闇深し
わっからねえなあ。
関西電力が高浜町のもと助役から3億円もらってたって事件。
関電が地元の有力者にワイロを渡したってのならわかるけど、有力者のほうが関電にワイロかい。
それも返すっていったら激怒されたんだそうだ。
お金を返すといわれて怒るのもなんだけど、口止め料のつもりだったのかしら。
つまりムジナがムジナを穴のなかに引っ張り込もうとしたのかしら。
バレるまで隠してないで、そういう金はさっさと原発事故の被害者救済にでも寄付すればよかったのに。
わっからねえなあ。
関西電力が高浜町のもと助役から3億円もらってたって事件。
関電が地元の有力者にワイロを渡したってのならわかるけど、有力者のほうが関電にワイロかい。
それも返すっていったら激怒されたんだそうだ。
お金を返すといわれて怒るのもなんだけど、口止め料のつもりだったのかしら。
つまりムジナがムジナを穴のなかに引っ張り込もうとしたのかしら。
バレるまで隠してないで、そういう金はさっさと原発事故の被害者救済にでも寄付すればよかったのに。
朝おきたら頭がクラクラする。
血圧を測ったら130未満だ。
これは正常値・・・・世間の標準では正常値。
血圧が下がったのは今月から効力アップした薬のせいかもしれないけど、わたしの場合は世間の標準よりいくらか高いくらいのほうが正常のようだ。
この社会では有名になるとかならずケチをつけられる。
これは日本にかぎった傾向じゃないけど、ケチをつけるにも論理的な裏付けがあればまだ許せる。
しかし、たいていはたんなる嫉妬や欲求不満、無知からのいちゃもんだから始末がわるい。
たとえばスウェーデンの少女グレタ・トゥンベリさん(ちゃん?)のこと。
地球温暖化を止めてほしいという彼女の必死の訴えに、疑問を持つ人がいるのはわかる。
わたしもそうとうに疑り深い人間だから、16歳の少女にあんなことができるのか、ウラに彼女を操る組織があるんじゃないかと思うのは当然だ。
しかしこの問題では、この少女を揶揄する気にはなれない。
揶揄すること自体が、彼女と反対の側に立つ人たちの味方をすることになってしまう。
地球温暖化についてはいまだに意見がわかれている。
地球は過去にも氷河期や温暖期を繰り返してきた。
だから現在の気候変動も、地球の自然な営みで、そんなに心配する必要はないという科学者さえいる。
これは決着のついてない問題なのだ。
そういう問題にわたしたちはどう対処すべきだろう。
ひとついえるのは、こういう問題になるとかならず誹謗中傷が入り乱れることだ。
グレタちゃんの背後には温暖化防止を商売にする勢力があるかもしれないし、彼女の主張は先進国の発展を妨害する途上国の陰謀だという声もある。
疑えばキリがない。
でもこれは彼女を攻撃する側にもいえることだ。
企業の経営者や投資家などは、景気の下落を怖れており、商売の邪魔になるものを容赦しない。
「沈黙の春」で殺虫剤の害を告発したレイチェル・カーソンも、米国の製薬企業からいわれなき攻撃にさらされた。
わたしたちはキツネとタヌキの化かしあいにまきこまれないよう注意しなければならない。
どちらもお互いに自分たちの利益のために動いているというなら、このさい雑音は無視して、純粋に温暖化の問題だけに絞って考えよう。
二酸化炭素による温室効果というのは、一定のレベルを超えると、あとは加速度的に進行するという説がある。
つまり温室効果によって温められた地球は、ますます二酸化炭素を放出しやすくなり、放出された二酸化炭素はさらに温室効果を発揮するということだ。
こうなったらもう手遅れである。
地球温暖化がもしも事実だとわかったとき、迷惑をこうむるのはあなたではなく、あなたの子供たちなのだ(この問題に無関心だったり、ヤジを飛ばすだけのあなたはさっさと絶滅してもかまわない)。
グレタちゃんは、自分もそのひとりである子供の声を代弁したにすぎない。
彼女を揶揄するヒマがあったら、自分の子供のことを考えたらどうだ。
温暖化のせいと断定はしないけど、いま極地の氷が減少して、その上で獲物を狩るホッキョクグマが絶滅の危機に瀕しているという。
これについてもそんなことはないという意見もある。
