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2020年12月10日 (木)

地中海/バルセロナとダリ

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ポール・セローは無神論者である。
彼の「大地中海旅行」を読み始めてそう思い、マジョルカ島からバレンシアに至ってそれは確信になった。
あるていど以上の知性にとって、無神論は必然なのかもしれない。
現代はインターネットの時代であり、あらゆる情報が瞬時に世界をかけめぐる。
たとえばこの瞬間にも、テロリストに後頭部を撃ち抜かれている人がいるかもしれないし、賎民としてさげすまれ、泥濘のなかでのたうちまわっている人たちがいるかもしれない。
そうかと思えばお坊さんが投資信託に励んでいるとか、かってなら足もとにも寄れなかった高位の聖職者が、幼い子供にイタズラしていたなんてこともある。
いったい神さまはなにをしてるんだ、というようなことが世界には多すぎるのだ。

セローはマジョルカからスペイン本土にもどり、バレンシアまでやってきた。
ここには水族館や近代建築もあるって話だけど、水族館大国で、近代建築もたくさんある日本人がそんなものを見ても仕方ない。
こういう古い街に行ったときは、旧市街地を見てまわるのがいちばんおもしろい。
旧市街は大きな寺院を中心にまとまったところが多いから、そこで最大の観光ポイントはたいてい古い教会ということになる。
セローが旅をしたのはいまから30年ぐらいまえだから、まだ教会のまわりには物乞いやトランプを売る老婆や、3人の子供をかかえて仕事がないというプラカードを持ったおじさんなどがいた。
考えてみれば不遇な人々はたいてい教会のまわりに集まるものだ。
しかし最近ではどこの国も外国からの観光客が集まる場所を、そういう人たちのフリースペースにしておかないから、ストリートビューで広場をのぞいても、神さまをもっとも頼りたい人々は一掃されてしまったようである(冒頭の写真はサンタ・マリア聖堂まえの広場)。
これでは、たとえば「ノートルダムのせむし男」のような小説は成り立たない。
スペイン政府も余計なことをしたものだ。

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大都会というやつがきらいなセローだけど、バレンシアのあとバルセロナに移動する。
このあたりまで来ると鉄道がある。
のんびり景色をなかめるなら、バスより列車のほうが適しているから、こんどは列車である。
この途中に、以前このブログで取り上げた映画「エル・シド」の舞台になったペニスコラ城がある。
これはストリートビューで見た現在の城のようすだけど、チャールトン・ヘストンの英雄っぷりをおぼえているかな。
いまでもよく覚えている映画だから、わたしならとうぜん寄ったはずだけど、セローは完全無視だから、やむを得ずわたしもセローについていくほうを優先しよう。

バルセロナはどんな街だろう。
ググッてみたらスペイン第二の都会だそうだ。
スペインのツアーに参加すればかならず寄るし、オリンピックが開かれたこともあるから、日本人にもよく知られた街だ。
このオリンピックについては、まだ中学生の岩崎恭子が競泳で、彼女自身が予想もしてなかった金メダルを取ったのが記憶に鮮やかだ。
しかしわたしがいちばんおぼえているのは、フィナーレでビクトリア・デ・ロス・アンヘレスがうたった、カザルスの「鳥の歌」だ。
聖火の消滅とともに消えていった彼女の歌声は、いつまでもいつまでもわたしの耳に残っている。

セローがめずらしく大都会のバルセロナに長居することにしたのは、本屋に行ってみたら翻訳された自分の本が売られていたからだそうだ。
ちなみにポール・セローという人は、映画化された「モスキート・コースト」や、その他もろもろの作品で知られる小説家でもある。
お、オレの本が売られているな、この街の人たちは知性的であるに違いないと決めつけるのは、なかなか正直な思考だ。
彼だってムズカシイ哲学や複雑な思想ばかりを追求する旅をしているわけじゃないのである。

