2020年1月
2020年1月31日 (金)
2020年1月30日 (木)
ロシア娘
お、またかい。
というのはロシア人ユーチューバーのこと。
老舗のアシヤに続いて、ユーリャ、リサ、マリア、アリョーナ、ナスチャ、ジェーニャ、ポリーナ、コンビでやってるピロシキーズ、最近日本人と結婚したトリちゃんはウクライナ人だけど、これも含めると、ホント、最近のロシア人ユーチューバーは雨後の筍のようだ。
原因は先達のアシヤが面倒見のいい子で、日本に来るロシア娘をかたっぱしから YouTube に引っ張り込んでしまうこと。
いえ、美人ばかりだから文句をいおうって気はないですけどね。
彼女らに共通しているのは、美人で、日本語が話せて、寿司が美味しいテンプラが旨いと、日本の食事を絶賛しているものがほとんどであること。
よほど和食は彼女らの口に合うとみえる。
これじゃラブロフさんがすなおに四島を返還しないわけだ。
ロシア人はみんな日本にあこがれているので、いま、たとえば二島でも返還すれば、もっけの幸いと、ロシア中の若い娘がみんなその二島に住所を移して、わあっと合法的に日本に移住してきて、いかにロシアが人気がないか一目瞭然だもの。
2020年1月29日 (水)
暑い日
暖かいねえ、もとい暑いねえ。
薄着をしてきたつもりだけど、なんだ、今日の暑さは。
ようやくいい天気になったので、今日はまたすこやかに散歩だけど、まったく今年の気象はどうなってるんだ。
コロナ・ウイルスより地球温暖化のほうが心配だ。
昼のニュースはコロナ・ウイルス一辺倒だった。
散歩コースにもマスクをした人が目立つけど、まだ日本じゃ交通事故のほうが死者が多いじゃないか。
どうしてそんなに風評被害に怯えるのかね。
コスモポリタンを自称するわたしはマスクにどうも抵抗がある。
むかしロシアに行ったとき、たまたま風邪ぎみだったので、日本で買ったマスクをして待合室に座っていたんだけど、ふと気がついたら、まわりのロシア人はだれひとりマスクをしていなかった。
こうなると肺結核の病人か、墓場から湧いたゾンビではないかと思われているようで、ひじょうに恥ずかしかった。
それ以来マスクがきらいなわたしである。
もうちっと冷静にならないと・・・・
コロナ・ウイルスより危険ななにかが、じっとわきからうかがっているようでコワイ。
2020年1月28日 (火)
へたれる?
わたしの知り合いがトルコに行ったことはすこしまえに書いたけど、もう帰国したはずなのに、その後の消息がわからないね。
彼のフェイスブックを見ると、ドーハで飛行機を乗り換え、トルコに到着して、カッパドキアあたりまでは張り切っていたのに、アンカラからイスタンブールになると息切れしたような感じだ。
トルコ周遊のパックツアーってのはけっこうきついからねえ。
わたしも経験があるんだけど、イスタンブールに到着したのが夜中の1時で、ホテルで寝たのが3時、翌朝の出発は7時半だったので、二度とパックツアーなんかに参加するもんかと思った。
あまりきついと、わたしのもうひとりの知り合いみたいに、心臓発作を起こして現地の病院に入院することにもなりかねない。
こちらの場合は目的地がベトナムだったから、頑張って看護婦さんをくどいて、外国人嫁をもらってくることも考えられたけど、発作のO君はいまだに独身だ。
2020年1月27日 (月)
惑星探査の時代
いまから3年まえの2017年に、ひとつの惑星探査機が土星の上空で消滅した。
昨夜、飲みに行くまえにビデオ・レコーダーに録画セットしておいたのは、この探査機カッシーニをめぐるドキュメントを録画するため。
わたしはこの手のミッションにひじょうに興味があるので、ボイジャーやガリレオ、カッシーニと続く、外惑星探査機の活躍と成果についてもよく知っていた。
木星の表面やリングやその衛星の素顔、さらに土星の輪の複雑な構造、その衛星たちなど、わたしが生きているときにベールをぬいだ宇宙の神秘は数多い。
地球の歴史からすればまたたきほどの時間にしかすぎないわたしの人生が、たまたま木星や土星の素顔を知ることのできた時代にぴったり当てはまったというのは、考えてみればほんとうに不思議なことである。
わたしがガリレオの時代に生まれていれば、お粗末な望遠鏡でながめた不鮮明な木星や土星を見るのがせいぜいだったのだ。
先駆的な土星観察者だったガリレオやホイヘンスだって、そこにあるのがわかっているのに、はっきりと見ることができないもどかしさを感じながら死んだにちがいない。
近年の探査機の活躍で、火星の外側にある巨大惑星は、肉眼で至近距離から見ていると変わらない鮮明さで、わたしたちのまえに姿をあらわした。
昨夜の番組でいちばん印象に残ったのは、長い尾を引きながら土星の大気圏で燃え尽きる探査機カッシー二の映像。
ミッションに関わった人々もいっていたけど、これは10年もの長きにわたって、数々の試練を乗り越えてきた英雄が、ついにその生涯を終えたということである。
CGとはいえ、もし仮にわたしたちが土星のすぐそばまで行ったとすれば、この画像のような光景を目の当たりにすることができたはずなのだ。
映像を見ていたわたしも鼻の奥にツーンと来るものが。
この先、わたしたちが惑星の驚異に遭遇するとしたら、どんなことが考えられるだろう。
じっさいに外惑星に到達して、衛星イオの噴火を目の当たりにするか、タイタンのメタンの海をま近に見るか、あるいはエンケラドスに着陸して、その氷原に穴を開けるか。
でもわたしはそこまで欲張らない。
わたしの人生の幸運を噛みしめるには、いまの時代に遭遇したというだけで十分だ。
わたしは自分がガリレオよりずっと幸運だったと思っているのである。
2020年1月26日 (日)
2020年1月25日 (土)
Youku
わたしは外国に行くとき、よくドロ縄でその国について勉強する。
中国では新型ウイルスの流行で、あわてて病院を建設中だそうだ。
こういうのもドロ縄というんだろうな。
独裁だの抑圧だのって、世界中から評判のよくない中国だけど、わたしはいま中国人の知り合いとメールのやり取りをしているので、さりげなくあちらの情報を尋ねることができる。
たとえば、ユーチューバーをやっている中国人のモンちゃんという娘がいて、彼女は日本から大陸に向けて、しきりに日本の食べものを紹介している(観光スポットなどの紹介もあるけど、彼女の場合メインはあくまで食べ物である)。
そういうわけだから、日本の食事についてわたしがぐちゃぐちゃ書いてやるより、彼女の映像を観てもらったほうがよっぽど早い。
知り合いに、YouTube のモンちゃんの映像は中国でも観られるのかと聞いてみた。
資本主義国の腐った情報が怒涛のように氾濫するのを怖れる中国では、YouTube は根本から遮断されているんだそうだ。
