員のなかには、機雷掃海に駆り出され、じっさいに死亡した者もいた。
お上の禄を食んでいながら命令にさからうことはできなかっただろうから、これは運のわるいほうの事例。
警察だとか消防だとか、殉職の危険のある職業は現代でもあり得るのだ。
イヤなら辞めるか、少々の危険は覚悟の上で勤め続けるか、就職難の当時では、やっぱりうーんだな。

米軍の病院に派遣された看護師もいたそうだけど、この病院は日本国内にあったものだから、危険なことはひとつもなかったはず。
彼女はけが人の中に日本人もいたといってるけど、新聞で数に触れてないところをみると、それが大勢だったかどうかは疑問である。
日本人のけが人というのは、おそらくいい給料のほうを優先して災難にあった人なのだろう。

朝鮮戦争は日本がひきおこした戦争ではない。
その戦争特需が戦後復興に役立ったことは事実だけど、かりにそんなものがなくても、勤勉で、知識や技術の蓄積があった日本が、いつかアジアの盟主になったことはまちがいない。
同じような境遇にあったドイツを見ればよい。
だから朝鮮や韓国の人たちが、日本はオレたちのおかげで復興したというのは、とんでもないいいがかりである。

とまあ、このくらいのことは、今朝の新聞の補足としてつけ加えておかないと片手落ちだ。
歴史を語るのはいいけど、自分たちの都合にあわせた捏造はいけませんですよ。

ところでいま朝の9時、エアコンなしで窓を開け放していて、ぜんぜん暑くない。
今年の猛暑は終わったのか。

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2018年8月16日 (木)

ロシア美人

Russia

ロシア美人を見るのが好きで、契約の解除もせずに放ってあるものだから、いまでもときどき結婚相手を紹介しますってメールが来る。
来るものは拒まずのくせに、こっちから返事を出したことがないもんで、相手もあせって、とうとう本命の隠し玉の登場だ。
トランプさんの娘みたいなこの美人、身長体重は169センチの46キロ、独身で大学卒で、トシが30歳、いまだ子供なしで、国外移住希望だって。

わたしが資産家だったらすぐに返事を出すところだ。
相手の希望は61歳までの男性ということだけど、このさい資産にものいわせて、多少の年齢差なんか押し切ってしまうのだ。
紀州のドンファンを見よ(もっとも彼は毒殺されちゃったらしいけど)。

本命の隠し玉をくり出したにもかかわらず、わたしがぜんぜんその気にならないので、ヤケになって同じメールを3つも続けて寄こした。
こんな美人のくせに、そんなに熱心に相手を欲しがるなんて、なにか問題があるにちがいない。
最近話題になっているトランスジェンダーで、股間にまだタマタマがついていたらどうしよう。

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2018年8月15日 (水)

正直者が

ネットニュースに、終戦時に自決しそこなって、そのことを73年間も悔いて生きてきたという老人の記事。
多いんだよね、この時期にはこういう記事が。

なんでもこの人は知り合いの将校から自決に誘われ、いちどは了承したものの、いざ決行の段になっておじけづき、けっきょく知り合いだけを死なせて生き延びたんだそうだ。
それを平成30年の今日まで悩んできたという。
終戦のときに20だとしたって、もう90以上の人だよ。
さんざん人生に揉まれてきて、酸いも甘いも噛み分けたはずの人なのに、いまだにそんなことで悩む人がいるかしら。

わたしは断じるけど、彼が悩む必要はこれっぽっちもない!
記事を読んだかぎりでは、国体に忠誠を誓っただけで、べつに戦犯として追求されるような軍人でもなかったようだし、若気のいたりではげしく燃焼しちゃった人なんだろう。
自決した将校には気のドクだけど、特攻隊を送り出す立場であったにもかかわらず、のうのうと生き延びた人間もたくさんいるのだ。
正直者がバカをみる。
わたしがつぎの戦争に参加したら(もうあり得ないけど)、自分だけは死んでたまるかということだけに命をかけるワ。