ナショナル・ジオグラフィックやWWFなど、信頼に足るマスコミの多くが報じていることなのに、それを信じない人たちは、自分に都合のいいことだけで自論を組み立てるカルト宗教と同じだ。
じつはわたしは独り者だし、子供もおらず、先行きも短そうだから未来のことを心配する必要がない。
それでもまだすぐには死にそうもない身内や親族がいるから、そうした者たちの未来をぶっ壊してかまわないというほど無責任じゃない。
飢えて行き倒れたホッキョクグマの死骸、それは明日の人類のすがたかもしれない。
家族のいる人、生まれたばかりの赤ん坊を抱く人、まだあと50年ぐらい生きる予定の人、老婆心ながら、わたしは君らの未来を案じているのだよ。
今朝のウチの新聞は「あいちトリエンナーレ」の話題一色。
1面から2面、社説その他の面まで動員して、このニュースだ。
これについてはわたしも、どっちかというと朝日新聞の味方。
いきなりトリエンナーレ全体に補助金不交付なんてことをせず、問題のある展示ふたつを撤去すればかまわないではないか。
芸術というのはもともと反体制的なところがあるものだ。
どうしようもないプロバガンダとわかるもの、個人を誹謗するような作品に国の税金は出しませんというのはいいとして、ひとつかふたつ問題があるから全部に出しませんというのは、わたしとしては賛成できない。
これも現在の日韓関係が生み出した忖度のひとつかもしれないけど、日本はもっと大人であってほしい。
ウチの新聞も姑息だ。
目にあまる部分は無視して、国が芸術を恫喝するのはケシカランと、たてまえ論にすり替えている。
はっきり書け、はっきり。
慰安婦像と、天皇の写真に火をつける展示ははずしたんだからいいではないかと。
そのほうがわたしみたいな芸術好きの賛同を得られやすいのに。
いよいよわたしも仕事をリタイヤすることになった。
今日は所属する団体に辞表を出してきた。
これからは年金と貯金だけで食いつなぐしかない。
貯金なんかいつまでもつかわからないから、もはやホームレスか生活保護一直線だな。
そのまえに寿命のほうが先に終わってほしいけど、さて、とくに波乱もなくここまできたわたしに、最後のどんでん返しがあるかどうか。
ブログはまだ続きます、生きているかぎり(プロバイダに払う金があるかぎり)。
「山椒大夫」は、森鴎外の創作ではなく、古い民間芸能にあった物語に、彼が手を加えたものだそうだ。
もともとの話は勧善懲悪を絵に描いたような話で、奴隷として安寿と厨子王丸を苦しめた山椒大夫は、厨子王に残酷な復讐をされることになっている(ノコギリで首を引かれたとか)。
しかし鴎外は残酷な部分を徹底的に排除して、たとえば安寿が残忍なお仕置きをされる場面や、入水する場面を簡潔にとどめ、これをもっとおだやかで、子供にも親しめる文学に昇華させた。
いまでいう県知事のような地位に出世をした厨子王は、かって自分を苦しめ、姉を自殺に追いやった山椒大夫のところへもどってきた。
まるでモンテ・クリスト伯爵か、ジャン・ヴァルジャンみたいだけど、彼が中国や韓国のような儒教の国の役人なら、その気になれば山椒大夫の領地没収、追放もできただろう。
しかし彼はおとなの対応をとり、せいぜい人身売買の禁止や、奴隷を解放して賃金を払わせるような政策をとるにとどめた。
考えてみれば、これは日本に古くから法治の精神が根付いていたことの証明かもしれない。
法治の国では権力をにぎった役人といえど、いちおう法令の下でまっとうな商取引をしている経営者を、自分の復讐心だけでむやみに処罰することはできないのだ。
しかも「山椒大夫」を読んで感心するのは、奴隷制度を廃止させられた山椒大夫の周辺では、農工の技術はいよいよ向上し、商取引も以前に増して活発になり、大夫はさらに富み栄えたとある。
森鴎外は明治の人だけど、やがて社会主義のソ連が資本主義に敗北したように、国民の自由を抑圧して国を治めるよりも、自由な生き方を許容するほうが、結果的には国を豊かにするということを知っていたわけだ。
「山椒大夫」は子供向けの説教話ではなく、現代にも通じる立派なおとなのための小説なのである。
昨日は知り合いと待ち合わせて、吉祥寺でステーキを食ってきた。
待ち合わせに使ったのが駅前にある武蔵野市の図書館。
