« ヨワッタ、コマッタ | トップページ | ネタの救世主 »

2021年1月 5日 (火)

地中海/フェリーニの故郷

041

ポール・セローの旅は原則として列車である。
鉄道のないところ、船でしか渡れない場所は、やむを得ずバスやフェリーを利用するけど、飛行機はぜったいに使わない。
地中海に限定した旅なので、飛行機を使うと簡単すぎるし、原則があったほうがおもしろいってことだろう。
彼はアドリア海のいちばん奥までやってきた。
アドリア海というのは、イタリア半島とバルカン半島にはさまれたほそ長い海で、もちろん地中海の一部である。
有名なヴェネツィア(ベニス)はこのとっつきにある。

042

この章では、のっけからクラウス・アルトマン(クラウス・バルビー)という人物のことが出てきた。
わたしが若いころは、まだときどきアイヒマンのようなナチスの残党が逮捕されたというニュースが耳目をそばだたせたけど、彼も筋金入りのナチ親衛隊の幹部だった人物で、その経歴は血にまみれている。
彼は死のまぎわになってようやく罪を償うことになったけど、セローは彼がそれまでボリビアくんだりで逃避行を続けられた理由について、米国の責任を挙げていない。
セローの立場は民主党支持の中道左派ってところのようだけど、ときどきこういう片手落ちをするんだよな、米国がからむと。

043a

セローが列車で移動していると、FBIのフーバーもと長官と、ロックシンガーのミートローフのような客が乗ってきた。
広い世界にそういう客がいたっておかしくないけど、彼ら、いや彼女らが尼僧であること、それをセローがたんなる傍観者に徹して、あっさり書くところがおもしろい。
セローの文章にはこんなふうな、とくに意味もなくそれっきりという文章がたくさんある。
笑わせるつもりがないをよそおって笑わせるというテクニックで、こんな文章に出会うたびに、わたしはにやりと口もとをゆがめる。
ユーモアというのは受け取るほうにもそれなりのセンスが必要だ。

また彼はしょっちゅう他の作家や作品を引用するけど、アンコーナという町では、陰鬱でみすぼらしいから罪悪感なしにこの町を見ることはできないと、これはジェームス・ジョイスの文章だそうだ。
みすぼらしいというだけで、他人に罪悪感をいだかせちゃ大変だけど、ジョイスはアイルランドの作家で、故国に恨みをいだいて世界を放浪した作家だから、アイルランドの駅というのはみんなみすぼらしいらしい。
ここでセローは港でヒメジを釣る釣り師と話し合う。
ヒメジは地中海地方では高級な魚らしく、わたしはマルタ島の漁港で漁師が網から外しているのを見たことがある。
日本ではあまり魚屋で見かけない魚だけど、あごの下にひげがあって、それで海底の餌をあさっていて、ダイビングをすれば伊豆あたりでもよく見かけるミニチュアの錦鯉みたいな魚だ。
ぼくはこの魚が好きですよ。
ああ、ティレニア海は底が岩だからね、ここのヒメジは網焼きにするとおいしいよ。
べつに爆笑するような文章じゃないんだけど。

列車で旅をしていると、車窓からながめた景色同様の、唐突に終わるみじかいエピソードがたくさんあらわれる。
長いエピソードがあれば、それはとくに強調したい重要な場所であるという意味だ。
セローはリミニという街に立ち寄った。
ここは映画監督フェデリコ・フェリーニの故郷だそうだから、いやしくも知性を売り物にする文化人ならさけて通れないところである。
そういうわけで、リミニのエピソードは長い。

044

フェリーニという人はおもしろい人である。
見かけは腹が出た、そのへんの会社の重役みたいな感じの人で、日本人が期待する芸術家というタイプじゃぜんぜんないんだけど、「81/2」や「サテリコン」のような、きらびやかでグロテスクで、文学的、哲学的、かつ不可解な作品をつぎつぎと生み出した。
ここでは監督の生まれ故郷リミニに敬意を表して、「アマルコルド」という作品を取り上げる。
この映画はフェリーニ監督の幼いころの想い出をつづったものだというから、背景はとうぜんリミニだろう。
わたしもフェリーニについて、このブログに書いたことがあるくらい好きだから、監督の生まれ故郷という街に特別な興味があった。
セローはローマをべつにすれば、リミニくらいフェリーニ的な街もないという。
ホントかよと、わたしもストリートビューでそういうものを一生懸命探した。
フェリーニの名前をつけた公園があったから、まずそれを眺めてみる。

