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2018年9月

2018年9月30日 (日)

ジ・エンド

前項の 「ライフ・イズ・ミラクル」 という映画を観たとき、映画のなかで密輸業者を貨物列車もろともふっ飛ばしたあと、兵士が英語の曲を口ずさむのに気がついた。
どこかでしょっちゅう聴いたことがあり、いっしょになって歌うこともできる歌だけど、ほんのわずかの引用なので、そのときはどうしても曲名が思い出せなかった。

うーんと考えたあげく、ビートルズがデビューして間もないころ、日本でも流行ったバリー・マクガイアの 「明日なき世界」 でないかと思いついた。
曲名さえわかればその歌を聴くのは、ネットがあるかぎり、むずかしくない。
それで 「明日なき」 を何度もくり返し聴いてみたけど、ちがう。
雰囲気は似ているけど、最初に "This the End"  という歌詞が出てくるのに、「明日なき」 にはそんなセリフは出てこない。

なんだっけ、なんだっけとメシも食わずに悩んでいたら、そのうち天啓のようにひらめいた。

なんだ、ドアーズの 「ジ・エンド」 じゃないか。
セルビアでも有名だったのか、この曲はと思う。
父親を殺し、母親と姦通するという不気味な雰囲気の曲なので、クラい映画に合う(と思われる)らしく、そういえばコッポラの 「地獄の黙示録」 でも使われていた曲だ。
でも、あまり熱心に聴いたせいか、「黙示録」での使用はあまりピンと来なかったけどな。

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2018年9月29日 (土)

ライフ・イズ・ミラクル

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「パルタザールどこへ行く」に続いて、もうひとつ、ロバが主要な役割をになう映画を紹介しよう。
だいぶむかしにテレビから録画した 「ライフ・イズ・ミラクル」 という映画。
わたしが録画したものでさえ 154分もある長尺モノだけど、これは部分的にカットされた短縮版で、ネットで見つけたオリジナル版は 270分(4時間半)近くある大作だった。

オリジナル版には字幕がついてないばかりか、セリフはすべてセルビア語?、つまりキリル文字を使う言語だから、さっぱり意味がわからない。
しかし短縮版とはいえ、わたしはすでに字幕つきのほうを見たあとだから、ストーリーはわかる。
というわけでこの両者を比較しながら、わたしの感想を書いてみよう。

これは 2004年のセルビア映画で、あの悪名高きボスニア紛争が終結して10年ほどあとに、その紛争を主題にして、その当事国で作られた映画である。
あらすじをひとことでいうと、戦争のさなかに知り合った男と女の、恋と別れの物語。
なんてことを書いたら、めちゃくちゃ湿っぽい映画と思われてしまいそう。
とんでもない、これは深刻な内容をユーモアでくるんだ、わたしの理想といっていいスタイルの映画だった。

まだクマやオオカミが出るようなボスニアの農村に、セルビア人の鉄道技師が、オペラ歌手の女房と、サッカー選手の息子の3人で暮らしている。
でっかい息子がいるわりには、この鉄道技師は、まだまだ中年になった西城秀樹か草刈正雄みたいで若々しい。
そして彼らをとりかこむイヌ、ネコ、ウマ、ヒツジ、ニワトリ、ガチョウなどのペットや家畜が、自然なままに演技していて楽しい。
中でも秀逸なのが、失恋して自殺願望を持ってしまったロバだ。
彼は轢死しようとして、しょっちゅう線路に立ちつくし、そのたびに列車をストップさせて人間を困らせる。

この映画を観て、わたしはまっ先にフェデリコ・フェリーニの 「アマルコルド」 を思い出した。
アマルコルドはフェリーニ監督の幼いころの思い出を映画化したものだそうだけど、さまざまな事件をユーモアとペーソスをまじえ、牧歌的ともいえる映像でつづったものである。
牧歌的というと、美しい田園地帯でのんびりと思う人がいるかもしれないけど、「ライフ・イズ・ミラクル」 の中には、サッカー場の大乱闘や、式典でのわい雑などんちゃん騒ぎもある。
これらも含めて牧歌的と、わたしはいうのである。
そういえばサッカー場でキーパーにおしっこをかけるなんていたずらは、アマルコルドにも似たような場面があったよな。

ネット上にこの映画の感想・批評があるけど、大半は短縮版を観たあとのものらしい。
4時間半の映画を2時間半に短縮したのだから、カットされた部分にも重要な場面がたくさん含まれているので残念だ。
たとえば軍隊に行く鉄道技師の息子の壮行会に、太った双子の兄弟が出てくるけど、彼らが何者なのかということは、短縮版を観ただけではわからない。
フェリーニの映画には唐突にサーカスの芸人が登場したりするから、そういうものかと思っていた。
この兄弟のことはカットされたシーンを見るとわかるのである。

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このほかにも、オリジナルからカットされた部分は多い。
まず新しいトンネルが開通して、その中を主人公夫婦と市長夫婦が、足こぎ式の軌道車で走りぞめをするシーン。
このシーンは、映画の予告編や、宣伝用のスチール写真に使われるくらい有名なのに、短縮版ではそのほとんどがカットされていた。

続いて新型機関車のお披露目式における列車内のどんちゃん騒ぎ。
登場人物のほとんど全員が参加したこの式典は、オーケストラも乗り込んでミュージカル仕立てになっており、本筋には関係なくとも、まちがいなくこの映画のハイライトのひとつである。
理性と欲望がうずまくこのシーン、観終わったあと、しみじみと、おもしろうてやがて悲しき◯◯かなという気分になるのにもったいない。

そのほか出征した鉄道技師の息子が戦場で戦う場面や、奥さんが庭で歌の練習をしているとき、息子の蹴ったサッカーボールの直撃をくらうところや、IT機器に不慣れなヒツジ飼いの女性が衛星アンテナに翻弄されるシーン、市長のふしだらな奥さんがはだかのまま駅で列車を見送るところなど、貴重な場面、抱腹絶倒なシーンが、短縮版ではみんなカットされていた。
このために映画の文学的味わいが、だいぶ抜け落ちたような気さえする。

やがて戦争が始まり、軍隊に行った息子は敵の捕虜になってしまう。
精神的に不安定だった女房はほかの男と駆け落ちしてしまう。
この奥さん、行動が極端でいろいろもめ事を起こすけど、美人だし、おっちょこちょいに描かれていて憎めない人である。

ショックのダブルパンチでしょげている鉄道技師のところへ、息子と交換するために、敵方の若い娘が捕虜として預けられる。
彼女の面倒をみているうちに恋がめばえ、というとずいぶん調子がよすぎるけど、これはそもそもおとなの(男の)ためのおとぎ話である。
若い娘を家に預かるなんて、男なら誰でももっているひそかな願望ではないか。

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しかし相思相愛になったとはいえ、しょせん娘は交換要員だ。
いつか息子と交換するために別れなければならないことはわかっていた。
駆け落ちした女房も帰ってきた、息子も無事に取り返した。
おとぎ話の世界から、たちまち現実にひきもどされてしまう。
恋があまりに甘美であったがゆえに、傷心の鉄道技師は発作的に線路に身を横たえる。
しかし間一髪のところで列車を止めたのは、そう、あの自殺願望のロバだった。

というのがこの映画のオチなんだけど、どうせ日本人のなかには、ふざけた映画だという人が多いんだろうな。
わたしにいわせれば、爆発でふっとんでも絶対に死なない「M:I」のトム・クルーズのほうがよっぽどふざけてるけど。

不幸な結末でありながら、見終わったあとほのぼのとした幸福感を感じる映画、「ライフ・イズ・ミラクル」も、やはり生きているうちに観られてよかった映画だった(ついでにニーノ・ロータを思わせるテーマ・ミュージックも聴けてよかった)。
このネタの最後がちょっと駆け足になったのは、ブログに載せるために5ページ分の原稿を3ページに短縮したせいである。
わたしがカットした部分は、特に意味があるわけではないから詮索は無用だ。

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2018年9月28日 (金)

また今朝の新聞

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毎日ウチの新聞のケチばかりつけたいわけじゃないよ。
でも今日の朝刊にもやっぱりみすごせない記事が。
社説や読者投稿欄の下のほうに「社説・余滴」というコーナーがあって、国際社説担当という人が書いている文章。

