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2019年1月

2019年1月31日 (木)

遠い耳

わたしは左の耳が遠い。
片方の耳だけで聴くと、片目でものを見るのといっしょで、音を立体的に把握できないから、他人がなにかいっていることはわかるのに、意味が聞き取れないということがしょっちゅうある。

こんなことを書いてふと思ったけど、“耳が遠い” といういいまわしは、誰が考えたのか知らないが、なかなか詩的な表現だなと思う。
発案した人がいるのか、あるいは中国の古典からの引用でもあるのか、さっそくググッてみたら、耳の遠い人は認知症になりやすいという朝日新聞デジタルの記事を見つけた。
おおきなお世話さ。

語源はほっぽらかしておいて、耳の遠いところからきた失敗談を。
これは昨夜のことだけど、洗面所で温水を使おうとして、お湯の蛇口をひねった。
しかしお湯が出るまで、すこし時間がかかる。
そのわずかな時間にほかの用事をすませようとした。
たちまちそのほかの用事に熱中して、1時間ほどあとに洗面所へ行ってみたら、湯気がもうもう。
おそらくバスタブ4杯ぶんぐらいはお湯をムダにしたのではないか。
やっぱり認知症かしら。

もっとひどい話もある。
むかし旧式の、全自動でない洗濯機で、すすぎポジションで洗濯機をまわしたまま、泊りがけで旅行に行ってしまったことがある。
このときはさすがに水道局から、使用量が異常ですと、注意を喚起するハガキが来た。
耳さえ悪くなければ水音で気がついたはずなのにと、おかげで1週間ばかり落ち込んでしまった。
でもこれはいまから20年もまえの話だから、認知症とは関係ない。
どうもむかしからわたしはぼんやりしたところがあったらしい。

思い出せば耳が遠いことによる失敗はまだありそうだけど、腹が立つから思い出さない。

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2019年1月30日 (水)

大和芋

わたしの郷里のあたりで農家の名産はヤマトイモである。
最近ではモロヘイヤという野菜も知られているようだけど、これはわたしが郷里にいたころには聞いたことのなかった野菜なので、よく知らない。

わたしはトロロが大好きなので、帰省するたびにヤマトイモを仕入れてくる。
それでトロロを擦るんだけど、たまに本物の自然薯(じねんじょ)の味がするものに当たることがある。
残念ながら、畑で栽培されているヤマトイモで、こんな幸運はめったにないものだ。

そんな話を知り合いにしたら、自然薯の味ってどんなものかと訊かれた。
自然薯を知らんのか、あわれなやつめ。
そう思って説明しようとして、一瞬つまった。
言葉で説明できないものを説明するのが詩人であると、これは郷里の偉大なる詩人・萩原朔太郎の言葉だけど、自然薯の味をどうやって説明したらいいのだ。

たまたまそういうヤマトイモに当たったとき、食わせてやるよといっておいたけど、相手がわが家でメシを食う機会ってあまりないからなあ。

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2019年1月29日 (火)

恵方巻き

コンビニの前を通ったら恵方巻きのお知らせが出ていた。
なんだ、エカタマキって。
なんかの縁起物らしいけど、写真を見ると、子供のころ母親が運動会のときに作ってくれた太巻き寿司みたいである。
わが家の太巻き寿司には、たしか干ぴょうやピンク色のおぼろが入っていたなと、つい懐かしい気持ちになったけど、そんなもの運動会のとき以外に食べた記憶がない。

いったいどんな縁起があるのかとググってみたら、エカタマキではなく、エホウマキというのだそうだ。
どっちでもいいけど、そもそも恵方ってどんな意味なのか。
さらにググッてみた。
なんだかややこしくてよくわからない。
恵方について、かんたんに説明できる人いるのかしら。

どうもわたしの無知にも困ったものだけど、知らないといったら、いま世間で話題になっている嵐の活動休止。
嵐ってなんだ。
グループサウンズらしいけど、こんなもの、わたしは聞いたことがない。
こうやってじいさんは時流から遅れていくのだなとしみじみ。

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2019年1月28日 (月)

コレ、なんだ?

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コレ、なんだと思う?
ちがうちがう、琉球泡盛じゃなく、画面の中央にある白っぽいもの。
これってじつは 「孫の手」 なのだ。
わたしぐらいの歳になると、背中にカユイところがあっても手が届かないことがよくある。
で、以前から欲しかったんだけど、街をぶらついてようやく見つけた。

カユイところに手が届くって、ほんとに気持ちがいいもんで、最近これで背中をひっかくのにはまっている。
ほんと、トシには勝てんわ。

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2019年1月27日 (日)

おことわり

今日は夕方から、わたしの所属する団体の新年会がある。
そこで今日いちにちの予定を想像してみると、いまからシャワーを浴び、すこし早めに出かけて街をぶらつき、4時半には会場に行く。
ゲストたちのつまらない話や、芸人の歌、毎年マンネリになっているコンパニオンさんたちに2時間ばかりお付き合いして、その後はたぶん気心のしれた仲間と呑み会になり、酔っ払ってよろよろと帰宅してベッドにころり。
たぶんこんなところだろう。

なんでこんな個人的なことを書くかというと、つまり今日のブログ更新はこれだけで終わりになるんじゃないかと、あらかじめのおことわりだ。

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2019年1月26日 (土)

解離性同一性障害

寝ながら夕刊を読んでいたら、一面のトップに「解離性同一性障害」という、なにやらむずかしそうな、どこかで聞いたような病気のことが出ていた。
なんでもひとりの人間のなかに複数の人格があるという病気だそうだ。
夕刊では漫画家の人が、自分のその病気をネタにマンガを描いて、けっこう人気があるとかなんとか。
これってようするにニートだとか、引っ込み思案のことじゃないのか。

わたしも、このブログを読むかぎり、このブロガーはなかなか見識のある人だと、思う人はいないと思うけどど、1億3千万人もいる日本人のなかにはひとりぐらいいるかもしれない。
それは大いなる間違いなのだ。
ふだんのわたしは引っ込み思案の変人で、たまに変態といわれてしまうこともある、仕事だいキライの怠け者にすぎない。
つまり普段のわたしと、ブログをひねっているときのわたしは別人格なのだ。
考えてみれば、漫画家になりたいなんて考えている人間はひとり残らず解離性同一性障害だよな。

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2019年1月25日 (金)

似顔絵

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大阪なおみさんの快進撃。
わたしだって見ていてやっぱり気持ちがいいけど、進撃のかげにつまらないトラブルが。
なおみさんのスポンサーである日清食品が、彼女の似顔絵を使ったアニメのCMを作ったら、色が白すぎると苦情が入ったそうだ。
色が黒すぎて苦情というのはよく聞くけど、白すぎて苦情というのもあるんだね。

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わたしにいわせれば、色よりも、まるで優等生のアニメーターが描いたような、ぜんぜん本人に似てない絵のほうが問題だ。
絵にモノをいわせるなら、なおみさんが全米オープンでセリーナ・ウィリアムズを破ったときの、セリーナの似顔絵を見習ってほしい。
強烈な個性を持った似顔絵は、それだけで文章や言葉よりも雄弁な兵器になるものだ。
もっともセリーナの場合、いくらなんでもひどすぎるって苦情がハンパじゃなかったみたいですけどね。

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2019年1月24日 (木)

戦争前夜?

