地中海/シチリアC
タオルミーナのつぎにセローがやってきたのは、知る人ぞ知るの古代都市シラクーザ(シラクサ)だった。
そんな街のことは知らないと、普通の人はいうかもしれないけど、この街を有名にしたのはギリシャの数学者アルキメデスだ。
アルキメデスって知ってる?
キリストよりもずっと古い人なんだけど。
こんなわかりきったことをいちいち書くのは、最近の若い人のなかには、わたしらの世代にとって信じられないくらい無知な輩がいるからなのだ。
アルキメデスのことはあとでまた書く。
最初のストリートビューはシラクーザの駅から。
駅からセローは旧市街をめざす。
旧市街はオルティージャという小さな島にあり、そこまで遠いというけど、グーグル・マップによるとせいぜい1キロぐらいだ。
彼は飛び込みで旧市街にあるひとつ星のホテルに泊まることにする。
朝食がついて1泊23ドルだというから、ドル相場がいくらだったか知らないけど、高級なホテルじゃなさそう。
ホテルの経営者は詩人で哲学者のなんとかいう博士で、哲学者がホテルを経営してわるいってことはないけど、こういう人物はセローのかっこうの風刺ネタにされてしまう。
この風変わりな経営者についてもまたあとで書くことにして、さっそくストリートビューでシラクーザの旧市街地をのぞいてみよう。
これはシラクーザの地図と、旧市街地に通じる橋のあたりだけど、出島のようにふたつの橋でつながったオルティージャという島がわかるだろう。
どこでもそうだけど、旅人にとっていちばんおもしろいのが古い街だから、セローも旧市街を見てまわる。
たとえばここには有名な「アレトゥーザの泉」という名所がある。
川の神にレイプされそうになったニンフ(妊婦ではない)が、泉に姿を変えたという伝説にちなむものだそうで、すぐ上の写真でまん中の一段低くなった場所がそれだ。
『それは現代のシラクーザ市民が子供を連れて、アヒルにピザのかけらを投げてやる場所である』
アヒルが棲みついているらしいけど、じっさいの泉のかたちはこんな感じ。
どうもセローにとってあまりおもしろそうではない。
こんな調子であんまり気乗りしない調子で書いてあるので、わたしも最初はぼんやり見過ごしていた。
ところが衛星写真で旧市街を上空から俯瞰してみたら、建物や路地がもうでたらめに、ごちゃごちゃと入り乱れていることがわかった。
わたしはこれまで、地中海地方の旧市街地というのは、スペインのバルセロナのように、碁盤の目のように整然としたものが多いと考えていたから、これはモロッコやアルジェのように迷路のような街かもしれない。
ストリートビューで地上から街をながめてみると、そこにあったのはわたしがぜったいに見たいと思う景色だった。
言葉で説明するより写真を見てもらったほうが早い。
縦長の写真を並べたのは、そのほうがスペースが節約できるからだ。
旅好きのわたしにとっては、1日中うろついていたいという気持ちにさせる街である。
アヒルのいる泉以外にも旧市街にはいろいろ見ものがあるそうで、周囲の建物が古風なままの市役所まえ広場、ギリシャ時代のアテネ神殿の建築材料を横流しした、ゴシック建築の大寺院なんて頭がこんがらかりそうなものもあるし、火災で焼け残った風呂屋の壁みたいなのはアポロン神殿の跡だそうだ。
ちょっと郊外に出ると、これはディオニュシオスの耳とよばれる石灰岩採掘場(わたしには月の女神アルテミスの女陰に見える)。
アテネ神殿やアポロ神殿、ディオニュシオスなどという名前を聞くと、この街が大むかしからシチリアという郷土色のつよいイタリアの地方都市ではなく、コスモポリタンな街だったと思えてしまう。
セローがわたし以上に偏屈ぶりを発揮して、こういうものにすなおに感動しないのは、彼は旅行作家なのでこんな景色は見飽きているということなのだろう。
この街は数学者アルキメデスの終焉の地である。