先日の韓国大統領の訪朝のさい、同行した関係者が見た正恩クンの印象について、“言動の端々に余裕を感じさせる” とか “国内の権力掌握に自信がないとできない言動だ” とか、その根拠として、「パソコンはみな最新型」、「白頭山には真新しいトヨタのレクサスで行った」といった言葉が引用されている。
オレが言ったんじゃない、同行者が言ったんだって弁解するかもしれないけど、最後まで読めば、この国際担当さんが、信じる信じないはべつとして、ひろく世間に知らしめるつもりで書いていることはあきらかだ。

捏造はいけないけど、デタラメもよくない。
あの国ではたまに外国から視察者やマスコミが来ると、ない袖を振ってまでいいところを見せたがるというのは、公平を旨とするマスコミならとうぜん心得ていなければならない。
むかし秋山ちえ子さんがこの手にひっかかって、帰国してから、北朝鮮もけっこういい国だったなんて発言をして、問題視されたことがある。

いまの北朝鮮に余裕なんかあるはずがない。
余裕があるなら、正恩クンが韓国大統領の下手に出るわけがない。
平壌ではビルがみんな、映画のセットのように、道路から見える部分だけきちんと造ってあるという。
ウソかと思ったら、いまはグーグルの衛星写真で、論より証拠、それがだれにでも確認できる時代になってしまった(添付写真)。
それでもビルがあるだけ首都はマシ。
親分が見栄を張れば張るほど、地方の国民は困窮しているはずだ。

韓国大統領の同行者は今回、制裁下でも発展を続ける北の現実も目の当たりにしたそうだけど、同行者がどんな立場の人間で、どんな発言をするかまで予想して記事は書くものだ。
見栄を張るヤクザみたいなことに感心して、こんなノータリンな記事ばかり載せているから、他の場所で麻生副総理の続投ケシカランなんて書いても、だれにも信用されないのだ。
朝日新聞のためにも声を張り上げたいところだけど、どうせわたしの親心も曲解するんだろう。

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2018年9月27日 (木)

今朝の新聞

あー、今朝のウチの新聞もいちゃもんをつけたくなる記事がてんこ盛りだ。
読むのをやめればいいんだけど、認知症予防にこんなに役立つ新聞はないと考えて我慢しているのだ。

てんこ盛りの内容をひとつひとつあげつらうほどヒマじゃないから、いや、じっさいにはヒマなんだけど、きりがないから、杉田議員関連で新潮社が「新潮45」を休刊にした事件だけを選んであげつらってみよう。
わたしもこの議員の発言の肩を持ったことがあるし。

よくわからないのは、今日の新聞を読むかぎりでは、新潮社の休刊についてはわかっても、新潮45がどんなことを書いて問題になったのかわからないこと。
新聞には問題になった記事の内容がぜんぜん引用されてないのだ。
でもあの朝日が大喜びで取り上げるくらいだから、右翼や保守(朝日新聞のほうがよっぽど保守だというわたしの信念はとりあえず封印)がよろこぶ記事だったんだろうなあって前提で書く。

もともとの杉田議員の発言については知っている。
同性愛者は生産性がないというもので、あっちこっちから苦情が殺到しているやつだ。
これに抗議をするのはかまわない。
しかし社会全体がひとつになって、たったひとりの議員の発言を責めるのは、表現の自由をさまたげることにつながらないかというのがわたしの意見。

でも休刊になるくらいだから、新潮45の内容はもっと過激なものだったかも知れない。
いわゆるヘイト記事に類するものだったかも知れない。
ま、そのうち図書館に行って、この本があったら読んでみよう。
ても、ヘイトだって気がついて出版物を休刊にするなら、なんで今朝のウチの新聞は休刊にならないのかしら。

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2018年9月26日 (水)

ストリートビュー

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時代は変わる。
家のまわりの景色もどんどん変わる。
となりの農家のおじさんが亡くなって、あとが更地になったと思ったら、こんどはそのすこし先の、以前は建築資材を扱う会社の事務所だった建物が、跡かたもなくなった。
あと20年もたったら、このあたりの風景も一変してるんだろうな。

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ところでグーグルのストリートビューをみると、まだ農家も建材会社の事務所もそのままだ。
何年先までこのままなのか知らないけど、ストリートビューのべつの目的が見えてきたような気がする。

かりに将来、グーグルが地図を一新して、新しい写真と差し替えることがあったとしても、過去の地図もデータベース化して、いつでも自由に見られるようにしてほしい。
そうすればグーグルは、次元座標の縦軸と横軸を同時に提供できるようになるではないか。
だれがそんなもの見たがるかって?
老人ホームのじいさんばあさんたちなら、たぶん。

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2018年9月25日 (火)

今朝の新聞

やれやれとため息。
今朝のウチの新聞に、沖縄の世論操作という記事があって、安倍内閣の沖縄政策「評価しない」63%と書いてある。
ほかの新聞ならとやかくいわないけど、“支持” ではなく、“評価” になっているところに、また朝日の捏造があるんじゃないかと疑ってしまう。
説明しておくと、評価というのは支持というより弱い意思表示である。
つまり支持しないとはっきり表明する人は50%ぐらいしかいないんじゃないか。

調査したくせに、玉城デニーさんと佐喜さんを支持する人の割合が、はっきりした数字で上げられていない。
こういう場合は、ウチの新聞が支持する候補のほうが分が悪いんだろうなあって、痛くもない腹をかんぐりたくなってしまう。
まったく公平に扱っていればなにも問題はないのに、なにがなんでも反体制側の記事を書こうとするから、こうなるのではないか。

あとでわたしの文章を見直したら、沖縄の世論調査が世論操作になっていた。
メンドくさいから直さない。

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2018年9月24日 (月)

彼岸花

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ああっと驚いた。
しばらく散歩に行かなかったから失念していたけど、もう彼岸花の季節ではないか。
今日あたり自然観察園では満開になっているんだろうな。
そう思ったけど、さすがに毎年毎年同じものを見に行くのもマンネリだ。

写真はもう何年分もストックしてある。
今年にかぎって花の色やかたちが変わるわけでもない。
えいっというわけで、そんな過去の写真の中から、てきとうなものを選んで載せてしまう。
わたしもいよいよ老人性怠惰というやつだ。

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2018年9月23日 (日)

テスト

わたしってフェイスブックに興味がないと書いたばかりだけど、知り合いのFBをのぞいたら、YouTube 上のなにかのコンサートの映像が貼り付けてあった。
へえ、こんなにかんたんに自分の好きな曲や、コンサートのもようを世界に拡散できるのかと、わたしもテストのつもりでやってみた。
最近の著作権がどうなってるのか知らないけど、こういうことをしている人ははなはだ多い。
わたし個人的には、自分で作成したもの以外の作品を利用するのは好まないんだけどね。

貼り付けたのは、英国で行われたなんとかいう歌手のコンサートで、曲名は「We'll Meet Again」。
キューブリックの「博士の異常な愛情」という映画を知っている人なら、だれでもご存知の曲だ。

興味のある人がいても、わたしは友達をやたらに増やそうと思わないので、FBの自分のページをあまり宣伝してないし、本名で登録してないから、見つけるのは至難の技と思われる。
これはあくまで自己満足の実験ということで。

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2018年9月22日 (土)

パルタザール

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先日放映された 「パルタザールどこへ行く」 という映画、1964年の映画である。
なんとなく傑作みたいな気がしたので、ずっとむかしにレンタルビデオを借りて観たことがある。
つまらない映画だったので、そのときはとちゅうで放り出したけど、それがまたタダで観られるというので、わたしもむかしに比べれば相応に大人になったつもりだから、今度はじっくり観ようと録画してみた。

結論としては、やっぱりわからん。
つまり駄作だということである。
駄作であるならこんな映画評を書くこともないんだけど、わたしがいつも利用している映画データベースも含めて、いまだにこれを傑作だと信じている人もいるようだから、そういう蒙昧の徒を覚醒させるためにも、あえて書く。

