地中海/スプリット
冒頭に載せたのはザダールの遠景。
フェリーでセローがこの街に着いたのは夜中だったけど、昼間見れば、このあと寄ることになる「アドリア海の真珠」、ドブロブニクにひけをとらない美しい街である。
旧ユーゴというのは日本人になじみがないだけで、探せばまだこんな美しい街がたくさんあるかもしれない。
ただしセローが訪れたとき、まだセルビア軍が20キロ離れた場所に陣取って、ときどき街に大砲を撃ち込んでいた。
おかげでこの美しい街は穴だらけだったそうだ。
夜中に着いたセローはホテルを探したけど、ホテルはどこへ行っても難民であふれていた。
それでもフェリー会社の親切な係員に、コロヴァレ・ホテルというところになんとか空室を見つけてもらう。
ホテルの名前がわかったから、念のためグーグルマップに当たってみたら、それはいまでもあることがわかった。
樹木で見えにくいけど、これがそのホテルのおもてと裏。
砲弾でボコボコにされていたらしいから、その後建て替えたかもしれない。
でもあまり上等な建物に見えないから、色を塗り替えただけかもしれない。
けっきょくなにがなんだかわからないけど、戦場の近くで野宿をするわけにもいかないから、セローはここに泊まることにした。
ユーゴの紛争は「民族浄化」という言葉とともに、膨大な数の難民を生んだ。
おかげでコロヴァレ・ホテルのロビーは雑魚寝をする難民でいっぱいだった。
難民の支援にやってきた赤十字や国連の職員たちは上等の部屋に泊まる。
それを見てセローは、戦災時にはいい部屋を慈善団体が占領するものだという、ひとつの原則に思い当たるけど、そういえばわたしにも似たようなことがあったなあ。
東日本大震災のとき、現地を視察に行ったわたしは、釜石あたりで宿を探していた。
海岸のホテルは軒並み津波にやられたか、無事でもほとんど使い物にならなくなっていて、わたしはとうとう内陸の遠野まで足をのばしてみたけど、そこも各地からやってきたボランティアでほとんどふさがっていた。
おかげでサービスは悪いくせに高い部屋に泊まらせられて、それをいまでも恨みに思って、いるわけじゃないけど、セローと似たようなことを思ったことはある。
夜が明けて、わたしは戦争の爪痕を探してみた。
しかし戦後20年も経っていて、現在のザダールにそんなものはありそうにない。
セローにいわせると、ローマ時代の遺跡である旧市街地の正門も吹き飛ばされていたとある。
フェリーが到着した港のある半島が旧市街地らしいので、そのへんを重点的に探してみたら、海辺にそった古そうな城壁にこんなレリーフを見つけた。
吹き飛ばされてはいないけど、なんとなくローマ時代の遺跡に見えるから、あとで修復したのかもしれない。
そうやってしつこく探してみると、あちこちに遺跡らしいものがあり、なかには現在修復中らしいものもあった。
しかしこれが戦禍による修復なのか、たんに古くなったから直しているのかわからない。
この石垣だって、じいっとにらむと、修理した部分がまだらになっているような、そうでないような。
まあ、修復がすんだのなら結構なことで、観光客が安全に見てまわれるなら、それはさらに結構なことである。
この街でセローはカフェに入ってコーヒーを飲んだ。
飲み終わって金を払おうとすると、戦場から逃れてきたウエイトレスは、ささやかなプレゼントだといって受け取らない。
戦争の被害者がゆきづりの旅人にプレゼントをする・・・・戦争は人々をより善良にすることもあると、セローはまたしてもひとつの原則に思い当たるのであった。
鉄道が戦争中のため不通だったので、セローはザダールからバスでクロアチア領のスプリットを目指す。
ちなみに、わたしの部屋のテレビ番組コレクションのなかに「関口知宏のヨーロッパ鉄道旅」があり、そこにクロアチア編もあって、現在のクロアチアにはきれいで快適そうな鉄道があることがわかった。
しかし関口クンの旅は2016年のことなので、セローが旅をしたころは、もちろんそんなものはなかった。
路線バスから見える景色は、ときおりあらわれる小さな町をのぞけば、おおむねこんな感じで、人口密集地はほとんどないようだ。
危険はあるかもしれないけど、こういう外国での路線バスの旅をわたしもしてみたい。
むかし中国の武威から蘭州まで、半日かけて走ったバスの旅を思い出してしまう。
スプリットでもセローはホテルを探す。
客引きをしているおばさんたちがたくさんいたので、試しに地元の人たちがやっていた民泊を利用することにした。
ところが宿のおばあさんがセローの知っている言葉(彼は数カ国語を話す)をぜんぜん理解せず、会話が出来ない。
わたしならうるさい亭主につきあわされるよりよっぽどマシだけど、セローは黙っていられないタイプらしく、翌日はもう別のホテルに逃げ出していた。
これがセローが引っ越ししたベルヴュー・ホテルだ。
安っぽいホテルだけど、戦争中にはこれでもマシなほうだったらしい。
はたして現在のコロナ禍をなんとかしのいでいるだろうか。
スプリットは「世界ふれあい街歩き」という、わたしが蒐集しているテレビ番組にも出てくる。
またこれも参考にしてみよう。
この街の旧市街地は「ディオクレティオヌスの宮殿」という遺跡で占められている。
この宮殿のあるじのローマ人はキリスト教を弾圧したそうだけど、その後歴史は変転し、同じ宮殿がキリスト教の教会になっているとか。
ローマ時代の神殿や浴場も残っているものの、なにぶんにも古い遺跡だし、その後難民があふれるような複雑な歴史があったから、いまはそこに一般市民が住みついて、菜園を作ったり、勝手に神殿の屋根を自分の家の一部として活用したりしていた。
わたしがはじめて中国で始皇帝の陵を見たとき、それは近所の農民が勝手に果樹園にしていたのと同じだ。
中国の場合は強権国家だからなんとでもなったけど、クロアチアは最近までドンパチがあったものの、その後民主的な国として再出発した国だから、住みついた人たちには居住権が発生してしまい、ユネスコも文句をいえないらしい。
でも宮殿を博物館扱いにして立ち入り禁止にするより、市民の生活の場にするほうがいいかもしれない。
わたしは路地がたて込んだこんな街を1日さまよってみたいと思うし、もっと交通の便がよくって治安にも問題がなければ、ここはトルコのイスタンブールのような観光都市になっても不思議じゃない
この近くには背後に険しい岩山のそびえるオミシュという街もあって、トレッキング好きにはおもしろそうだから、1枚だけ写真を載せておこう。
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