韓のくに紀行
司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのうち、“韓のくに紀行” を初めて読んだのは、これが文庫版になってすぐだから1978年のことだ。
ということはいまから40年まえということになる。
そのころのわたしはまだ韓国の反日なんてものもよく知らず、ただおもしろい紀行記であると思っただけだった。
しかしあとになってから考えると、すでにあちこちに韓国の反日思想、韓国人の特異な精神構造が描かれていることがわかる。
もちろん有名な作家で、韓国人の知り合いも多いこの作家が、そんなことをあからさまに書いているはずはないから、そのへんは深読みが必要だ。
たとえばこの旅に韓国人ガイドのきれいなお嬢さんが登場するけど、彼女は作家との会話の中で、 「つまり(日本は韓国を)もういちど併合したいとおっしゃるのですか」と訊く。
誤解されたと思った作家は、あわてて「あんなウルサイ国民をまた併合したいと考える日本人はいませんよ」と答えてしまう。
これでは火に油をそそぐようなものだけど、意外や、彼女はむしろ嬉しそうな態度を示す。
韓国ではウルサイというのは褒め言葉らしい。
また日本が韓国に創氏改名を強いたといって、いまでもこれを非難する韓国人が多いけど、韓国は日帝時代よりはるかむかしに、自らすすんで創氏改名をしたことも書いてある。
もともと朝鮮人というのは、テムジンとかヌルハチというようなモンゴルふうの名前をもつ民族だったそうだけど、中国が強大になるにつれ、これにゴマをするために、わざわざ金や朴、文というような中国ふうの名前をつけたんだそうだ。
本人がそうしたいというならご随意にといいたいところだけど、相手が日本の場合は、もちろん創氏改名ケシカランということになるのが困るのである。
作家はすでに韓国人が、日本に対してだけはうるさくて、理解しにくい民族であることを知っていたわけだ。
もちろん司馬遼太郎という人は、もと新聞記者だし、各方面に友人知己も多いから、知らないのはわたしだけだったのだろう。
でも「韓のくに紀行」は、韓国人を怒らせるために書かれた本ではない。
この本の中には、日露戦争のおり、外国の近代軍隊と戦ったことのない日本人は、東洋が生んだ海の名将として、韓国人の李舜臣に勝利を祈願をしたことも書いてある。
李舜臣は豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、日本軍をこてんぱんにやっつけた韓国の英雄だ。
これは作家が、日本人は韓国人でも平等に見ることを知っていたということを証明するために書いたんじゃないか。
作家はなんとかしてこりかたまった韓国人の反日感情を解きほぐそうとしたのだろう。
作家がこのときじっさいに見た光景として、韓国の田舎には電気が通ってなくて、夜になるとまっ暗だという記述がある。
似たような景色をわたしは中国で見たことがある。
はじめて上海から西安に向かったときのこと、西安近郊の田舎では、夜行列車から見ると、夜になるとほとんど明かりがなく、月明かりのなかにモノクロの農家がひっそりと寝静まっていた。
それはそれでとてもこころの落ちつく景色だった。
「韓のくに紀行」が書かれたのは1971年ごろだ。
これは朴正煕大統領の時代で、彼が漢江の奇跡と呼ばれる、韓国の近代化に邁進していたさなかのころである。
おそらくその奇跡の恩恵はまだ田舎には到達してなかったのだろう。
問題は、その後近代化に成功した韓国で、朴大統領の偉業が完全に忘れ去られていることだ。
中国でさえ、井戸を掘った人の恩は忘れないという言葉があるくらいなのに、これはいったいどうしたわけだろう。
じつは韓国人の異常さはこういうところにある。
政権が変わると、まえの権力者が徹底的に叩かれることになるんだけど、これはなぜなのか。
それについてもこの本を読めばわかる。
韓国というのは高句麗、新羅、百済の時代から国内勢力の仲が悪く、百済なんか新羅と犬猿の仲で、最後にはその相手に滅ぼされてしまう。
百済なんていうと聖徳太子の時代で、1400年もまえの話だぞ。
そんなむかしから仲が悪かったわけで、それがいまでも韓国国内に対立の火種になっているという。
日本だって維新の恨みを今にひきずる会津と薩長の関係があるけど、こちらはまだ150年だし、福島から総理が出たからといって、長州の安倍クンを刑務所に叩っこんだりしないだろう。
そうやって深読みしていると、ガイド嬢を美しいとかやさしいと書いているのも、これって皮肉なのかなと思いたくなる。
わたしは彼女を見たことがないからわからないけど、まだ整形なんてものがブームになってなかったころの話だし。
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