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今朝の社説

終戦の日であるから、なにか書かなくちゃいけない。
それで無理を承知でムリやり書いたのが、今日のウチの新聞の社説。
よく読むとあちこちに破綻した部分があって、中学生の国語のテキストに使えそう。
おかしな部分を指摘しなさいって。

まず冒頭に、戦後73年をへてなお、日本はアジアでの和解をなしとげていないという文章がある。
これ、おかしい。
和解がなしとげられていない国があるとすれば、例のふたつの国だけで、ほかの大半の国とはもうとっくになしとげられているではないか。
日本の自衛隊が寄港すると、フィリピンや台湾、ベトナムなんか日の丸を振って大歓迎だ。

未来志向の関係を築くために積極的に貢献することも必要だろう。
これもおかしい。
この文章のほかのところに、いまやアジアから日本を訪れる観光客は年間2400万人、研究者や留学生の交流も拡大してきたとある。
これでも日本は積極的に貢献していないだろうか。
中国なんか、訪日して日本の良さに気がつく一般大衆が、どんどん増えている状態ではないか。

日本と中国の関係に警鐘を鳴らしたといって、作家の堀田善衛の文章がひきあいに出されているけど、これもおかしい。
作家がこれを書いたのは1959年である。
わたしがまだ小学生のころでなんてことはどうでもいいけど、その後の日中和解、ソ連の崩壊、冷戦構造のうつろいなど、歴史は目まぐるしく変化してきた。
堀田善衛をけなすわけじゃないけど、最新の現代を論じるのに彼を引っ張り出すのはおかしいではないか。

韓国の人々には、分断がなんで日本ではなく自分たちなのかという疑問があるとも。
原因は日本の植民地主義にあると考えているそうだけど、これもおかしい。
戦後になってさえ、韓国では自国を2分するような血まみれの内乱が起きたし、国内の左右の対立はいまでも続いている。
彼らにもっと協調する気持ちと、強者にひれふさない伝統があれば、日米と協力して、武力を使わずに正恩クンを干しあげ、とっくに南北の統一もなしとげられていただろう。

だいたいこの社説は、もっと建設的な役割をといいながら、いっぽうで日本はアジアの発展と平和のために貢献してきたとか、日本はすでにTPPを維持する実績をつくったなどと、矛盾したことをいっている。
これ以上いったいなにを望むのか。
社説に書いてある注文は、とっくに日本政府が実践していることばかりではないか。
なんでもいいからでっち上げろなんてムチャをいうから、こういう大新聞らしからぬ社説になるのだ。
国語と歴史を同時に学べるということで、中学の教材には適切だけど。

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2018年8月14日 (火)

今朝の新聞

今朝のウチの新聞の社説に、「都市爆撃の貴重なあかし」という文章がある。
なんでも日本各地にあるお城のうち、江戸時代の姿のまま残るものは、12しかないのだそうだ。
これは大戦中に爆撃の標的にされたからとかなんとか。
焼けた城のいくつかは、戦後コンクリートで再建されたけど、それがどんな運命をたどったか、戦時の記憶を伝える場所にしてほしいという記事だった。
それを読んでまたちょっと朝日新聞のダブルスタンダードのようなものを感じた。

すこしまえに、どこかのお城を復旧するのに、もともとのかたちに忠実に復旧するか、バリアフリーや手すりの完備した現代的なかたちで復旧するかという論争があった。
城の設計図が残っていたから、管轄する市ではもとどおりに復元することを計画したらしいけど、ウチの新聞はおもむろにあたりを見まわし、行政がオリジナルにこだわっているのをみるや、たちまち身障者の味方になるのである。
とりあえずどっちにつくかという問題で、朝日新聞は、政府や行政がどちらについているかを判断材料にするのだ。
そして政府が右といったら左、行政が左といったら右を支持するに決まっているのである。

しかし、考えてもみよ。
身障者の便宜を図るというと聞こえはいいけど、それでは身障者はどうしてその城に登りたがるのか。
その城が歴史的に貴重なものであり、本来の城のかたちを残しためずらしい名所旧蹟だからじゃないのか。
むかしからのかたちをしたお城がまずあって、だから登りたいというならわかる。
城があるまえから、身障者にでも登れるようにしろと要求するなら、スカイツリーに上るのといっしょで、べつにその城でなくてもいい。

