冷静に
川崎市が嫌韓デモやヘイトスピーチに罰則条例を設けたそうだ。
ネトウヨ諸君はおもしろくないだろうけど、これは素晴らしいことである。
この事実をネットを使って拡散させろ。
世界中が、公平で正義なのは日本であり、Noジャパンで国をあげて反日し、日本に対してならなにをしても許されるという韓国のほうが非常識だと悟るだろう。
同じ土俵に乗って噛みつきあうのではなく、日本と韓国のこういう違いをどんどん広めるほうが効果的だ。
そのうちだれも韓国の言い分に耳を貸さなくなる。
川崎市が嫌韓デモやヘイトスピーチに罰則条例を設けたそうだ。
ネトウヨ諸君はおもしろくないだろうけど、これは素晴らしいことである。
この事実をネットを使って拡散させろ。
世界中が、公平で正義なのは日本であり、Noジャパンで国をあげて反日し、日本に対してならなにをしても許されるという韓国のほうが非常識だと悟るだろう。
同じ土俵に乗って噛みつきあうのではなく、日本と韓国のこういう違いをどんどん広めるほうが効果的だ。
そのうちだれも韓国の言い分に耳を貸さなくなる。
ヘッドホンを買ってきた。
じつは古いヘッドホンがあるにはあるんだけど、調べてみたら買ってから30年以上経っている骨董品だった。
最近のわたしは夜中にずっと YouTube で音楽を聴いていることが多い。
しかもそれは一時的なことではなく、生きているかぎり、これからもずっと聴き続けるだろう。
だから新しいものを買っても不経済ということはないだろう。
そう考えて新しくしたんだけど、棺桶に片足つっこんでいるわたしが、あまり高い製品を買うわけにはいかない。
わたしの知り合いにはワイヤレスだとか、ハイレゾがどうのと、高性能なものばかり買ってよろこんでいる人がいるけど、わたしはつねにコスパを考える。
つまりセコい生活をしているのだ。
ヘッドホンは安物でも、聴く音楽は上等なものを。
これわたしの信条。
どうせ時間はたっぷりあるので、またバレエの勉強でもしようと、図書館からバレエに関する書籍を3冊も借りてきた。
これがおもしろいということは、わたしのバレエへの情熱も本物ということだろう。
3冊というのは「ビジュアル版バレエ・ヒストリー(芳賀直子著)」、「バレエの歴史(佐々木涼子著)」、そして以前にも読んだことのある「これがロシア・バレエだ!(赤尾雄人著)」というもの。
いずれもハードカバー、もしくは大判で読み応えのありそうな本ばかりだ。
このうち、いちばん読みにくそうな「バレエの歴史」というのが、ひろい読みしてみたところ、なかなかおもしろい。
著者はわたしと同じひねくれ者らしく、ある個所では、下着をつけなかったバレリーナがそのために世間で評判になって、すごい売れっ子になったなんてことを書いている。
ぼくはワインが、あたしはバレエがというような、お上品な俗物をけっとばすような記述ではないか。
わたしのブログも卑猥だという声が聞こえてくる(たぶん)けど、それはお高く止まっている芸術というやつを、なんとか親しみやすい位置まで引きずり下ろして、津々浦々の人々にもバレエを理解してもらおうという苦肉の策なんですよ。
オワカリ?
目下鑑賞中は、でっかいテレビで YouTube の「レ・シルフィード」。
ネットニュースに、漫画家の楳図かずおさんの家が廃墟同然という記事が出ていた。
楳図さんというと、やせぎすで髪の毛ぼうぼうで、怖いマンガを描く、ちょっぴりひょうきんな人というイメージかもしれない。
なかなかどうして、それだけじゃないことをわたしは知ってるのだ。
井の頭公園の近くにある楳図さんの家は、赤白のストライプの入った奇妙な洋館で、派手な色彩がまわりの環境にそぐわないというので、近隣住民から建設反対運動が起きたといういわくつきの建物だ。
その騒ぎも落ちついて、現在はどうなったのか知らないけど、廃墟になっているというのはおだやかじゃない。
そこでパソコンで最近の家のようすをググッてみた。
木や草が伸び放題に放置されているらしいけど、家の写真を検索しても、あいにく最新のものが見つからない。
しかしこの検索の段階で、楳図さんの家はストリートビューから村八分にされているといううわさを見つけた。
どういう意味で村八分というのかわからないけど、これはグーグルの配慮じゃないか。
有名人の家ということで、しょっちゅう、世界中のファンから監視されていたのではたまらない。
わたしは彼のファンのひとりだから、家についての騒動には口をはさまない(はさめばとうぜん彼の味方をすることになる)。