この映画はパルタザールというロバと、飼い主の娘の交情をを描いたものだそうだけど、ロバが愛らしい動物で、ヒロインも目もとのパッチリしたかわいい娘であることはよくわかった。
注意しなくちゃいけないことは、ウブな青少年のなかには、映画のヒロインにひと目惚れして、それだけで映画も忘れられない傑作だと信じてしまう人がいることだ。
水をぶっかけるようなことをいうけど、このヒロイン、なみだを流す場面はあっても、喜怒哀楽の表情がほとんどない。
こういうのを世間では白痴美というんだけどね。

まず冒頭に娘の子供時代という設定で、数人の少年少女が出てくる。
みんな子供のロバをかわいがっているんだけど、彼らのなかには病死する少女もいるのに、それがロバとどんな関係で、どういう事情なのかさっぱりわからない。
セリフが少ないというのは、ときに深遠な哲学的雰囲気をかもし出すことは事実。
しかしそんなものに騙されないのがわたしのブログだ。
これはどうみても脚本が悪い。
登場人物やあらすじを、もっと要領よく説明する方法がありそうなものだ。

子供が父親に、このロバを買ってと頼む。
父親はダメだと答える。
つぎの瞬間には、なんの説明もなしに、親子はロバを自宅に連れて帰る。
獣医がこのロバはもう助からないねというのに、つぎの場面では浮浪者にひきとられて、ふつうに歩いているロバが映る。
さっぱり意味がわからない。

父親が娘を探しまわる場面があるけど、ここでは父親はほとんど棒立ちのままうろうろするだけ。
ほかの登場人物にしても、ぶっきらぼうな態度のままというのが多い。
おそらく監督にこうやってくれといわれて、はいはいとそのままやっているだけなのだろう。
これでは演技とはいえない。

芸術が円熟期に達すると、新しい表現を求めてさまざまな実験が行われるように、「パルタザール」も、監督がこころみた実験映画だったのかもしれない。
しかしこの映画より以前に、「戦火のかなた」「道」「自転車泥棒」「恐怖の報酬」「勝手にしやがれ」「突然炎のごとく」など、さまざまな傑作・佳作・異色作(わたしのライブラリーにあるものだけでも)が生まれているところをみると、この映画は失敗作としか思えないのである。

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やがてヒロインの娘は不良仲間にレイプされてしまうんだけど、この場面は大幅に省略されているのでもの足りない。
映倫がうるさかったから、この時代には “もの足りる” ような過激な映像は撮れなかったとお思いか。
デ・シーカの「ふたりの女」はこれより4年まえの映画なんだぞ。

この映画は観念的なものを映像化した、ストーリー無視の、詩のような作品ではないかと好意的に考えてみた。
しかし詩ならばなにかしらこころに残るものがあるはず。
観終わったあと、ほんわりとあたたかな気持ちになれるフェリーニの「81/2」は、この前年の作品なんだけどね。

ろくでもない監督が、ろくでもないジコチュウを押しつけてくる映画、というのがわたしの、「パルタザール」に対する正直すぎる評価だ。
でもこの映画はヴェネチアで賞をもらってるという人がいるかもしれない。
それこそ事大主義だ。
おまえは他人がほめるからすばらしいというのかと、そんなノータリンな考えを一蹴してしまう。

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2018年9月21日 (金)

今朝の新聞

今朝のウチの新聞の読者投稿欄は、認知症についての特集だ。
わたしもそろそろじゃないかと心配だけど、新聞にいちゃもんをつけているあいだは大丈夫だろう。
朝日新聞を読むたびに、青年のころのような新鮮な怒りがふつふつと湧いてくるくらいだ。

今日は4面に「長期政権 続く難局」という見出し。
はてね、長期政権だと続く難局なんてあったかねと、記事をよく読む。
その①として、米国との貿易交渉でむずかしい問題をかかえていると書いてある。
でもこれは石破短期政権ができたとしても同じこと。
いまは世界中が常識の通じないトランプさんにふりまわされているところだし、これは長期政権の責任ではない。
むしろトランプさんと会ったこともない石破クンでは、初めから仕切り直しで、よけい深刻な問題になりかねない。

その②として北方四島や北朝鮮との交渉で先が読めないとある。
これだって相手のあることで、プーチンと仲がいいわけでもない石破短期政権になにができるというのか。
遅刻したら走ってくるだけの甲斐性が安倍クンにはあるけど、石破クンは北の正恩クンといっしょ、そんなみっともないことはできないと悠然とかまえて、けっきょく相手にきらわれるだけじゃないか。
なりふり構わず制裁を解除してもらおうという北朝鮮を、そこまで追いつめただけでもわたしは日本の行き方を認めるほうだ。
これも長期政権の弊害とはいえない。

その③には経済財政運営が挙げられているけど、いまの世の中、先のことはだれにも見通せない。
石破クンなら見通せるという保証はどこにもない。
ウチの新聞にも見通せないらしく、こうすればよいという代案がなにひとつ示されてない。
見通せないなら、景気を減速させないように配慮しながらの、綱渡り的運営でも評価してやらなくちゃ。
これも長期政権だからイケナイってもんでもないな。

わたしのウチの新聞に対するいちゃもんは、多少の真理をついている(と勝手に思っている)けど、朝日のいちゃもんは政治家におまかせで、自分たちはなにも責任を持ちませんという愚衆の意見そのものだ。
むしろ心配なのは、2面3面にもあったけど、つぎの国政選挙の結果のほうである。
なんせ、もう長くやっているから辞めさせようというていどの政治意識しかない国民を抱えた国では、次の選挙で今回の安倍クンの勝利が結果を左右しかねない。
まあ、いっそうの真面目な政治をするようにと、自民党にアドバイスをしとくか。

ほかにも政府をおとしめようという欺瞞があちこちに見出せるけど、こうやって新聞のいちゃもんにいちゃもんをつけていると、認知症にはなりそうもない。
朝日新聞は、そろそろ心配だという人にお勧めな新聞である。

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2018年9月20日 (木)

日々これ

安倍クンの三選。
まあ、理想的だったんじゃないか。
自民党の幹部もいっていたけど、ひとり勝ちじゃいけない。
あるていど反対勢力もあったほうがいいというのは、この成熟した国のコンセンサス。
だからわたしに、石破クンや進次郎クンも含めてやらせじゃないかと疑われる。

いずれにしてもコップのなかの小さな嵐、自民党の優位が変わるわけでほないし、終わればまた昨日が明日にも。
日本が世界のあこがれであることも、当分は事実。
書くことがないから今日はこのていどで。

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2018年9月19日 (水)

恩讐

ネットニュースの中に、安倍クン(日本の総理)が、会津と長州はお友達ですからと発言したという記事があった。
山口県(長州)出身の安倍クンが、福島(会津)にゴマをすったってことらしいけど、わたしの知ってるかぎり、会津が戊辰戦争のうらみを水に流したって話は聞いてないねえ。
福島の人たちはこのジョークを聞いてどう思っただろう。
安倍クンも順番としては、まず青森の斗南藩の跡地で先に謝るべきだったよなあ。

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代弁

最近フェイスブックからやたらにお知らせが来るんだけど、ワタシってFBにあまり興味ないからね。
そんなお知らせを見ていると焦りみたいなものが感じられる。
なんせこの世界、一夜にして時代の寵児ってこともあれば、一夜にしてホームレスってのもあっという間だ(そこまで極端なことはないか)。
ザッカーバーグ君もさぞかし焦ってんだろうなあ。

なんでFBギライなのかを、微に入り細をうがって書こうと思ったら、ネット上にわたしと同じようなタイプの人がいて、わたしのいいたいことの大半を代弁していた。

その後半はちょっと同意できない部分もあるけど、おかげで長い文章を書く手間がはぶけた。

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2018年9月18日 (火)

矛盾

また石破クンをけなしてしまう。
総裁候補による討論で、彼がやっぱりモリカケなんか持ち出したせいもある。
野党と同じことしかできないということは、ほかに責めようがないからで、責めようがないということは、安倍クンがまともな政治をしてるってことじゃないか。

斉藤(むずかしい字なので省略形で)農水相に対して、当人を任命した現総理に反対するなら辞表を書けと圧力をかけた有力者がいるそうだ。
斉藤サンは、そんなことはわかっていて任命したんだろうと反論したそうだ。
どうもまた忖度が表面に出たってことらしいけど、こんなことをいわれる大臣がいるということ自体、ぜんぜんべつのことを推察する根拠になる。