わたしが身障者なら、石垣から天守まで可能なかぎりオリジナルの様式を復元してもらって、登ることはそのあとで考える。
最近は古都などで人力車が人気だ。
体育会系に職を斡旋するというつもりで、なんなら古いままのお城に、箱根の雲助を模した駕籠かきを配置したっていいではないか。
新人の訓練に最適だということで、大学の山岳部もボランティアで参加するかもしれない。

そんな論争はさておいても、ふだんから芸術や文化の後援者を自負する朝日新聞は、ここでは政治に関係なく、もともとのかたちのままの城にこだわるべきであった。

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2018年8月13日 (月)

悲しき高齢者

何者かがひしひしとわたしを包囲して、孤独へ孤独へと追いやっているような気がする。
おい、どっか旅行に行かないかと知り合いを誘ってみても、ここんところ百発百中で断られる。
これはなにかの陰謀ではないか。

そんなことを思いつめると、これは芥川龍之介の「歯車」みたいになってしまう。
これが昂じると、包丁を振りまわしたり、まっ裸で市内を走りまわることになり、オカルトにあと一歩だ。
すこし冷静にならなくちゃ。

考えてみると、わたしのトシで旅行にうつつを抜かしているほうがおかしいのだ。
このトシではみんな老後のことを考えて、貯蓄にはげむとか、浪費をひかえてみみっちく生きることに専念するのが当然で、わたしみたいなのはやっぱり異常なのだ。

ひとり旅の好きなわたしは、旅先でよく、やはりひとり旅の高齢者に出会う。
彼らもけっして孤独を愛している人ばかりではなく、若い彼女でもいれば、それといっしょに来ることを望んでいるに違いない。
しかし高齢者といっしょに行こうというのは、せいぜいくたびれた古女房か、あるいは神経痛に悩んでいる老人ホームのお仲間ていどで、できることならこっちからお断りしたい相手ばかりである。

だからわたしなんぞは幸運と思わなくちゃ。
わたしのトシで、いまもなお夢や希望を持ち続けていられるなんて。
欠点があるとしたら、夢の比重がますます増えていて、じっさいにお出かけする機会がどんどん減っていることだな。
今日なんか、葛西の水族館に「夜の魚たち」という企画を見に行こうと思ったら、激しい雷雨でとうとう行きそびれた。

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2018年8月12日 (日)

今朝の新聞

「日曜日に想う」という今日のウチの新聞のコラム。
最近の東京医大の女性差別問題や、花森安治の本をひきあいに出して、日本ももっと女性を重用しなければイカンと論じている。
男がダメなら、政治をすべて女にまかせたらどうだというんだけど、これは卓見かもしれない。
ひょっとすると、旧習ただよう日本社会に一喝を入れるものかもしれない。
やってみるだけの価値があるかも。

ところでそう論じるウチの新聞(朝日)の社長、および幹部にどれだけ女性がいるのか。
いっそのこと、記事や編集はもちろん、経営はすべて女性にまかせたらどうだろう。
蓮舫サン、山尾志桜里サン、望月衣塑子サンを挙げるまでもなく、女性には自己中心的で、自らの信ずるところを盲目的に信じてしまう人が多いから、いまでさえ斜陽のウチの新聞の救世主にはならんと思うけど、やってみるだけの価値はあるかも。

もし女性にもっと発言力があれば、世界がどれだけ今よりよくなるか。
これはアイスランドのもと女性大統領だった人の意見だそうだ。
氷と温泉の過疎の国を、人間ぎゅうぎゅうの先進国と比較するのが妥当かどうかはさておいて、なるほど、これはまず朝日新聞が率先してやってみて、効果のほどを日本の政界にあてはめればヨロシイ。
けだし見もの。

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2018年8月11日 (土)

現実

総理の周辺A:まずいな。
  立候補がひとりじゃ、また一強だの、独裁だのってマスコミが騒ぐぞ。
総理の周辺B:石破が立候補するそうですよ。
総理の周辺A:おお、そいつはいい。
  おかげでわが党がいかに民主的で公平な政党であるか、いい宣伝になるではないか。