わたしが先に着いて、約束の時間までまだ30分あったから、そのあいだ何か読んでいようと考えた。
30分ではミステリーや長編小説を読むわけにはいかない。
けっきょくむかし読んだ本の中の、印象に残った部分をひろい読みすることにした。
取り上げたのが森鴎外の「山椒大夫」。
いわずとしれた安寿と厨子王丸の物語である。
知らない人はいないと思うけど、これは平安時代、九州へ流された父親に会うために、東北からからはるばる旅をした母親と子供たちが、途中で人買いに誘拐され、奴隷として山椒大夫という資産家に売られて苦労する物語である。
明治時代に、一流の文学者によって書かれた、子供向けの童話が必要だという鈴木三重吉あたりの提案に応じて、鴎外が古い伝承を脚色した作品だったはず。
原文どうりでは昭和の子供たちにむずかしいところがあるので、もっとわかりやすくした改正版や、マンガ、絵物語にもなっていて、わたしは最初そういうもので読んだ。
おとなになってから原文を読んで、感心した、というより涙を流した。
子供たちの悲しい運命に涙したわけではなく、文章の素晴らしさに感動したのである。
厨子王や、よくお聞き。
あの中山を越えていけば都はもう近いのだよ。
筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。
お前はこれから思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。
これは奴隷となっていた姉弟の、弟を逃すために、山上で安寿が厨子王丸にいってきかせる場面。
劇的で、非常に感動的な別れの場面である。
弟を逃したあと姉は入水自殺をすることになるんだけど、それを具体的に描かず、この章は簡潔なつぎの文章で終わっている。
その日の夕刻、幼いはらからを捜しに出た山椒大夫の討手が、この坂の下の沼のほとりで、小さなわらぐつを一足ひろった。
それは安寿の履であった。
読みやすくするために多少手を加えてあるけど、読み手に情景を想像する能力さえあれば、「山椒大夫」はとにかくすばらしい名文である。
この部分を読むたびに、いまでもわたしは鼻の奥がツーンとする。
この小説にはほかにも書きたいことが山ほどあるんだけど、残念ながら時間がないので、そのすべてを列挙しているわけにはいかない。
30分で感動を味わって、わたしは涙ながらに知り合いと落ち合った。
写真はひさしぶりに食べたヒレ肉のステーキ。
留守電にメッセージが入っていた。
再生してみると、むかし同じ職場にいて、山登りなどもいっしょに行ったことのある、かっての同僚の声だった。
ひさしぶりの電話で、特段の用事があるわけでもないはずだから、あとでかけ直すという言葉をあてにして夜まで待ってみた。
ぜんぜん掛かってこないからこちらから電話をした。
本人が出た。
おい、電話しただろ、なんの用事だい。
え、電話?そんなものしてないよ。
だって留守電におまえの声が入っていたじゃないか。
なんかのまちがいだろ、いつの話?
夕方の4時ごろだから、まだ3時間まえだ。
その時間に電話なんかしてないよ、おかしいな。
本人に直接そういわれると、こちらも迷ってしまう。
わたしの聞きまちがいか、あるいはボケが始まったのか。
いくらか不安になって、さしさわりのない世間話をしたあと、電話を切った。
すぐにまた彼の奥さんから電話がかかってきた。
すみませんねえ、電話したのウチの人ですよ、わたしそばにいましたもんという。
はっきり認知症とはいわなかったけど、最近の彼はもの忘れがひどくなっているそうで、ようするにボケたのはわたしではなく、彼のほうだったというわけだ。
彼を知っているべつの友人に電話してみた。
おどろいたなあ、世間話をしたときはぜんぜんそんな雰囲気はなかったのにというと、そりゃアルツハイマーだなという。
会話をするとちゃんとまともな応答をするくせに、ほんの数時間まえのことをおぼえてられないのがこの病気だそうだ。
ちなみにべつの友人というのは、老人施設で運転手のバイトをしていて、日常的にそういう年寄りを見ているらしい。
やれやれ。
わたしにかぎってはそういうことはないぞ(ないだろうな)。
今日は何日だっけ・・・・・
あ、わからないよ。
わからない!