石破クンにいわせると、安倍クンは自分の息のかかった人間ばかりを重用するってことだけど、対立する(石破)陣営からもちゃんと閣僚を出していることは、斉藤サンの例からもわかるではないか。
こんな矛盾したことを相手への批判に利用しようとする石破クン、大喜びで記事にするリベラル紙の底の浅さにはあきれかえる。

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緑の光線

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たまには新しい映画だって観るぞというわけで、4、5日まえに録画しておいた「緑の光線」という映画の感想。
出てくる女の子たちの服装や水着がいま風なので、新しい映画だろうと思ったけど、調べてみたら1985年の公開だったから、もう30年以上もまえの映画だ。
映画には詳しいつもりのわたしがぜんぜん知らなかったフランス映画である。

最初に早送りでざっとながめたら、アスリートみたいなアメリカとは異なる、もっと女らしいきれいな女優さんの水着シーンがあったので、ついつい最後まで観てしまった。
以前に観た「ストレンジャー・ザン・パラダイス」みたいな脱力系の映画だった。
ぽわんとした娘がバカンスを利用して、シェルブールまで海水浴に行くんだけど、べつに刺激的な事件が起こるわけでもなし、ぽわんとしたまま結末を迎えるだけ。
刺激的な映画ばかりの昨今では、そのぬるま湯につかったようなのんびり感がかえって新鮮というやつ。

主演女優はきれいだけど、これにからむ男がどうも頼りないやつらばかりだ。
なんでもほんの少数のスタッフだけで、16ミリカメラで撮影されたゲリラ的な映画だというから、予算をケチって、そのへんの素人に出てもらったんじゃないか。
でも予算をかけるばかりが映画じゃない。
ゴダールだって低予算でいい映画を作ってるし、そういうことでは伝統のあるフランスだ。
そういえば登場人物のさして重要ではない会話や、カレンダーで日にちの推移を表現するところなど、ゴダール的風景が随所にあらわれるのは、この監督もヌーベル・バーグの申し子である証拠なんだろう。

さて、映画のヒロインのこと。
きれいな娘だけど、なぜかひとり旅である。
どうも理屈が先に立っちゃう娘のようで、友人たちと食事をしても、あたしってベジタリアンなのと、食事に水を差すようなことを平気でいってしまう。
アヴァンチュールに興味がないわけじゃないんだけど、いざとなるとなかなか踏ん切れない。
海辺でおっぱい丸出しのスウェーデン娘と出会って、もっと自由に生きなくちゃなどとはっぱをかけられても、やはり煮え切らない態度。
いるねえ、こういうタイプ。
このへんは、ひとり旅を愛するわたしにも理解できる部分がある。

ひとり旅って優雅であるけど、倦怠や疎外感におそわれることもしょっちゅうあるのだ。
素敵な女の子との出会いでもないかと期待して、やたらにあちこち彷徨してみても、現実にはなかなかそういうことはない。
ましてニートの傾向があるし、わたしって。
そんな個人的なことはどうでもいいけど、なにも起こらないってのがおおかたの女性の現実だろうし、監督が描きたかったのは、こういうありふれた女性を通して、現代の孤独を追求することだったのかもしれない。
でも工夫もスリルもあるわけじゃない。
女優さんがアメリカ型で、厚着をした冬のニューヨークが舞台だったら、とても観たいと思う映画じゃないね。

いちゃもん大好き人間のわたしにいわせると、ちと気になる点も。
このヒロインは旅に出るまえに彼氏にふられたらしい。
でも電話での会話や、バカンス先で彼氏の別荘を貸してくれなどと頼んでいるところをみると、それまではけっこう親密な関係だったようである。
つまり彼女がすでに男を知っているとしたら、旅先での行動があまりにも潔癖すぎるのだ。
シナリオ的には、彼女を文学好きで、おくての女子大生にでもしたほうがよかったと思う。

ついに失望したまま彼女はパリに帰ることになる。
ところが駅で話しかけてきた男に、これが最後のチャンスというわけなのか、誘われるままにふたりで夕日を見に行くことにする。
で、ベッドインかと思うと、そういうシーンはぜんぜんなくて、夕日を眺めるだけで映画は終わり。
沈む夕日のなかに緑色の光が見えれば幸福になれるという言い伝えがあるそうで、これが映画のタイトルでもあるんだけど、彼女はじっさいにそれを見るから、このあとふたりは(たぶん)ホテルにもう一泊してシアワセになったんだろうなって、つまらない妄想をかきたてられるのは、わたしが下品すぎるのか。
ファッショナブルでロマンチックな映画だと信じている人たちには、すみません。

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2018年9月17日 (月)

今朝の新聞

朝早くから新聞を読んで眉をくもらせる。
今日の4面と国際面が原因だ。

4面では安倍クンと石破クンが論戦を交わしたというんだけど、安倍クンの言っていることは、たとえばプーチンの発言に対して、一部の発言をもって右往左往することがあってはならないという。
これは政治家にしてみれば当然のことで、ケシカランというべきものではない。
しかし石破クンのほうは、そうですねというわけにはいかないから、いちゃもんをつける。
いちゃもんをつける理由がないのにいちゃもんをつけるのだから、どうしても無茶な言い分をひねくり出さないわけにはいかない。
そこで、領土を少しでも譲ることは主権を失うことだから、あってはならないなんてことをいう。
まだ安倍クンはなにも結論を出してないし、こういうことは相手の言い分にも耳を貸さなければ話は進まないのにである。

同じ4面には政治断簡というコラムがあって、女性の編集委員がトイレの紙の使用量について書いていた。
最近ウチの新聞に女性コラムニストが増えているような気がするのは気のせいかしら。
それにしてもどうしてこんな、朝日新聞に都合のいい論調をふりまわす女性を見つけて採用するのか。
彼女は例の、同性愛カップルは生産性がないといった議員(自民党)を、指導ですませている自民党は怠慢だというんだけど、たったひとりの議員の発言を問題視するっていうのは、言論の自由をさまたげる行為であることに気がつかないのだろうか。

国際面では中国の習近平サンがキリスト教会を閉鎖したり、少林寺に国旗をかかげさせたりしている。
これは中国政府の勇気のなさの証明みたいなものだけど、日本政府はなにを書かれても、朝日新聞を閉鎖に追い込むようなことはゼッタイにしない政府である。
これは国民全体が、言論の自由は神聖にして犯すべからずというコンセンサスを持っているからだ。
男の編集委員では、さすがにそのへんがおかしいと気がつくので、朝日新聞に女性の記者、編集委員が増えているとしたらそういう理由かもしれない。

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2018年9月16日 (日)

朱旭さん

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今朝の新聞の訃報欄に朱旭さんの名前が。
小さいながらも写真つきだったので、わたしはすぐにこの人がわかった。
むかし中国語の勉強をしているころ、NHKの中国語講座でひょうひょうとした演技をみせていたおじいさんである。

この人はその後、日中共同制作の「大地の子」というドラマでも重要な役を演じていたけど、あいにくわたしは日本のそういう番組にはあまり興味がないので、へえ、あのおじいさんかと思ったていど。

ところがさらにそのあと、この人は中国映画の「變臉(へんめん)」という作品で、みたびわたしのまえに姿をあらわした。
はずかしいけどこれが、見終わったあと、大のおとなのわたしに涙ぼろぼろという感動作だったので、朱旭さんは忘れたくても忘れられない存在になってしまった。

わたしはいまでもときどき、大陸中国を旅していたころのことを思い出すけど、朱旭さんと、彼に(後継ぎのつもりで)買われた薄幸の少女のことも、そのたびに思い出してしまう。
もちろん彼らは映画のなかの架空の人物なんだけどね。

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2018年9月15日 (土)

賞味期限切れ

朝になって三つも仕掛けたゴキブリホイホイを確認したら、1匹もかかってない。
どうやら食べ物に賞味期限があるように、ゴキブリホイホイにもそれがあるようだ。
使い残しの古いホイホイを使ったんだけど、あまり古すぎて接着剤のねばねば効果が薄れていたんじゃないか。
やつら(ゴキブリ)が鼻歌を歌いながら、ホイホイの上を行ったり来たりしていたかと思うとマジでプッツンしそう。