どうも韓国がキナ臭いな。
だれがトップなのかわからないまま、このままではほんとうに日本の哨戒機を撃墜しかねないぞ。
戦争をしたって日本に勝てるわけがないというのは理性ある者の判断だけど、いまの韓国にはそういうことさえ主張できる人間が不在のような気がする。
かまわないから撃ち落としてしまえと、それで国際問題になれば、オレは知らねえ、大統領に聞いてくれとしらばっくれる可能性がある。
韓国にだって戦争をしたいと考える人間はいないだろうけど、ようするに指揮系統がめちゃくちゃで、だれが責任をとるのかわからない状態だと、一部の人間のおもわくだけでことが進行してしまうおそれがあるということだ。
しばらく自衛隊の哨戒機には、脱出装置の点検をおこたらないよう忠告しておく。

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2019年1月23日 (水)

今日の夕刊

夕刊の「時事小言」というコラムに、いかにも朝日新聞らしい記事。
書いているのは国際政治記者という人だけど、まん中へんまでは、例によって安倍総理の政治を批判する内容だ。
首相のめざす日米同盟の強化による中国へのけん制、北朝鮮の拉致被害者の早期帰国、日ロ平和条約交渉の成果、このどれもうまくいってないというんだけど、よくみるとこのすべてが相手のあることで、日本だけでどうなるという問題ではない。
トランプさんの未来なんて、いつ崩壊するかわからないのだから、あんまり米国にもたれかかるわけにもいかない。

この点はネット掲示板の記事も同じで、米国との貿易戦争のおかげで中国の経済がガタガタになっている、ついでに中国との貿易に依存している韓国もガタガタだという意見も多いけど、こんなものはトランプさんが失脚すれば、またどう転ぶかわからない。
大統領が交代して米国がまた正常なレールに乗れば、中国はもと通りの繁栄路線にもどるかもしれない。
北朝鮮は米国の完全無視政策で追いつめられるかもしれないし、そうなれば拉致問題でもなにかしら進展があるかもしれない。
日ロ交渉もつぎの米国の政権次第でどうなるかわからない。
韓国は・・・・エート、低落傾向は変わらないだろう。
現在の安倍総理の政策は、現状でとれる最善の方法だと思う。

「時事小言」のおしまいのほうでは、安倍政権は多角的貿易体制の堅持を訴え、持続可能な開発目標について、国境を越えた協力を模索する、そのリーダーシップをとっていると、これでは日本を褒めたいのかけなしたいのか、さっぱりわからない。
朝日新聞が旗幟を鮮明にしないと、日本のリベラルも方向性をつかめないで困ってしまいます。

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散骨希望

わたしがあんまり自信たっぷりに主張するもんだから、最近は簡略化したお葬式の希望者が、わたしのまわりにも増えているようだ。
つい先日も、発ガンしちゃった知り合いのTさんが、散骨がいいなあと言い出した。
彼とわたしの共通の知り合いが1年まえに亡くなったけど、故人は生前から自分の死にぎわについて、あざやかすぎるくらい手を打っていて、奥さんやまわりの人間にほとんど負担をかけずに逝ったということがあったから、彼もそれを見習ったのだろう。

だってあなたのガンは胃ガンでしよう、いまどき胃ガンで死ぬ人なんていますか。
そういってみたけど、 いや、オレも葬式は簡単にやるんだ、散骨がいいと、Tさんの決心はなかなか固そうだ。
わかりました。
あなたがめでたく成仏したあかつきには、わたしが責任を持って散骨を引き受けましょう、ってことになってしまった。

Tさんの身内はもうほとんどいないから、どんな葬式をしたってかまわないようなものだけど、問題があるとすれば嫁にいった親孝行な娘さんで、彼女がそんな安っぽい父親の葬式に納得するかどうか。
そのへんをようく言い含めておいてくださいといっておく。
散骨なんてわけがないと考えているのはわたしだけで、いまでもしきたり通りの葬式にこだわる人はけっこう多いのである。

これだけじゃない。
念のため聞いておいた。
散骨場所はどこか希望するところがありますか、奥多摩なんかいい山がたくさんありますけど。
とたんにTさんは遠くを見つめるまなざしになって、オレはサンゴ礁の海を期待してるんだ、沖縄の離島の美しい海がいいなあと乙女チックなことを言い出した。
死ぬのは本人、お手伝いするのはわたしだからどこでもいいけど、あまり遠いと墓参りに行く娘さんが大変そう。

そうだ、そのうち現場の下見に行こうといいだして、最近出不精になっているわたしに、旅の予定がひとつ。
ほんとに実現するかどうかわからないけど、沖縄なら夏になるまえに行かないと混雑するし、水着のピチピチギャルのまえで散骨の話なんかするのって、やっぱりマズイでしょ。
できれば、わたしの元気なうちにお願いしたいもんだけど。

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2019年1月22日 (火)

泣く子と

泣く子と韓国には勝てない。
なにをいってもギャアギャアとわめくだけの子に、おとなの日本が閉口して、とうとう口をつぐんだってことのよう。
勝ちほこった韓国はいいたい放題だけど、日本はこれから口先だけの対応はすまい。
もう韓国の面倒はみないし、自分で好きにやれというところ。
弱いイヌほどよく吠えるということわざもある。
今年はどうなるか、興味のつきない年になりそう。

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ムスリムの思い出

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図書館でニューズウィークの日本版をのぞいたら、「ウイグル弾圧は序章なのか」という記事が目についた。
べつのページには「日本で暮らす普段着のムスリム」という記事もあった。
日本人と結婚したり、また日本人でイスラムに改宗したりして、永住権を得たムスリムが、日本でもじわりと増えているという。
未来が暗澹たるものか、輝かしいものか、ぜんぜんわからないけど、日本だけが世界の潮流に乗り遅れるはずがないので、もはやイスラムの問題は、この国でもフツーに無視できないところまで来ているということらしい。
しかしわたしはここで政治について話そうというわけじゃない。
記事に誘発されたなつかしい思い出を話そう。

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わたしが初めてまとまったムスリムを見たのは、中国においてだった。
上海ではまだムスリムはあまり目立たない。
蘇州や無錫でも同じことだ。
西安まで行って街をぶらついているとき、わたしは清真寺という大きな寺のすぐかたわらにあった、やたらにごみごみした非衛生な一画に迷い込んだ。
これが西安の回族(イスラム教徒)居住区で、わたしがそこに迷い込んだのは1995年の冬のことである。
あとで知ったけど、清真寺というのは中国語のモスクのことだった。

だいたい中国の街というのは日本に比べると、どこも非衛生なのがあたりまえなんだけど、そこのごみごみの度合いはわたしの想像を絶する異様さで、西安の観光名所になる資格十分と見た(ひどい?)。
中国がことさらムスリムを差別しているとは思わなかったけど、回族の居住区というのは、狭くるしいところに民家や商店が密集して、とにかくごみごみしているのである。

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その後、何度か西安に行ったけど、中国政府はほんとうにこの回族居住区を観光名所にしてしまったようだ。
2011年にここへ行ってみたら、非衛生はだいぶ緩和され、そのごみごみさがかえってユニークな街の売りものになっていた。

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話が前後するけど、1997年、わたしはシルクロードを訪ねる途中、西安よりもさらに西の蘭州という街に立ち寄った。
列車を降りて駅頭に立ったとき、駅前広場にたむろする、大勢の白い帽子をかぶった人たちに気がついた。
この帽子が、回族がみずからのアイデンティティを示す表徴なんだけど、顔つきだけ見れば彼らは漢族とほとんど変わらない。