それでは中国ではモンちゃんの映像は観られないかというと、そうではなくて、中国には YouTube に代わる映像公開サイトとして Youku というサイトがある。
これはまったく YouTube のパクリだけど、人口14億の中国ではこれ単独でも充分に YouTube に対抗できてしまうのだ。
モンちゃんの映像はこの Youku でも観られるのである。
おかげでいまでは中国人も、納豆や卵かけご飯、イカの踊り食いといった想像を絶する和食の存在を知っているようだ。
新型ウイルスは、もとをたどると、ヘビやコウモリを食べるという野蛮な中国の風習にあるらしいから、希少な動物を守るためにも、もっとそれに代わる美味を教えてやって、中国の市場の景色を一変させてもらいたい。
日本の役割は大きいといわざるを得ない。
2020年1月24日 (金)
拡散
前項でオペラというかバレエというか、「SADKO」という舞台映像にリンクを張ったけど、これとはべつに映像をダウンロードして、自分のパソコンに取り込んである。
余計なことのようだけど、こうしておかないと YouTube の映像は、いつ削除されて観られなくなるかわからない。
たとえば以前わたしのブログ記事で、「石の花/ツァールスカヤ・ロージャ」というドキュメント映像にリンクを張ったことがある。
これはバレエ石の花にまつわる振付師、ダンサー、共演者、指揮者などへのインタビューを集めた興味深い記録映像だったのに、いまみたらもう YouTube 上の映像が非公開になっていた。
ロシア語の会話やナレーションに、誰かが日本語の訳を添えてくれていて、これならわたしにも理解できると喜んでいたものだけど、もしかすると著作権に抵触して、オリジナル映像の持ち主から抗議でもされたのかもしれない。
こういうことが原因で YouTube 映像もけっこう出入りはあるようだ。
わたしの場合その映像を保存してあるから、その気になればまた YouTube に上げることもできるけど、これがいわゆる拡散というやつだな。
非公開にされたということは、なにかしら非公開にしたい理由があるのだろうから、わたしはそういうことはしない。
世間の男女のなかには、二人だけのむつごとまで画像・映像を共有しているバカ者、もとい若者もいるようだけど、それがネットに流出するというのはこういうことだ。
わたしみたいに自制心を持ち、自分だけでひそかに楽しむ人ばかりじゃないので要注意である。
2020年1月23日 (木)
SADKO
「バレエ・リュス/その魅力のすべて」という本を読んでいて、ナタリア・ゴンチャロワという画家の隠された真実を発見したというと、ちょっと表現がオーバーだけど、そういうことがあったばかり。
同じ本で今度はロシアの画家イリヤ・レーピンの、「SADKOと海底王国」という絵について発見があった。
これは初めてロシアに行った2013年に、サンクトペテルブルクのロシア美術館で観た絵のことなんだけど、ひとりの男が海の底できれいな人魚たちに囲まれているという風変わりな作品である。
へえ、レーピンにしては変わった絵だなと思った記憶がある。
帰国してからブログに書くために少し調べてみたけど、当時はまだ翻訳ソフトがあまり頼りにならなかったのか、英語版のウィキペディアまで手をのばす気になれず、けっきょく絵の由来についてうやむやになってしまった。
それが「バレエ・リュス」を読んでいたら、この物語を題材にしたバレエについて書かれた箇所があり、それで思い立って、あらためてウィキペディアのSADKOの項を読んでみた。
SADKOというのはロシアの海運商人で、彼が海底王国のお姫様に魅入られ、ある日海に引っぱりこまれるというお話だそうだ。
日本の浦島太郎伝説のように、ロシアではよく知られた物語のようだけど、わたしはまったく知らなかった。
これがリムスキー・コルサコフによってオペラ化され、バレエ・リュスのバレエのレパートリーにもなったという。
ウィキペディアによると、なかなかおもしろそうなオペラなので、もうすこし詳しく知りたくなって、YouTube にも当たってみた。
お、あるある。
Ballet と SADKO で検索すると、映画化された作品や、オペラとバレエが渾然一体となった、3時間ちかくもあるこの舞台映像がヒットする。
でもそんな長い映像を最後まで観ているヒマはないので、今日のところは当該ページにリンクを張るだけにしとこ。
わたしとしては、なんとなくこころが豊かになったような気がする、だけで満足。
2020年1月22日 (水)
バレエ・リュス
ヒマなときは手間のかかる本を読むのがいい。
それがおもしろければなおさらいい。
むふむふむふと感心していれば、退屈な冬の夜もアッという間に明ける。
というわけで図書館から借りてきたのが「バレエ・リュス/その魅力のすべて」という本。
ハードカバーでけっこう厚い本だから、そういう点でもヒマつぶしにはもってこい。
バレエ・リュスというのは、ニジンスキーを擁して、ヨーロッパに衝撃を与えた伝説のバレエ団のことである。
最近バレエの話題が少ないけど、わたしの興味がうすれたわけじゃない。
わたしの審美眼はいよいよ研ぎ澄まされ、バレエに対するいちゃもんもいよいよ熱を帯び、こういう本を読んでいちゃもんのネタを追求すること急なのである。
この本の全容を語るには、読み始めたばかりなので、まだ早い。
でも第3章にナタリア・ゴンチャロワという人名が出てきた。
これってアレじゃん。
わたしが2度目のロシアに行ったとき、新トレチャコフ美術館で展覧会をしていた人じゃないか。
そのときはまったく初めて知った名前だったので、経歴もなにもわからなかったけど、今回借りてきた本によると、彼女については第5章に詳しいとある。
そこで4章をすっ飛ばしてゴンチャロワさんの記述に飛んだ。
まえに行ったりうしろにもどったり、こういう読み方はわたしの場合よくあることだ。
結果がわかったらお終いというミステリーを読んでいるわけじゃないんだから。
というわけで、ゴンチャロワさんについていくらか詳しくなったものの、じつは彼女についてはウィキペディアにも記述があった。
ウィキペディアの記述は英語版のほうが詳しいので、興味のある人は、例のグーグルの丸ごと翻訳で全文を読んでみるヨロシ。
そのページへリンクを張ってもいいんだけど、そんな親切をしたって、読もうという人はいないに決まっているからやらない。
ここに紹介した絵は、彼女がバレエ・リュスのためにデザインした衣装で、アバンギャルドの旗手の面目躍如といったところ。
どこがアバンギャルドだという人は、彼女が1920年代ごろに活躍したロシア人であることを理解してほしい。