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2018年8月10日 (金)

報復関税

0820

今朝の新聞の1面に「米中応酬、あえぐ農家」という見出しがある。
北朝鮮が遠くでなにか叫んでいるのに、もうとっくにそんなことは忘れちゃったトランプさんの、新たなパフォーマンスだ。
ウチの新聞の記事だけど、とりあえず日本はまだ傍観者らしいから、安心して読んだ。

アメリカのトランプ大統領が中国からの輸入品に高関税をかけた。
中国も対抗上、アメリカからの輸入品、それもトランプさんをへこたれさせようと、大統領の支持基盤である中西部の産物をねらって、報復関税をかける。
このあたりの主要作物は大豆で、その7割が中国向けだそうだ。
関税がアップすると、その中国向け輸出が不振になり、これではアメリカの農民が困る。
中国だって輸入できなければ困るくせに、ここはもうお互い相手を困らせるためのガマン比べだ。
でも記事だけじゃよくわからないところがあるな

7割も輸入して、中国は大豆をなにに使おうってのか。
そのへんをよく読んでみると、中華料理に欠かせない食用油や家畜の餌とある。
そのため中国政府は国内の農家に、トウモロコシをやめて大豆に切り替えるよう、補助金まで出して奨励しているという。

へえ、そうか。
食用油なら菜種じゃだめなのか。
わたしがむかし中国に行ったとき、あちこちで広大な菜の花畑をながめて、さすがは中華料理の国と感心したものだけど、菜種油があるなら大豆の油なんかいらないじゃん。
菜種ならついでに蜂蜜も採れるのに、大豆蜂蜜なんて聞いたことがないぞ。
それともなにか。
中国も大豆ばかりを食わせたブランド牛でも売り出そうというのか。
あるいはすぐとなりの国の和食に対抗して、豆腐や枝豆の増産に取りかかっている矢先なのか。

だいたいトウモロコシをやめて大豆に転作させようという理由もわからない。
大豆を食うような家畜はたいていトウモロコシも好きだ。
むかし富士山の5合目にいた駄馬に、トウモロコシの実はわたしが食べ、彼にはシンだけを食わしたことがあるけど、べつに文句もいってなかった。
ブタや牛ってトウモロコシがきらいなのかしら。
わたしには菜種やトウモロコシが、じゅうぶん大豆の代わりになるような気がするんだけどね。

添付した写真は、以前中国のあちこちで見かけた菜種油の撹拌機で、ふたつの球がぐるぐるまわり、あたりにはとてもいい匂いがただよっていた。
1995年11月12日西安にて。

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2018年8月 9日 (木)

フーテンの金

台風が去ったと思ったら、たちまち暑さがもどってきた。
そんな中、津川雅彦さんに続いて、今度は沖縄の翁長知事の訃報だ。
でも本人が死ねば昨日の敵は今日の友、これがそのへんの儒教の国とは異なる文明国の証拠だな。
自民党が喜んでいると思っちゃいけない。
こういうとき、弔い合戦だといって、相手が元気づくことのほうが多いのだ。

Kim02

さて、死者をもいたぶる儒教の国からの便り。
暑いのは世界的傾向で、おとなりの韓国、北朝鮮も例外じゃないらしい。
今日の夕刊にフーテンの寅さんみたいな格好の正恩クンが載ってたけど、彼は肥満体だから、しかも電力不足で、エアコンも思うにまかせない地方の工場を視察に行くときなど、これはもうとても我慢できないんだろうな。
可哀想なのは同行の子分たちだ。
いくら親分がラフな格好したからといって、自分たちもそれに習うわけにはいかない。

Kim

ひとり服をぬいで気楽になった親分だけがご満悦。
機嫌がいいのは視察に行ったナマズの養殖場がノルマを達したせいらしいけど、ナマズ・・・・
一国の元首たるものが、あんまり世間に自慢できるスタイルじゃないよね。
そのうち縁日でナマズの叩き売りでも始めそう。
こんな亭主におとなしくしたがう李雪主さんが、良妻賢母のさくら(倍賞千恵子)に見えてしまう。