中国の西域は新疆ウイグル自治区で、ここはもともとイスラムの国だから、西に行けば行くほどムスリムが増えるのは当然だ。
それでも西安あたりではまだ街の一角にまとまっているだけだったのが、蘭州ではもう街のいたるところに白い帽子がいた。
蘭州くんだりまで出かけたころのわたしにとって、これが普段着のムスリムとの最初の出会いだった。

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田舎に帰省すると、遊んでばかりいてと小言をいわれ、だいぶ肩身のせまい思いをするわたしだけど、こういう景色を見ることのできた人生って、決して無意味なものとは思わない。
世界にはいろんな人々のいろんな生活があるという当たり前のことを、自分の目で確認することができたし、わたしにはそれが結婚や家庭よりも大切なことだったのだから。

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2019年1月21日 (月)

ル・ソンジュ

またバレエの話。
「白鳥の湖」に代表されるような古典バレエがどのくらいあるのか知らないけど、現代では新感覚のバレエが花盛りで、古典の範疇に入るものでさえ、いろんな方法で現代化されている場合が多いようだ。
前回のバレエの話題で取り上げた「くるみ割り人形」では、登場人物がスケートボードに乗ってあらわれる場面があった。
絵画でいえば、ピカソやミロのような前衛的作品に仕立て直すということなんだけど、わたしみたいに官能的であるかどうかを物差しにするファンには、とっつきにくい作品もある。
逆に官能的すぎてとまどっちゃう作品もあるんだけどね。

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しばらくまえに、やはりNHKのBSで、モナコ公国モンテカルロ・バレエ団による「ル・ソンジュ」というバレエを録画した。
「夢」という副題がついているけど、これはシェイクスピアの「夏の夜の夢」のバレエ版、しかもそれをさらに現代化したものだった。
このブログで取り上げた「コッペリア」や「くるみ割り人形」が、ご家族向けの楽しいバレエだったのに比べると、これは18才未満お断りといいたくなる刺激的なバレエだ。

わたしは原作を読んでないから、これについてブログに書くまえ、念のためウィキペディアに当たってみた。
なんか人間と妖精が入り乱れる喜劇らしいけど、ややこしくてよくわからない。
それでストーリーをうんぬんするのはやめて、目と脳みその直感で評価してみよう。

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冒頭に登場するのは、イロ気もなにもないぞろりとした衣装の数人の男女。
自己紹介によると、彼らは大工、鍛冶屋、服の仕立て屋、金物屋などで、これだけなら怒って録画をやめていたところだ。
しかしすぐに彼らの背景に二組の男女のペアがあらわれる。
こちらは宇宙船の乗組員みたいなSF的ファッションで、それでもわりあい体にぴったりの衣装だし、女が可愛いから許せる。

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問題はこのあと登場する妖精の大魔王とその奥さんだ。
奥さんを演じているダンサーはベルニス・コピエテルスといって、ひとかけらの贅肉もない渾身のバレリーナ。
それが全身を、骨盤のかたちまでありありと見せてしまうシースルーの肉襦袢につつんで、いやらしく亭主に絡んだり、のたうちまわったりするのだ。
奥さんの浮気を暗示するような場面、旦那(の大魔王)とよりをもどす場面、性行為を暗示するような場面などがつぎつぎにあらわれる。
こんなのをステージでどうどうと披露して、ナントカ陳列罪に当たらないだろうかと心配になるくらい超過激。

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見ればわかるように、たとえば舞台のセットなどは未来的で、古典の現代的解釈としてはおもしろい。
ただわたしは絵画や音楽でも、あんまりとんがりすぎると、精神に変調をきたすので、抽象的なものや前衛的なものが好きではない。
このバレエは古典を下敷きにしているけど、完璧に、もうなにがなんだかわからないの、コンテンポラリー・ダンス(現代舞踊)といっていいだろう。
だから本来はニガ手のはずなんだけど、やっぱりおおった手のあいだからのぞいてしまうのは、コピエテルスさんのみごとな肢体と、卑猥な演技のせいだよな。
バレエも、その他もろもろの芸術も、同じタイミングで同方向に向くんだねと、ひとつ真理を悟った気分。

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2019年1月20日 (日)

因果はめぐる

因果はめぐる。
わたしが明日ぽっくりいったとする。
そのままほうっておくと、ブログの毎月の支払いも止まるから(わたしはこれを維持するために毎月 @nifty にお金を払っているので)、そのうちプロバイダのほうから契約を打ち切られる。
ブログはわたしの自分史みたいなものだから、これを見ればわたしという人間がかなり具体的に把握できるけど、金の切れ目がブログの切れ目だ。
わたしには子供もいないし、かたちのある財産もあるわけじゃないし、お墓でさえいらないと公言しているくらいだから、そうなるとわたしの存在を証明するものは何も残らないということになる。

わたしの二世代か三世代あとの、わたしの親戚の子供が、風変わりなおじさんがいたということでわたしに興味を持ったとする。
わたしの知り合いが生き残っていれば、そういう人からいろんな噂を聞くことは可能だろうけど、あいにくわたしの知り合いってのはわたしより先に行きそうな連中ばかりだ。
おそらく三世代もあとの親戚には、わたしのことを調べるのは不可能だろう。
わたしの骨がどこかの山奥で、粉末になって風に舞っていったとしても、その場所がどこなのか誰も知らないだろう。

そういう死に方がわたしの理想なので、そのこと自体には文句はない。
ただ因果はめぐるものだなと思う。

わたしの母方の祖父はだいぶ波乱の人生を送った人で、将来を嘱望される名家の長男として、医師になるべく勉学に励んでいながら、とちゅうで人生を踏み外し、2度の結婚に敗れたあと、函館に渡ってそこで亡くなった。
わたしはこの祖父に興味をもって、消息を調べてみたことがある。
晩年は3番目の夫人の家で雇われ医師をしていたらしいけど、戦前の混乱期にその消息はようとして伝わらず、けっきょくその墓のあり場所さえわからなかった。

これがわたしの家の伝統なのかもしれない。
現在のわたしの親族はわりあいまともな生き方をしている者ばかりだから、墓がわからないとか、誰にも弔ってもらえないという人間はいそうもない。
わたしが親族を代表して祖父の血を引き継ぐとしたら、それはそれでいいことだ。
わたしは自分の体のなかに祖父の血がとうとうと流れていることを知る。
死んだあとはすべてさっぱり忘れ去られたいという性格は、また萩原朔太郎の詩のごとく、どうも群馬県人の特質かもしれない。
    わが草木とならん日に
  たれかは知らむ敗亡の
  歴史を墓に刻むべき。
  われは飢ゑたりとこしへに
  過失を人も許せかし。
  過失を父も許せかし。

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2019年1月19日 (土)

でっち上げ

今日は月にいちどのパソコン同好会の日。
終わると飲み会で、そのあとは部屋に帰ってバタンコロリが普通だから、本日のブログの更新はできない可能性もある。
で、同好会のあい間に記事をでっち上げることにした。

車を車検に出し、ディーラーから駅までぶらぶら歩いて40分ぐらい。
なにもしないで40分歩くのは時間のムダだから、こういうときは iPod で音楽を聴きながらいく。
今日はなぜか鬱屈した精神状態なので、クリームやジミヘンのライブ演奏を、ボリュームいっぱいで聴いてみた。
ドシンガラガラというその暴力的な音楽を聴くと、駅に着くころにはわたしの精神状態はひじょうに安定。