深夜にひとりぼっちで、本を読んだり映像をあさったりしていると、とりとめのない関心事項が生じ、それをパソコンでリレー式に追求していると、思いもかけないところから新しい知識が出てくる場合もあるものだ。
そんな知識のほとんどは生活の足しにはならんけど、ヒマつぶしにはなるし、なんとなくこころが豊かになったような気はする。
2020年1月21日 (火)
知り合いのメール
中国の知り合いから来たメールに、2009年7月5日のウイグル族による新疆の暴動に触れた箇所があった。
当然我是知道新疆暴乱的真实情况,新闻上说的不是很具体,09年7月5日暴乱很残忍,维族人包括维族老太太杀了太多的汉族人场景相当残忍,那天二道桥发生暴乱,我姐姐还在北京路上逛大街,二道桥距离北京路很近,顿时一切信息都断了,没法联系了。
この知り合いはむかし新疆にいたことがあり、その姉も事件があったころウルムチ市にいて、一時連絡がとれなくなって心配したそうだ。
知り合いは漢族の中国人だから、当然のようにこの事件を漢族の側から見ている。
ウイグル族は残忍だというんだけど、わたしは冷静な第三者だから、かならずしもそうは思わない。
そもそも漢族がなぜウイグル人の都市にいたのかという疑問がある。
中国はひとつの国であり、国内のどこに漢族がいても不思議じゃないといわれれば、それはそうだけど、もともと異質なイスラムの土地に大勢の中国人が入り込めば、当然軋轢が生じる。
中には一攫千金を求めて入り込んだ山師のような人物もいただろうし、グローバル化に乗り遅れたウイグル人を馬鹿にする者もいただろう。
大多数の人々はそうじゃないとしても、普遍的な法則を適用してみれば、自分たちより遅れているというだけで、相手をさげすむ人間はどこにでもいるものだ。
わたしは中国を旅しているとき、じっさいに山師のような中国人と列車に乗り合わせたことがある。
彼は小さな箱に毛のないしわしわのイヌを入れて、これをこれから新疆で売るのだといっていた。
なんという種類のイヌなのかいまだに知らないけど、相手のイヌに対する愛情の欠如と、テキ屋のようなその風体が気になった。
そういう気になる少数の人間をのぞけば、あの広大な国で出会った人々はみんな温かな人ばかりだった。
黒竜江省から新疆に出稼ぎに来ていた漢族の娘もいれば、逆に北京から新疆に帰省するというウイグルの踊り子もいた。
だからどうした、こうするべきだとエラそうなことはいわない。
日本人にも普遍的な法則の当てはまる人間はいくらでもいるとだけいっておこう。
わたしはこれから中国人の知り合いに返事を書かなければいけないのだけど、動乱については触れず、この文章の最後の部分だけを書くつもりだ。
2020年1月20日 (月)
ぼんやり
暖かいねえ。
昨日はめずらしくダウンを羽織って散歩が、今日はまたウインドブレーカーだけで、飛行場のわきのベンチに座り込んでぜんぜん寒くない。
しかも今日は無作法な嬌声をあげて運動をする若いモンもおらず、グランドもやけに静かだ。
世界を独占した気分になるじいさんである。
ここまで来るあいだに、飛行場の建物のあいだから、特徴のある奥多摩の大岳山が見えた。
また冬枯れのままの、グランドのわきに屹立するセイヨウハコヤナギのこずえを見上げた。
そうしてベンチに居座るわたしの目のまえを、近くに池なんかないのに、なぜかアオサギがひょろひょろと飛んでいく。
そういえばまたむかしの山仲間から、散策と飲み会のお知らせも来ていた。
こんな具合にもうやたらにとりとめのないことが、涸れることのない泉の水のように、つぎからつぎへと湧いてでる。
それは意味のない空想の世界や、心地よい思い出であることもある。
大岳山はひとりで登った奥多摩の山々を、セイヨウハコヤナギははるかシルクロードの地を思い出させる。
そして現実に立ち返れば、飲み会のお誘いだけど、暖房費もだいぶ節約できているようだし、年賀状の返事を書かずにほっぼらかしてあるメンバーもいるから、その謝罪がてらまた出かけなけりゃいけないようだ。
なんてことを書いているうちにそろそろ人が出てきたみたい。
これから自然観察園のほうをまわって帰ろう。
2020年1月19日 (日)
トルコ旅行
わたしの知り合いがいまトルコ旅行のまっ最中で、フェイスブックにカッパドキアからの写真を載せている。
ほかにどんなところをまわったのか、帰国したら聞いてみたい。
ひょっとすると、わたしが10年まえ(おお、光陰矢の如し)に行ったコースと同じかもしれない。
違うのは、彼のほうは家族がいて、お堅い人生まっしぐらのすえに、老後の楽しみとしての旅行であること。
わたしのほうは世間からはみだした風来の末の旅だったこと。
どっちがよかったかというと、もちろん世間から評価されるのは彼のほうだ。
と、いまごろぼやいても仕方がない。
わたしの性格は、そもそも世間に順応できるものじゃなかったのだし。
独身のまま旅行をしたおかげで、あっちこっちで若い娘に色目を使えたんだし。
わたしの知り合いは奥さんがいるから、そういうことは不可能だと思う。
どこまでいっても反社会的だな、わたしって。
この知り合いを見ていると、人間の人生についていろいろ思うことがあるけど、今夜はそれをまとめている時間がない。
添付したのはトルコの女の子。
2020年1月18日 (土)
今朝の新聞
新聞の2面にでっかい見出しで、「立憲『党名変えぬ』」、「国民も譲歩こばむ」という記事。
野党合作かと思わせたけど、どちらも相手の主導と思われるのがイヤで、メンツの張り合いになっているらしい。
そんならいっそのこと、これってほかにも大勢の人が同じことを考えているだろうけど、両方の政党に使われている「民主党」という党名にすればいいではないか。
ガラガラポンのあげく、むかしの名前にもどるだけで、うん、問題があるとすれば、またあの失敗した政党に回帰するみたいでカッコよくないけど。
ぐだぐだやっているうち、世界はあさっての方向に進んでいってしまうよ。
2020年1月17日 (金)
方向転換
また今朝のウチの新聞に、(自称)モト徴用工の問題がなんとかかんとか。
韓国国会議長サンがいっていた方法で慰謝料を集め、それを(自称)モト徴用工らに払うかわりに、日本企業への請求権は放棄すると。
それを、絶対ダメといっていた被害者支援団体が受け入れることにしたのだそうだ。
なんとなくこれで一件落着みたいな言い方だけど、向こうもよっぽど日本をなめてるんじゃないか。
わたしがわかりやすく解説してみよう。
ここに日本に難クセをつけて金をせびろうというAさんがいるとする。
理由はなんだっていんだけど、とにかく難クセをつければ、これまでの日本なら不承不承ながら、最後には金を出してくれた。
ところがそれを甘くみた新しい大統領が、ふっかける金を思い切り増額したもんだから、日本の総理も堪忍袋の緒が切れた。
もうこれ以上1円も払わん!