でも作品の素晴らしさにはひとこと触れさせてもらおう。
この人はホラー漫画が専門と思われているけど、わたしが若いころ見て感心したのは「イアラ」という作品だ。
タイトルの意味はいまだに不明であるものの、輪廻転生を視覚化したような、その哲学的ともいえる内容に深く感動した。
この作品は単行本になっていて、そのなかに「イアラ」以外にもいくつかの短編が挿入されていた。
タイトルは忘れたけど、そのひとつに、ふたりの男のどちらと結婚しようかと迷う若い娘の話があった。
娘はその一方と結婚するんだけど、これがとんでもない甲斐性のない男で、貧困に追われた娘は、とうとう自分の選択を呪いつつ、崖から飛び降りて自殺をしてしまう。
ところがこれがすべて夢のなかの話で、夢からさめた娘は、今度はもう一方の男と結婚して人生をやりなおす。
今度こそ幸せになれるだろう。
ところがこの男は、金はあるのにひどくケチな男で、彼女は親不孝な子供たちからも邪険にされて、けっきょくふたたび崖の上に立つのである。
人間の運命は変えられないという事実を、残酷なくらいはっきりと描いた作品で、若いころのわたしはひじょうなショックを受けた。
彼をホラー漫画作家と思っている人にいっておきたい。
人は見かけじゃワカラナイと。
わたしには予知能力があるみたいだ。
いま晩酌をした。
ふだんはそんなに呑まないんだけど、焼酎が残り少ないから、中途半端に残しても仕方ないってんで、全部をどばぁっとグラスに空けてしまった。
するとふだんよりも倍くらい多い分量になった。
それでもかまわんと、全部飲み干したから、今日のブログ更新はないと思われる。
今日の更新はない。
これがわたしのあらかじめの予知だ。
NHKしか観ないというと、カッコつけやがってと思われるかもしれないけど、わたしの場合これホント。
民放の場合ガチャガチャやかましいイメージで、ハナっから観る気がしない。
ずっと以前、旅行中に、いっしょに行った知り合いが、「半沢直樹」がおもしろいからぜひ観ろといったけど、無視してさっさと寝てしまった。
それ以来わたしが変人であるという噂がますます広まることになっちゃったけど、観たくもないテレビを観せられるくらいなら死んだほうが、いや、寝たほうかマシ。
いったいNHKのどこがいいんだという人が、わたしの知り合いにもいる。
それで今日は最近見つけた実例をひとつあげよう。
BSに「ヨーロッパ・トラムの旅」という番組がある。
これはトラム(路面電車)に乗って、アムステルダムだとかベルリンのようなヨーロッパの都市を見てまわるだけの番組だ。
ドラマやナレーションも会話もなく、ただ音楽を背景に、電車の車窓からひたすら街をながめる番組で、つまらない人には徹底的につまらない番組なんだけど、これがわたしの感性にぴたりとはまった。
もともと旅行の好きなわたしだけど、旅先で飲んだり食ったり遊んだりするよりも、列車やバスに乗って、ぼんやり通り過ぎる風景を眺めているのが好きである。
そういうつまらない趣味の男に、この番組は、部屋にいながらにして理想の外国旅行を体験させてくれる番組というか。
たったいま録画していたフィンランド編を観ているけど、トラムの前方のほうに、結婚式を終えたばかりで、まだ結婚衣装のままの新郎新婦が歩いている。
べつにカメラがわざわざ接近するわけでもなく、すぐにふたりは建物のかどをまがって見えなくなった。
そんな具合に、車窓につぎつぎとあらわれる景色は、それだけでわたしにとってほんとうに興味のつきないものなのだ。
余計な追記:
これが途上国のトラム(そんなものがあればの話だけど)なら、もっと人間くさい景色が見えるだろう。
わたしは中国の洛陽で、人通りの多い道路のわきで馬を解体しているのを見たことがある。
そのときはトラムじゃなくタクシーだったけど、これはさすがにあまり見たくなかったねえ。
今日はひとつ、吉祥寺にでも行ってみるか。
iPod がいかれちゃったので近所の家電量販店に持っていったら、アップルストアに行かないと直せませんとのこと。
だからアップルはキライなんだよね。
それで吉祥寺まで出かけようと思ったんだけど、どうも天気が安定しないので、自転車で出かけるのはよして、バスを使うのもおっくうで、けっきょく家でごろごろ。
たまには運動でもしなくちゃと思うんだけど、この歳じゃ運動なんかしたらかえって健康にわるいにちがいない。
もう理由なんてどうでもいいんだ。
とにかく、家でごろごろしているのがイチバン。
フィンランドってのはロシアの一部か?
