未来の展望
今日の新聞に、国立図書館にブログを保存するという記事。
おお、ひょっとするとと思ったけど、わたしのみたいな泡沫ブログは対象外らしく、保存されるのは市川海老蔵サンやプロ野球選手のものだけらしい。
残念だな、とりたてて財産のないわたしにとって、未来に残せるものとしたらブログぐらいしかないのにと思う。
ヒエラルキーはこういうところにも存在するんだなって、平凡な庶民のわたしはガックリきちゃうけど、でも、これを読んでひとつの展望が開けてきた。
親類縁者からも疎遠で、墓もいらないという偏屈なわたしは、死んだあと二世代か三世代を経れば、もう完璧にこの世から忘れられているだろう。
わたしの親戚の子供が、風変わりなおじさんがいたらしいと、わたしに興味を持ったとしても、どんな人だったのかという証拠すら探しようがない。
しかしブログが残っていればそうではない。
たとえば、宮沢賢治という人はとっくのむかしに亡くなって、もはや生前の彼のことを知ってる人はひとりも残っていない。
しかし彼の詩や童話があるかぎり、彼の人格は永遠に不滅だ。
彼がどんな人であったかということは、彼の文章を読めば、いつでも誰にでもわかるのである。
おまえのアホなブログがと嘲笑の声が聞こえてきそう。
しかし、いまは有名人のブログ限定でも、将来もそうとはかぎらない。
コンピューターがいままさに生まれつつある巨大な生命体であるとすれば、その脳はありとあらゆる知識を欲しているはずで、将来的には森羅万象のことごとくを収集しようとするだろう。
量子コンピューターの出現でもわかるように、その処理能力は飛躍的に高まり、その容量は爆発的に増え続けている。
無限に増殖しようとするこの脳を止めるすべはもうないのだ。
YouTube には膨大な数の映像が集められている。
中にはとるに足りない映像もあるだろうけど、そうしたものもすべて、機械が感情というものを理解するのに必要なものだとしたら。
わたしのブログだって保存の対象にゼッタイならないという保証はないはずだ。
ネットで沖縄について調べたら、つぎからはパソコン画面に沖縄旅行の宣伝ばかりが出てくるようになった。
Googleマップのストリートビューには、すでに消滅したうちの近所の景色のデータも残っているだろう。
些細なことだけど、ネットを使って旅行の手続きをしたわたしの個人データは、米国のお役所のコンピューターにファイルとして綴じられているはず。
こんな具合で、どんなつまらなそうなデータでも、将来はコンピューターの中に効率的に保存される可能性があるのだ。
50年100年後に、わたしの親戚のガキが、コンピューターでわたしのことを検索して、このブログを発見するかもしれない。
おじさんて、引きこもりでイヤらしくて、誇大妄想を持つ人だったんだなと思われても仕方ないけど。
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