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バルセロナの写真をネットで漁っているとき見つけたのがこの写真だ。
まるで碁盤の目のようにきっちりとした街並みが続いている。
なんじゃこれはと思ったけど、四方(もしくは三方)を建物で囲まれた真ん中に庭があるという建築様式は、外国の古い街ではめずらしくない景色かも。
わたしがサンクトペテルブルクで泊まったホテルもそうだった。
かっては中国の街にもあったけど、あの国では壊して新しくするのも早いから、いまでもあるかどうかわからない。

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こういう街の構造は、上空から見ればよくわかるけど地上からでは見えない。
だから素通りするだけの観光客は気がつかないかもしれない。
永遠に完成しないことで有名なサグラダファミリアも、地上からでは広々とした場所にあるように見えるけど、これは広角レンズで誇張されているからで、上空からながめるとみごとなくらい碁盤の目のなかにある。
近くに寄りすぎると盲目になるというのは、これはまあ、哲学的な真理のひとつといえる。

じつはスペインは、中国、ロシアに次いで、わたしが行きたかった国なのだ。
スペインという国はわたしの好きなゴヤやエル・グレコ、あまり好きではないけどベラスケス、ピカソを始めとして、音楽家のカザルスやファリャなど、芸術に関心のある人にとっては宝島みたいなところなのである。

大都会がニガ手なセローだけど、前述した理由でバルセロナに居座り、御馳走を食べたあと、列車でフィゲラスという町に行く。
ここはシュルレアリスムの画家サルバドール・ダリの生まれ故郷だ。

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ダリというと、「記憶の固執」というぐんにゃりと流れ落ちる時計や、「大自慰者」という、どう見てもわけがわからないくせに、よく見るとイヤらしいという絵で知られる画家だ。
わたしはこの画家の作品が特別に好きってわけじゃないけど、「内乱の予感」という絵なんか、せまりくる不気味で残虐なものをよく象徴していて、傑作だと思う。
もっともこの作品には「茹でたインゲン豆のある柔らかい構造」という、いかにも世間を茶化したようなべつのタイトルがあり、描かれたあとで画商が、内乱を予感しているようだと別の名前をつけたのかもしれない。

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ダリもすでに伝説になった。
どんな想像を絶する伝説をでっち上げても、ま、奇人だからなで通ってしまうので、奇人は伝説になるのが速い。
だからあまり極端な伝説は話半分で聞いたほうがいい。
わたし自身は、ヒゲをぴんと伸ばしたダリは、ことさら奇人を売りものにしていたようで、ちょっとあざとい感じがする。
奇人の典型みたいなダリだけど、若いころは同性愛者の友人にくどかれたことがあるくらいハンサムだったそうだ。
おれはホモじゃないといって友人の誘いは断ったそうである。
しかしどんなものか試してみたことはあるらしく、あれは痛いからなといっていたらしい。
オカマを掘られると痛いかどうか、わたしは試したことがないから知らないけど、なにごとも経験してみるという、その探究心はさすがだ。

そんな奇人ぶりのほうに関心があるので、セローも取り上げているダリの伝説の代表的なものについて書いておこう。
彼には異常な趣味があり、奥さんと他の男の浮気現場をのぞくのが趣味だったという。
でもこれは変態というようなものではないかもしれない。
歳をとってモノが役に立たなくなった男には、けっしてめずらしくない趣味のように思えるし、日本でも江戸川乱歩や、川端康成の晩年の小説にそんなのがあったような。

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ダリの奥さんはガラといって、写真でみると品のいい上流階級の貴婦人みたい、映画女優でいえばキム・ハンターかオリビア・デ・ハビランドみたいな人である。
あまり男に狂うタイプには見えないんだけど、もともとはロシアの血をひく人だそうで、それならば美人であることは保証つきだし、奔放な性格というのもうなずける。
彼女は乱行がたたって早死にしたのではないかとセローはいう。
しかし死んだのが88のときだから、意味がよくわからない。
彼女とダリの関係は、マジョルカ島のジョルジュ・サンドとショパンの関係に似ている。
男のほうは世間知らずのわがまま坊やで、女のほうは母親のように彼を庇護していたのだろう。
こういう性格は“母性愛”と言い換えることも可能だ。

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