アルキメデスの異能は当時交戦中だったローマでも知られており、ローマ軍の司令官がかならず生きたまま捕えろと厳命していたにもかかわらず、彼はたまたま地面に書いた計算式を解いているとき、無知なローマ軍の兵士に殺されたのだ。
彼の理論や計算式を説明するほどわたしは頭がよくないけど、それ以外の分野でもアルキメデスは、常人ではおよびもつかないSF的発想をした人だった。
たとえば太陽の光を集めて敵の軍船を焼くなんてのは、スターウォーズの光線銃のはしりといえるし、てこや滑車を応用して力を増幅させ、軍船をひっくり返すなんて機動戦士ガンダムみたいなものを発案したこともある。
レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだけど、どうもイタリアには、ときどきタイムマシンで未来人がやってくるようだ。
セローはこの街の歴史について、かなり辛口の批評をしながらホテルにもどる。
哲学者であるホテルの主人は迷惑な人だった。
彼は自分の著作物で、値段が13ドルもする本を買え、買えとうるさい。
シチリアまで来てヘボ哲学者の本を買わされる義理はないので、セローはやんわりと拒絶するけど、彼はもちろん読書好きである。
この旅をしているあいだにもやたらに本を読んでいる。
本というのはがさばるし、けっこう重量もかさむから、旅先まで持ち運ぶのは大変なはずで、どうしているのだろうと思っていたら、彼は行く先々の街で本を買い、読み終わったものは棄てるを繰り返していた。
うらやましい話だ。
これは英語圏の人間だからできることで、フランスやイタリアに日本語の本なんか売ってるわけがない。
週末になると大勢のシチリア人が街にくりだす。
セローはそれを見ながらシチリア人の特徴について考察する。
でも机のまえで旅をしているわたしには、シラクーザとシチリアはちょっと異質すぎるので、シラクーザの住人をもってシチリア人全体を考察できるのかなと思ってしまう。
わたしはこのブログ記事を書くまえに、シチリアを舞台にした「シシリーの黒い霧」、「誘惑されて棄てられて」、「山猫」という3本の映画を観たことを書いた。
そのさいに、三つともぜんぜんタイプの異なる映画だから、共通点が発見できるかねえとも書いた。
でも映画を観た結果、シチリアというのは家族意識というか、身内意識というか、そういうものがひじょうに強い土地であるということがわかった。
こういう土地は、わたしみたいな身勝手でつきあいのわるい人間には住みにくいところである。
でもこの3本の映画はみんな、もう半世紀以上まえの映画なのだ。
いまでも犯罪者を村全体でかくまっているのだろうか、いまでもいちどっきりの過ちを犯した少女が懺悔のため教会に行ってるんだろうか、バート・ランカスターの家父長のもとで家族全員が食事のまえにお祈りをしてるんだろうか、いまでもそんな風習が残っているんだろうか。
現代はすべてを平らにならすグローバル化の時代なのだ。
いいことかどうかわからないけど、わたしみたいなひきこもりにも、シチリアは住みやすい社会になりつつあるんじゃないか。
マルタ島行きのフェリーに乗り遅れたセローは、時間つぶしに、シラクーザから西に10キロほどはなれたベルヴェデールという村まで散歩に行く。
ここには古い城の廃墟があるらしいけど、そのくらい歩けるというわけで、彼は徒歩で行くことにした。
わたしももちろん歩くのは好きだから、(10年まえだったら)おつきあいをした。
いまじゃそんなに歩くのイヤだぞ。
でも、とちゅうで 『オレンジの実がなり、バルコニーから洗濯物がぶら下がり、ヒラウチワサボテンが群生し、家の庭には十字架にかけられた案山子があった』 という素朴な田舎を通ったという。
これでまたわたしの好奇心がむらむら。
これがベルヴェデール近くの農道だ。
日本と変わらないじゃないかという人がいるかもしれないけど、わたしはこんな素朴な村をいちにち歩きまわってみたい。
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