これ、わたしの友人じゃなく、アメリカ大統領の発言だそうだ。
ボルトンさんの回顧録が発売されたら、いや、それが図書館に入ったらぜひ読んでみたい。
大統領が常軌を逸した人だから、回顧録もかってないくらいおもしろいにちがいない。
アメリカじゃ黒人殺害事件の抗議デモが度を超していて、トランプさんのテロリスト呼ばわりもあるていどやむを得ないかなと思いたくなるけど、これってそもそもトランプさんの存在に原因があるんじゃないか。
上がたるめば下もゆるむ。
大統領がおかしいと国民も暴れたくなる、という相関関係はないのだろうか。
昨日の夜はコンテンポラリー・ダンスのてんこ盛りだった。
3時間か4時間にわたって、とんがったバレエが三つ続けて放映された。
アクラム・カーン版の「ジゼル」と、「ラストワーク」は以前観たものの再放送だったけど、「Sadeh21」という舞台は初めて観た。
「Sadeh21」を観ても、どうも感動とはほど遠く、ひょっとするとこの先になにかヒワイな表現でもあるかと、それだけを頼りに最後まで観てしまったような感じ。
ダンサーたちがいろいろなポーズをとって、まあ、そのへんはしろうとにはなかなか真似できないことだけど、意味もストーリーも、官能的な部分もさっぱりないから、これじゃNHKのみんなの体操と変わらないじゃんと思う。
ようするに、いかに新しいポーズや動きを考えつくかってのが、現代舞踊の現代的である由縁なのか。
せめてダンサーたちが、ロシアのバレリーナのように美しければまだ我慢できる。
でもこれは胸が大きすぎるとか、足が太すぎるという理由でダンサーの道を断念した女性たちに、ひょっとしたらと夢を抱かせるバレエなのかもしれない。
数週間まえに放映されたミハイロフスキーの「ラ・バヤデール」のほうは、もうバレリーナからして別種の生きものだったけど。
それでも開演まえの劇場をみると、観衆がいっぱいだった。
みんなわたしと同じように、最後まで観ればなんかおもしろいことがあるんじゃないかと期待した人たちなんじゃないか。
昨日は、わたしもユーチューバーになろうと、一心不乱に映像作りにはげんでいて、はっと気がついたらもう日にちが改まっていた。
なにしろわたしは、熱中すると時間も場所も忘れる人間なのだ。
でもさすがに、わたしみたいなじいさんがということに気がついて、アホらしくなって途中で放り投げたけど、ま、時間はありすぎるくらいある。
そのうち「瘋癲老人日記」というチャンネルを発表するかもしれない。
いまやネコも杓子も YouTube だ。
なんとかアクセスを稼ごうと、それには外国人の嫁さんとの結婚生活を映像にするのが手っ取り早いと、そのために外国人と結婚したんじゃないかと思えるような、本末転倒の若いモンもいる。
むかしは日本人と結婚したいというアジア系の娘がたくさんいて、よりどりみどりだったけど、それが一段落して、最近ではロシア娘が人気のようだ。
あー、うらやましい。
ロシア娘が相手なら、寿司やテンプラを食わせ、たまに温泉に連れて行くだけで、最初の2、3年はもつかもしれない。
いっとくけど、それ以降はアンタの甲斐性次第。
YouTube のような虚業で食っていこうという安易な考えでは続きゃせんよ。
ロシアの美人ユーチューバーの写真を載せようと思ったけど、文脈からして誤解をまねくおそれがあるので、スタジオ?にいるわたしの写真を張っておく。
先日録画した「フリー・ソロ」という映画を観た。
最近のわたしは映画にかってほどの熱意があるわけじゃないから、この映画についてなにも知らなかった。
なんでも岩登りの映画らしい。
またBSのグレートサミットみたいなもんかと、まあ、へんなドラマよりおもしろそうというわけで録画しておいたのだ。
録画したあとでちらりと冒頭の部分を観てみたら、見なれた黄色い四角の枠の、ナショナル・ジオグラフィックのロゴが現れた。
これだけでタダ者じゃないなという気がする。
まあ、これ以上説明するのはよそう。
フリー・クライミングの記録映画なんだけど、そのスリルを文章で説明しても仕方がない。
わたしにはそんな能力はない。
興味があったのは、岩肌にへばりついたクライマーをどアップで撮影するチームの仕事ぶり。
他の映像でもそうだけど、NG誌は、いったいどうやって撮影したのかという驚異の写真や映像で定評がある。
そういう裏方さんたちの仕事を観られたのがよかった。
録画しておいてほんとうによかったとしかいいようがない。
今日は出家をした。
どういうことかというと、頭を丸めたのである。
さすがにこの先、もう若い娘に縁はなさそうだから、未練を断ち切るために髪の毛をバッサリ切ったのだ。
この歳では、二度とモフモフの髪の毛は復活しないかもしれないから、一抹の寂しさはある。