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2018年8月 8日 (水)

今朝の新聞

新聞に津川雅彦さんの訃報。
わたしは彼のファンでもないし、特別に興味があるわけでもないんだけど、気になったのはその死亡時の年齢だ。
78歳だったそうで、わたしもそのころに死ぬとしたら、あと◯年ではないか。
さっさと貯金を使い果たしてしまわないと後悔しそう。

津川さんのとなりにボクシング連盟の山根明会長さんの記事もあって、よく見たらこっちも同じ78歳だった。
中身は知らないけど、見た目はもろにヤクザという感じの人で、「そういう交際があったからといって悪者にするのはおかしいと思う」って、こちらはまだまだ意気軒昂。

こうなると悩んでしまうな。
どっちを参考に、自分の寿命を考えればいいのか。
やっぱり無駄遣いをせずにちまちまと生きるべきかしら。

べつの場所にポール・マッカートニーのでっかい公演広告があって、最新アルバムのプロモーションらしいけど、先日ひさしぶりにネット版のローリングストーン紙を読んでみたら、そこにインタビュー記事があり、ポールの新曲が2曲ばかり披露されていた。
どこかなつかしいビートルズふうの曲が聴けるよ。

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2018年8月 7日 (火)

ウナギの未来

ネットに、日本のファーストフード店で、絶滅危惧種のヨーロッパ・ウナギを使った蒲焼きを出しているのが問題だという記事があった。
なんでもDNA鑑定をして原産地がわかったのだそうだ。
ただでさえ数が少なくなって問題になっているウナギではないか。
完全養殖はまだ無理みたいだし、これではますますウナギが値上がりすることは間違いない。

そういえばうちの冷蔵庫に、またスーパーで買ってきた1980円の蒲焼きが入っている。
3つに切って3回分のうな丼にするつもりだから、まあ、そんなに驚くほど高いわけではない。

でもこのネット記事を読んで、これは確実な利殖方法ではないかとひらめいた。
スーパーの蒲焼きを冷蔵庫に20年も保存しておけば、そのころにはいくらになっているだろう。
とはいうものの、わたしはそんなに生きていられないから、このアイディアは他人に無償で進呈することにしよう。
だれかやってみる人はいないか。
20年が限度だぞ。
それ以上は完全養殖が成功しているかもしれないから、保証しません。

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2018年8月 6日 (月)

フランス娘

日光でフランス人の女の人が行方不明だそうだ。
わたしがそれを知ったのは昨日のニュースだけど、不明になったのは7月中だというから、揚げたてニュースではないね。
こういうとき、まずどんな顔をした人なのかと、余計なことを考えるのがわたしのわるいクセだ。
写真をみると、まあ美人といっていいかもしれないけど、ケンカをしたらわたしより強そうな人だった。

フランス人というとパリジャンばかりじゃない。
欧米女子の中には、男かおまけの探究心旺盛な娘もいて、砂漠やジャングルをものともせずに前進するようなタイプもいる。
たとえばこのブログでも取り上げたことがある英国人の冒険家クリスティナ・ドッドウェル。
彼女は砂漠のまん中で、たったひとりでキャンプしているとき、遠くから馬に乗った人間が近づいてくるのを見て、男か、ヤバイなと身構えたりしている。

日本人はそんなに危険ではないと思うけど、フランス娘のほうは、今日になってもまだ見つかってないようだ。
彼女もあこがれの日本を深くきわめ、YouTube に映像を載せようとして、滝壺にでも落っこちたのかもしれない。
心配だな。

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2018年8月 5日 (日)

日本の味覚

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YouTubeなんかを見ていると、日本の食べ物の美味しさに感動している外国人が多いのにびっくりする。
おまえら、いままで何を食ってたんだといいたくなるワ。

日本の食文化がほめられるのはわるい気がしないけど、それがあまり世界に広まるのも困ったもんだ。
中国なんかむかしはマグロを食べなかったのに、その味に目覚めて、なにしろあちらは14億だから、こうなると資源の奪い合いで、マグロが値上がりするのも当然だ。
ウシやブタが禁忌という国はあっても、マグロを食べていけないという宗教はないから、寿司や刺身の味を、ヒンズー教徒やイスラム教徒が知ったら・・・・
そういうものの好きなわたしはおもわず戦慄してしまう。