045046a

公園自体はどこがフェリーニなのかというものだったけど、その向こうに大観覧車があって、その足元でサーカスでもやっていれば、たしかにフェリーニの匂いがしなくもない。
残念ながらサーカスはやってなかった。

046b046c046d

海岸に出てみた。
「アマルコルド」の、夜の海でボートに乗って待ちかまえる人たちのまえに、豪華客船があらわれるシーン、精神病院からひさしぶりに家にもどったおじいさんが、木の上で「オンナが欲しい」「やらせろー」と叫ぶ場面や、ポプラの綿毛が風にただよう屋外の結婚式の場面など、抒情的、牧歌的なシーンがいくつも思い出される。

046e

その撮影場所でも見つからないかと期待したけど、ダメだった。
たとえばこの上の写真、防波堤の上に特徴的な信号塔が立っているので、見つけやすそうだけど、これはリミニの海岸ではないようだった。
映画というものは、かならずしも物語の舞台で撮影するとはかぎらないから、ぜんぜんかけ離れたべつの海岸かもしれない。
「アマルコルド」については、場所をせんさくするより、夢の中の思い出の場所とでも思っておくほうがいい。

047048a048b048c

ここにも旧市街地というものがあるなら、マラテスティアーノ教会のまわりがそうらしいので、そのへんを重点的にのぞいてみた。
イタリアの都市の例にもれず、いちおう古い寺院や城があったけど、これまで見てきたような、狭苦しい路地に建物が密集しているところがなくて、あまり年代が感じられない。
街中をぐるぐると見てまわっても、ほとんどの通りが、一階にこぎれいな店が入ったファッションビル風の建物ばかりだし、裏通りもそこかしこにオープンカフェが店を出していた。

049

あまり多くはないけど、ひと気のない路地には落書きがある。
これはイタリアにかぎったことでなく、ロシアにも多かったから、こういうのはテロリストになる勇気はないし、芸術家になるほどセンスもない、しかし世間に対して不満だけは持っているというアナーキーな連中が、刷毛とペイントで、いや、エアブラシで不満をぶちまけたのだろう。
イタリア語が読めれば、彼らの主張や不満がどういうことなのかわかるのだが。

『太陽が沈んで、明かりがつきはじめると、リミニはフェリーニ的になってきた』
このあとに長い記述があって、セローは言葉を尽くしているけど、ここでは儀礼として、あるいは一般論としてフェリーニに触れただけかもしれない。
それとも街が変化してしまったのか、わたしはこの街からフェリーニ的なものをひとつも見つけられなかった。
しかし熱心に探索したおかげで、ストリートビューではぜったいに見ることのできない場所があるのに気がついた。
たとえばリミニには、夜になると売春婦がたくさん出没して、セローのようなひやかし客の股間をぎゅっとにぎったりするそうである。
わたしもそのへんの路地に娼婦でもたたずんでいないかと、ストリートビューの画面をすみからすみまでにらんでみたけど、すべてから振りだった。
仕方ないからネットで見つけた写真でまにあわせておく。

050

たとえば人生も、うら側にこそ本質があるものなのに、ストリートビューは、目的地のおもての顔しか見せてくれないのだ。
セローが旅をしたころのイタリアの首相はベルルスコーニさんで、彼は議会でイタリアの娘は美人ばかりだからレイプをなくすのは無理だと公言したり、みずからも積極的に娼婦を愛したという絶倫家だから、しかもそれでも失職しなかったくらいイタリア人は寛容だったから、もうなにをかいわんや。

| |

« ヨワッタ、コマッタ | トップページ | ネタの救世主 »

深読みの読書」カテゴリの記事

旅から旅へ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ヨワッタ、コマッタ | トップページ | ネタの救世主 »