カレンダーを見ないと日にちがわからない。
ええとええと、おとといがパソコン同好会のあった日だから、その日は土曜日で、今月の第3土曜日はたしか21日で、ということは今日はとややこしい計算をしないと答えが出てこない。
でもこれは仕事をやめて、毎日メリハリのない生活をしているせいかもしれない。
それでもひたひたとせまり来るものを感じてしまうよなあ。
アルツハイマーになったかっての同僚は、職場でヒマさえあれば重量挙げをしていたくらい健康に気をつかっていたのに。
そして山登りに行こうというわたしの提案に、まっ先に応じてきた男なのに。
もうすでに彼の魂魄は、肉体をはなれて、思い出のなかの北八ヶ岳あたりをさまよっているのかも。
韓国は東京オリンピックに参加しないかもしれないと、これはわたしの愛読するネット掲示板「カイカイ反応通信」に載っていた、その掲示板の管理者の意見だ。
目下のところ、わたしが読んだ嫌韓サイトのなかでは、いちばんまともで冷静な意見である。
文在寅大統領にすれば、もはやそこまで追いつめられている状況らしい。
いまはまだオリンピック不参加を天秤にかけている状態のようだけど、かりに不参加となった場合、日本はどうすればいいだろう。
まあ、日本としてはこのまま正座して眺めていればいいか。
いまIOCはオリンピックを主催してくれる国を探すのに必死で、日本のような経済大国で、なおかつお祭り騒ぎに豊潤に金をかけてくれる国に頭が上がらない。
だから日本の応援団が旭日旗をふりまわしても文句をいえないし、韓国が主張する放射能問題などもIOCにとっては迷惑なだけである。
こんな状況だから、ほんとうは暑い盛りのオリンピックなんてとんでもないとつっぱねてもよかったんだけど、これはIOCよりアメリカの都合だからやむを得ない。
韓国がいくら東京オリンピックをけなしても、ボイコットに同調する国があらわれるとは思えない。
それでも一時的な支持の上昇で、このまま文サンの反日政権が続いたとする。
しかし、すぐとなりの国で華やかにくりひろげられているオリンピックに参加できないみじめさは、すぐに一般国民と、そのために努力してきた選手たちの胸に響くだろう。
どっちにしたって韓国の迷走は止まりそうもない。
4、5日まえに野川公園まで彼岸花の開花状況を確認に行ってみたら、今年はまだぜんぜん咲いてなかった。
おかしいなと、帰宅して過去のデータをのぞいてみた。
ここに載せた最初の写真は2015年9月23日のものだから、例年ならもうこれに近い状態になってなければいけないはず。
おかしいなと思って、昨日また確認に行ってきたけど、やはりひとつも咲いてなかった。
ただ、いくつかの花芽が伸びていたから、1週間後ぐらいには咲く花もありそうだ。
しかし数はけっして多くなかったし、このままでは今年は彼岸花のはずれの年になりそうである。
帰りに野川のほとりで白い彼岸花を見た。
これはいつも赤い種類よりすこし早めに咲く花である。
順調に咲く花もあるのに、これはやっぱり異常気象のせいだろうか。
おお、今朝の新聞に絶好のブログ・ネタ!
1面トップが韓国からの訪日客半減というもの。
ウチの新聞を読んでいるかぎり、苦境におちいっているのは日本だけみたいに思えてしまうのが難点だけど、ネット時代、現実には韓国のほうがきびしいことぐらい、大半の日本人が知っていることだろう。
だいたい、ご丁寧に載っけてある訪日観光客と食料品輸出のグラフを見ても、極端に減っているのは韓国だけで、外国人全体、世界全体ではほとんど変わってないじゃないか。
ま、ひとつぐらい時流にあらがう新聞があってもいい。
でもいまんところ日本にも韓国にも、この意地の張り合いで倒産したって企業がないねえ。
倒産企業が数値として出てくるようになれば、どっちがほんとうに困っているのかわかるんだけど、ユニクロもアサヒビールもまだまだ持ちこたえそうだし。
わたしのこういう態度は、苦しんでいる企業経営者の神経をさかなでするものかもしれない。
しかし、いままでのんべんだらりんと、特定の取引先だけに甘えていた企業にとってはいい試練のときだ。
今回の騒動をバネにして、商売相手の多角化をめざし、真のグローバル企業に成長してもらいたいものだ。
倒産企業が顕在化するのは1年後ぐらいからじゃないか。
でもこのまま両国とも踏ん張って、どちらからも倒産企業が出なかったら、ふざけているのか、おまえらっていいたくなるな。
心配だな。
東京オリンピックでは、応援席での旭日旗の掲揚が事実上許可されるらしい。
こうなると、これまでの恨みつらみを晴らそうと、ネトウヨ諸君が大挙して旭日旗を持ち込むのが目に見えている。
応援席が旭日旗一色になったら、これはこれで異様な光景だ。
なにより訪日外国人がどう思うだろう。
