どこが歴史観?
わたしは司馬遼太郎の「街道をゆく」の熱烈なファンである。
先日図書館に行ったら「司馬遼太郎の歴史観」という本が目についた。
なんかわたしの知らない新事実でも書いてあるかと思い、例によってヒマつぶしに読んでみようと、それを書架からひっこ抜いてきた。
ことわっておくけど、わたしはこの本をいちども読んだことがないし、その存在すら知らなかった。
帰宅してさっそく目を通してみたけど、読んでいるうちしだいに頭に血がのぼってきて、これはストレスが溜まる、溜まる。
血圧も上昇したかもしれないから、最近これほど健康によくない本に出会ったのはひさしぶりだ。
最初に気がついたのは、著者の中塚明サンが、作家の司馬遼太郎を呼び捨てにしていること。
全般的に敬語を省いた文章なのかと思ったら、自分と考えの一致する文章を引用するときは、書いた相手を“さん”づけだ。
しかもそんな態度で、司馬作品の無知や誤りをあばくとたいそうな剣幕である。
やれやれ。
中塚サンの論理は、とにかく徹底して自分の考えが正しいということである。
まるでこの世界に自分ひとりしかいないような調子で、だれかの主張が自分と異なれば、もうそれだけで、そっちが間違っていると決めつけ、そこから一歩も引かないのだ。
こういう文章はカルト宗教の出版物によく見られるけど、とにかく異常と思えるくらい、中塚サンの因縁のつけ方は激しい。
この本でやり玉に上がっているのは、「坂の上の雲」と「街道をゆく・韓の国紀行」である。
「坂の上の」については、わたしもこのブログに書いたことがあって、あまり感心しないという見方をした。
しかし「街道をゆく」までけなされると話は別だ。
わたしはこの本を、カルト信者が教祖さまを崇めたてまつるように信奉しているのである。
中塚サンの本の中に「韓の国紀行」から引用した文章がある。
韓国の田舎を訪問した作家が、まだ電灯もついていない景色をながめて、韓国は遅れているとつぶやくシーンである。
似たような景色を、わたしは中国の田舎で見た。
わたしが初めて中国の西安を訪れた1995年のこと。
上海から列車にひと晩ゆられて行ったんだけど、夜中に列車の窓から眺めたら、月明かりの下に、ひっそりと寝静まった集落が見えた。
集落はまっ暗で、明かりなんかひとつも見えない。
当時はまだ西安の近郊でも、電気が通じてなかったのか、あるいは電気代が高いから消灯していたのか知らないけど、日本人のわたしには、その暗さがしみじみと、貧しいところに来たなという印象だった。
司馬遼太郎が韓国の田舎を見て感じたのも同じことだろう。
この場合、遅れているという実感は自然なもので、誇張しているわけでもないし、韓国をさげすむ意図があったわけでもない。
しかし中塚サンは気に入らない。
わざわざ田舎を見て、日本と比較するのはけしからんという。
比較するなら、日本と同じように発展しているソウルと比較すべしというんだけど、これって論理がおかしくないか。
司馬遼太郎は日本と韓国を比べるために韓国の田舎に行ったわけではない。
外国に行った場合、田舎のほうがその国の原点のようなものを見られる可能性が高いのだ。
「街道をゆく」には、日本人のルーツというものをたどってみたいという期待があると、これは第一巻の冒頭で著者が述べている。
わたしもそうだけど、わざわざ都会を見ても仕方がないという人もいるのである。
中塚サンはなにがなんでも韓国が、日本と同等に発展してなければ気に入らないのだ。
ことわっておくけど、「韓の国紀行」が書かれたのは1974年のことである。
中塚サンは時代なんか関係ない、新羅・百済・高句麗の時代から、韓国は堂々とした文明国だったという。
そしてそれは李朝500年のあいだもずっと変わらなかったという。
変わっているという人がいたら、それはその人のほうが間違っているのだという。
歴史も現実も無視して、韓国は日本とずっと同等か、もしくはそれ以上の国でなければいけないのだ。
そもそも「街道をゆく」は、韓国のひいきばかりしているということで、日本の右翼から攻撃の的にされている朝日新聞社の刊行物である。
それでも気に入らないというのだから、不平不満にも上には上があるものだ。
ほかにもあまりに強引すぎる文章が目立つけど、とても全部をあげつらうわけにはいかない。
ただ、あまりに常軌を逸した文章だから反論してみたくなったんだけど、ちょっと反省するところあり。
中塚サンの本が書かれたのは2002年である。
こういう人が書くのだから、慰安婦問題についても推してはかるべしだけど、朝日新聞の慰安婦捏造がバレたのは、これよりあとである。
慰安婦が特定の人間の金儲けだったことがわかったのもつい最近だ。
だから中塚サンは、日韓問題の原因の大半は韓国側にあるということを知らずに書いたのかも知れない。
だとすれば、あんまり責めるのも気のドクだ。
ありがたいことにこの本を支持する人は、人口1億2千万の日本にもほとんどいないらしく、影響力は皆無といっていいから、こんなものに文句をいって仕方がない。
中塚サンもわたしといっしょで、自説でもって世間になにかを訴えるというより、認知症防止のために書いたんじゃなかろうか。
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