ところで坊さんというのは、個人が勝手に開業してはいけないのだろうか。
もちろん無資格の坊主がお寺を経営し、お経や戒名をメシの種にしてはいけないことはわかる。
しかし社会の裏側を見聞し、あげくに欺瞞と不条理に満ちた人生に絶望して、自分自身を救済しようという大妄想をいだいた人が、勝手に頭を丸め、般若心経や南無阿弥陀仏をとなえてイケナイことがあるだろうか。
そんなくらい頭を丸めなくてもできるじゃないかといわれそう。
でもわたしってお坊さんのファッションにあこがれるところもあるんだけどね。
若いころならTシャツにコットンパンツでもよかったけど、じいさんになったら、ひとつ作務衣に編笠、手甲脚半で外国旅行をしてみようかと考えているのだ。
この程度ならどこかのお寺から越権行為だって、まさか告訴されることもあるまい。
俳人芭蕉も奥の細道では僧衣だったみたいだけど、彼だって無鑑札だったんじゃないか。
もしかすると東洋の神秘ということで、金髪娘にモテそうな気がする。
あ、やっぱりまだ煩悩が・・・・
そのようなことをいろいろ熟慮したあげく、ついに頭を丸めたのである。
丸めたあとで直肌になった脳天に手をやっておどろいた。
その部分の発熱量の大きいこと。
心臓や胃袋がこれほど熱を持つとは聞いてないから、やっぱり人間の脳ってのはCPUだよな。
一見するとすごい切れ者に見える。
見ようによっては美人に見えなくもない。
あ、北朝鮮の与正さんのこと。
兄貴の正恩クンをさておいて、いや、もう強いこと、はっきりいうこと。
よくよくのことがなければ女に権力を禅譲することは考えられない男尊女卑の国のことだから、正恩クンのほうはとっくに廃人同様か、お亡くなりになっちゃっていそうな気がする。
問題は、雌鶏がときを告げれば国が傾くの例えどおり、あたしがトップよって張り切っている与正さんが、この先なにをやらかすかってこと。
いくら切れ者だといっても、あそこはまわりがイエスマンばかりなので、ほんとうに自国の置かれた状況を把握してるのかこころもとない。
にもかかわらず、共同連絡事務所を爆破しなさいといえば、子分たちはいうことを聞かないわけにはいかない。
自分の実力を過信した女帝が、南のほうが気にくわないわねえ、ちと痛めつけてやんなといえば、出来る出来ないにかかわらず、子分たちはマニュアルにそって動くしかないのだ。
そういうわけだから、近いうち、またゲリラ的攻撃があるんじゃないか。
さすがに本格的な侵攻作戦は、軍人たちが止めるだろうけど、相手の油断していそうなところにちょっかいを出して、やったやった、南のかいらいに鉄槌をくだしてやったと大喜びするくらいのことはあり得る。
やっぱり長期的戦略というより、メンツや見栄で動いているような気がする、あの国は。
兄貴にせよ妹にせよ、せっかく下手に出ている韓国を、もうすこしうまく利用すれば、米国や日本を狼狽させることも可能だと思えるのに、ただひたすら敵愾心をあおるだけ。
よほど統一するのがイヤなのか、統一すれば相手に飲み込まれるだけと、そういう点だけは冷静なのか。
おかげで日本は漁夫の利を得るだけで、ひたすら沈黙していればいいから楽だけど、文サンは大変だよな。
全門の虎、後門の狼に加えて、国内の造反もあるし。
これってまさか、せっかく南に送り込んで、着々と成果を上げつつある優秀なスパイを守るための、南北合作じゃないだろうねえ。
こないだの選挙で文サンの勝利を確実にしたにもかかわらず、慰安婦を金儲けに利用した強欲おばさんの事件で、それが木阿弥になりそうってんで、ここはひとつ相当にでっかい花火を打ち上げないとというオペレーションかも。
そこまでやればかなり本格的なスパイ小説なんだけどなあ。
このブログでも日本の人種差別反対デモはうさんくさいと書いたことがあるけど、クルド人が日本の警察に押さえつけられたという事件のその後について、当のクルド人協会(一般社団法人日本クルド文化協会)から、そりゃ警察にすみやかに協力しなかったウチらがわるいという判断が出た。
べつにおどろくことじゃない。
日本の警察がそんなことをするはずがないというのは常識で、クルド人でも良識派はちゃんとわかっているようだ。
わたしはクルド人とトルコの問題もよくこころえているけど、これは部外者がむやみに口を出せる問題ではないので、レフリーの役目を果たせない。
まあ、せめて日本にいるときぐらい、お互い仲良くしてねというばかり。
いまやロシア人ユーチューバーが雨後の筍と、このブログに書いたことがあるけど、そんな美女ばかりのユーチューバーの中でも、わたしのお気に入りが「マリアランド」というチャンネルのマリアちゃん。
きどった、あるいはまじめすぎるユーチューバーが多い中で、彼女のざっくばらんな話ぶりがおもしろい。