これを見ていたAさん(および支援団体)。
ヤバイ。
ヘタすると取りっぱぐれる。
そこでこれまで、免罪符を与えることになるからと頑強に反対していた態度を、慰謝料さえ出してもらえれば謝罪はガマンしてやるという方針に切り替えた。
しかし、これじゃ金をもらったあとは、もう難クセをつけられないではないか。
いいんだ。
お金をもらった人間はさっさと引っ込んで、新しい人間にバトンタッチするだけだ。
なにしろモト徴用工を自称する韓国人は、まだ14万人もいるんだから。
いちどでも日本に金を出させれば、今度はそれを盾に、あとからの人間が難クセをつけやすくなるではないか。
という国家がからんだ謀略なのはお見通しなのに、あいかわらずウチの新聞は、目あたらしい方向転換のように書くのがキライ。
2020年1月16日 (木)
教育
今朝の新聞に世界発2020というコラムがあって、ミャンマーの小学校で教育改革が進んでいるという記事があった。
丸暗記重視から子供の意欲を引き出す授業に転換だそうだ。
具体的には、カラフルなイラストなどを使い、それを見て子供たちが自分で考えられるようにするという。
この教育方針を指導したのが日本で、ということはどうでもいいけど、かりに、と考えてしまう。
韓国が反日教育というものをいっさいやらず、子供たちの自主性にまかせ、どんな本でも自由に読んでいいということにしたらどうだろう。
マスコミも、日本の朝日と産経のような両極端な報道があって、お互いの主義主張でののしりあい、子供たちは目をパチクリさせながらそれを読む。
一方の新聞が、李朝時代の韓国は自由な教育が当然だった、日帝がそういう自由な教育を禁止したのだといえば、もう一方の新聞は、いや日帝はそんな理不尽なことをしなかった、国中に学校を作って教育に熱心だったと書く。
これでは子供たちは迷ってしまう。
迷った子供たちの中には、ほんとうはどうだったのかと疑問を持つ子供も出てくるだろう。
さまざまな情報があふれていれば、それを見比べ、研究することで、誰でも自分の頭で判断することができるようになる。
じつはこれこそ健全な社会のあり方で、自主的な判断力ぐらい子供たちにとって有益なことはないのである。
さまざまな意見の中から真実を見出すためには、上からの押し付けがあってはいけない。
わたしはここで、日本が正しいとか韓国が正しいとかの判断はしない。
一部のおとなたちの利益のために、犠牲になって、読みたい本も読めない子供がいてはいけないというのである。
そうやって自主的に勉強をして公平客観的な見方をやしなった子供たちが、将来の韓国を引っ張る政治家になってほしいと思う。
2020年1月15日 (水)
追加
お、今日の新聞の国際面で韓国の大統領がなんか提案している。
扱いが社会面の麻生副総理とおなじくらい大きいじゃないか。
でも麻生さんも最近の安倍クンと同じように、ボロが出たらさっさと謝っちまえというスタンス。
こうやってマスコミの追求をはぐらかすのだ。
アタマがいいのか、ずるいのか。
そんなことはどうでもいい。
文在寅サンのほうの記事をいちおう読んでみたけど、かくべつ新しい提案でもないようだ。
こっちが提案しているのに日本がいうことを聞かないのだという、実績づくり以外のなにものでもない。
それで前項の記事を思い出してしまった。
あ、またなんか言ってらあと聞き流すのは、ウチの新聞と麻生さん以外に、韓国の大統領も含めるべきだった。
添付したのは、ぜんぜん関係ない、わたしが愛読する「海外の万国反応記」というサイトに載っていた、フィリピンのタール火山の噴火の写真。
すばらしい写真ばかりだけど、ここは1日に何回も更新されているから、こうやってリンクでも張っておかないと、アッという間に過去ログになってしまう。
2020年1月14日 (火)
輝く未来
昨日は絶好の散歩日和なので、もちろん散歩に行ったけど、呑気な散歩のつもりでもいろいろ将来の不安のようなものにぶち当たる。
不安というのは、いっしょに出かけた知り合いや、行き交うよその年寄りのことだからどうでもいいんだけど、ヒマな当方としては、つい親身になって自分のことのように考えてしまう。
そんなこんなで、あっと気がついたらもう日にちが改まっていた。
というのがブログを休んだ言い訳だ。
ホント、うかつにしていると、時間はまたたく間にわたしの手をすり抜けていく。
だからくよくよと心配しているうちには、すぐにお迎えが来てしまうさ。
そう考えると気楽なものなのに。
今朝の新聞を見たら、また副総理の麻生さんがなんかいったそうだ。
この人の暴言はしょっちゅう(ウチの新聞では)問題になるけど、米国やフランスの大統領に比べればかわいいもんだし、日本にめずらしい歯に衣きせぬ政治家だって評価する(わたしみたいな)人間もいる。
そんなに大騒ぎする問題か。
ウチの新聞と麻生さんの発言は、あ、またなんか言ってらあでいいのではないか。
2020年1月12日 (日)
天国と地獄
録画してあったオッフェンバックのオペラ「天国と地獄」を “じっくり” 観た。
じっくりというのは、わたしの場合グーグルやウィキペディアと首っぴきでということである。
ドロ縄だけど、観るまえはこのオペラについてほとんど知識がなかったので、ストーリーや出演者について調べながら観ていると、長い夜もあっという間に更けて、年寄りのヒマつぶしにはもってこいなのだ。
今回録画したものははルクセンブルク音楽祭で上演されたオペラで、テレビ放映されたときにちらりと観たかぎりでは、毛むくじゃらの男と太った女優さんのセックスシーンや、女装の男性も混じったダンサーたちのカンカン踊りがあって、おえっと思ったのは事実。
しかしあらすじを調べると、神話のオルフェの物語を下地にしていながら、天上の神さまたちを徹底的にコケにしたオペラだというから、これはむしろ皮肉屋で、世間の常識をおちょくることに生きがいに感じるわたしにぴったりのオペラではないか。
神話のオルフェというのは、最愛の女房ウリディスを死神にとられたオルフェが、あの世まで女房を取りもどしに行く話で、わたしの部屋には同じ題材を使った「オルフェウスとエウリディーチェ」というもうひとつのオペラがある。
ただそっちはまじめ一方のオペラらしいから、どうせつまらないだろうと、まだじっくり観たことがない。