これで本日の更新はオシマイ。

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2019年1月18日 (金)

わたしって

もしもわたしをぶっ殺したいと考える人間が、いないと思うけど、わたしってけっこう嫌われ者なので、かりにいたとしたら、そういう人には残念な話だ。
去年の暮れの健康診断の結果が届いた。
あいかわらず周囲の迷惑をかえりみないくらい健康なのだ、わたしって。

診断結果のうち、問題があるのは、まず便潜血だけど、これは去年、内視鏡を入れて問題なしという医師の太鼓判つき。
ピロリ菌も退治した。
あとはここ10年くらい高止まりの血圧があるけど、本人は気にしてないのにまわりがごちゃごちゃいうもんだから、最近は病院でもらった薬を飲んでいる。
おかげでここんところの血圧は人間なみ。

もうこれ以上なにをどうしろってのかといいたくなるワ。
わたしはとっくに死んでいるにちがいない。
たぶんブログでもせっせと書いて、この世の中の不条理や、人間の過ちを告発しなさいってのが、わたしに残された最後の仕事なのだ。

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2019年1月17日 (木)

その日

今日は阪神大震災から24年目だそうだ。
四半世紀というところだけど、わたしはその日のことをよく覚えている。
その日の朝、わたしは成田空港にいて、震災の一報を空港のテレビでながめていた。
だからどうしたってわけでもない。
中国への航空券は3週間もまえに予約してあったし、さしせまってわたしのやることはひとつもなかった。

というわけで、その日の午後にはもう上海にいた。
さらにその翌日からは無錫あたりをふらついていたわけだけど、あっちこっちで、日本はいま大地震があったそうだけど大丈夫なのかと訊かれた。
そんなことを訊かれたって、本人が目のまえにいるんだから大丈夫に決まっている。

そのころはまだインターネットもそれほど普及してなかったはずだけど、日本の情報はあっという間に中国にも伝わっていたんだよね。
その後の歴史の変遷をながめると、感無量というか。

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2019年1月16日 (水)

くるみ割り人形

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バレエの話題のその2として、つぎに 「くるみ割り人形」。
よく知られているけど、これも人形を主要登場人物にすえたバレエで、正式なタイトルは 「くるみ割り人形とねずみの王様」 というらしい。
わたしが録画したのはチューリッヒ・バレエ団の舞台で、ミシェル・ウィレムス演じる主人公を観たとき、まっ先に 「不思議の国のアリス」 を連想した。
主人公が可愛らしいのはいうまでもないけど、「くるみ割り」 も 「アリス」 も、ヒロインがロリコン少女タイプで、現実にはありえない不思議の国に迷い込むところが似ている。

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それはさておき、バレエダンサーというのは動きがほれぼれするくらい軽やかで、観ていて楽しい。
2番目の写真は、なんとかかけられた魔法をとこうとする王子様とヒロインの踊りだけど、ぴたりと決まったふたりのポーズが、まさに大向こうをうならせるといった決定的な場面だ。
観てみたいよな。

ほかにもバレエ初心者にはいろいろ勉強になるところがある。
「コッペリア」 と同じようにこのバレエにも、人形作りのおじさんが出てくるけど、チューリッヒ版ではこのおじさんが、カリブの海賊のジョニー・デップみたいで、彼の顔がいまのトレンドかとおもしろかった。

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このバレエにはほかに、狂言まわしみたいな感じで男女のピエロが登場する。
このうちの女のほうは、ほんとに女なのかと疑問を持つほど、不細工で滑稽な役なので、調べてみたら、中国人のイェン・ハンというダンサー(女)だった。
彼女はプリマも務めたことのある有名ダンサーらしいけど、やっぱり東洋人は足の長さで欧米人にはかなわないから、どうしても三枚目を押し付けられるのかしら。

そう思ったのも無理はない。
物語の中ほどに雪の精たちの幻想的なダンスシーンがあるんだけど、この場面には8頭身、というか、9頭身といってもいいスマートなダンサーがあらわれた。
発するオーラはただ者ではない。

Elena

この舞台ではワキ役を務めていたけど、彼女はチューリッヒ・バレエ団のプリンシパルで、名前はエレナ・ヴォストロティナ。
ロシア・サンクトペテルブルク出身で、来日したこともあり、現在はスイスで活躍している人のようだ。
問題があるとすれば、テニスのシャラポアみたいな筋肉女子で、そのへんの怠惰なおじさんでは跳ね返されてしまいそうなこと。

ほかにもわたしの印象に残ったのは、お菓子の精に扮したロシア人のヴィクトリナ・カピトノワ。

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彼女自身のオフィシャルサイトによると、現在の彼女はボストン・バレエの専属らしいから、客演ということになるのだろうか。
いずれにしても、彼女もバレエ団を背負って立つ有名ダンサーで、けっしてよく知られた人ではないけど、わたしにはヴォストロティナと同じくらいオーラが感じられた。
そういうオーラを感じとるなんて、おまえもなかなか目があるなと思う必要はない。
このふたりはバレエ団の中では特別な存在らしく、ダンスシーンではその他大勢のダンサーより見せ場が多くて、あきらかに目立つのである。
そしてふたりともわたし好みの美人なのだ。

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ヴォストロティナさんかカピトノワさんのどちらかが、このバレエで、ねずみに呪いをかけられるお姫様役を演じてくれたらなあと思う。
ただ彼女らがこの舞台で主役や順主役を演じるには、いささかトウが立ちすぎかもしれない。
わたしはバレエ団のしくみについてよく知らないけど、それは学校のようなもので、いろんな演目があり、ダンサーたちはいろんな舞台で経験を積みながら、さらなる高みを目指すのだろう。
団員のうちのベテランともなれば、わき役にまわって、後輩の育成に協力するのが務めということもあるんじゃないか。

でもこんなきれいごとばかりじゃなく、内部では映画 「ブラック・スワン」 みたいに、ダンサーたちの競争があって、はげしい嫉妬半目もあるんだろうなあって、いろいろ想像してしまう。
ほんと、バレエというのは目と脳みその刺激になっておもしろい。

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2019年1月15日 (火)

50円切手

年賀状がもどってきた。
正確にいうと年賀状ではない。
じつは年があけて1週間ほどしてから、知り合いのSさんからハガキが来た。
彼の家では去年不幸があったので、文面は今年もよろしくということだったけど、年賀状ではないし、どこにもオメデトウという言葉は使われてない。
わたしのほうも年賀状ではマズイだろうと、机のなかをひっかきまわして、ようやく見つけた古いハガキで返事を出しておいた。

もどってきたのはその返事のハガキだ。
切手が10円足りませんという。
見つけたのは値上げまえのハガキだったらしい。

・・・・ちぇ、10円ぽっちで。
そのために往復するハガキの経費のほうが大ではないか。
とおもったけど、微細な金額でもチリも積もれば山になる。
民営の郵便局株式会社には看過できない問題なのだろう。

仕方ないから10円の切手を探して、また机をひっかきまわす。
しかし最近は切手を貼るような手紙とはほとんど縁がないから、ようやく見つけたのは、20世紀デザイン切手というシートになったものくらい。
わざわざ郵便局に行くほどマメじゃないから、けっきょく50円の切手を上から貼って出した。
ま、あまった分は日ごろお世話になっている配達員たちで、なんかうまいものでも食ってもらおうという鷹揚さ。