わたしは提案するけど、ネトウヨが大同団結して、持ち込む旗の数を自主的に制限すべきだ。
広い会場のあちこちに、探せばようやく見えるていどにしておいて、韓国人が文句をいったら、禁止されてはいないとつっぱねるだけでいい。
ようするに二度と旭日旗のことでゴタゴタいわせないという、決意を示すだけでいいのだ。
韓国人と同じ土俵で勝負してはいけない。
日本人は理性をもった国民であることを、世界に知らしめる絶好の機会なんだから、これを有効に活用するべきだ。
ああ、でも、ネトウヨとされる過激な人たちにわかってもらえるだろうか。
トシとったせいか、むかし読んだ詩が恋しい。
こういうことを書くと、若い娘を見て目をギラギラさせるおまえがか? 精神分裂症じゃないのかっていわれそう。
そうかもしれない。
わたしは若いころからいろんなものに興味を持ってきた。
というと聞こえがいいけど、そのじつ、ひとつのことに集中できないタチだ。
教室で授業を受けていても、こころはつねに山のあなた。
これじゃたしかに分裂症かもしれない。
でもまあ、そんな自己嫌悪にさいなまされる人生だからこそ、同じような経験をもつ詩人の作品に焦がれるのかもしれない。
ここに載せるのは中原中也の「夜更け」という詩。
夜が更けて帰ってくると
丘の方でチャルメラの音が・・・・
夜が更けて帰って来ても
電車はまだある ・・・・
かくて私はこの冬も
夜毎を飲んで更かすならいか・・・・
こうした性を悲しむだ
父こそいまは世になくて
夜が更けて帰って来ると
丘のほうでチャルメラの音が・・・・
電車はまだある
夜は更ける・・・
この詩については以前このブログで触れたことがある。
中原中也の未発表の詩が発見されたというもので、そのときはまだ中原の詩かどうか断定されていなかった。
でもわたしはアル中が朝になって悔悟しているような、中原に通じるあきらかな個性があると思った。
いまこの詩が彼の詩集に収められているところをみると、わたしの見立てはまちがってなかったようである。
中原中也の人生も悔いと弁解の日々だった。
彼の時代にパソコンやインターネットがあれば、彼も飲むこと以外の趣味を見出したかもしれない。
逆にわたしが彼の時代に生まれていれば、夜毎を飲んで更かす以外になにもできなかったかもしれない。
だからわたしは(たぶん)幸せなほうなのだろう。
今朝の新聞に目立たないけど愉快なニュースがひとつ。
故チャーチル首相の邸宅である宮殿から、時価 6.5億円の黄金のトイレが盗まれたそうだ。
愉快というのはトイレが黄金ということじゃなく、以前にこの宮殿にあったゴッホの絵を、米国大統領のトランプさんが貸してくれといったら、それは貸せないけど、黄金のトイレがあるからあれを貸してやろうと返事をしたという。
いや、ホント、英国人の皮肉ってのはキツイな。
トランプさんがトイレを借りたかどうかまで書いてなかったけど、これが彼に対する英国の評価らしいよ。
公判中に被告同士の対立もあったそうだから、中には生きのびるために、工作や裏切りをした者もいた。
その甚だしいのが右翼の論客とされた小川周明で、彼は狂人をよそおって裁判を免れた。
映画のなかに、彼が東條英機の頭をうしろからペタンと叩く場面がある。
ホントに狂言だったのか意見の分かれるところらしいけど、ウィキペディアによると、彼はほとぼりの冷めたころ、ぬけぬけと翻訳や農村復興運動に励んだとある。
東京裁判から逃げおおせたのは石原莞爾や大川周明だけじゃない。
辻政信という、本来なら東京裁判で極刑に処されて不思議でない人物がいた。
彼は戦争が終わったあと国内外に潜伏し、戦犯裁判が終了してから姿をあらわして、体験談を書いてベストセラー作家になり、ついには政治家にまでなったという、波乱万丈を絵に描いたような人物である。
最後は東南アジア訪問中に行方不明になったけど、こういう要領のいい人間には、おそらく戦争中の恨みをもつ人間に、ジャングルの奥で殺されたんだろうと考えて、せめてものウサを晴らすしかない。
アメリカの裁判では、よく司法取引ということがある。
たとえば被告のなかから特定の人物を選んで、罪に問わないから他の被告について証言しろというもので、ようするに仲間をチクらせて、裁判を検察側に有利に運ぼうというものだ。
日中戦争の初期に謀略家として名をはせた、陸軍の田中隆吉なんかこのケースだったかもしれない。
彼はかっての仲間たちの罪をあばくのに大きな貢献をして、世間からだいぶ後ろ指さされたようだけど、それが保身のためだったか、あるいはなんらかの使命感にもとづいたものか、わたしにはわからない。
この裁判で被告たちの内輪もめがあったのは、ほかに海軍大将だった嶋田繁太郎と文官の東郷茂徳や、天皇の側近だった木戸幸一と軍人たちのいがみ合いがある。