ルクセンブルク版の「天国と地獄」では、愛し合っているはずの夫婦が、奥さんは最初から芸術家の旦那とソリが合わず、夜這いにきた冥土の神さまと派手な浮気をしている。
女房が冥土へかけおちすると、旦那はこれでべつの女と再婚できると大喜びだ。
ところが人間のかたちをした世論の圧力に負けて、イヤイヤながら冥土に女房を取り返しに行くはめになる。
もうこのあたりからめちゃくちゃおもしろい。
かけおち女房ウリディスを演じているのは、キャスリーン・リーウェックさん。
お世辞にもスマートとはいえないけど、下着姿で大また開きで、露骨なセックスシーンはあるし、最後には股間に作りものの男根をぶら下げて、こんなお下劣なオペラ初めて観たといいたくなる熱演だ。
コケにされる神さまというのは、オリンポス山に巣食うギリシヤ神話の神々である。
ここでひとつ断っておくと、ギリシア神話の神さまというのは、文学や科学、精神医学の分野で、ヨーロッパでは共通認識になっているけど、ギリシア以外の国に行くと、同じ神さまの名前がべつの名前になるのがフツー。
たとえばいちばんえらい神さまはゼウスだけど、これは英語名でジュピターになり、このオペラではジュピテルというフランス名になっていた。
ジュピテルと恋のさやあてをするのは、プリュトンという冥土を担当する神さまで、ギリシア神話のハーデースである。
以前に観たバレエの「シルヴィア」には、風呂屋の三助みたいなエロスが現れたけど、こちらのそれは太った女性で、名前もキュピドン、若くてイケメンのはずのヘルメースはメルキュールで、執事のような小太りの中年男にされていた。
ジュピテルのやきもち焼き屋の奥さんはジュノン、愛と美の女神はヴェニュス、狩猟の女神ディアヌなど、名前は違えど、いずれもギリシア神話でおなじみの神さまたちだ。
一神教の神さまをヘタにからかうとあとがコワイけど、多神教の神さまはそんなことがないってんで、オッフェンバックもやりたい放題。
ジュピテルというのは好色な神さまで、牛に化けて、あら、かわいいベコちゃんと寄ってきた女の子を、背中に乗せたままさらっていったりする。
この舞台でも奥さんのジュノンに、あんたのそういう性格が許せないのよと文句をいわれたりしている。
ギリシア神話は戒律だの禁忌などとうるさいことをいわない、きわめて人間的な神話であるから、このオペラを観るさいは、こういうエピソードに通じていたほうがおもしろさが倍増する。
自分が目をつけたウリディスを、横から最高尊厳のジュピテルにさらわれたプリュトンは、腹いせに神さま全員をそそのかして天界の反乱をこころみる。
扇動されたジュノンやヴェニュスなどが、プラカードを持ち、「暴君を倒せ、武器を取れ」と、フランス革命のスローガンみたいな大合唱をしながら決起するところは、北朝鮮のおとなしい民衆に見せてあげたいくらい。
好色なジュピテルは、なんと蝿に化けてヒロインの部屋に忍び込む。
そんなエピソードあったかいと、たまたま手もとにあった呉茂一さんのギリシア神話を読み返してみた。
同性愛や近親相姦や、獣姦さえありのギリシア神話だけど、うちにあった文庫本にはこのエピソードはないようだ。
でもオペラの方では有名らしく、この部分は蝿の二重唱といって、「天国と地獄」の挿入歌としてよく知られているらしい。
ウリディスをくどこうと、蝿のジュピテルが目をぎらぎらさせて迫るところなんか、オペラ役者も大変だなあと思う。
大変といえばこの舞台には、バレエ顔まけの、大勢による一糸乱れぬ?ダンスシーンもあって、オペラ歌手ってのは歌だけ歌えればいいってもんじゃないことがわかる。
「本当の人生は地獄でなければわからない」
これは劇中に飛び出す警句。
「どこか隠れるところはないか、そうだ、オーケストラ・ボックスが、いや、そこはウィーン・フィルに占領されている」
これは楽屋落ちのセリフ。
こんな現代にも通用する喜劇を書いたオッフェンバックって、いつの時代の人なのよとググッてみたら、印象派の開祖であるマネと同時代の人だった。
今回の舞台は現代化された(ような)「天国と地獄」だけど、歌やストーリーは当時と変わってないらしいから、当時のパリは楽しいところだったようだ。
最後はオルフェをまじえて、冥土に押しかけた神さま全員がカオス状態になり、女装の男性が混じったたダンサーたちが、そろって足を上げるカンカン踊りになって、気色わるいというか、いくらわたしがオペラ初心者だとしてもグロすぎる。
しかも亭主が後ろを振り向いたおかげで、冥土からの脱出に失敗したウリデュスは、冥土に残るのもイヤ、あたしはバッカスの巫女になると言い出し、神話にそんな話はないといわれると、神話のほうを書き換えてしまえと自己チュウ的物言い。
これはいくらなんでも脚本家がハメをはずしすぎだろうと、念のため YouTube に上がっているほかの「天国と地獄」を見てみたら、ルクセンブルク版ほどひどくはないけど、やはり最後は乱痴気騒ぎになるのが定番のようだった。
なかには、オペラにしちゃスマートな美女たちが、スカートをたくし上げて踊り狂うお色気いっぱいのものもある。
オペラが苦手のはずのわたしも、いまそれにはまりかけているところ。
2020年1月11日 (土)
怒り
朝早く、今日の朝刊を読んでいたら「19年の訪日客数、伸び鈍化2.2%増」という見出しが目についた。
韓国人が減ったのはわかるけど、おかしいな、昨夜のニュースで、わたしは訪日観光客が全体では過去最高を更新したと聞いたばかりだ。
よく読んでみたら、過去最高を更新したのは間違いではないけど、その伸び幅が大幅に縮んだということだった・・・・・
これって捏造じゃないのか。
捏造でなければ読者を誤魔化すトリックじゃないのか。
わたしもまんまと引っかかったくらいだし。
増えたものをなんで増えたと書かないんだよ。
増えたことは事実だけどよりも、その増え方が少なくなったというほうを強調するなんて、アノネ。
観光客が増減する理由はたくさんあるでしょ。
オリンピックが開かれた、円安になった、地震があった、アメリカがイランと戦争を始めたなどなど。
韓国のおかげで観光客が減ったなんて、理由のひとつにしか過ぎないのに、そんなものでいちいち一喜一憂しないでくれる?
