また法廷劇
法廷づいているけど、またひとつ法廷劇といっていい映画の話題。
こういう映画はカタすぎるのが欠点だけど、いい映画というものは硬くても柔らかくてもおもしろいと書いたばかりだ。
今度の映画はどうだろう。
その映画のタイトルは 「私は死にたくない」。
スーザン・ヘイワードという、もしも生きていればゾンビがふさわしい女優さんが出演しているくらいだから、そうとうに古い映画だ(1958)。
いまのわたしは、生きているうちに観ておかなくちゃといういきごみで、せっせと古い映画を引っ張り出しているんだけど、残念ながら新しい映画に、生きているうち観たいなんてのはほとんどないのである。
この映画のストーリーは、ドラッグ、詐欺、売春なんでもござれのあばずれ女が、やくざ仲間の背信で殺人事件の犯人に仕立てられ、ガス室で死刑になるまでを描いた、これは実話にもとづいた話だそうだ。
現代ならあばずれにふさわしい女優はいくらでもいるけど、ヘイワードさんは、ほっぺたのあたりがふっくらしたベビーフェイスで、良家のお嬢さんみたいなタイプなのが欠点。
でも考えてみると、これはビートルズ出現以前の映画なので、いまみたいに鼻ピアスにタトゥーのような、わかりやすいあばずればかりがいたわけじゃない。
いいうちのお嬢さんタイプが意表をつく汚れ役ということで、ヘイワードさんはこの年のアカデミー賞をもらっていた。
アカデミー賞をもらっているからいい映画なのかといわれると、さてね。
団塊の世代には心地よいていどのスピードで物語は進行し、映画は中盤から先は裁判と刑務所内部の描写になる。
あちらでは弁護士が途中で逃げ出してもいいのか、アメリカの女性刑務所では囚人もきれいにお化粧してんなとか、つまらないつっこみを入れたくなるのはさておいて、たまげたのは死刑に使う毒ガスを、執行の当日に、刑務所内で薬品を調合して発生させること。
まるでオウム真理教だけど、その手順まで詳細に描かれること。
そういうものは外部から、タンク入りのものを買ってくるか、ガス管を伝って送ってくるのだろうと思っていた。
ヘイワードさんの死刑理由は、強盗に入って老婆を撲殺したってことなんだけど、肝心の犯行シーンは省略されている。
強盗仲間の男が司法取引をして、べらべらしゃべって彼女に罪をおっかぶせるんだけど、じっさいに彼女が殺してないなら、男のいってることはすべてでたらめということになる。
そもそも証拠がないくせに、同じ犯行に加わった男のひとりがいったことを、全部信じてしまうなんてことが、あちらの裁判ではあるのだろうか。
また彼女は罪をまぬがれるために、窮余の一策で、外部の男にアリバイ工作を依頼するんだけど、じつはこの男は警察官で、巧妙に仕組まれたおとり捜査であったことがわかる。
しかし彼女の立場であれば、おとり捜査にひっかかってしまうことは十分考えられるのに、あちらの陪審員はそういうことをまったく考慮しないのだろうか。
わたしが 「十二人の怒れる男」 のひとりなら、ゼッタイに異論をとなえるぞ。
まあ、むかしの米国の司法というものはそういうもので、警察官は早く家に帰りたいし、陪審員もいま以上に馬鹿ばっかりだったのだといわれれば、返す言葉がないけれど。
どうもすこしでも納得できないところがあると、わたしの映画評はそれだけで厳しいものになってしまうのだ。
だいたいこの映画では、最初から彼女のガス室は既定方針で、すべてがそっちの方向にすすんでいるようにみえる。
彼女にとって重要な証拠になるはずの手紙は裁判長に却下されてしまうし、彼女の精神分析をして無実を確信する精神科医は、なにもしないうちに病死してしまう。
彼女にとって有力なアリバイ証人になるはずの亭主も、どうしてそうなるのかよくわからないうちに、翌日の新聞になすすべもなかったと書かれる始末。
そのくせ相手方の、憎々しそうな弁護士が持ち出す証拠はみんな採用だ。
精神科医の話を聞いて、ひとつ彼女の記事を書いてみようという、正義の味方みたいな新聞記者もあらわれるんだけど、これは小太りのおっさんだから、これでは彼女の美貌に狂ったたんなるすけべ親父にしかみえない。
このおっさん、最後に死刑囚から手紙を託されるんだけど、無罪でも証明する手紙かと思ったら、べつに意味もない手紙で、それじゃカポーティみたいに小説でも書くのかと思ったら、それもない。
「ニュルンベルク裁判」 を観たあとでこれを観ると、脚本の弱さがはっきりわかるよな。
それでもヘイワードさんの色気だけは観る価値がある、そういう映画。
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