しかしもちろん戦後生まれのわたしに、どっちが正しいのかシロクロがつけられるわけがない。
もしもこの映画が、東京裁判の直後に作られていれば、連合国側を激怒させていただろう。
じっさいには映画製作は、裁判の40年近くあとで、敵も味方も冷静になったころだ。
わたしはそれからまたさらに、30年以上あとにそれを観ているのだから、戦争当事者とも、映画製作者ともちがった感慨があっておかしくない。
かってそこに戦争があった。
いろんな人の、いろんな人生があった。
いまはみんな死んで、みんな死んで、苔むした墓石が残るだけ。
罪びとなんかいるはずがない。
みんなそれぞれ、自らに科せられた人生を、科せられたとおりに生きただけではないか。
いったいだれが彼らを責められようか。
最後に天皇の責任追及がどうなったのかという点について書いておこう。
映画のなかに、昭和天皇がマッカーサーを訪問し、その真摯な姿勢に米国の最高司令官は感銘を受けたとある。
疑い深いわたしはそればかりじゃないだろうと思う。
映画「ニュールンベルグ裁判」では、東西冷戦の勃発で、被告たちは、ドイツを味方につけたいアメリカから手ごころを加えられることになる。
東京裁判でも同じこと、日本を味方につけたいアメリカは、天皇を利用することの利点に早くから気がついていた。
映画のなかに、天皇の戦争責任を問いたいウエッブ裁判長と、それを回避したい首席検事のキーナンの対立がある。
戦勝国同士で意見が食い違うなんて、話がややこしいけど、天皇の無罪は最初から既定のコースだったのだ。
人間を生かすも殺すも、そのときの政治情勢次第だなんて、やっぱりわたしたちは歴史に翻弄される木っ葉みたいなもんじゃないか。
戦争を知らないわたしの、「東京裁判」を観ての感想はこんなものである。
映画を観るまえに思ったのは、生きて虜囚のはずかしめを受けずと力説していた軍人たちが、なぜおめおめ生きのびて裁判にのぞんだかということだった。
もちろん、中には東條英機のように自殺未遂や、逮捕されるまえに自決した者もいるけど、ほとんどの被告は生きて裁判にのぞみ、彼らの全員が無罪を主張した。
しかしこれは日本人が初めて経験する、米国方式の裁判の慣例に従ったにすぎない。
すなおに有罪を認めようとして弁護士に押しとどめられた被告もいたのだ。
興味があったので、わたしは映画を観ながらグーグルと首っぴきで、東京裁判の被告たちの運命をなぞってみた。
荒木貞夫 = この人は作家の司馬遼太郎に、大将の器ではないと評価されている人だけど、この裁判では罪状認否のさいに余計な自説までとうとうと述べていた(余分な部分はあとで削除されてしまったらしい)。
これも当時の日本人が米国式の裁判になれてなかったせいだろう。
板垣征四郎 = 満州関連の戦犯というと、わたしは彼と石原莞爾、土肥原賢二らの名前がすぐ浮かぶ。
ところで板垣と土肥原は訴追されたのに(両名とも死刑)石原の名前は戦犯名簿になかった。
ウィキペディアによると、なんかずいぶんいいかげんな理由で石原は訴追をまぬがれたそうである(ホントなのかしら)。
戦争責任の多くは日本陸軍にあったというのが戦勝国の見方で、陸軍軍人であり、満州事変にも深く関わった石原が戦犯指名を受けていたら、彼も極刑をいいわたされていた可能性がある。
「落日燃ゆ」の広田弘毅 = 彼は東京裁判の被告のなかで、ゆいいつの文官とされているけど、ひとことの弁解もせずにしゅくしゅくと死刑台に登った。
彼の死刑判決には疑問をもつ者も多かったようで、ようするにひとりぐらい文官からも出さないとまずいんでねえかと、そういうふざけた理由で死刑になってしまった人のようである。
わたしは城山三郎の小説を読んでないんだけど、彼の妻も裁判中に自決したというから、ほかのおおかたの軍人よりもいさぎよいくらいで、これはあるいは、バカ正直な人ほど損をするという典型的な見本かも。
重光葵 = 戦艦ミズーリ上で降伏文書に、日本代表として調印したことで知られているけど、彼も文官で、それ以前に外交官を勤め、外国に友人知人が多く、なんで戦犯に指名されたのかだれにもわからからなかったそうだ。
ということで懲役7年(とちゅう恩赦)という、冗談みたいな判決になった人。
東條英機 = この裁判で最初から非難の矢面に立たされ、いまだに中国や韓国から鬼だ悪魔だとののしられている人。
おかげで他の被告からも敬遠され、映画のなかでも孤独感がしみじみ。
これじゃスタンリー・クレイマー監督の映画「ニュールンベルグ裁判」の、パート・ランカスター扮する法務大臣ヤニングの役割だな。
いっておくけど、日本はドイツほど(そしてソ連や中国ほど)個人に権力が集中する国じゃなかった。