こんな問題で頭を悩ませているうち、ふと気がついたこと。
世界の3大料理というものがあって、おおむねフランス料理、中国料理、そしてケンカにならないように、ヨーロッパとアジアの中間にあるトルコの料理ということになっているらしい。
美女と美食は権力者のもとに集まるのがフツーだから、ルイ王朝や唐王朝、オスマントルコなどの長い王朝が続いた国に、美味しい料理が発達するのは当然といっていい。

ところが日本だ。
日本だって徳川幕府が長く続いたけど、これが世界でもめずらしい質素倹約を旨とする政権で、とてもじゃないが世界に誇りうる宮廷料理なんか発展しようがなかった。
考えてみると、寿司にしても刺身にしても、オデン、蕎麦、テンプラ、タコ焼きにしても、日本の美味しいものというのは、ほとんどが庶民のあいだで発達したものばかりではないか。
それがいまや世界中の観光客をひきつける。
こんなふうに庶民が自分たちの食べ物を、国の代表的味覚にかつぎあげた国がほかにあるだろうか。
うん、日本の庶民の繊細さはこういうところにもあらわれているな。

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2018年8月 4日 (土)

よみがえる景色

失われたものは2度と帰ってこない。
たとえばわたしの記憶にある郷里の田園風景や、幼いころに通った小学校の校舎など。
写真でも撮っておけばよかったと思っても、たいていは手遅れだ。
そんなむかしでなくても、わたしたちの周囲で、大型店の進出ですたれた商店街、景気の変動に乗りおくれて身売りした工場、新たな開発のおかげで埋め立てられる山河など、見なれた景色の消滅は現在進行形のかたちで進んでいるはず。

失われたものが帰ってくる場合もないじゃない。
たとえば原発事故で立ち入り禁止になった福島の村。
人がいなくなればたちまち草ぼうぼうで、イノシシやサルの跋扈する縄文の景色の復活だ。
でもこれは特殊な例で、縄文時代にわたしが生きていたわけじゃないから、自然愛好家としては興味があっても、ノスタルジーを感じるわけではない。

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となりの農家のおじさんが亡くなって、その家とまわりの樹木が一掃され、いまそこはがらがらの空き地になっている。
ところがグーグルマップをのぞいてみたら、その家が2015年当時のまま残っていた。
ほうっておくといつまた最新の画像に更新されないともかぎらないから、この農家のありし日の写真をこのブログに張っておこう。
大沢村で生まれた人が30年ぶりにふるさとに帰ってきて、あれ、このへんにはこういうふうな家があったはずなのにと面喰らった場合、このブログが彼の記憶のよすがになるかもしれない。

自分の家のまわりの景色がどんどん失われていくとおなげきの詩人がいたら、グーグルマップは思い出のアルバムにもなる。
わたしなんか、せいぜいこの半年くらいの変化なのに、もう失われた農家に郷愁を感じているのだ。
写真に白い車が写っているけど、ちょいと買い物に出かけるたびに見かけた古いトヨタである。
この車か稼働しているのを見たことがなかった。

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2018年8月 3日 (金)

ないときのネタ

あいかわらずの猛暑で、散歩にも出られやしない。
自然観察園ではいまごろヒオウギか咲いているだろうに。
部屋でごろごろしていると、新鮮なブログネタも湧かないねえ。

そういういうときは、頼もしい助っ人、ウチの新聞がある。
これさえあれば永遠にネタに困らないといって差し支えがないくらい。
今朝の新聞にもネタがごろごろだけど、たとえば2面に「LGBTへの理解進まぬ自民党」というものがある。
自民党のなんとかいう女性議員が、同性カップルを、生産性がないと主張したそうで、これがケシカランという。
そんなことをいわれると、わたしみたいな独身はさらに肩身がせまい。
すてきな女の子でも宅配してくれれば、いまからでも生産性向上にはげむ意欲はあるのだが。

