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2018年8月30日 (木)

ニュールンベルグ裁判A

ちょっとまえに、これからは映画の話題が増えるかもと書いたけど、さっそく映画の話題だ。
わたしのDVDライブラリーの中から引っぱり出したのは、スタンリー・クレイマー監督の「ニュールンベルグ裁判」。
1961年の映画なので、映画に出演した俳優はいまひとりも生存していない。
映画のタイトルでは “ニュールンベルグ” だけど、現代では “ニュルンベルク” のほうが一般的なので、はっきり映画のタイトルとして使う場合以外はそれでいくことにする。
評判は聞いていたけど、じっくり観るのは初めてだ。

第二次世界大戦が終了したあと、ドイツのニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を追及する裁判が行われた。
この映画では、戦争の直接の責任者ではなく、ナチスドイツの第三帝国で、法律を担当した責任者に対する裁判が描かれる。
つまり法が法を裁くわけで、堅っ苦しい映画になるという予感がありありだけど、よい映画というのはカタくてもヤワラカくても、たいていおもしろいものだから、悲観的になるのは早い。

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アメリカから裁判長を務めるために、スペンサー・トレイシー扮する判事が、まだ戦争の傷跡もいえないドイツ・ニュルンベルクにやってくる。
判事はメイン州の田舎出身という設定である。
自殺したヒトラーやヒムラーは別として、この時点でゲーリングやガルテンブルンナーら、戦争責任者の裁判は終了していたけど、法曹関係者の裁判については、彼以外にだれも裁判長を引き受けたがらなかったのだそうだ。

全体にがちがちの法廷劇であるけど、ほんのりユーモアの感じられるシーンも、ないわけじゃない。
田舎判事が街を散策しているとき、若い美人からなにかいわれ、ドイツ語のわからない彼が、なんていったんだろうとかたわらの人に尋ねると、“じゃあね、おじいちやん” だったことがわかり、残念ともなんともいえない表情をするところがおかしい。

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裁判は被告の罪状認否から始まる。
被告席にならぶのは、第三帝国時代のドイツ法曹界の重鎮が4人で、バート・ランカスター扮する、もと法務大臣だったエルンスト・ヤニングが最重要人物だ。
この映画は事実にもとづいているけど、ヤニング(ほかの登場人物もすべて)は映画のために創出された架空の人物である。
彼は第三帝国の法務大臣であったと同時に、ワイマール憲法を廃止して第三帝国憲法をつくった最高責任者だったから、いわばナチスの戦争犯罪に法的お墨付きを与えた人物といえる。
同じ立場の人間は現実にもいたのだろう。

ここでのB・ランカスターは、「ヴェラクルス」の粗暴なならず者ではなく、知性と重厚さをあわせ持った人物として描かれ、その存在感は圧倒的だ。
ヴィスコンティの「山猫」がこの2年後だから、ニュルンベルクの演技がシチリア貴族につながったのはまちがいがない(とわたしは思う)。

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そしてヤニングの責任を追及する、米軍軍属の検事リチャード・ウィドマークと、ヤニングの弁護を担当する、熱血のドイツ人弁護士マクシミリアン・シェル。

話が脱線するけど、熱血弁護士を演じるM・シェルを観て、なにかの映画でわりあいひんぱんに見たことのある役者だなと思った。
ところがググッてみると、彼の出演した映画で、わたしが観たことのあるのは 「トプカピ」、「遠すぎた橋」、「ジュリア」ぐらいしかなかった。
これは彼が「俺たちに明日はない」のウォーレン・ベイティに似ているので、わたしがカン違いをして、ふたりをごちゃまぜにしていたせいだった。
ちなみにシェルは「ニュールンベルグ裁判」で、1961年のアカデミー主演男優賞を受賞している。

この軍人検事と熱血弁護士が、被告の法的責任をめぐって丁々発止の論戦をくりひろげるんだけど、被告であるヤニングだけは、なぜか最初から黙して語らず、熱血弁護士にすべてを一任したようにみえる。
法律の専門家である彼は、自分の裁判を他人がどう裁くか、客観的に見極めようとしている設定かもしれない。

映画の前半は、第三帝国に存在した断種(去勢)法という非人道的な刑罰に、後半では、あるユダヤ人を抹殺するためにでっち上げられた事件に、ヤニングが関わったかどうかが問われる。
断種法の裁判には米国の人気俳優だったモンゴメリー・クリフトが、でっちあげ事件の裁判にはミュージカル・スターのジュディ・ガーランドが、そして法廷の外の重要人物としてドイツ人の女優マリーネ・ディートリッヒが出演している。

はじめから終わりまで論争ばかりのおカタい法廷劇だけど、息抜きのようにところどころに休廷中の場面がはさまり、当時のドイツの置かれていた状況が、市民の口を借りたりして語られる。
たとえば田舎判事は、ニュルンベルク滞在中に身のまわりの世話をしてくれるドイツ人夫婦に、この近くのバッハウを知っているかいとさりげなく尋ねるんだけど、彼らは知りませんと口ごもる。
バッハウは強制収容所があったところで、ユダヤ人の大量虐殺が行われたところだから、ふつうのドイツ人なら知っていても話したがらない場所だ。

こんな具合に、あちらこちらで終戦時のドイツ人の心境が描かれるけど、当時のドイツ人なら当然そうするだろうということばかりだ。
ストーリーをわかりやすくするための作為や、これっておかしいんじゃないのと矛盾を指摘できる部分がひとつもない。
だいたいわたしは、趣味があら探しというヒトのわるい男だけど、そんな人間からみても、見つかるアラがひとつもないのである。
この映画はまず脚本がすばらしい。

前置きが長くなったので、このブログネタはひとまずここまでにして、次回でまず断種法をめぐるやりとりに話をしぼってみよう。

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