軍部のなかに東條英機を毛嫌いする者もいたし、けっきょくみんなの意見を四捨五入して、まあ、ほかにいないからなと消去法で首相に推挙されたようなものじゃないか。
戦後70年の日本人からすると、彼ひとりに全責任を負わせるのはひどすぎるような気もする。
今年の終戦の日あたりに「東京裁判」という古い映画を観て、そのとき感想文を書こうとしたものの、なにしろ4時間半もある映画だし、うかつなことを書いて右翼や左翼から攻撃されてもつまらない。
それでそのままほっぽらかしにしてあったんだけど、その後、ときどき思い出したように書きつづっていた駄文が、ようやくまとまったので公開する。
あいかわらずヒマね、わたしって。
「東京裁判」を観るまえに心配だったのは、監督の小林正樹という人が、ちょっと左翼がかった人だと思い込んでいたので、映画も朝日新聞あたりが喜びそうなものになっているのではないかということ。
しかし結論を先にいうと、偏向を問題にするような映画ではなかった。
このていどなら、いまでもNHKがよくやっている、戦争ドキュメンタリーとたいして変わらない。
ただ、戦争の記録映像はテレビなどでよく見かけるけど、ほとんどがあちらこちらの戦場から集めた断片的なもので、この映画のように一貫した主題にそって並べたものを見られるのは貴重だった。
わたしは戦後生まれで、戦争とはまったく関係なく生きてきた人間だから、70年もまえの裁判の結果に文句をいったり、是非を論じる資格がない。
この映画にはたくさんの証人が登場するけど、たとえばかって満州帝国の皇帝だった溥儀、彼が何か証言しても、すでに戦争は決着して戦勝国による裁判が始まっているのだ。
彼が正直に事実を述べたという確証はない。
バターン半島で虐待を受けたという米兵の証言は、それを実際以上に誇張していたと考えてもおかしくない。
証拠も証人も疑えばキリがないし、とにかくいまとなっては何もわからないのだ。
だからここでは裁判の結果や、個々の被告の罪についてはいわないことにして、東京裁判をもうすこしべつの視点からながめてみよう。
東京裁判については、いまだに勝者が敗者を裁く不公平なものだったという人がいる。
しかしこの裁判にかぎれば、起訴された者が21人。
そのうち死刑の判決を受けた者が7人。
だれかが責任を取らなければいけないとしたら、この数は多いか少ないか。
かりに東京裁判がソ連の主導で行われていたら、死刑はもっと増えていたかもしれない。
裁判全体をながめると、最初の陳述、まず裁判の正当性を問う日本側の質問は、ハナっから無視しようという意図があったようである。
裁判長はウェッブというオーストラリア人だけど、あとで述べるように、最終的に東京裁判から逃げおおせた被告も何人かいた。
それがけっきょくうやむやになったのだから、多少の不備や不満は無視して、さっさと仕事を片付けようという裁判だったように感じてしまう。
しかしそんな裁判長を罵倒して退席をくらうアメリカ人弁護士もいたくらいだから、弁護団は被告たちの弁護に全力を尽くしたといっていい。
いまYouTube で「フィリピン農園だより」という映像にハマっている。
これはNPOの海外協力事業の一環らしく、これを公開しているユーチューバーは、じっさいにフィリピンの貧しい農村に住み込んで、現地の人と同じ釜のメシを食いながら、仕事の合間に撮影した映像を公開しているらしい。
最初はたまたまイヌやネコ、サル、ヘビ、トカゲなどがうじゃうじゃいる原始的な田舎の生活が、自称ナチュラリストにとって理想郷みたいな感じがしたので見始めたんだけど、だんだん熱が入って、この映像についてもっと詳しく知りたくなった。
詳しく知るための第一歩は、まず公開されている映像をひとつ残らず集めることだ。
といってもそれは簡単じゃない。
「PHL農園」の映像が初めて公開されたのは2009年だそうで、その後事情があって100回分ほどを削除したという。
それでも、最近になってわたしが集めたものだけでも70回分ぐらいあり、これで全部というわけではないのだ。
毎晩映像の蒐集に熱中しているので、現在のわたしはボケるひまもない。
ひとつひとつの映像は、せいぜい数分ていどの他愛ないものだけど、集めた映像を公開された順番に並べてみると、長尺のドキュメンタリーを見るようで、現地の生活がありありと目のまえに浮かび上がってくる。
日本に比べればインフラも整っておらず、生活は極貧というくらい貧しいものだけど、その自然の豊かなこと、まるで子供のころのわたしの郷里、いやそれ以上である。
まずたくさんのネコが出てくるけど、飼いネコなのか野良なのかわからないくらい、みんな自由奔放に生きていて、もちろん去勢なんて非道な仕打ちを受けているものは一匹もいない。
彼らは野山を自由に走りまわり、ネズミやヘビを捕まえて、自給自足も可能な生き方をしている。