今日は新しいホイホイを買ってくるつもりだ。

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2018年9月14日 (金)

自然界は

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庭のハーブ(ミント)をグラスに挿して台所に置いておいたら、葉の部分をみんな何者かに食われてしまった。
だれだ、だれだ、こんなことをするのは。
決まっている。 ゴキブリの野郎に相違ない。
昼間見ないから安心していたけど、動かぬ証拠をやつら自身が残していったというわけだ。
こうなったらやむを得ない。
今夜はひさしぶりにゴキブリホイホイを仕掛けるのだ。
しょっちゅう仕掛けていると効果がなくなるけど、半年ぶりだからやつらも油断しているにちがいない。

以前なんか足を1本残して逃げたやつとか、夫婦らしい2匹がいちどにかかったことがあって、その悲惨さからあまり気がすすまないんだけど、アフリカでハイエナにキンタマを食いちぎられるバッファローもいることだ。
自然界はキビシイのだと、やつらに教えてやらなくちゃ。

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2018年9月13日 (木)

プーチンの提案

おお、今日のビッグニュースみたいなニュース。
今朝のウチの新聞によると、プーチンが安倍クンに、年内に平和条約を結ぼうと提案したそうだ。
いいことじゃないかというのはわたしの考えで、またなんかウラがあるんじゃないかと疑うのは、その他大勢の人たちだ。
疑う人たちにいわせれば、先に平和条約を結べば、ロシア極東の振興策やエネルギー開発、サハリンと大陸間のトンネルだとか、美味しいところばかりもっていかれて、けっきょく北方四島は知らん顔をされるに決まっているというのだろう。
だからなにがなんでも平和条約と四島返還はセットであるべきだといいはって、この先100年か200年か、とにかくまた日本とロシアが戦争をしてカタをつけるまで現状維持が続くのだ。
あー、もううんざり。

先に平和条約を結んで困る理由があるだろうか。
相手が美味しいところばかり取ろうとしたら、個別の問題を提起してゴネればいいではないか。
日本は妥協したのになんで島を返さないんだ。
えい、もう経済協力はストップだ、金は出さん、トンネルも掘らんといってやれば、また相手も交渉の席に出てこないわけにいかない。
なんか北朝鮮の戦略に似てるけど、こういうことでは金を出すほうに主導権があるのだから、北と同一視はできない。

だいたい平和条約を結べば、ビザなし交流も盛んになり、旅行大好き日本人はもっと気楽にロシアに観光に行けるし、ロシア人もどしどし日本にやってくるだろう。
来日すれば、どれだけ日本が平和で豊かで、食べ物が美味しいか、これほど確かな宣伝工作はないのであって、いまより日本ファンのロシア人が増えることは、あっても減ることはないはず。
これが成功しているのが現在の対中国政策で、最近はむかしほどうるさいことをいわないから、中国人がどしどし日本に来る。
反日教育を受けたはずの彼らのなかに、日本びいきが増える一方ではないか。
日本に永住するのが夢らしいことは、たとえばわたしのアパートのロシア人に聞いてもわかる。
こういう状態が続けば、四島返還もロシア大統領にとって重荷ではなくなるだろう。

城を攻略しようと思ったら、まず外堀を埋めよってことわざがある。
目先の利益よりもっと長期的な展望で、まず平和条約を結ぶべきじゃなかろうか。
新聞にはいろんなうがった見方も書いてある。
でも突然のプーチンの提案なら、外交上の戦略というより、彼もいつになっても動かない日露交渉にイラついているという気もする。
無理難題をふっかけてロシア大統領の首を飛ばしてもどうにかなるわけじゃないし、気に入らなかったらいつでもちゃぶ台返しをするつもりで、とりあえずプーチンの提案にのったほうがいいと、わたしは思います。

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2018年9月12日 (水)

それよりも

今朝の新聞もネタが満載ってところ。
いちいちいちゃもんをつけるのがしんどくなった。
わたしみたいにボウフラの遠吠えみたいなのがいくらブウたれても、世界はガタピシした線路の上を、ただひたすらに未来へ向かって走り続けるだけなのだ。

今日の新聞では31面の、「みんなで支える五輪を問う」という記事にいちゃもんをつけてみよう。
だいたいオリンピックが始まれば五輪一色に染まる新聞が、こんなものを問うほうがおかしいんだけど、いや、問うてるのは世間であって、ウチはそれを公平に報道しているだけだといわれれば、それもその通り。

具体的になにを問うてるのかと思ったら、政府が音頭をとってボランティアを募集するのが、戦前の挙国一致や学徒動員につながるからと、これはまた大時代的な、左翼的な。
わたしも無償でボランティアを募集するのはムシが良すぎるという立場だけど、イヤなら参加しなければいいだけの話だから、そんなことでいちいち騒がない。
あ、もちろん英語ワカラン人間だから、通訳なんかとても勤まらんけど。

わたしみたいな引っ込み思案には想像もできないけど、世間にはこの機会に外国人と話してみたいという出たがり人間や、あわよくば外国人と知り合って、結婚して、大阪なおみさんみたいな優秀な子供を産みたいというオンナの人だって、日本の総人口のうちの 0.1パーセント、もしくは 0.01パーセントぐらいはいるんじゃないか。
そういう前向き人間の希望の芽を摘んでしまうのもどうかと思う。
それよりも商業主義に毒されて、やたらに種目を増やしたり、開催時期を上からの指示で決めようとするIOCに文句をいうべきだよなあ。

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2018年9月11日 (火)

謀略

今朝の新聞には、自民党総裁選での安倍、石破クンの論戦のニュース。
憲法改正については、どっちもどっちで違いがサッパリ。
つまりどうでもいいみたい。
それでもウチの新聞はあいかわらず、国民がちょくせつ参加できるわけでもないのに、次期総裁にふさわしいのはどっちかなんてアンケートをして、あっちが何パーセント、こっちが何パーセントなんて騒いでいる。
朝日新聞のアンケートが信用できないのはいつものこと。

そんな記事のなかにひとつだけピカリと光る一行が。

【その援軍が皮肉にも石破氏の舌鋒を鈍らせている】
というものだけど、やっぱりわたしがこのブログに書いたとおりじゃん。
今回の総裁選じゃ、参院竹下派の一部が石破クンの援軍にまわったそうだけど、それがあまり仲間内で攻撃し合うのはマズイでしょといいだして、石破クンのもの言いにクギを刺したそうだ。
つまり最初から出来レース。

だれかが援軍にまわらないと、所属議員が20名ていどの石破派では、そもそも立候補すらできないおそれがある。
これじゃまた独裁だの非民主的だのと、マスコミになにを言われるかわからんぞ。
だれか応援に行って、ついでに向こうが余計なことをいわないようにさるぐつわをかましてこい。

さすがは陰謀策略にたけた自民党だ。
ここまで深読みすると、石破クンの立候補そのものも、自民党がいかに民主的であるかを強調するためのやらせかもしれない。
つぎの組閣で石破クンがどんなポジションを獲得するか、そのへんでおおかたの判断ができそう。

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2018年9月10日 (月)

華麗なる激情

また映画の話題だよ。
全方位的ブログをめざす当方としては、ネタが映画にばかり偏るのはいい気分じゃないけど、目下ひきこもり。
テレビから録画した映画を観るのが、金のかからないいいヒマつぶしなのだ。

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今回は法廷劇じゃないけど、カタそうな映画の第4弾だ。
先日テレビ放映された「華麗なる激情」って映画、チャールトン・ヘストンとレックス・ハリソンというアカデミー賞役者の共演した歴史大作だ。
「ベン・ハー」や「クレオパトラ」みたいに、豪華絢爛さを前面に押し出したコスチュームプレイ映画(最近のコスプレとは異なる)といっていい。
内容はうすうす知っていたけど、なんでもルネッサンス期の彫刻家ミケランジェロと、時の権力者ユリウス2世の対立を描いた作品だという。
派手な戦車競走があったり、半裸のきれいな姉ちゃんが出てくるわけでもなさそうだから、これまでじっくり観ようという気にならなかったのである。