ほんと、ボケるヒマもないや、ウチの新聞を読んでると。
いいわけ
特別な嫌韓家じゃないつもりだけど、韓国の話題だとつい口をはさみたくなる。
すると、しろうとがナニをいってるか、何もわからないくせにという声が聞こえる。
環境少女のグレタちゃんの例を見るまでもなく、現在はだれでも意見を発表できるかわり、だれもが非難中傷にさらされる時代だ。
文句があるなら自分も正々堂々と意見を発表すればいいではないかと反論すると、これはかなり驕慢に聞こえてしまう。
だれもが同じようにきちんとした文章を書けるわけではないのだから。
というと、これもまた驕慢だ。
うーんと考えた末、こういう場合は開き直って非難中傷を封じてしまう手がある。
わたしが韓国のことに口をはさむいちばん大きな理由は、ボケ防止のためである。
かりかりかりと頭に来ていると、それがほどよい刺激になって、人間はなかなかボケないものだ。
わたしは決して若者たちのためだとか、地球の未来の案じて発言しているわけじゃないのヨ。
これ以外にも、わたしは好奇心が強く、現在の国際情勢に非常に興味があるということがある。
最近は本や映画におもしろいものがなくて困っているんだけど、刻一刻と変化する国際情勢は、ヘタなドラマよりおもしろい。
いかにもものすごそうなことをいう大統領や最高尊厳サン、飛行機で国外逃亡を計るもと企業のCEOなんかがいて、この先どうなるのかと手に汗をにぎる展開だから、これっぽっちも目が離せないのである。
世界は広い。
相手がとくに韓国でなければいけない理由はないけれど、すぐ隣りにあって、日本と似ている国でありながら、なぜか日本を目の敵にしている国だから、どうしても気になってしまう。
わたしの購読している新聞が朝日で、これがまたあちらの肩ばかり持つものだから、いちゃもんをつけるとボケ防止にはますます効果がありそう。
こういう態度で今日もブログを書いてんだけど、けしからんといえる人イマス?
2020年1月10日 (金)
独裁愛好
韓国人(朝鮮人)というのは独裁が向いているのかねえ。
ウチの新聞はぜんぜん取り上げないけど、韓国ではひどい騒ぎになっているらしい。
ついこのあいだ、文大統領が検察を一手ににぎろうと、チョ・グクさんという自分の身内のような人を検察のトップに据えようとしたら、検察内部から造反が起こって、けっきょくグクさんはスキャンダルまみれで引きずり下ろされるということがあった。
まあ、韓国は日ごろから三権分立をいってるから、さすがは文明国のはしくれと感心していたら、その造反組に対して大統領が大鉈をふるったんだそうだ。
オレにさからう者は容赦しないと、検察幹部の総入れ替えで、あらためて韓国大統領の権限の大きさに戦慄してしまった。
イラン情勢やゴーンさん事件にまぎれて、韓国では大統領の独裁化が一気に進行中なのだ。
これを止めるには文サンの弾劾しかないけど、そんなもので大統領の牙城をつき崩すのはむずかしそう。
北朝鮮の正恩クンを見るまでもなく、つくづく朝鮮人てのは独裁されるのが好きなんだなと思ってしまう。
日本にとっては対岸の火事だからどうでもいいけど、北も南も独裁国家になると、先行きがまったく不透明だ。
どっちも相手の主導で統一なんかしたくないだろうし、第三世界のようになった両国が憎悪と不信で戦争状態になるか、派手にやりあったあとでヤクザの手打ちのように収めるか、両方まとめてどこかの大国の属国になるか、分裂国家になって半数の韓国人は日本に支援を求めるのか、地政学的にも支援を求める側の韓国人を日本は放っておけまいから・・・・ああ、もう、ガラガラポンだ。
ところでこのニュース、わたしはネットで見つけたんだけど、今朝のウチの新聞(朝日)には一行も載ってないよ。
ひょっとすると認知症によるカン違いかしらと不安になる。
フェイク・ニュースの発信元、あるいはその拡散者と思われても困るし、あんまり信用しないよう言っておこう。
2020年1月 9日 (木)
粗大ゴミ
アイテテテ、ぎっくり腰になったか。
終活中ゆえ、部屋の整理をしているんだけど、できるだけ身軽になるために不要の机や物入れを粗大ゴミに出すことにした。
まず机のひとつと、押し入れのなかにあった衣類のタンスを搬出できるようにした。
わたしの住んでいる三鷹市は粗大ゴミもポイント制になっていて、千円のゴミ・ステッカーを買えば、このポイントの範囲内でいくつもゴミを出すことができる。
電話して尋ねてみたら、机とタンスだけではまだポイントがあまる。
で、テレビを乗せてあるラックも出すことにした。
ところがこいつはむかし、ブラウン管テレビを置くために買ったもので、けっこう大きく、頑丈にできていて、部屋のすみのせまいところに置いてあったものだから、動かすのが大変だ。
別のとこにあったもっと小ぶりなラックと入れ替えるつもりなんだけど、テレビの下にはビデオデッキが2台、CDプレーヤーが1台、さらにケーブルテレビのチューナーなどが設置してあって、これらの配線をはずしてしまうと、あとがとんでもない大騒ぎになりそうだから、配線は可能な限りそのままで、土台だけを入れ替えようというのだ。
しかも独身のわたしはこれをすべてひとりでやらなければいけないのだ。
まずパソコンを乗せてある机を手前にずらし、つぎにテレビが載っているラックを手前にずらし、そのあとに小ぶりのラックを押し込んで、テレビや機器類をひとつずつ小ぶりのほうに載せ替えるのだ。
このとき小ぶりのラックを胸の位置まで持ち上げたのがいけなかったようだ。
1日中かけて、どうやら不要なものをいつでも粗大ゴミとして出せるようになったけど、アイテテテ。
2020年1月 8日 (水)
抑圧の国
自分のブログの旅日記の項を読み返していたら、ロシアの女流詩人アンナ・アフマートワについて書いた部分に行き当たった。