ヘビもたくさん出てくるけど、フィリピンの田舎では小さな女の子まで、ご馳走だといってそれを追いかける。
ヘビだけじゃない。
川にはスッポンやナマズが手づかみできるくらいたくさんいて、やはり人間の食事に供される。
ここでは人間も自然界の弱肉強食の輪のなかにいる。
そんな日常がじつに興味深い。
わたしはこんな生活にあこがれるけど、ニワトリをしめて羽をむしったり、でっかいヘビの皮をはいだりすることはできそうにないから、そこで暮らすのはとても無理だ。
しかしわたしの友人に、フィリピン人の奥さんを嫁にもらい、奥さんの故郷に移住した人間がいる。
彼はわたしより若くてハンサムで、スポーツマンだし、日本にいるとき本職のあい間に園芸をしていたくらいだから、適応力はありそうだ。
彼の住んでいるフィリピンの田舎とやらに行ってみたいものである。
わたしごときがいくら吠えたってなにも変わらない。
変わったとしても、わたしはその結果を見られるほど長生きできるかどうかわからない。
でも認知症予防のために、やっぱり世間に向け、韓国に向けて吠えてしまうのだ。
韓国では文在寅サンが疑惑いっぱいの候補を、とうとう強引に法相に任命した。
検察機関の改革のためとはよくも言ったり。
文サンが狙っているのは、法務部長官を自分の身内で固め(とうぜん自分に反抗的な態度をとった)検察の大粛清をしようということだろう。
以前にこのブログでも書いたけど、これは強盗が警察のトップになるようなものだ。
韓国の大統領はとっくに、前政権時代の最高裁長官を更迭した。
そのうえで検察まで手中にすれば、これからは犯罪を裁くのも、罪を決めるのも自分の思うがままだ。
最高権力者と立法、行政、司法の三権を、すべて同じ派閥の人間が占めたら、どんなおそろしいことになるか。
韓国はいま民主主義のきわどい分岐点にいるところで、危機感をもつ韓国人もいるようだけど、それがローソク革命につながるかどうか不明だ。
日本人としては傍観するのみ。
よその国のことなんか気にするなという人もいるけど、わたしはドラマチックなテレビ番組を見ているように興味津々である。
ものすごい台風が来るってハナシだけど、どこかへ逃げるわけにもいかないし、昼間はいい天気だったから、大急ぎで洗濯をした。
ベランダへ出るためにガラス戸を開け閉めすると、ギシギシと戸がきしむ。
その音がだんだん大きくなってきたような気がする。
家全体が傾いているんじゃないか。
築30年以上だし、わたしが重量のかさむ書物をたくさん持ち込んだので、納得できる部分もないわけじゃない。
いまでは書物の大半は処分したけど、台風やでっかい地震が来たら、わたしはこの家と共にオダブツかも。
いまはまだ嵐のまえの静けさだ。
あいかわらずネットがつながらないところへもってきて、今度は据え置き電話まで不通になった。
わたしがネットで株の取引でもしていたら、いまごろは数億の損害を出していたと思われる、コンチクショウ。
そんなことはさておいて
今日の新聞の1面トップは、香港でデモ隊の抗議が功を奏して、行政長官が謝り、大陸の共産党がメンツをつぶされたってこと。
勢いにのったデモ隊は、さらに要求をエスカレートているってことだけど、大丈夫かねえと心配になる。
当初の目的である逃亡犯の本土引き渡しは阻止したのだから、そのへんで手を引いておかないと、メンツにこだわる中国人がこのままおとなしく引っ込むだろうか。
またいつでも同じことができるんだぞと、示威行為だけで十分な気もするんだけどね。
いまウチのパソコンの具合がわるく、デスクトップでインターネットが使えない。
やむを得ずタブレットでブログの更新をしてるんだけど、無線LANのスピードがなかなか一定しないので、いらいらする。
そういうわけであまり長い文章を載せるのもためらってしまうところ、うまい具合に今朝の新聞に、わたしによく似ている作家の池澤夏樹サンが文章を寄せていた。
池澤サンて、新聞の写真でみるとまだ若そうだけど、じっさいは白髪に無精ヒゲで、風貌はわたしか宮崎駿かってところなのだ。
新聞に載っていた彼の文章は、いまのわたしにぴったり当てはまる。
まあ、どんなものか、読んでごらんなさいと書いて、本日のわたしのブログ更新はおしまいだ。
ネット接続会社に電話して、またまるめこまれた。
どうやらそろそろウチの近所で住宅建設が始まるので、並行してネットの配線工事をしなくちゃいけないのが、管理会社と揉めているとかなんとか。
建設のほうは9月から開始の予定がまだ始まってない。
この記事はタブレットで更新したんだけど、それだと複雑な仕事はなにもできない状態。
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