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2018年9月22日 (土)

パルタザール

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先日放映された 「パルタザールどこへ行く」 という映画、1964年の映画である。
なんとなく傑作みたいな気がしたので、ずっとむかしにレンタルビデオを借りて観たことがある。
つまらない映画だったので、そのときはとちゅうで放り出したけど、それがまたタダで観られるというので、わたしもむかしに比べれば相応に大人になったつもりだから、今度はじっくり観ようと録画してみた。

結論としては、やっぱりわからん。
つまり駄作だということである。
駄作であるならこんな映画評を書くこともないんだけど、わたしがいつも利用している映画データベースも含めて、いまだにこれを傑作だと信じている人もいるようだから、そういう蒙昧の徒を覚醒させるためにも、あえて書く。

この映画はパルタザールというロバと、飼い主の娘の交情をを描いたものだそうだけど、ロバが愛らしい動物で、ヒロインも目もとのパッチリしたかわいい娘であることはよくわかった。
注意しなくちゃいけないことは、ウブな青少年のなかには、映画のヒロインにひと目惚れして、それだけで映画も忘れられない傑作だと信じてしまう人がいることだ。
水をぶっかけるようなことをいうけど、このヒロイン、なみだを流す場面はあっても、喜怒哀楽の表情がほとんどない。
こういうのを世間では白痴美というんだけどね。

まず冒頭に娘の子供時代という設定で、数人の少年少女が出てくる。
みんな子供のロバをかわいがっているんだけど、彼らのなかには病死する少女もいるのに、それがロバとどんな関係で、どういう事情なのかさっぱりわからない。
セリフが少ないというのは、ときに深遠な哲学的雰囲気をかもし出すことは事実。
しかしそんなものに騙されないのがわたしのブログだ。
これはどうみても脚本が悪い。
登場人物やあらすじを、もっと要領よく説明する方法がありそうなものだ。

子供が父親に、このロバを買ってと頼む。
父親はダメだと答える。
つぎの瞬間には、なんの説明もなしに、親子はロバを自宅に連れて帰る。
獣医がこのロバはもう助からないねというのに、つぎの場面では浮浪者にひきとられて、ふつうに歩いているロバが映る。
さっぱり意味がわからない。

父親が娘を探しまわる場面があるけど、ここでは父親はほとんど棒立ちのままうろうろするだけ。
ほかの登場人物にしても、ぶっきらぼうな態度のままというのが多い。
おそらく監督にこうやってくれといわれて、はいはいとそのままやっているだけなのだろう。
これでは演技とはいえない。

芸術が円熟期に達すると、新しい表現を求めてさまざまな実験が行われるように、「パルタザール」も、監督がこころみた実験映画だったのかもしれない。
しかしこの映画より以前に、「戦火のかなた」「道」「自転車泥棒」「恐怖の報酬」「勝手にしやがれ」「突然炎のごとく」など、さまざまな傑作・佳作・異色作(わたしのライブラリーにあるものだけでも)が生まれているところをみると、この映画は失敗作としか思えないのである。

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やがてヒロインの娘は不良仲間にレイプされてしまうんだけど、この場面は大幅に省略されているのでもの足りない。
映倫がうるさかったから、この時代には “もの足りる” ような過激な映像は撮れなかったとお思いか。
デ・シーカの「ふたりの女」はこれより4年まえの映画なんだぞ。

この映画は観念的なものを映像化した、ストーリー無視の、詩のような作品ではないかと好意的に考えてみた。
しかし詩ならばなにかしらこころに残るものがあるはず。
観終わったあと、ほんわりとあたたかな気持ちになれるフェリーニの「81/2」は、この前年の作品なんだけどね。

ろくでもない監督が、ろくでもないジコチュウを押しつけてくる映画、というのがわたしの、「パルタザール」に対する正直すぎる評価だ。
でもこの映画はヴェネチアで賞をもらってるという人がいるかもしれない。
それこそ事大主義だ。
おまえは他人がほめるからすばらしいというのかと、そんなノータリンな考えを一蹴してしまう。

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