書いたといっても、わたしがこの詩人に特別に詳しいわけじゃない。
ツァリツィノ宮殿というところで彼女らしき肖像画を発見して、帰国してからドロ縄で勉強したのである。
で、自分のブログから、ウィキペディアのアフマートワについて書かれたページにリンクを張っておいたものだから、今日も当然のごとくウィキペディアにまで飛んでしまった。
彼女はロシアでは有名な作家だけど、その人生がスターリンの抑圧の時代と重なったために辛酸をなめた。
政治的抑圧の下で生きたことのないわたしには、その時代は想像することしかできない。
彼女の詩についても、原語で読むことのできないわたしには、そのリズムや、うちに秘めた感情はとうてい理解できまいと、じっさいに読むことはしなかった。
ただ、ふと思ったのは、またまたで申し訳ないけど、おとなりの韓国のことだ。
政治的抑圧といえば、北朝鮮はいまなおスターリン的抑圧が現在進行形であるけれど、韓国だって負けてはいない。
というのは、あの国では小学校、中学校の時分から反日教育が、ほとんど義務化されていると知ったから。
日本から見ているからそう思うわけではなく、ネットを注意していると、写真や映像などでその具体的証拠によく出会うのである。
こちらは遠い過去の話ではなく、リアルタイムの現実なのだ。
子供たちに自由な発想を与えない国は、スターリン時代のロシアと変わらない。
いちばん感受性のつよい時期に、好きな本を読めないとしたら、こんなつらいことはないだろう。
わたしは生まれてこのかた、自分の発想を他人にとやかくいわれたことがない。
だからこんな偏屈に育ったのかといわれてしまいそうだけど、上からの教育ですべての人が幸せになれるわけではないのだから、たとえ現在の自分の人生がろくなものでなくても、わたしはやっぱり日本に生まれたことをアリガタイと思う。
2020年1月 7日 (火)
テレビの異常
ここんところテレビの具合がおかしくなってきた。
画面の下の方がちらつくのである。
調べてみたら、買ってから3年半ぐらいで、前のテレビは12年間も使ったものだから、わたしは液晶テレビは壊れにくいという信念を持っていた。
そんなわたしをグラつかせるような異常だ。
ほんとうはテレビなんか観なければいいんだけど、わたしも最近は日がな1日テレビのまえに陣どるじいさんばあさんといっしょ。
だいたい情報入手の手段としても、もはやテレビはなくてはならない存在になっているのである。
こういう状態はわたしだけではないだろう、テレビにパソコンのモニターも含めれば。
修理に出すとなると、緊縮予算中のわたしにはイタイことである。
そのうち引っ越しをすることになるかも知れないし、そうなると運送屋も頼まなければならないし、もう仕事を辞めたわたしに、悪鬼どもがわらわらと群がってきたような感じ。
文明の利器に頼りっぱなしの現代人は、こういうときに便利さはタダでないことを悟るのである。
でも悩んでも仕方がないと、わたしは気分転換も早いのだ。
わたしは4Kだ、8Kだと贅沢をいうほうではないから、修理があまり法外なものなら、新しいものを買っちまえというスタンス。
現在と同じタイプなら、ン万円ぐらいで買えるのではないか。
知り合いのなかには10万だ、20万だと言うでっかいテレビを買った者もいるけど、あれを買うつもりなら、わたしのテレビは3台か4台買えそうだ。
年金老人は高価な品物を買うわけにはいかないのがフツーだけど、寿命が終わるのと貯金が尽きるのがどっちが早いかというわたしに、コワイものなんかないのだ。
2020年1月 6日 (月)
風と笹の葉
先日、野川公園の自然観察園に行ったとき、たまたまクマザサのひとむらに風がさらさらと渡っていくのを見た。
それだけでたちまちむかしのことを思い出してしまった。
若いころ奥多摩の最深部にある酉谷山(トリタニヤマ)という山に登ったときのこと。
そのときは、べつにどこだっていいんだけど、とにかく人里からはなれた、誰にも会わない山に登りたいという切羽詰まった感情におそわれていて、地図をながめ、奥多摩のいちばん奥のほうにある酉谷山を選んだのである。
この山なら山頂からまったく人里と隔絶した景色が眺められるのではないか。
それはとっても素晴らしいことだ。
いろいろ屈折した思いをかかえていたころだったから、そのときはそう考えた。
愛用のジムニーを運転して、登山口にたどりついたのはまだ暗いころ。
車のなかで仮眠をして、夜明けとともに登山開始。
登り始めてすぐ、登山道にそってクマザサ(じつはスズタケという笹であることは帰宅してからわかった)の茂みを見た。
もちろん登山者はわたしだけで、その笹の上をさらさらと風が渡っていたのをおぼえている。
まだ若いころだから順調に高度を稼いで、やがて尾根にたどりついた。
そこでびっくりしたというか、がっかりしたというか。
尾根から反対側に秩父市の街並みが見下ろせたのである。
考えてみれば当然で、こちらからは奥多摩の最深部のつもりだったけど、あちら側からはいちばん手前の山だったというわけだ。
人里はなれた孤独な山というのは、わたしが勝手にいだいた妄想にすぎなかったのだ。
がっかりして降りてくるとちゅう、クマザサのあたりでイヌを連れた登山者に出会った。
クマはいませんでしたかとおだやかでないことをいう。
ここにはクマザサが生えているからというんだけど、そもそもクマザサのクマは歌舞伎のクマどりから来ているので、獣のクマとは関係ないんだけど(そのくらいのことは知っていた)。
その上をさらさらと風が渡っていく笹の葉を見て、ついつい若いころを思い出した。
孤独というのはほんとうに素敵なものである。
2020年1月 5日 (日)
だらけた野鳥観察
今日も健康のために散歩。
若い娘にはとっくに縁がなくなっているし、旅行や山登りの好きなわたしには脚力が最後の砦であることはわかってるんだけど、最近はとんと出不精になって、もはや脚力も陥落直前。