彼女はいま沖縄にいるらしく、本島の今帰仁村から映像をいくつかアップしている。
中には浜辺で、水着でスイカ割りをしているものがあった。
もともと彼女はすごい巨乳の持ち主で、正直いうとそろそろ若い娘の体つきじゃないんだけど、もうホント、脂ののった雌鶏みたいで美味しそう。
そんなことはどうでもエエ。
べつの映像では今帰仁村の民宿から、素泊まり民宿について報告しているものがあった。
そこでいろいろ素泊まり宿の効能について語っているんだけど、リゾートとしてではなく、村に逗留して、村人の生活を知ることのほうに重点を置くという姿勢には感心した。
とかく沖縄というと優雅なリゾートとしか考えず、きれいなホテルに泊まって、観光をして、美味しいものを食べて、お土産を買ってという娘が多すぎる。
そういうおまえはどうなんだといわれると話がややこしくなるから、じつはわたしも素泊まり民宿のファンであり、かってそんな宿を泊まり歩いたこともあるとだけいっておこう。
でもチャンネル登録3万人突破というマリアちゃんが、エアコンしかない素泊まりだなんて、もしかしたらユーチューバーって、はたから見るほど儲からないのかしら。
プーチンが焦っている。
ロシアでもコロナが蔓延しているんだけど、彼がいくら笛を吹いても誰も踊らない。
医療機関への支援を約束しても、地方の医療施設では、支援なんて来てないよとのこと。
役人たちはへらへら笑いながら、目の届く範囲内だけで、まじめに仕事をしているよう見せかけるのだろう。
ロシア人はだらしないところへ持ってきて、上からどうしろこうしろといわれるのが大嫌いらしい。
プーチンは法律改正までして、自分がもういちど大統領になる道を開こうと必死だ。
彼の焦りはわかる。
こういう国民をだれに委ねればいのか。
プーチンがいなくなったら、また美味しい汁を吸おうという輩が、政界官界財界にひしめいているのだ。
独裁といわれようとなんといわれようと、剛腕プーチン以外に鈍牛ロシアを引っ張れる者はいない。
ヘタすりゃまた元の木阿弥だ。
プーチンの焦りももっともだ。
雨に降り込められたときはどうやってヒマをつぶすか。
まかせとけ。
先日図書館で借りてきた司馬遼太郎の「街道をゆく」を読む。
もう何度も読んだことのある本だけど、読むのに時間のかかる本だから、ヒマつぶしにはもってこい。
なんでそんなに時間がかかるのか。
このシリーズのうちの『モンゴル紀行』を例にとって説明しよう。
「モンゴル紀行」は、まだソ連時代の1974年ごろに週刊朝日に連載された紀行記だから、書かれた内容はもはや歴史の一部になったといっていい。
硬直した官僚機構のもとのロシアの旅が、どれほどややこしくてメンドくさかったか、それを知りたかったらこの本を読むべし。
堅すぎてイヤという人は、椎名誠の「シベリア追跡」でもいいけど。
わたしもこの本に影響されて、いちじはモンゴルを夢みたことがある。
イルクーツク、ウランバートル、ゴビなどという、童話に出てくるような地名がどれほどわたしの胸をときめかせたことか。
もっともその後のわたしは、中国とシルクロードに傾注して、モンゴルふうの景色はそっちでまかなってしまった。
「モンゴル紀行」を読んでいると、いろいろ気になることが出てくる。
たとえば主要舞台であるイルクーツクやウランバートルってどんな街なのか。
もちろん本の中にその描写があって、文章からじっさいの景色を想像するのは、わたしは得意なほうだけど、もっと便利な方法がある。
わたしのテレビ番組の録画コレクションの中に、これらの街が出てくるものがあるのだ。
というわけで、読書を中断してコレクションをひっかきまわす。
イルクーツクはシベリア鉄道の途中駅で、わたしの部屋にはシベリア鉄道を記録した映像がふたつある。
ひとつはつい最近再放送された、1999年の記録映像で、もうひとつは2008年の映像だ。
とくに1999年のほうは、わたしが大陸中国を走りまわっていた時期と重なり、列車内をみても、中国の長距離列車とそんなに変わらないから、ついなつかしい気分になってしまった。
ウランバートルは「世界ふれあい街歩き」シリーズの中に出てきた。
これはまだ数年まえの映像で、最近はロシア、中国、そしてモンゴルも発展がいちじるしいから、司馬遼太郎が旅したころとは、街の景色は絶対的に違うだろう。
しかし、ときどき街の背景に、緑におおわれたゆるやかな山並みが映る。
こればっかりは作家が旅をしたころと変わらないに違いない。
そんなふうにやたらに気になることが生じ、そのたびに寄り道をして、調べたり、ひっかきまわしたりするから、この本は読み終わるのに時間がかかるのである。
添付したのは、わたしが中国で撮影したモンゴルふうの景色。
宵っぱりの朝寝坊とはあたいのことよ!
