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2019年5月 5日 (日)

現代版「ジゼル」

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アクラム・カーンの現代版「ジゼル」では、登場人物が移民の工場労働者たちに置き換えられていた。
移民が出てくるから現代的なのかどうか知らないけど、オープニングはコンクリートの壁のまえで、大勢の男女が踊っているというもので、古典のほうにあった明るく楽しい雰囲気よりも、山谷か釜ヶ崎みたいなすさんだものを感じてしまう。
どこかの工場のストライキを扱ったバレエなのかと思ってしまったくらい。

幕あきからこんな調子では、この場面は古典ジゼルのどこに相当するのか、この人物はどの人物に該当するのかと、最初に理解をしておかないと、なにがなんだかわからない。

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ヒロインを演じるのは1974年生まれのタマラ・ロホというダンサーで、ロイヤル・バレエのベテランらしいけど、結婚まえの乙女を演じるのはちと苦しいかもしれない。
しかし若くしてベテランになれるダンサーは少ないから、無理を承知で観なければいけないのがバレエなのだ。

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女のほうはなんともいえないが、男のほうは上着とネクタイを放り出した丸の内のサラリーマンみたいである。
無理に好意的に解釈すると、ジゼルは美人の移民娘で、アルブレヒトは彼女に好意をよせる会社の若社長だ。
これなら古典との齟齬もなくなる。

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よくわからないのは、このあとに古風なファッションの、トランプの王様と女王様みたいなのが出てくること。
オリジナルのすじがきどうりなら、彼らはアルブレヒトの婚約者の両親ということになる。
もちろん彼らは、自分の娘の婚約相手が、移民の娘と付き合うのをこころよく思うはずがない。
それはともかくとして、現代版ではアルブレヒトのことを、若社長という好意的な解釈をしたのだから、ここは移民の娘なんてとんでもないという、頑固親父の会長が出てこなければいけないのではないか。
なんでここだけ古典に先祖返りをしてしまうのか、どうもアクラム・カーンの思考回路がわかりにくい。
こまかい理屈に拘泥しないのが、現代バレエを観るひけつといわれればそうかもしれないけど。

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なんだかよくわからないまま、ジゼルはめでたく憤死してウィリの世界に迎えられる。
ここから先は死後の世界になるけど、ウィリの世界にも入会式があるようで、新参者は先輩たちやウィリの女王にいじくりまわされるのだ。
いいなあと思ったのはウィリの女王を演じるロングヘアの美人で、むっつり不機嫌だけど、わたしの好み。
つい安心して見とれてしまう。
 

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安心して見とれていられないのはジゼルに告げ口をして、結果的に彼女を死においやるヒラリオンという役柄。
カーン版でこれを演じるのは極東アジア系と思われるダンサーだけど、この舞台の彼は性格のわるい街のチンピラみたいで、精神的深みがぜんぜん感じられない。
どうもアジア人というのは複雑な役柄は不向きなようだ。 

ここで「ジゼル」におけるヒラリオンの演じ方を考察してみよう。
いろいろな解釈があるそうで、たとえば初めから終いまで、少女マンガに出てくるようなイジワル役というもの。
これとはべつに、好きな女性に相手にされず、つい嫉妬心から彼女にいらんことを告げ口して、後悔の念にさいなまされる男という解釈もあるらしい。
古典そのもののマリインスキー版がそのとおりで、ヒラリオンは気の弱そうな若者で、夜中にこっそり、自分が死なせたジゼルの墓に花を持ってお参りにくるのだ。
もちろん飛んで火に入る夏の虫、ウィリたちにさんざん踊らされたあげく死ぬ運命だけど、どこか身につまされてしまうのだよね。
その点、カーン版のほうはチンピラだから、ぜんぜん同情しなくていい。

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現代バレエが苦手のはずのわたしだけど、ウィリの女王以外にいいなあと思った部分もある。
こちらの舞台には、森の中や墓のセットはぜんぜんなく、夜の場面もコンクリートの壁の前で繰り広げられ、その壁すら最後には闇の中に埋没してしまう。
つまり舞台にあるのは人間の肉体だけというわけだ。
現代バレエというのは、ストーリーよりダンサーたちの動きを重点的に見せるもの、といわれればそうかもしれない。

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これだけなら、わたしのキライな現代バレエとあまり変わらないけど、カーン版では光と影がじつに効果的に使われていて、その幽玄的ともいえる美しさに感心した。
棒を一本はさんで、女ふたりのタイマン勝負、その静けさは日本のわびさびの精神にも通じるなんて、ま、余計なことはいわない。

むずかしい理屈は専門家におまかせして、ここはわかりやすくて感心した部分を挙げてみよう。
複数の人物がたてに重なって、最初はいちばん前のひとりしか見えないんだけど、見えない位置のウィリたちがさっと横に展開するシーン、暗闇の中と明るい場所とを、ウィリたちが変幻自在に出入りするところなど、まるでCGによる特殊効果を観ているよう。
古典とはまったく異なる、新しいコール・ド・バレエ(その他大勢組)の可能性を感じてしまう。  

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ということで、現代バレエにも見どころはあると、信条の大転換を計ったわたしだけど、ウィリの女王がキツネのついたおばさんみたいだったら、この感動の何割かは削減されていただろう。
やっぱりわたしはどこまで行ってもフェミニストだ。

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