しかし与党の議員の大半が同じことを思っているわけでもなし、これでは非生産性取締法ができる可能性も少ないし、わたしはそのていどで大騒ぎしないぞ。
日本のすばらしい点は、多種多様な意見があり、しかもそれをだれでもどこでも、どうどうと主張できるところにある。
これがない国は、北朝鮮のような独裁国家、もしくは反日以外は禁止の韓国のような国でしかない。
言論の自由についてことさらうるさいウチの新聞が、なんでわざわざ言論封じの肩を持とうとするのか、たかがひとりかふたりの議員のために。

みろ、このネタでもうひとつブログを書き上げた。
この間わずか1時間足らず。
ほんと、わたしっていいかげんだよな。

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2018年8月 2日 (木)

やわらかい軍隊の2

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また 「海外の万国反応記」 からの写真だけど、日本の軍隊ってよっぽどヒマなのねと思われてしまいそう。
ま、実力はやってみればわかるけど、やってみるのもナンだしなあ。
さすがにこんなの、わたしらのころにはなかったぞい。
中東やアフリカに派遣されたら、テロ組織も思わず見上げてしまうんではないか。

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プールにて

先日またプールで泳いできたんだけどね。
最近のプールにはウォーキングコースというのがあって、泳ぐのではなく歩く人専用コースが作ってある。
水中では重力がかからないから、腰の病気をかかえた人でも足の運動ができるということで、これはまあいいことだ。

もういいトシのわたしが、泳ぐのにへこたれて、ウォーキングコースを行ったり来たりしていたときのこと。
コースにほかの人がいないのを見計らって、最後の10メートルは平手をきってすいすいと泳いだ。
プールのへりにたどりついて顔を上げると、すぐ上に監視員が立っていて、まず発した言葉が
「お客さま、本日はご来場ありがとうございます」だって。
ここは公営プールだから、わたしはお客さまではないぞ。
むしろ、できたばかりの豪華なプールを、ホテルや遊園地のプールなんぞに比べれば、はるかに安い料金で使わせていただいている一般庶民だ。
ええ、感謝しています、こちらこそ。

彼のほんとうの用事というのは
「こちらはウォーキングコースとなっておりますので、泳ぐのはご遠慮下さい」というものだった。
「おっさん、ここで泳ぐんじゃねえよ」といわれるよりはいいけど、なんてまあ、ご丁寧な。
こういう言葉使いをするようにと、マニュアルで規定されているんだろうけど、わたしにはとても真似できない。
「お客さーん、ここで泳がれちゃ困ります」じゃいけないのか。

日本にやってくる外国人が、みんな日本のホテルやレストランの丁寧なおもてなしに感動するらしいけど、そのかげにますますこういう人間味の感じられない、ロボットみたいな対応が増えているんだろうなあ。
病院でもそうだ。
「患者さま」だなんて、え、こっちを馬鹿にしてんのか。
医者なら医者らしく、ふんぞりかえって、きみ、ピロリ菌も大腸ガンもありゃせんよ、安心していいといわれるほうが、なんぼ幸せを感じるかわからない。

アメリカではマクドナルドの店員が、暴言を吐く客をぶっとばしたって事件があったそうだ。
そりゃ客のほうが悪いと、ぜんぜん問題にならなかったというから、あちらの市民意識のほうが高い。
相手にへりくだった言い方をされてうれしがっているアナタ。
そりゃ自分がますます矮小化していることの証明でしかない、ということにさっさと気がつかんかね。

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2018年8月 1日 (水)

その後のミント

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20日ほどまえに暑さよけのインテリアのつもりでグラスに挿しておいたハーブのミント、凶暴さの証明のように、しおれるどころかいよいよ元気。
せまいグラスの中では横にのさばるわけにいかんから、上へ上へと成長しちゃって。

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これを摘んできた庭先でも、他の雑草と激しいナワ張り争いだ。
オマエいい根性してるじゃんと、どっちがどっちに言ってるのか知らんけど、彼らが口をきけるなら、おおかたそんなののしりあいを続けているのだろう。
人間さまは呆然と見守るのみ。

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