夜中に起きているかわり、昼間は人生とこの世界に絶望して、ベッドにころろごろしていることが多い。
こういうライフスタイルって、もの書きやマスコミ、芸能関係の人に多いみたいだ。
つまりわたしの生き方がいまのトレンドなのかも。
わたしの部屋は、ベランダが東南の向き。
午後の遅い時間になると、ベランダのすぐ内側の寝室(四畳半)は日かげになってしまう。
窓のすぐ外にニセアカシアの立木があり、すこしあいだをあけてその向こうは住宅街だ。
そして二階部屋だから、この季節になると窓をぜんぶ開け放ってしまっても大丈夫。
若い娘ならどこかに望遠鏡でのぞく変態がいるかもしれないけど、わたしみたいなじいさんをのぞく馬鹿はおるまい。
昼間からとくに用事もなく、途方にくれてひっくり返っていると、おだやかな風がそよさわと、レースのカーテンを押しわけて部屋に侵入してくる。
ああ、天国だなあ。
今年の夏は暑そうなのででっかいエアコンをつけたけど、これなら使用しないまま夏を乗り切れてしまうんじゃないか。
とつぜん現実にもどるけど、引っ越ししたばかりだから、いまはまだ部屋の中も足の踏み場がある。
というか、まだ平坦な部分が多い。
でも掃除が面倒だ。
ルンバ(ロボット型掃除機)でも買って転がしておくか。
ネコを飼いたいけど禁止だそうだから、ペット代わりになるかもしれない。
今日は、雨のあい間をぬって図書館に行ってきた。
じつは東久留米市のいちばん大きい図書館は、来年3月まで改築工事のためお休みだというから、その分館みたいなところだ。
自転車なら15分もあれば着いてしまう。
図書館が近所にあれば、独り者のじいさんにとって怖いモノなんかなにもないのだ。
でもちいと不安もあった。
わたしがこれまでよく利用していたのは、武蔵境駅のすぐまえにある武蔵野プレイスである。
ここがITを駆使した近代的な図書館で、蔵書もけっこう充実していたので、ひじょうに便利に使えたんだけど、今度の図書館はどうだろう。
とりあえず図書カードを作る。
作りながら横目でうかがうと、武蔵野プレイスに比べたらかなりせまい図書館である。
司書の女の人が5、6人で、あまり若そうな・・・・とっとっと。
これは重要なポイントではない。
いちおうコンピューターで本の検索ができるというから、ヒマつぶしに好適なダーウィンの「ビーグル号航海記」を探してみた。
ないようである。
つぎのヒマつぶし好適本は、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズだ。
これはべつの場所の分館にしかないようだったけど、館内をうろうろしていたら、文庫本がずらりと勢揃いしているのを見つけてしまった。
どうもコンピュータとの連絡がよくないみたいだ。
そういうわけで、今日借りてきたのは街道をゆくのうちの4冊ばかり。
すでに暗唱できるくらい読みなれた本だけど、あいかわらずおもしろい。
ヒマつぶしに好適というのは、おもしろいだけではなく、いろいろと示唆に富んでいて、書かれたことがらについて、いちいち自分で調べたり確認したりで、読み切るのに時間がかかることである。
しかもこの本は時空を超えた各地の旅まで満喫できるのだ。
旅行と歴史が三度のメシより好きなわたしにとって、旅行と科学を同時に満喫させてくれるダーウィンの本と双璧なのである。
ネットニュースを見ていたら(最近のわたしは朝日新聞の購読をやめちゃったので、ほかに世間の動向を知るすべがないのだ)、「大阪なおみ選手の発言が炎上」という記事が目についた。
また始まったかと、あまり期待もしないで読んでみたら、これはある日本人ジャーナリストが、ワシントンポスト紙の記事を引用したものだった。
WP誌によると、大阪なおみチャンが大阪市内で(ややこしいね)開かれた人種差別に反対するデモに、日本人の参加を要請したところ、当の日本人から猛烈な反発があって、発言が炎上しましたってことらしい。
まあ、このへんまではわかる。
わたしも日本には黒人に対する差別は、あっても大騒ぎするほどのものじゃないと思っているし、アメリカの差別問題に、なんで日本人までが参加しなくちゃいけないのだと思っているので。
しかしなおみチャンのような女の子が、いちずに思い込んでいるものをけなす気にもなれない。
このへんは、ミーハーのタレントの発言まで問題視する韓国人とは違うところだ。
そんなことより大きな問題はこのジャーナリストの姿勢だ。
WP誌の記事を引用するというだけで、その内容がおかしいとはぜんぜん思ってないらしい。
WP誌は「米国ではニューョークタイムズと並ぶ影響力を持ち」なんて書いていて、その威光に絶対に逆らわないような態度である。
アメリカの大新聞でも間違いはあるのだ。
わたしは図書館でよくニューズウィークの日本版を読むけど、日本人からみると納得できない記事がたくさん目につく。
さらに日本でクルド人男性が、日本の警察官にいきなり押さえ込まれたなんて記事まで引用しているけど、ふつうの日本人なら、なにもしない外国人を、日本の警察官が押さえつけるようなことはしないと考えるのが普通だ。