でもじっさいにはなかなかおもしろかった。
監督は「第三の男」などで知られる巨匠キャロル・リードである。
彼はこの映画を喜劇として作ったのかもしれない。
たとえばシスティーナ大聖堂の天井画を依頼されたミケランジェロが、戦争大好きユリウスのところへ下絵を持ってくると、戦争中であるにもかかわらず、ふたりは芸術談義を始めてしまう。
部下たちが、相手が攻撃を開始しました、こっちも反撃したほうがよかないですかと進言してもおかまいなしだ。

またべつのシーンでは、高いやぐらを組んで、その上でミケランジェロが作業をしている大聖堂へ、ユリウスがとりまきを引き連れて礼拝にくる。
ミケランジェロはけっつまづいて塗料のバケツをひっくり返してしまう。
せっかくコスチュームプレイにふさわしいきれいな衣装を着た坊さんたちが、ペンキまみれになるところがおかしい。

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監督が意図してこういう映画にしようと思ったのなら、彼はなかなかの策士だ。
喜劇というものは、ほかの部分に手抜きすることなく、お金をたっぷりかけ、重厚な役者を起用し、まじめな顔でやったなかに、おかしい部分をさりげなく挟むのが、上質のテクニックだからである。

喜劇だとすれば、絵の構想を得るためにミケランジェロが、雲の形から啓示を得るといういいかげんなところや、個性派俳優のハリー・アンドリュースが、薄っぺらい人物を演じているのも納得できる。
「華麗なる激情」だなんて、大げさで、どこか感心しない映画のタイトルにも合点がいく。
そういうわけで、監督がどういおうと、わたしはこれは喜劇であると信ずるのである。
まじめなシーンが多すぎるのが欠点といえばいえるけど。

ただ、ぜったいに喜劇であると断言しにくいのは、じつはビデオデッキの不調で、2時間以上ある映画の最後の10分を録画しそこなったからだ。
その最後の10分間で、登場人物全員が殴り合いでも始めていれば、喜劇だという確信は不動のものになるのだが。

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そういうことはべつにしても、芸術に興味のある人には、へえ、ああやって描くのかって、当時のフレスコ画の制作風景を見られるのが楽しい。
ルネッサンス時代の壁画や彫刻、そして人々の生活ぶりも、随所で小道具、大道具として使われているので、そういうものを見るのも楽しい。

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2018年9月 9日 (日)

9月の海

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9月か。
海で泳ぐにはいちばんいい季節だなあと思う。
世間のフツーの家庭では、子供の夏休みが終わると、泳ごうという機運はしぼんでしまうけど、海水がいちばん暖かいのは9月である。
それ以外にも、わたしにとってもうひとつ興味深い事実がある。

むかし知り合いのヨットに乗せてもらって、西伊豆のどこかの海岸に錨泊していたときのこと。
船の上でとぐろをまきながら、なにげなく海面をながめたら、すぐかたわらに小さな魚がアップアップしているのが見えた。
網でかんたんにすくえたので、船に収容してよく眺めたら、なにしろこのころはダイビングに凝っていて、いろんな魚の名前にも詳しくなっていたころだから、ソウシハギという魚の幼魚であることがすぐにわかった。
体に青いラインの入ったきれいな魚である(写真)。
大きいものは1メートル近くになるけど、わたしがこのとき見たものはせいぜい10センチくらい。

ところでこの魚は、沖縄のサンゴ礁ではおなじみの魚だけど、伊豆あたりに根付いているのは見たことがない。
時期的にみて、おそらくぼんやりしたのが黒潮に乗ったまま流れてきてしまったのだろう。
9月になると伊豆あたりでも、ふつうなら見られない、こういうめずらしい迷子の魚を見ることがある。
この季節の海水浴が楽しいというのはこのことだ。

Hagi2

これとはべつに、以前房総の鴨川に行ったとき、海岸の岩場でウェットスーツを着て、なにか採集しているグループを見たことがある。
聞いてみたら、海水魚をとってそれ専門の店に卸している人たちだった。
房総あたりにもチョウチョウウオの仲間がいるから、まあ小遣い稼ぎていどにはなるのだろう。
秋ならばたまにサンゴ礁の海にしかいないめずらしい魚もとれるそうである。
海にいるものをタダですくって金儲けだなんてと、なんとなく腹がたったけど、考えてみると漁師だってやってることはいっしょだ。
遠路はるばる流れついた魚は、そのほとんどが年を越せず、冬のあいだに死んでしまうんだし。

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2018年9月 8日 (土)

人生は不条理

今日の新聞の身の上相談に、政治学者の姜尚中さんが答えている。
相談者は身内のある人物を例にあげて、不幸に生まれ、不幸に生きて、不幸なままに死んだ男の人生ってなにか意味があるのかと問いかけている。
おりしもいまの日本は災害列島で、またしても、わたしなんかよりはずっとまともに生きてきた人たちが、泥水に流され、土砂に埋まっているところだ。
うーんと考えてしまうけど、こういうムズカシイ話をブログに書いているヒマがない。
今日はこれから月に一度のパソコン同好会で、終わるとまた宴会で、帰宅するとベッドにばったりが当然なのだ。

今夜はまた雨だとか(ほんとかね)。
アメリカでは大谷がホームラン。
人生は不条理。

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2018年9月 7日 (金)

またまた法廷劇

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法廷劇の3弾だ。
録画するまえは、まさか法廷劇だとは思ってなかったんだけど、意外だったその映画のタイトルは 「ゾラの生涯」。
ゾラというのはフランスの文豪エミール・ゾラのことで、印象派の絵画と同時代を生きた人だから、ゴッホやゴーギャンと同じくらい古い人である。
映画も負けずおとらず古くて、戦前の1937年製だ (それでももうサイレントではないぞ)。

作家の生涯なんていうと、もう焼き冷ましの餅みたいに硬そうなイメージだけど、なんでそんなものを録画しようという気になったのか。
じつは主人公を演じているのが、ギャング映画の名作 「暗黒街の顔役」 で、主役をつとめたポール・ム二という人なのだ。
この人が生きているうちに、一度もこの人の映画を観たことがなかったくせに、わたしは彼のファンなのである。

作品ではなく、それを書いた作家の映画だから、もちろんぜんぜんおもしろそうではない。
でも観てみたら、まずのっけから若いころのゾラが、どこかひょうきんな若者として描かれ、全体に軽いユーモアがあって、予想とは違っていた。
雨の中、彼がボロ傘をさして出版社に前借りに行くとちゅう、傘売りから新しい傘をすすめられると、古い友人と別れろっていうのかと、断るセリフがおもしろい。
このほか、画家のセザンヌとぼろアパートに同居していて、まだ未完の大器であるふたりのやりとりも興味深い。

まだ国民健康保険も失業保険もない時代だ。
売れない作家だったゾラが、セーヌに入水する娼婦や、落盤事故に遭う炭鉱労働者の悲惨な境遇を目の当たりにして、しだいに社会主義にめざめていくようすが要領よく語られる。
やがて彼は 「ナナ」 という、娼婦を描いた小説でベストセラー作家になるのである。

映画はゾラの生涯ということになっているけど、大部分を占めるのは、当時フランスをゆるがした、ドレフュス事件という冤罪事件の裁判がメインだ。
これは隊内にスパイをかかえたフランス軍が、その不名誉を隠匿しようと、ドレフュスという軍人に罪をかぶせた事件のことである。
作家のゾラは被告の無実を立証しようと、これは本当にあった話。
それにしてもこの映画のフランス軍の姑息なこと。
大戦中の日本軍の悪口ばかりいう人もいるけど、組織が大事、組織を守るためならインチキもでっちあげもアリだなんて、軍隊の本質なんて、どこの国でも変わらないじゃん。

まえに書いた 「私は死にたくない」 のように、この映画の裁判長も、ゾラ側の証人や証拠はかたっぱしから却下して、一方的にフランス軍の肩をもつ。
しかしこちらはもともと、裁判所が軍と結託してゾラの訴えを却下しようとした、不条理な社会情勢を描いているのだから、映画がわるいわけではない。