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2019年1月14日 (月)

なつかしい臭い

中野駅周辺をよたってきた。
べつに中野を知らないわけじゃないけど、駅前のサンモールあたりの路地を探索したのは、もう20年か30年ぶりかも。
あらためて知ったけど、呑んだり食ったりするには、わたしがよく行く吉祥寺よりおもしろいところかもしれない。

飲食店の密集した路地の奥でなつかしい臭いをかいだ(この場合 “匂い” にしようか “臭い” がいいかと迷ったけど、やっぱり臭いにした)。
臭いの発生源は台湾料理の店だった。
わたしが上海で、蘇州で、西安で、蘭州で、敦煌で、シルクロードの街々で、もう行き先々の中国の街でかいだなつかしい臭いである。
さまざまな香辛料が混沌と入り混じった、まさしく中国の臭い。
あまりお上品とはいえないけど、その臭いからわたしは無数の思い出をよびさまされる。
そのうちぜひ中野を再訪して、この店でなんか食べてこよう。

今日は有名な「すしざんまい」で寿司を食ってきたのだ。
初セリの3億円マグロを分割で払わせられているような気分だった。
やっぱり庶民は台湾料理にしといたほうがよかった。

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2019年1月13日 (日)

カトー君の2

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最初の2枚の絵のように、今回のカトー君の版画は女性を描いたものが多かった。
そうこなくちゃというのはわたしのセリフで、郷里の保守的な人たちからはひんしゅくをくらいそう。
でもまだまだ過激性という点では満足しているわけではない。
なにもヌードや、そのものズバリを描けといってるわけではないのだ。
官能の意味をはき違えている人もいるかもしれないから、あらためて説明しよう。

カトー君の作品にはカトー流というべき個性がある。
多くの場合、それは魚や植物や幾何学的なオブジェなどで、空いている空間にやたらにつめこまれている。
これがあるおかげで、ひと目で彼の作品であることがわかる。
ピカソのように個性を変化させていった画家もいなくはないが、ほとんどの画家は、確立したあとの自己の個性を大切にする。
いわば偉大なるマンネリとでもいうべきか。

これからわたしは彼に、わたしの好みを押しつけようとするけれど、それはあくまでわたしの好みだから、みなさんが真剣に考える必要はない。
例によってわたしのだぼらと思ってもらって結構だ。

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3枚目の絵は、今回の個展で、わたしがいちばん気に入った作品だ。
薄い夏物のドレスの娘が、しどけなく座っており、服の下の裸体がありありと想像できてしまう。
わたしはずけずけいってみた。
まわりのごちゃごちゃが目ざわりだな。
ここは純粋に女性だけにしぼったほうがいいんでないかい。
そのほうが官能的であると思うよ。

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想像力の欠如した人たちのために、じっさいにやってみた。
最後の絵はデジタルの特徴を利用して、まわりのごちゃごちゃを消してみたもの。
オリジナルは遊び心があふれた動きのある作品だけど、あとの絵は静謐なイヤラシサに満たされている(でしょ)。
ベッドのわきに置くならこっちのほうがいい。
とくにすばらしいのが、女性の顔がほとんど見えないことだ。
そのためにわたしのような男は、その部分に好きな女性の顔をはめ込むことができて、これでは腎虚にならないほうが不思議である。
官能というのはこういうことをいうのだ。

問題は個性を埋没させてしまうことで、知らない人が見たら、カトー君の作品かどうかわからなくなってしまう。
うーんと悩むのはわたしで、カトー君が悩むかどうかは知らない。
芸術は人間の欲望を解き放つ。
田舎のしきたりやたてまえ、そして奥さんや娘の存在に縛られて、作家が自分の仕事に制約を課しているとしたら、それはやっぱりマズイと思う。

追伸/オリジナル作品の改変は重大問題だけど、版画とデジタル・コピーしたものはぜんぜん別種の作品で、あらかじめカトー君にことわってあるから、ま、いいんでないか。

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カトー君

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幼なじみのカトー君の版画展に行ってきた。
1枚目の画像は、彼(わたしにとっても)の芸術に対する志向の原点といっていいビートルズに囲まれた彼だ。
ビートルズはわたしたちがものごころつく、ちょうどそのころに登場し、わたしたちの精神の推移とともに変化していったグループなのである。

カトー君はわたしたちの共通の郷里からほど近い町に住んでいるけど、今回はできたばかりの大きな町の公民館が開催場所だ。
わたしは絵を買える身分ではないから、画家の経済までには立ち入らなかったけど、画廊で個展なんかすると、額までみんな画家の持ち出しである。
彼のように作品を売って蔵を建てようという気持ちのない画家には、これはしんどいので、公共の施設を作品発表の場にするというのはいいアイディアだ。
彼は国際的な版画展でも入賞しているくらいだから、そのあたりでは名士といっていい人なので、わりあい無理も聞いてもらえるらしい。
今回は帰省するわたしの都合をみはからって、会期を1週間延長した。

そんなことはどうでもいいけど、ついでにいろいろ版画について教わってきた。
たとえば浮世絵は版画ではないという、わたしの知識をくつがえすような話など。
いわれてみればそうだけど、江戸時代の浮世絵には彫師や刷師という専門家たちがいた。
北斎も広重も写楽も、やるのはもと絵を描くところまでで、それを板に彫り、紙に印刷するのは彫師や刷師たちの仕事だったのである。
版画家を名乗るなら、彫る、刷るところまで自分でやらなければいけないと、これは山本鼎という明治・大正期の版画家の意見だそうだ。

カトー君はもちろん彫りから刷るまで自分でやる。
板を彫るには力がいる。
だから指が固まってしまうと、彼はタコのできた人差し指を見せてくれた。

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今回の作品は女性をテーマにしたものが多く、きみは官能で勝負すべきだという、わたしのかねてよりの主張に沿ったものになっていた。
できればあと一歩踏み込んで、ヌードや春画まで取り上げてくれるともっといいんだけど、田舎生活は不自由なものらしい。
東京であれば、絵画にしろ写真にしろ、小説等の文学作品にしてみても、およそ芸術作品であるなら、イヤラシイほど、破天荒であるほど、尊重される傾向があるけど、田舎ではそうはいかない。
女房や娘のいる芸術家が官能的なものを追求すると、いろいろ差しさわりがあるんだよという。

それ以外にもカトー君の悩みはつきない。
若い女の子が作品を観にやってくる。
そして、作者であるカトー君、国際的大版画家であるカトー君に向かって、これ、どなたが作った作品ですかなんて質問するのだそうだ。
いやになっちゃうよな、オレって芸術家にふさわしい顔してないもんな。
そうカトー君がぼやくのを聞いて、わたしは芸術家らしい顔をした芸術家なんていやしないよとなぐさめる。
だいたいどんな顔なら芸術家らしい顔なんだと聞いてみたら、棟方志功みたいなのいいんだそうだ。
棟方志功は青森出身の、丸いメガネに鉢巻という、土方の大将みたいな版画家で、わだばゴッホになる、と気宇壮大な芸術家宣言で有名だ。

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3番目の写真が棟方志功さんだ。
志功さんにはわるいが、これならカトー君のほうがいい男だ。
カトー君の秘密というのは、こういう奇想天外な画家にあこがれているということだけど、やっぱり芸術家の心理は理解しにくい。

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2019年1月12日 (土)