それはなぜなのかということも、ジャーナリストなら考えればわかるはず。
これは人種差別ではなく、別問題ですと、なぜWP誌に説明してやらないのか。
このジャーナリストは、いちおう英語はわかるらしいから、頭はいいんだろうけど、職種を間違えたとしかいいようがない。
この部屋に引っ越ししてきたとき、知り合いにいわれた。
上下左右の部屋にまんべんなく挨拶をするんだよと。
ごもっともというわけで、それなりの数のお菓子を用意した。
ところが最近ではどちらさんも、あまり深い隣人関係は望んでないみたいで、挨拶に行っても顔さえ見せない家も多い。
わたしが不審者みたいな顔をしてるからじゃないだろうけど、隣り同士でもお付き合いがないというのは、わたしみたいな引きこもりにはかえってありがたい。
ネットニュースに、久留米は今日35度C超だなんて出ていた。
びっくりしたけど、わたしんとこは久留米は久留米でも、東がつくから九州とはだいぶ違うだろう。
いま近所の公園(あの切られてしまったポプラが生えていたところだ)の木陰で風に吹かれている。
さわやかすぎる風が右から肩をこすっていく。
今日はもと同僚からようすを尋ねるメールが来ていたけど、彼はまたリタイヤしてないようだ。
あと1年は頑張るんだとか。
今日は東村山の駅まで往復してきた。
自転車なら片道せいぜい30分だ。
とちゅうに新しい住宅が多いけど、住宅だけではなく、そのあいだのあちこちに雑木林が残されているのが目についた。
このあたりは都心から近いわりには、遅れて開発が進んだせいで、地主も理性を失わずにすんだのだろう。
狂乱の開発ブームのころなら、災害時の避難場所などという配慮なんかまったくされなかったのではないか。
ホント、人間が晩年を過ごすにはわるくないところである。
サムスンはまじめな企業である。
日本を超えたということで、日本ではなにかと評判のよろしくないサムスンだけど、冷静にながめればきわめてまじめな会社だったんじゃないか。
先日、百田尚樹サンの「今こそ韓国に謝ろう」を読んで、ふとそんなことを考えた。
いや、この本ではサムスンに触れてないけど、逆転の発想でものを考えることについていろいろ示唆されたのである。
冷静に考えてみよう。
スマホにしても半導体にしても、日本製の製造機械や部品を使っているかぎり、日本との貿易収支はつねに赤字だ。
しかし、そのかわり自社製品を世界で売りまくってシュアを広げる。
こういうことは日本でも過去にやっていた。
日本が戦後の混乱期を脱したのは、原材料を輸入し、それを加工して、付加価値をつけて売るという政策に忠実だったせいである。
だからサムスンもそういう日本を見習って、日本との関係においてはウインウインの関係で、揉め事を起こさず、ただただ世界販売に傾注していた・・・・
これはまっとうな商感覚で、とくに違法なことをしたわけではないし、文句をいういうほうかおかしい。
ところが経済やグローバル化ということをまったく知らない政治家たちにひっかきまわされて、あまつさえ会長が逮捕までされそうで、ただいまサムスンひじょうに困惑中ってところじゃないかね。
日本なら経団連なんかの力が強いから、政府に注文をつけることもあるけど、反日教育のおかげで、韓国には日本をやっつければ(ついでに国内の財閥をこらしめれば)気持ちイイという人が、半分より少し多いくらいはいるらしい。
これではヘタにお上に逆らうと、国民を敵にまわすことになってしまう。
サムスンにしてみれば、ここまで日韓関係を荒立てたくはなかったけれど、そういう経営者のおもわくは、政府や国民や労組には通じない。
韓国人は自分の自尊心をくすぐってくれる、ゆいいつの国内企業を転落させようしているのだ。
どうして自分で自分の足を引っ張るのか、日本人にはまるで理解できないけど、北朝鮮を含めて、あの半島の人たちが不可解なのはいまに始まったことじゃない。
いったん政権を失えば、水に落ちたイヌは徹底的に叩かれる。
だから自己保身が第一で、国民のための政治なんかやっとられんというのが正直なところだろうと、わたしは信じているんだけどね。
だからサムスンも被害者なのだ。
あまり根も葉もない中傷は気のドクでありますよ。
ポプラという木が好きである。
北海道のような広々とした丘陵地にぽつんと立っているのを見ると、無限のノスタルジーを感じてしまう。
たしか谷内六郎さんの絵にも、ポプラのこずえをただよっていく赤い風船を描いたものがあったと思う。
詩人の胸にこれほどひびく樹木ってないんじゃないか。
一本だけ屹立しているものとはべつに、両側にずらりと整列しているのもいい。
そんなポプラの並木は、わたしにシルクロードの思い出を呼びさまし、二度と帰らない青春を思って、しみじみと泣きたい気分にさせる。
ということは、少しまえにこのブログに書いた。
そのときにポプラの根元に降りつもった綿毛の写真を載せたけど、今日また同じ木のところを歩いてみたら、アレマ!