そういうわけで法廷シーンもなかなかおもしろいんだけど、ただ、なにぶんにも古い映画だから欠点もある。
軍の密命を受けたほんの数人のために群衆が扇動されたり、逆に英国に亡命したゾラの記事で、こんどは反対方向に扇動される民衆を見ていると、現代のアメリカを見るよう。
陸軍大臣が代わって、隠匿を続けた軍隊が処断されるあたりの事情がはしょってあって、これじゃまるで中・高校生むけの伝記映画ではないかと思える部分もある。

そんなわけで傑作なのかそうでないのか、わたしにはにわかに判断のできない映画なんだけど、この映画はこの年のアカデミー賞を総なめにしているから、おそらく傑作なんだろう。

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すばらしいと思ったのは、主役のP・ムニの演技で、裁判のとちゅうで自分の意見をとうとうと述べるあたりでは、もう完全に文豪になりきっており、ギャング・スターのイメージはさらさらない。
マシンガンをぶっ放していたときはスリムでイケメンだったのに、この映画では開高健さんみたいな、ずんぐりむっくりの老作家になっていた。
全体に軽いユーモアを感じるというのは、このどこか憎めない文豪の演技によるところ大だ。

ムニはおなじ年にパール・バックの 「大地」 の映画化でも主役をつとめているから、ギャングと中国の農民と文豪という、まったく異なるタイプの人間を演じわけたことになる(写真)。
ほんと、名優といっていい人なのだ。

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2018年9月 6日 (木)

震度6強

夕刊を見たら「震度6強」というでっかい見出し。
ここんところ自然災害づいてるけど、わたしの周辺だけは磁気バリアーにでもくるまれているみたいで、どこの世界のはなし?って感じ。
今朝の地震なんかちょうど車で外出していて、そんなものかあったことすら知らなかった。
すこしは揺れたのかね、東京でも。

そのうちまた関東大震災が起きて、耐震補強をしていない我がアパートも崩壊するかもしれない。
でも強運のわたしのことだから、そのころには寿命のほうが先に尽きてるんじゃないか。
わが家はグランドと公園に面していて、しかもその公園は震災時の避難場所に指定され、トイレや井戸など、いろんな設備が完備しているところだから、散歩でもしているときに震災がきたぶんには、なにも問題ないんだけどね。

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2018年9月 5日 (水)

また法廷劇

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法廷づいているけど、またひとつ法廷劇といっていい映画の話題。
こういう映画はカタすぎるのが欠点だけど、いい映画というものは硬くても柔らかくてもおもしろいと書いたばかりだ。
今度の映画はどうだろう。

その映画のタイトルは 「私は死にたくない」。
スーザン・ヘイワードという、もしも生きていればゾンビがふさわしい女優さんが出演しているくらいだから、そうとうに古い映画だ(1958)。
いまのわたしは、生きているうちに観ておかなくちゃといういきごみで、せっせと古い映画を引っ張り出しているんだけど、残念ながら新しい映画に、生きているうち観たいなんてのはほとんどないのである。

この映画のストーリーは、ドラッグ、詐欺、売春なんでもござれのあばずれ女が、やくざ仲間の背信で殺人事件の犯人に仕立てられ、ガス室で死刑になるまでを描いた、これは実話にもとづいた話だそうだ。

現代ならあばずれにふさわしい女優はいくらでもいるけど、ヘイワードさんは、ほっぺたのあたりがふっくらしたベビーフェイスで、良家のお嬢さんみたいなタイプなのが欠点。
でも考えてみると、これはビートルズ出現以前の映画なので、いまみたいに鼻ピアスにタトゥーのような、わかりやすいあばずればかりがいたわけじゃない。
いいうちのお嬢さんタイプが意表をつく汚れ役ということで、ヘイワードさんはこの年のアカデミー賞をもらっていた。
アカデミー賞をもらっているからいい映画なのかといわれると、さてね。

団塊の世代には心地よいていどのスピードで物語は進行し、映画は中盤から先は裁判と刑務所内部の描写になる。
あちらでは弁護士が途中で逃げ出してもいいのか、アメリカの女性刑務所では囚人もきれいにお化粧してんなとか、つまらないつっこみを入れたくなるのはさておいて、たまげたのは死刑に使う毒ガスを、執行の当日に、刑務所内で薬品を調合して発生させること。
まるでオウム真理教だけど、その手順まで詳細に描かれること。
そういうものは外部から、タンク入りのものを買ってくるか、ガス管を伝って送ってくるのだろうと思っていた。

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ヘイワードさんの死刑理由は、強盗に入って老婆を撲殺したってことなんだけど、肝心の犯行シーンは省略されている。
強盗仲間の男が司法取引をして、べらべらしゃべって彼女に罪をおっかぶせるんだけど、じっさいに彼女が殺してないなら、男のいってることはすべてでたらめということになる。
そもそも証拠がないくせに、同じ犯行に加わった男のひとりがいったことを、全部信じてしまうなんてことが、あちらの裁判ではあるのだろうか。

また彼女は罪をまぬがれるために、窮余の一策で、外部の男にアリバイ工作を依頼するんだけど、じつはこの男は警察官で、巧妙に仕組まれたおとり捜査であったことがわかる。
しかし彼女の立場であれば、おとり捜査にひっかかってしまうことは十分考えられるのに、あちらの陪審員はそういうことをまったく考慮しないのだろうか。
わたしが 「十二人の怒れる男」 のひとりなら、ゼッタイに異論をとなえるぞ。

まあ、むかしの米国の司法というものはそういうもので、警察官は早く家に帰りたいし、陪審員もいま以上に馬鹿ばっかりだったのだといわれれば、返す言葉がないけれど。
どうもすこしでも納得できないところがあると、わたしの映画評はそれだけで厳しいものになってしまうのだ。

だいたいこの映画では、最初から彼女のガス室は既定方針で、すべてがそっちの方向にすすんでいるようにみえる。
彼女にとって重要な証拠になるはずの手紙は裁判長に却下されてしまうし、彼女の精神分析をして無実を確信する精神科医は、なにもしないうちに病死してしまう。
彼女にとって有力なアリバイ証人になるはずの亭主も、どうしてそうなるのかよくわからないうちに、翌日の新聞になすすべもなかったと書かれる始末。
そのくせ相手方の、憎々しそうな弁護士が持ち出す証拠はみんな採用だ。

精神科医の話を聞いて、ひとつ彼女の記事を書いてみようという、正義の味方みたいな新聞記者もあらわれるんだけど、これは小太りのおっさんだから、これでは彼女の美貌に狂ったたんなるすけべ親父にしかみえない。
このおっさん、最後に死刑囚から手紙を託されるんだけど、無罪でも証明する手紙かと思ったら、べつに意味もない手紙で、それじゃカポーティみたいに小説でも書くのかと思ったら、それもない。

「ニュルンベルク裁判」 を観たあとでこれを観ると、脚本の弱さがはっきりわかるよな。
それでもヘイワードさんの色気だけは観る価値がある、そういう映画。

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2018年9月 4日 (火)

新しい展望

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自称ナチュラリストの当方としては、日本に残された最後の秘境というべき西表島が恋しい。
あの干潟の軍隊ガニ(ミナミコメツキガニ)の群れが恋しい。
トイレのなかにまで入りこんでくるヤドカリが恋しい。
しかしもはや登山もダイビングも縁遠いものになって、秘境はますます遠ざかる一方だ。
そんな嘆きのわたしだけど、テレビを観ていて、あらたな展望が。

わたしはBSの 「ワイルドライフ」 という番組が好きで、欠かさず観ているんだけど、最近のカメラの性能向上には目を見張るものがある。
昨晩のそれには屋久島のコブシメという大きなイカが出てきた。
わたしは若いころ、初めて西表島に行って、せいぜい背丈ほどの深さの海中でこいつを見たことがある。
珍しいものを見たというより、美味しそうだなというのが最初の印象。
ヤリイカやスルメイカのようなスリムな体型ではなく、見るからに肉厚の、丸太ん棒みたいなイカだったもので。

そんなことはどうでもいい。
ここで問題にしているのは、カメラや撮影技術のことだ。
海の中で、2、3センチの コブシメの赤ちゃんにぴたりとピントを合わせる。
わたしもやってみたいけど、無理だろうな。
もはや機材にしても撮影技術にしても、しろうとが関われる域を超えている。
つまり、新たな展望というのはこのことだ。