くたびれた

死後の世界や神仏を信じていないわたしが、今日は母親の命日ということで、田舎まで帰省して墓参りをしてきた。
ちょっと複雑な心境だけど、それについてはもういい。

ついでに幼なじみのカトー君の版画展に立ち寄って、久闊を叙してきたと思いたまえ。
そこで彼の秘密を打ち明けられ、それがすこぶるおもしろかったんだけど、今日はとんぼ返りでくたびれた。
この続きはまた明日書こう。

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2019年1月11日 (金)

流氷

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流氷ツアーで有名なガリンコ号が運行開始だそうだ。
この冬はひとつ出かけてみるかと思う。
行くならいつがいいだろう。
あまり早く行って流氷がなかったら困る。
やっぱりいちばん寒い2月がいいのではないか。

ところが運行開始のニュースが1月10日で、その日に調べてみたら、もう2月のガリンコ号は予約がほとんど埋まっていた。
かろうじて予約表の上のほうにいくつか空席が。
でもこれは土日の早朝のサンライズクルーズというやつで、出航が朝の6時だそうだ。
そんなに早く起きられるものか。
と思ったけど、これはかえって具合がいいかも。

最近のわたしは昼と夜が逆転して、昼間は寝ぼけているのに、夜はいたって元気。
朝の6時というと、さあ寝るかという時間だから、そこをちょっと我慢して起きていればいいだけの話だ。
起きているのは、目覚ましで無理やり起こされるよりはラクチンである。

最近出不精になっているわたしが、じっさいに出かけるかどうかは別にして、ここで流氷の思い出をひとつ。

若いころ流氷を見るためにオホーツクの沿岸を旅したことがある。
ガリンコ号なんてものはまだなかったけど、列車を乗り継いで紋別に着いたのがその年の2月9日のことだった。
さっそく港へいってみたけど、沖のほうに白いものがちらほら見えるだけで、流氷らしきものは影もかたちもなかった。
地元の人に流氷ありませんねというと、ああ、今日は陸からの風だからなという。
いったん寄せたら春まで寄せっぱなしだと思っていたけど、流氷というのは気むずかしいものらしい。
最近のわたしは、富山のホタルイカも空振りだったし、どうも自然現象から見放されているようだから、あまり期待しないほうがいいかも。

その翌日、路線バスを乗り継ぎながらオホーツク沿岸を北上し、沙留(さるる)というところでようやく海を埋め尽くす流氷を見た。
降りしきる粉雪のなか、わたしはバスを降りて港まで行ってみた。
港も雪におおわれていたけど、人っ子ひとりおらず、それはそれは美しい光景だった。
また、腰まであるのにまったく抵抗を感じない雪を体験して、これがパウダースノウというやつかと、感動したのもこのときが初めてだった。
明日死んでも惜しくないくらい、わたしにはこんな思い出がたくさんある。

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2019年1月10日 (木)

コッペリア

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最近バレエにはまっている。
回転レシーブやビーチバレーではなく、白鳥の湖のほうである。
なんたる女々しい趣味であることよと、これはわたしが古い人間だから自分でもそう思う部分があるんだけど、しかしわたしはもともと、芸術に関するものならたいていのものが好きなのだ。
BSで日曜日の深夜によくバレエを放映しているので、ためしに録画してみたら、最新のデジタル画質で、カワイ子ちゃんのバレリーナが飛んだり跳ねたり、それが楽しくてついはまっちゃったんだけどね。
以前、映画館でシネマ歌舞伎なるものを観て、その臨場感に感心したことがあるけど、あれと同一線上にあるといっていい。

またイヤラシイ目で観てるんだろう。
そういう人がいるかもしれないけど、それはわたしの責任ではない。
バレエが人間の能力を極限までみがきあげた芸術だとしても、もし踊るのがガマガエルみたいな大年増だったら、はたして今日のような隆盛を極めたかどうか。
イヤラシイ部分から入って、やがてその芸術性を理解するというのもけっして間違った観方ではない。

で、新年早々バレエの話題だ。
「コッペリア」 というバレエを知っているだろうか。
もちろんわたしはぜんぜん知らなかった。
ちょいとまえにモスクワ・バレエ団のこの舞台を録画してみたら、これはお人形さんをテーマにした楽しいバレエだった。

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どんなバレエなのか、いちおうストーリーを紹介すると、ある村にコッペリウスという人形作りのおじいさんが住んでいた。
彼が作る人形があまりにも真に迫っているので、それを本物の人間とカン違いした村の若者が、人形に恋をしてしまう。
さあ、おもしろくないのは若者の恋人である村の娘だ。
彼女はおじいさんの留守中に家に忍び込み、人形の秘密に気がついてしまう。
そこへ同じく忍び込んできた若者や、帰宅してきたおじいさんが鉢合わせをして、てんやわんやというのがおおざっぱなストーリーだ。
もともと子供を含めたご家族向けの、健全で楽しいバレエなのだろう。

楽しいだけではなく、初心者にはバレエについていろいろと勉強になる。
YouTube を見ると 「コッペリア」 の映像は、いろんなバレエ団のものがいくつもアップされているから、その世界ではかなり有名な古典バレエで、知らないのはわたしだけだったようだ。
そしてダンサーが異なるだけで、まったく同じセットを使った舞台もあったから、モスクワ・バレエ団で定期的に演じられている、ひょっとすると団員たちの卒業公演みたいなものかもしれない。

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その舞台の宣伝用スチール写真を見ると、両手で円を描いたようなぎこちないポーズのダンサーが目につく。
これは人間の娘が人形に化けているのだ。
ダンサーがいかに人形を演ずるかが、このバレエの見どころといえる。

もちろんいちばん大切なのは、わたしにかぎれば、ヒロイン、つまりプリマにあたるダンサーがどれだけ魅力的かだ。
バレエ・ダンサーに魅力的でない娘はあまりいないけど、わたしが録画した 「コッペリア」 のヒロインはマルガリータ・シュライネルといって、スリムで笑顔のすてきなカワイ子ちゃんである(スリムでないバレエ・ダンサーもあまりいないね)。

有名な古典バレエの場合、音楽が先にあって、踊りはそれに合わせてあとから振り付けられるものらしい。
有名な白鳥の湖の場合、「小さな白鳥たちの踊り」 という挿入曲が、それだけ取り出しても十分に鑑賞に値するけど、「コッペリア」でも、人形に化けた娘がおじいさんを翻弄する場面での音楽が、何度も聴き返したくなるくらい素敵だった。
この舞台についてなにも知らなかったわたしだけど、こうやってストーリーや、見どころ聴きどころについて知ると、本物の舞台を観たいという気持ちになる。
「コッペリア」 はバレエ初心者の入門書としてもふさわしいバレエだ。

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わたしの部屋には、バレエやオペラの番組だけでもう10個ぐらい録画してあるので、またそのうちこの手の記事を書こう。
まったくのド素人の批評というのもおもしろいのではないか。

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2019年1月 9日 (水)

がんばれ、○○

まだ新年早々だよな。
今日の夕刊に、大熊町のモナカ屋さんの記事がでっかく出ている。
原発事故で町を追われ、モナカ屋を廃業せざるを得なかった菓子職人の惨状を強調する内容かと思ったら、微妙にちがっていた。
対韓国の記事でも韓国にきびしい意見が目立つ。
朝日新聞の方針変更としたら、今年はめざましい年になりそうだ。
がんばれ、朝日。