台風に備えたのかもしれないけど、短ければいいってもんではないっすよ。
ネット・ニュースに「コロナの感染者が海外から1日10人入国すると、90日後には99パーセントの確率で大規模な流行が起きる」という記事が出ていた。
うん、まあ、そういうこともあるだろうなと思ったものの、そんな心配していたらいつになっても観光業なんか復活しようがないじゃんと思い、こういう日本政府の足を引っ張る記事ってと思って、ソースを眺めたらやっぱり朝日新聞だった。
これでなんとなく安心。
朝日新聞なら、つねにいちばん悪い状況を想定して記事を書くに決まっているから。
朝日新聞の期待とはうらはらに、日本の防疫態勢は世界の称賛のまとなのだ。
ごちゃごちやといろんな情報が錯綜して、なにが正しいのかわからないようなとき、いちばん確実なのは結果を見ることです。
朝日新聞の購読はやめちゃったけど、ネットにも朝日がソースの記事はたくさんあるから、わたしのいちゃもんが枯渇することがない。
ありがとう、朝日新聞。
たまには本でも読もうと、本屋で見つけてきたのが、ネトウヨの論客である百田尚樹サンの「今こそ韓国に謝ろう」という文庫本。
わたしはこの人の過激な主張が好きではないので、ふつうなら買ってまで読もうと思わない本だ。
でもヒマだし、近くの図書館は6月いっぱい休館だというので、苦し紛れに文庫本ぐらいいいだろうと、本屋でちらりと立ち読みしてみたら、韓国に謝ろうという冒頭の部分は、逆転の発想で、皮肉がいっぱいのユーモア小説みたいでなかなかおもしろかった。
ヒマつぶしには使えるんじゃないか。
で、こいつを購入して、帰宅してじっくり読んでみたら、おもしろかったのはまさにわたしが立ち読みした冒頭の部分だけ。
読み進むうちにいつものネトウヨ的文章になって、皮肉はほんのつけ足し程度になってしまう。
内容が間違っているわけではない。
ただし、そのほとんどはわたしもすでに知っていることなので、ヒマつぶし文学にするためには、謝罪しているようにみえて、じつは相手をけなすというテクニックを、もっと磨いてくれなければいけない。
そして最後までそれで押してくれなければいけない。
とちゅうからまじめに韓国をけなす文章になってしまっては、わたしのヒマつぶしになりようがないのだ。
全編が冒頭並みなら漱石の「吾輩は猫である」みたく、時間つぶしには最適な読み物になったかもしれないものを。
ま、時間は余っているんだし、700円ぐらいのはした金で文句をいいませんけど。
「マタイ受難曲」という有名なクラシック曲がある。
ぶっ通しで聴くと、68ものパートに分かれて、3時間ぐらいかかる壮大な曲なので、わたしが聴くのはそのうちの2曲か3曲。
よく聴くのはオープニングの合唱曲と、39番目のアリア。
このアリアはタルコフスキーの映画に使われていて知ったんだけど、彼女にふられてひとり畳をかきむしるような悲痛な曲である。
最近これをまた聴きたくなって、CDも持ってるんだけど、たまにはほかの歌手の歌で聴きたいというんで、YouTubeを当たってみた。
できればまだ最近アップされた画質の良いものがよい。
そうやって探して、1年ぐらいまえに公開されたオランダのバッハ協会による演奏を見つけた。
これをダウンロードして、さて、39番のアリアを聴こうとすると
わたしが過去に聴いたものは、すべて女性のアルト歌手によって歌われている。
だからこのパートは女性によって歌われることになっているんだろうと、前述したように長い曲だから、早送りで、女性歌手が歌っているシーンばかりを探してみた。
ない。ない。
おかしいと思って、今度はこのへんだろうと思える部分を重点的に探してみた。
あった。
あったけど、歌っているのは男だった。
ティム・ミードさんといって、なかなかハンサムな男性歌手である。
女といわれてもわからない中性的な声なので、男が女のパートを歌ってもべつにかまわんけど、クラシックではこういうこともあるんだね。
初めて知ったワ。
散歩に行ってきたけど、わたしの足は順調におとろえているな。
並行して認知症も進んでいるようだ。
まだ大筋で間違いはしないものの、細かいことではしょっちゅうボケたことばかりしている。
今朝なんかゴミ出しに行って、帰りに階段でちょっと考え事をしたら、3階まで行ってしまった(わたしの部屋は2階)。
やっぱりねえ。
わたしの知り合いにもそろそろ仕事をリタイヤしようと考えている人がいるけど、その人に忠告しておこう。
やめたほうがいいですよ。
あ、このやめたほうがというのは、仕事を辞めるのをやめたほうがいいという意味。
わたしみたいにひとりで部屋にいても退屈しないを豪語している人間でさえそうなんだから、仕事以外に趣味のない人がリタイヤしたらイチコロだ。
やっぱり人間は命のあるかぎり働く生きものなんだから、そうした自然の摂理に逆らわんほうがエエです。
つべこべいわずに死ぬまで働けえ。
アメリカで警察官が黒人を絞め殺して騒動になっている。
するとネットニュースに、日本でもクルド人に警官が暴力をふるったとかなんとか、それに便乗して横暴警官を許すななんてデモが発生したって記事があった。
まあ、日本の場合、可愛いところがあるから、だれがなにをしようと勝手だけど、アメリカと日本の違いは、アメリカならそういうことはあり得ると考える人が多いのに、日本の場合、なんか外国人のほうに問題があったんじゃないかと考える人が多いことだ。
そんなことはないという人もいるかもしれないけど、わたしはそう考えてしまう。
なにしろ銃を持って立てこもる犯人に対しても優しい日本の警察である。
優しすぎてアメリカ人などからは嘲笑されるくらい優しいのだ。
そういう警察が外国人に暴力をふるうだろうか。
これはおそらく、官憲というものに徹底的な不信感を持っている外国人のほうに、なにか落ち度があったんじゃないか。
声には出さないものの、そう考えている日本人のほうが圧倒的に多いに違いない。
今日のわたしのブログは、そうした声なき人々の代弁というトコ。
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