わたしにはできなくても、テレビ番組が、わたしのやりたことを完璧にやってくれてるではないか。
いちいち西表島まで行かなくても、コブシメのクローズアップ、産卵するサンゴのアップ、ハタの口のなかを掃除する小さなエビのアップ、ゴマモンガラの究極のアップ(海中に設置してあったカメラをこいつがくわえてしまうのだ)、その他のめずらしい動物のアップなど、わたしには撮れそうもない生きものの生態を、美しい精緻な画像で見せてくれるのだから、部屋に寝っころがってテレビを観ていれば、むだな金を使わないですむということである。

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2018年9月 3日 (月)

ハイエナに食われる

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肉食獣と草食獣の関係は、食うものと食われるものである。
今日のこの瞬間にもアフリカの草原で、食うものが食われるものにかぶりついていることだろう。
同じ食われるにしてもハイエナに食われることほどいやなものはない。
ライオンやトラなら、食うまえに相手ののどを締め上げて窒息させ、それからおもむろに食う。
ハイエナはイヌとあまり変わらない大きさで、相手を締め上げるほど力がないから、大勢で寄ってたかって少しづつダメージを与え、相手が弱ったところを食べる。

アフリカのバッファローがハイエナに襲われる映像を観た。
元気なバッファローならハイエナごとき相手にしないはずだけど、このバッファローさんはもう年寄りで、どっちにしても肉食獣に食われるのは時間の問題だったようである。

数頭のハイエナが前方からバッファローを襲撃する。
彼がこれに対処しているあいだに、後方にまわった一頭が彼のキンタマにかぶりつく。
さすがのバッファローも男の急所にかぶりつかれたら万事休すだ。
バッファローが倒れてもがいていると、ハイエナはその陰嚢を食いちぎってしまう。
痛そう。
そしてまだ生きているバッファローの見ているまえで、タマタマをもぐもぐとうまそうに食べるのだ。
ひどい。
ハイエナにだけは食われたくない。

これとはべつにウシの去勢手術の映像も見たことがある(YouTubeにはどんな映像もあるのだ)。
鋭利な刃物で、陰嚢を切り裂き、手際よくタマタマを取り出してしまう。
麻酔なしだからこれも痛そう。
でも思うんだけど、タマタマを取られた瞬間て、煩悩の鬼から解放されて、一瞬ながら、こころのうちに青空が広がったような気分になるんだろうか。
ウシさんに聞いてみたい。

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2018年9月 2日 (日)

まるはだか

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今年の1月に植木屋が入って、草木ことごとく刈られたわが家のまわり。
それから半年ぐらいなのに、おびただしい雑草が人の背丈よりも高く生い茂って、麻薬カルテルの競合するメキシコかブラジルみたいな無法ぶりだ。
さすがにケシカランと、ついに司直の手が入っちゃった。
つまりまたバッサリと刈られちゃったわけだけど、上が刈られるまえ、下が刈られたあとの写真だ。

いちじは名の知れぬ花が咲き、オニヤンマが飛び交い、その根元で小さな虫たちの命をかけた興亡があったはずの小宇宙。
ついこのあいだも昆虫アミを持った少年が、夏休みの宿題なのか、この草むらに分け入っていたっけな。
ああ、わたしにもそんな少年時代があったものを。
と、つまんないことを考えるのも、ようやく気候が秋めいてきたせいか。

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わたしがときどき御用達してきていたハーブのミントもきれいさっばりだけど、そのほんのわずかが、かろうじてわたしの部屋で脈拍を保っている。
なにしろ途中から切ってグラスに挿しておくだけで、また新しい根が生ずるゾンビみたいな植物だ。
まだ地中で執念深く復活の日を待っているに違いない。

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2018年9月 1日 (土)

ニュールンベルグ裁判C

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なんとしても第三帝国のもと法務大臣の罪を問いたい軍人検事のリチャード・ウィドマークは、つぎにフェルデンシュタイン事件の一方の当事者をかつぎ出した。
この事件は、あるユダヤ人がドイツ人の少女を誘惑して、イヤらしいことをしたというもので、当時はアーリア人(ヒトラーが勝手に定めたドイツ人のこと)と他の民族との混交は法律で禁止されていたから、このユダヤ人は問答無用で死刑になった。

ところが被害者であるはずの少女にいわせると、状況はぜんぜん異なる。
少女とユダヤ人は年の離れた、ただの仲のよい隣り同士で、あちらの国だから、たまにはほっぺたにキスをしたり、ひざに乗ったりする。
それだけの関係だと主張したにもかかわらず、ユダヤ人は処刑されてしまった。
このときの裁判で死刑判決にOKを出したのが、B・ランカスター扮する、もと法務大臣のエルンスト・ヤニングだったのである。

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軍人検事は、もうそんな事件のことは思い出したくないという、すでにいいトシのおばさんになっている少女を説き伏せて、証言台に立ってもらう。
このおばさんを演じたのは「オズの魔法使い」の子役であり、「スタア誕生」のミュージカル・スター、ジュディ・ガーランド。
わたしには子役時代の可憐な少女か、スリムなダンサーのイメージしかないんだけど、この映画ではあごに肉のついた貫禄のあるおばさんになっていた。

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なにもイヤらしいことはしていません、あなたの言わせたいことはしていませんと、おばさんは必死で説明をするんだけど、ここでも熱血弁護士の反論は容赦なく、なにがなんでもワイセツ事件を印象づけようとするものだから、ついに彼女は泣き出してしまう。
そのときだ。
これまでずっとだんまりを続けていたヤニングが、すっくと立ち上がって、叫んだ。
「いいかげんにしろ」
「何度同じことをいわせるんだ」

この部分は映画「ニュールンベルグ裁判」の最大の山場で、劇的効果は絶対満点、耐えに耐えたヤクザの健さんが、ついに相手の組に殴り込むような痛快感がある。
考えてみると、ユダヤ人が死刑になった裁判のとき、まだ少女だったおばさんは、ヤニングのまえで同じことを何度も訴えたはずなのだ。

このあとは急転直下だ。
ヤニングはすべての罪を認めてしまう。
被告席に座った同僚の罪をあばき、そんな同僚たちに協力した自分の罪をあばく。
ドイツ人が大量虐殺を知らなかったはずがない、それを知らなかったとしたら、自分たちはいったいどこにいたのか、わたしは愛国のために盲目になっていたと、彼の悔恨はとどまるところを知らない。
この場面、「独裁者」におけるチャプリン顔負けで、時計を測ってみたらヤニングは5分半近くもひとりでしゃべりっぱなしだった。

被告が罪を認めてしまったら、裁判はふつうそこで終わりである。
映画もここで終わったら、シロクロのはっきりした映画ということで、観衆は喜ぶかもしれないけど、作品の価値はいくぶんか目減りしたかもしれない。

逆に追いつめられることになった熱血弁護士マクシミリアン・シェルはどうするか。
アカデミー主演男優賞を獲得するには、ここでひっこんではいけないのである。
彼はニュルンベルク裁判を、もっと普遍的な、全人類の罪という方向に転換させるのだ。
映画の中にユダヤ人の死体が山をなすホロコーストの実写映像がはさまるけど、これを許したのはヤニングひとりの責任ではなく、傍観していた世界中の人々にあるのではないかと、彼は法廷で力説する(彼の演説も3分以上ある)。
これは、たとえば北朝鮮の無慈悲な独裁者を放置している、現代に生きるわたしたちへの問いかけでもあるだろう。

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彼らがこんな演説をぶっているあいだにも、時代は刻一刻と変化する。
田舎判事が判決を出すまえに、ソ連軍がチェコに侵入したという連絡が入る。
冷戦の始まりだ。
こうなるとドイツ国民を味方につけたいアメリカの立場は微妙なものになり、判決も情状酌量の余地やむなしということになってしまう。
映画では最後に被告全員に終身刑が下されるんだけど、これは数年後に保釈という暗黙の了解つきなのだ。

裁判が終わるとちょっと気の抜けた感じがある「ニュールンベルグ裁判」だけど、最後は理性や信念だけではどうにもならない現実を、わたしたちに突きつけて終わる。
わたしも長年映画を観続けてきたけど、これほど感動した作品はあまりないね。
やっぱり生きているうちに観といてよかった。

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