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ミロ

Jm

ここに1枚の絵がある。
これを見て、なんだ、ミロじゃないか、ジョアン・ミロだ。
そう思った人はなかなか絵に詳しい。
しかしよく見て、??と思った方。
あなたはさらに詳しい。

じつは最近パソコンにお絵描きアプリを入れたんだけどね。
それを使ってブログにイラストでも載せられないかと考えて、練習のつもりで有名な作品を模擬することにした。
ただ無料のソフトだから、機能はかぎられている。
いきなりレンブラントやゴヤを描こうっていうのはムリ、ムリ。

どんな絵なら描けるかと考えると、パソコンの性格上、丸や三角を組み合わせた抽象絵画がやさしそう。
というわけで選んだのがミロってわけだ。
わたしがミロより先に生まれていれば、わたしだって絵画の変革者になれたかも。
でも、このていどでも時間がかかって、こんなものをブログに載せようと思ったら、文章を書く時間がなくなってしまうワ。

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2019年1月 8日 (火)

私的ミステリー

ネットの掲示板を見ると、あいかわらす韓国のレーダー照射事件の話題が多い。
なんで日本の哨戒機にレーダーを照射する必要があったのか、なにか見られて困ることでもしていたのではないかという意見が多いけど、いずれも決定的な説得力に欠ける。
北の漁船をよそおった工作船と、ミサイルやプルトニウムの受け渡しというのはいくらなんでも極論で、そんな危険なことを、どうして日本の近海でやらなくちゃいかんのだという疑問がある。
遭難していた北朝鮮の漁船を救助していたという説もあるけど、そのていどのことにどうして海軍の駆逐艦まで出てくる必要があるのか。

そこでミステリーファンのわたしの考えを披露してしまう。
べつに本気で信用しなくてもいいけど。

北朝鮮にとって命取りになるような情報をもった北の要人が日本に亡命を企てた。
しかし監視の目がきびしいので、車や飛行機を使うことは不可能だ。
漁船なら・・・・要人が漁船なんてという人がいるかもしれないけど、いちばん信じにくい手を使うのがミステリーの王道だし、今回の現場は北と日本を結ぶ最短線上にあるから、船で亡命しようという人間ならとうぜん選ぶコースだろう。
ヘタすれば冬の日本海の藻屑と消える、そんな危険を犯しての逃避行、小説にしても映画にしても最大のクライマックス場面だ。

しかしボロ漁船で日本海を横断するには時間がかかる。
北も異変に気がついた。
追跡するには北からでは間に合わない。
航空機なんか繰り出したら、本気モードで日本に迎撃されかねない。
そこで正恩クンはかねてより懇意、もしくはパシリの文在寅サンに、つねに日本海を周遊している韓国の軍艦を使って、漁船を拿捕するよう依頼、もしくは命令を出す。
さあ、駆逐艦や警備救難艦の出動だ。

正直いって北の漁船の動向なんて、かなり小さなものでも、日本は監視衛星や地上レーダーでつねに把握している。
それでも決死の覚悟で日本の近海まで出漁してくるボロ漁船ていどは大目に見ていた。
ところが軍艦出動となるとおだやかじゃない。
これはなにかあるなというわけで、哨戒機が偵察に出る。
以後は今回の事件の推移どうり。

どうしてこんなことを考えたかというと、漁船やその乗組員のその後の消息が、死者が出たとか、すでに北に送還されたというだけで、さっぱりわからないからだ。
もし韓国と日本が協調路線をとっているなら、北の要人は亡命先に韓国を選んだだろう。
しかし北にゴマをする文サンが大統領でいる現状では、韓国は安全な亡命先とはいえない。
気のドクなのは、日本まであと一歩というところで捕まって、北に引き渡された要人だ。
死者が出たというのが事実なら、彼は北への送還をいさぎよしとせずに抵抗したのだろうし、生きて送還されたのならとっくに処刑されているだろう。
彼らが若い恋人同士なら、これは映画「寒い国から帰ったスパイ」を地でいくミステリーだ。
うん、わたしってあいかわらず天才。

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2019年1月 7日 (月)

皇室談義

昨日、書きかけた文章というのがこれだ。
どこが輝いているのかという不満はごもっともだけど、期待するほうもイケナイよな、わたしごときの文章に。

昨日のGLOBEの特集は世界の王族ということで、これは今年皇室の継承をひかえた日本にとって、時宜を得た記事といえるだろう。
はばかりながら、わたしも皇室の存在について考えてみる。

現代は専制君主の時代ではないから、王族や皇室のある国というのは、たいてい立憲君主制のところが多い。
つまり政治は政治家にまかせて、国王はあくまで象徴的存在であるということだ。
象徴的存在にもいろいろあって、英国のようにロック・スターの扱いを受けたり、デンマークのようにいてもいなくてもいっしょという国もある。

日本の皇室はイデオロギーに関係なく、左右のどちらからも尊敬される立場である(左から異論があるかもしれないけど)。
たとえば原発事故があったとする。
政府はあれやこれやと事故後の対応をする。
するとリベラルを称する勢力がいちゃもんをつける。
この両者の意見が一致するわけがないので、ここに国民をまきこんで対立が起きる。
皇室はどちらにも属さずに、被災地の見舞いなどに精を出して、両者からそれなりの支持や尊敬を得る。
つまり日本で皇室は中庸をいく第三の勢力というわけだ。

アジアで王室のある数少ない国のタイでは、故プミポン国王がこういう第三勢力の典型だった。
軍部と民間政党が対立してにっちもさっちも行かなくなったとき、国王が両方の代表を呼んで一喝したら、揉め事はいっぺんでおさまったということがある。
国内で異なる勢力が対立したとき、両方から尊敬を集める仲介者としての存在が必要なのだ。

ただプミポン国王が亡くなって、あとを継いだ現国王は、皇太子時代の奇行からすると、いっぽうの勢力の傀儡になりかねない怖れもある。
王室が客観的立場を維持するのはむずかしい。
フランスのルイ王朝、ロシアのロマノフ王朝、中国の歴代の王朝などに比べれば、現代の日本の皇室のいき方は、公平にみても理想的といえる。
世襲だとバカがあとを継ぐおそれがあるけど、選挙で民主的に選ばれた政治家のほうがよりバカの可能性がたかい。
これは君主制を廃止したルーマニアのもと大臣の発言だけど、警句といっていいんじゃないか。

ことわっておくけど無神論者のわたしが、日本の皇室は天照大神の子孫であるなんてことを、まじめに信じているわけじゃない。
わたしが皇室に対して敬意をはらっているのは、日本の皇室が源氏物語や平家物語の時代を彷彿とさせる、つまり、おかしな言い方かもしれないけど、歴史コスプレの演技者だからだ。
外国人が日本に来て感心する寺院や生活様式など、さまざまな伝統の裏づけになっているのが日本の皇室なのだ。

国民の期待をになって、つねに衆人注目のもとでコスプレをするのが、楽な仕事とは思わない。
そういうきゅうくつな仕事を黙々とこなす皇室であるのに、オレは皇室に反対だという人がかならずいる。
ま、そういう人は、自分が日本を代表していないという事実を嚙みしめるべきだな。

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2019年1月 6日 (日)

駅ピアノ

いま今朝の新聞のGLOBE紙面から思いついたことを書いているんだけど、おそれ多いことでもあり、崇高で光り輝く名文を書こうとしたら、ぱったり思考が停止して、それ以上筆(キー)が進まなくなってしまった。
とても今夜中には間に合いそうもないので、下らなくて、あまり輝かない文章でお茶をにごす。

