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2021年2月26日 (金)

地中海/「海の精霊」号

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アルバニアからもどったポール・セローは、いったん米国にもどって、数ヶ月奥さんのご機嫌をうかがったあと、ふたたび地中海の旅に乗り出した。
奥さんについて詳しいことは書いてないものの、彼は旅のとちゅうで何度か奥さんに遠距離電話をしているから、そうとうな恐妻家のはず。
それはそうとして、今度は贅沢な旅だ。
ノルウェー船籍の客船「海の精霊」号による豪華な船旅で、ぜったいに飛行機は使わず、高いホテルに泊まらないと豪語していた彼らしくない。
どのくらい豪華かというと、14日間のクルーズ料金が2万8千ドル(約290万円)だ。
これは1994年のツアーだとこころえて、当時の為替相場を考慮しても高いことはまちがいない。
いささか目がくらみそうだけど、じつはセローは自分の金で乗るわけじゃない。
彼は世界的に知られた旅行作家だから、船会社から紀行記を書くという条件で無料招待されたのである。
うらやましいけど、わたしにとって(縁はないものの)興味のある旅なので、それがどんなものか、またひとつバーチャル旅行に体験してみようと思う。

ところで「海の精霊」号という船の名前が、日本語では幽霊船みたいでイメージがわるい。
英語にするとSea Spiritで、たちまちモダーンになる。
どう表記しようかと迷ったけど、やはりセローの本の通りにしないと、これを読んでみようと思った人がピンと来ないだろうから、ここは「海の精霊」号でいくことにする。

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「海の精霊」号の写真を最初に見たときはちょっと失望した。
現在の豪華客船というと、クィーン・エリザベスや日本のダイヤモンド・プリンセスのように、まるで高層ビルを横倒しにしたような、何層にもなった巨大な船を想像してしまうけど、それに比べると「海の精霊」はあまり豪華そうに見えなかったので。
しかしセローの本を読み進めるうちに考えが変わってきた。
『食べたいときにいつでも食事ができる』
『パーティを開きたければ、前もって連絡しておくと、12人分のテーブルが用意される』
『ルームサービスを呼び出して、キャビア6人分と、シャンパン2本と注文すれば、10分で部屋に運ばれてきた』
へえ、豪華客船というもはこういうものかと、下々の人間であるわたしはでっかい有形文化遺産に出会ったような気がした。

この有形文化遺産では、料理長は客の好みを把握していて、出航してまもなくセローにこんなことを聞いてくる。
『ベジタリアンと伺っておりますが、本日はスェーデンから空輸した上等なサーモンが入っておりますが、なにか特別な注文がございましょうか』
丁寧な口ぶりでこんなことを聞かれたら、わたしなら尻がむずむずして落ちつけそうもない。
セローがウエイターに料理を勧められたときのやりとりはなかなかおもしろいので、ベジタリアンの心構えとして知っておくと便利かもしれない。
ウエイター:極上ハト肉か猟鳥肉などもよろしいかも
セロー:顔のあるものはなるべく食べないようにしてるんだ
ウエイター:なるほど
セロー:脚のあるものも食べないようにしている
ウエイター:はい
セロー:母親といっしょだったものも食べない
ウエイター:それでは魚もだめですね
セロー:魚は、まあ、野菜みたいなものだからね

こんなサービス満点の船に、セローは招待されてタダ飯を食っているわけだから、いいところばかりを強調したタイコ持ち記事になるのではないかと心配だ。
しかしセローにいわせると
「自分の文章は皮肉がいっぱいなので、ときどき悪口とカン違いされてしまい、もういちど招待がくることはめったにない」
「めったにないけど、招待なんていちど体験すれば十分だ」 
こんな調子だから心配するほどのことはないだろう。
わたしもまたセローに負けないくらいの皮肉屋だから、タイコを見つけたら遠慮なく告発することにする。
どうせわたしに招待状が来ることはないんだし。

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この旅はいつごろのものだろう。
日にちまではわからないけど、セロー自身が出発は9月の末とはっきり書いていて、あとがきに「大地中海旅行」は1993年の秋にジブラルタルからスタートして、あいだに4カ月の休みをはさみ、ふたたび出発したとある。
4カ月の休みというのは、つまりセローはビキニの美女が海岸にあふれるバカンスの季節をあえてはずしたわけで、海辺がひっそりし始める94年の秋にふたたび出発したということなのだろう。
ジブラルタルからアルバニアまでの旅はもうブログに書いたから、そっちは地中海旅行の前編、これ以降の旅は後編ということにしよう。

セローの航海からもう30年近く経っていることを思うと、「海の精霊」号という船はいまでもあるのかどうか気になる。
調べてみたら、しょっちゅう極地クルーズに出かけている同じ名前の船があった。
これが同船であるという確証はないけど、1万トンという中規模の客船、乗客定員が114人、キャビンという船室の名称がなく、すべてダブルベッドのスイートで、船尾にモーターボートでも発着できるマリーナを備えているという特徴、そしてわざわざ作家を招待して乗船記を書かせるくらいだから、モトをとるまでかんたんに廃船にするとも思えないので、これにまちがいがなさそうだ。

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「海の精霊」号が出航すると、客のひとりひとりに乗客名簿が配られる。
せまい船内で何日間かを共にするわけだから、隣人の名前や職業ぐらい知っておくほうが便利だという配慮だろうけど、そんなしきたりが個人情報のやかましいいまでもあるかどうか知らない。
セローはこれに気のついたことを書き込み、乗客に関するメモ代わり(そして本のしおり代わり)におおいに活用する。
名簿を見るとさすがに、もと大使だとかもと経営者、競走馬のオーナーや舞台プロデューサーなど、人生に成功して引退した金持ち夫婦が多い。
彼らがみんな以前からの知り合いというわけではないから、食事のときの会話は乗客たちの体験談や自慢話になることが多い。
セローが作家であることを知ると、乗客のひとりが、あんたの名前で出した本はあるのかいと訊く。
これだけで相手がぜんぜん本を読まない人であることがわかる。
うちの旦那も本を書いてます、ぜひお読みになってくださいなという奥さんもいた。
そんなことをいわれても企業の経営者の立志伝なんか読みたがる人間はいない。
わたしは青森県に行ったとき、泊まったアパ・ホテルで、部屋に置いてあった経営者の著作を読んだけど、あのときはほかに読むものがなかったのだ。
大部分の乗客は典型的なスノッブだけど、なかにはジャック・グリーンウォルド氏のように、豊富な人生経験で、セローをも感心させるような博識の人物もいた。

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