それでも往復4キロぐらい、この距離をしょっちゅう歩いている年寄りは、ま、けっして多くはないだろうと、友人知人の顔を思い浮かべる。
毎日ただ歩くだけではつまらないから、今日は双眼鏡を持ち出してバードウォッチングをすることにした。
自然観察園は野鳥観察にもよいところなので、ほかにも同好の士がちらほら。
歩いていちゃいけない。
ときどきピタリと足を止め、相手のほうが動くのを待つ。
それがバードウォッチングのコツだと、いっしょに行った知り合いに説明する。
でも収穫は多くなかった。
この日に見た小鳥で、収穫といえるのは、メジロとコゲラくらい。
ヒヨドリもうろうろしていたけど、カワイくないから収穫とはいえない。
寒いのでそうそうにビジターセンターに逃げ込んだ。
2020年1月 4日 (土)
ロシアの事情
ヒマだもんねということで、夜中に YouTube を観ていたら、きれいなロシア人の娘が、日本よりロシアのほうがいいことの10個というおしゃべりをしていた。
日本よりロシアのほうがいいことなんてあるのかと、驚いて彼女の映像に着目した。
美しい彼女にいわせると、ロシアでは
1,気にせずに自分の意見を言える
2,公共の場で禁煙
3,ネットで映画を無料で観られます
4,外にゴミ箱が多い
5,部屋が広いし、家具つき
6,ATMが多くて手数料なし
7,交通費が安い
8,薬と薬局
9,フルーツと乳製品の種類が多く、安い
10,外で酔っ払っている人がいない
彼女はまだ YouTube の新入りらしいから、またひとり、自作ビデオでひと山当てようという外国美人らしいけど、なにしろわたしはロシアの事情に詳しいのだ。
おとな気ないのは承知の上で、彼女の言い分を修正してみよう。
1はロシアの美点ではなく、日本の欠点かもしれない。
世界には言いたいことをずけずけいう人のほうが圧倒的に多いのだ。
だからロシアにはケンカが多いという説も成り立つ。
2については、わたしはタバコを吸わないからよくわからない。
でも日本も徐々に禁煙場所は増加中だから、これは単に遅いか早いかの違いでしかないだろう。
3はネットで映画がタダで観られるというんだけど、じつはこれは肝心な部分を語ってない。
金をかけて作った映画がタダでは、映画会社はどうやって収益を上げているのか、そのへんを教えてくれなければ。
もっともネットは国境を超えているから、わたしもよくロシアの映画をタダで観ている。
字幕がないから意味がわからないけど、バレエなんか字幕がなくても意味がわかるぞ。
4は、これこそ外国人の誤解しやすい問題だ。
日本にはゴミ箱が少ないけど、それこそ日本が試行錯誤のすえにたどり着いた、この国を世界でもっとも美しい国にしている理由なのである。
5は部屋が広いというのは、たんに人口密度の問題で、むしろ日本は住みやすいから、大勢の人間が繁殖しすぎて、ゆとりのある部屋を作る余裕がないという考えに、どうして考えが及ばないのだろう。
6のATMについては、わたしはロシアでそれを利用したことがないからわからない。
日本にATMが少ないのは、日本が現金を持ち歩ける安全な国だからということを聞いたことがある。
7の交通費が安いというのも、外国人に誤解されやすいことだ。
ロシアで地下鉄に乗ろうとしたら、ガラガラがシャーンとものすごい音を立てて、落書きだらけのポンコツ車両があらわれたことがある。
安全快適迅速というのはタダで買えないのだから、全世界的に驚嘆のマトになっている日本の交通費が高いのは当然なのだ。
8は薬と薬局がどうのこうの。
文句をいわれたって、病気や通院に縁のないわたしにはワカリマセン。
たまに病院に行くけど、国民皆保険の日本の制度にはいつも感動しているし。
9はフルーツと乳製品の値段が、日本は高いそうだ。
写真はロシアの市場で見た光景だけど、たしかに果物の種類、量とも豊富なことはわかる。
安いのも事実かもしれない。
しかし日本の農産物はロシアよりはるかに手がかかっていて、この分野でもロシアや中国や韓国の追従を許さないから、高いのだという屁理屈も成り立つ。
ま、流通経路が複雑で、中間搾取が多すぎるというのは問題かもしれない。
10は、これ本当かしら。
酔っ払いが多くても、日本の場合、飲み屋で上司の悪口をいったり、列車ので寝てしまうサラリーマンが多いくらいで、本格的なアル中の数でロシアは日本を圧倒しているように思うんだけど。
YouTube でとくとくとして語っているロシア娘は、なかなか聡明そうな美人だから、すぐにこういう自らの誤りに気がつくだろう。
やっぱり日本はサイコーってことで、彼女が日本に帰化しても、わたしは双手をあげて歓迎するつもりだ。
2020年1月 3日 (金)
2020年1月 2日 (木)
2020年1月 1日 (水)
元旦に寄す
今年はわたしの生活環境が大きく変わりそうな年だ。
あいかわらずぼうーっと生きていて、チコちゃんに叱られそうな生活ぶりだけは変わりそうもないけど。
そうそう、今年から年賀状は廃止して、ブログやフェイスブックで一括して新年の挨拶をすることにした。
わたしって緊縮予算中の年金生活者だから、資源を浪費する生活も変えようと思ってんですよ。
グレタちゃんに叱られないように。
ところで今年ってなに年なのさ。
年賀状に興味がないのでつい失念するところだったけど、ググッてみたらネズミ年だそうだ。
年賀状は書かなくても、例によってデザインを考える楽しみは残しておきたい。
ネズミとくればバンクシーだ。
この影なき芸術家の落書きを年賀状に使おうというアイディアは、思いつく人が多いとみえて、これはわたしひとりのアイディアじゃない。
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