NHKのBSに「駅ピアノ」という番組がある。
マルタ島が舞台というから、過去にわたしも行ったところであり、ついなつかしくなって録画してみた。

これは駅や空港に置かれたピアノを、通りかかった人が弾く、それだけの番組だった。
通りがかった人というのは、若い美女からそのへんのおっさん、黒人の若者、赤ん坊をかかえた人妻などで、曲目もクラシックからポピュラーまでさまざまだ。
ヨーロッパにはこういう、だれでも弾いていいピアノ・サービスを実施しているところが多いらしい。
日本だって自動販売機がどんな田舎や山奥にもある。
だから国民の公衆道徳心は負けていないなんて、このブログに書いたことがあるけど、やっぱり音楽好きとしては、こういうサービス、そして国民性がうらやましい。

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2019年1月 5日 (土)

痛え

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レーダー照射事件をめぐる日韓のやりとりを見ていると、韓国はゼッタイに自分の非を認めないつもりらしい。
とことん突っぱねれば、どうせいつか日本のほうが折れると考えているのだろう。
日本もとことん突っ張って、たとい戦略物資の禁輸まで踏み込んでも、いまの韓国を見ていると、北朝鮮のような崩壊国家になってさえギブアップしないような気がする。
どうにもガンコな国だな。

今日は散歩に行った。
ほたるの里で足がもつれて、転んで、田んぼにはいつくばってしまった。
みっともないからあわてて起き上がって、なんでもないような顔をしたけど、みると手にそのへんに生えていたハコベを握りしめていた。
転んでもただでは起きないな強欲な地頭みたいだ。
若いころなら転ぶ一歩手前でなんとか踏ん張れたはずなのに、わたしもいよいよヤキがまわったか。
手首をひねったみたいで、おお痛え。

添付したのは、とちゅうで見かけた、花の少ないこの季節によく 目立つオオキバナカタバミ。
階下のロシア人が種をまいたのか、いまうちのアパートの庭にも咲いている。

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2019年1月 4日 (金)

化けの皮

どんな人間が運営しているのかと気になる嫌韓サイト News U.Sに、例の韓国の軍艦によるレーダー照射に反論するため、海上自衛隊がツィッターに意見をのせ始めたという記事が出ていた。
へえっと、いちおう確認してみたら、なるほど、自衛隊のツィッターはすぐ見つかった。
日本の防衛はわたしたちにまかせて下さいと、なかなか頼もしい。

これまで政府がなにかする場合、まず最初にマスコミがそれを記事にして国民に知らせるのが当たり前だった。
そうなると、朝日新聞は自分たちに都合のいい解釈で記事を書き、産経はそれと正反対の解釈で書く。
左寄りでも右寄りでも、ほんとうに政府の希望通りの記事を書いてもらえる保証はない。
これではいかんと、ちょうどアメリカのトランプさんが、マスコミをぜんぜん当てにせず、自らツィッターで発信しているように、日本政府は広報にSNSを利用することを思い立ったらしい。

マスコミがまだこのことを記事にしてないのも、考えてみれば自分たちの仕事がなくなるわけだから、当たり前か。
わたし自身も嫌韓家だけど、韓国が考えをあらためて謝罪だ補償だと言わなくなればそれでいいという程度の嫌韓家なので、日本政府にあまり強硬になってもらっても要注意というところ。

ところでこの News U.Sというサイト、はじめて読んだときには、政治にしても経済についてもなかなか専門的で詳しいので、いったいどんな人が運営してるんだろうと思ったものだけど、だんだん化けの皮がはがれてきた。
たとえば上記のレーダー照射についての記事、北朝鮮の船と禁断の取引でもしてたんじゃないかとの指摘だけど、そんな危険なことをなんで日本の近海でやらなければいけないのかという疑問がある。
こういう点がずさんなままでは、ほかの記事まで信用しにくくなってしまう。
せっかく感心したサイトだけど、あまり推測だけで先走るのは危険でありますよ。

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2019年1月 3日 (木)

フジ子・ヘミング

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フジ子・ヘミングというピアニストがいる。
いまではちょっとした有名人だけど、かっての彼女は無名といってよかった。
戦前の生まれだから若い人ではないし、カタカナ名前でわかるように、世界をまたにかけて波乱万丈の人生を送ってきた人である。
しかし、少なくともわたしは、彼女のことを、名前すら聞いたことがなかった。
そんな彼女がフィーバーしたのは、20年ほどまえにNHKが彼女の特集番組を制作したのが大きいと、わたしは考えている。

たまたまわたしはこの番組を観た。
当時の彼女はうらぶれて、家族もおらず、貧乏アパートの仮住まいといった様子だったけど、この番組のおかげで世間から注目されるようになった。
その後のことはご存知のとおり。
といっても、現在の彼女がメジャーになったとはいいがたいけど、まあ、路頭に迷うことはなくなっただろう。
他人が幸せになるのを見るのはわるい気持ちではない。

昨日は吉祥寺まで出かけて、丸井のまえで版画展のポスターに気がついた。
ほかに用事がないときのわたしはこういうものに目がないのだ。
ちょいとのぞいて作品をながめているうち、作者名がフジ子・ヘミングになっている版画がいくつかあるのに気がついた。
これはあれといいかけると、係員が、ええ、ピアニストのヘミングさんですという。
へえー、彼女は絵も描くのかとわたし。
リトグラフによる版画だけど、絵柄はユニークでおもしろい。

最近はこんなマルチ芸術家が多いようだ。
わたしの知り合いで熊本に住んでいるKさんは、笛作りが本職だけど、もちろん笛も吹くし、絵は描くし、釣りはするし、いずれも玄人はだしの腕前だ。
幼なじみのカトー君は教師上がりの版画家だけど、ときどき近所の人を集めてコンサートなんかやっている。
無芸大食なのはわたしだけみたい(恥ずかしいから食事だけは小食にしてるんだけどね)。

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2019年1月 2日 (水)

新年快乐!

2019c

中国の知り合いから新年の挨拶メールがきた。
ここに載せたのはそのメールに添付されていた絵。
へえ、中国も2019年なのかと感心したってのはウソだけど、中国もイノシシ年なのかって感心したってのは、これもウソ。
干支はもともと中国のものだということぐらい知っている。
ただ中国ではイノシシではなく、ブタだそうだ。

この中国の知り合いとは、いちいちメールを翻訳するのがメンドくさくなって、もう半年以上メールのやりとりをしていない。
可哀そうだから今回は返事を出すつもり。
最新の中国事情がわかるかもしれない。

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2019年1月 1日 (火)

2019

2019a

元旦だ。
今年は初詣の写真を撮りに行くでもなく、ただもうぼんやりと過ごしてしまった。
ま、ぼんやりはいつものことだけど。

新年の冒頭を飾るのにふさわしいのは富士山の写真で、その気になればわたしの部屋のベランダからすぐに撮れるんだけど、あいにくおととしの11月から、目のまえのグランドの照明灯用ポールがまともに富士山と重なるようになった。
これではいかなる名人といえども傑作写真なんか撮れるはずがない。

なにかいい写真はないかなと考えていたら、うまい具合にANAから新年の挨拶がきた。
高齢者会員になってからいちども利用してないんだけど、挨拶にくっついていた写真がこれだ。
タダで利用できるものは親でも使えってこともある。
さて、わたしはまたこの部屋で来春のサクラを観ることになるのだろうか。

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