地中海/ふたたび船で
ポール・セローが乗った「海の精霊」号がイスタンブールに着くよりすこしまえ、グランバザールやアメリカ大使館がテロリストに襲撃された。
1994年ごろというと、すぐに首を切るISISはまだ登場してないものの、トルコを襲撃したいというテロ組織は、クルド労働者党やイスラムの原理主義者など、いくつもあったのだ。
こんな不穏な状況下でもセローはシリアに行くつもりでいた。
ジブラルタルからスペイン、イタリア、クロアチア、アルバニア、ギリシャ、トルコと、地中海沿岸をたどってくると、つぎはどうしてもシリア、ヨルダン、イスラエルあたりが目標となる。
ところがシリアのビザがなかなか交付されず、そのあいだセローはイスタンブールをうろつきまわる。
彼は世界的作家だから行き先々で友人に不自由せず、たとえば日本では村上春樹に秋葉原を案内してもらったように、ここでもトルコの大富豪のコチ氏を訪ねて、その大邸宅で語り合う。
うらやましがっても仕方がない。
わたしのようなひきこもりは、せめてこの旅でセローが、宿や乗り物に贅沢をしないのをみて留飲を下げるしかない。
友人の邸宅にくつろいで、ここは究極のカントリー・ハウスだなとセローはつぶやく。
つまり自然と建物が一致して、こころを慰めてくれる田舎の家のようだということである。
この邸宅はボスポラス海峡のアジア側で、海峡がいちばんせまくなったあたりにあるというから、わたしはイスタンブールに行ったとき、そのへんを眺めたことがあるのを思い出した。
これはわたしが撮った写真だけど、たぶんこんな感じのところだ。
イスタンブールの港をうろついているとき、セローはたまたまエジプトやイスラエルをめぐるクルーズ船に出会ってしまう。
地中海をめぐるという大義は動かしようのないものだったので、これはちょうどいいやと、セローはシリア訪問を後まわしにすることにした。
この船は「アクデニズ」といって、まえに乗った「海の精霊」号に比べると庶民向けのボロっちい船だったけど、今度は自費で乗るのだから安いほうがいい。
もう出航まであまり時間がなかったものの、シリア大使館でパスポートを取り返し、ホテルをチェクアウトし、両替屋でドルをトルコの金に交換し(船は現金まえ払い)、警察や税関や旅行代理店から文句をいわれ、タラップが上がる寸前に船にかけこんだ。
この船について調べてみた。
どこにでもあるボロっちい船らしいからあまり期待してなかったけど、ネットで MV Akdeniz という船が見つかった。
イスタンブールを母港にしていたこと、船の製造されたのが1955年で、これは40年まえに建造されたというセローの記述と合致するし、イスタンブールの港では見逃せないくらいの大きさであることなどからして、これが彼の乗った船に間違いないと思われる。
総トン数は8,809トン、最高速は16ノット、乗員158人で、廃船になるまで残り12年という船だった。
避難訓練なんかぜんぜんされないだらしない船で、タバコを吸う客ばかりなのに、火事になったらどうなるのかとセローは心配する。
急いで乗りこんだので、最初は他の客と相部屋に押しこまれた。
相客のでっかい荷物が船室に放り出してあるのを見て、セローはうーむと思案する。
ひょっとするとこの荷物の持ち主は邪悪な目をした聖職者かもしれない(セローは聖職者が大キライなのだ)。
あるいはこいつが頭はモヒカン刈り、全身タトゥーで、革ジャンを着ていて、ハーレーなんかに乗っているやつだったらどうしよう。
プルルっと身震いした彼は、ボーイに袖の下をつかませて個室に移ることにした。
彼は金持ちだからこういうことができるけど、貧乏なわたしは中国で列車に乗って、いろんな客と同室になったことがある。
カシュガルからの帰りの列車では、漢族の娘、朝鮮族の若者、ウイグル人のおじさんと同室になり、ごたまぜの民族を乗せた国際列車を体験したけど、あれは楽しかったねえ。
アクデニズ号にも乗客名簿というものがあって、客はほかにどんな客が乗っているのか知ることができた。
客のほとんどがトルコ人で、母親を連れた建築家、もと撃墜王という将軍、子供連れの家族、聖書の熱心な愛読者、中にはクルド人もいた。
船名のアクデニズというのは、トルコ語の「白い海」であると、これは同乗していた博識の建築家が教えてくれたもの。
船の名前はどうでもいいけど、食事がキャビア満載だった「海の精霊」号にくらべると、学校の給食みたいだとセローはぼやく。
しかし船賃が14日間2万8千ドルだった船と、12日間で千ドル以下の船では比較になるわけがないのである。
無事に個室におさまったセローを載せたアクデニズ号は、イスタンブールを出航すると、まずトルコのイズミールに立ち寄る。
この街は定番のトルコツアーに参加するとかならず通るところで、近くに有名なエフェソス(エフェス)の遺跡がある。
これはギリシャの遺跡だけど、この都市が盛んだったころは、トルコのエーゲ海沿岸はギリシャの勢力圏で、ホメロスの叙事詩にうたわれたトロイアも、じつは現在のトルコにあるのだ(ということはもう何度も書いた)。
セローは船がイズミールに停泊しているあいだに、タクシーでエフェソスや、もうひとつの名所である「マリアの家」まで往復することにした。
エフェソスの遺跡についてはわたしのトルコ紀行で報告してあるので、そのページにリンクを張っておいてすませよう。
見たい人は下の写真をクリックのこと。
わたしのトルコ旅行では、エフェソスの見学を終えたところで、3個持参したカメラのバッテリーがすべて上がってしまった。
おかげてマリアの家の写真がない。
トルコにはめずらしい針葉樹のまじった森のなかにある建物だったので、いい機会だからストリートビューでそれをながめてみよう。
ここで肝心なのは、イスラムの国のトルコが、異教徒であるキリスト教の聖地を大切に保存していることだ。
写真が撮れなかったものはもうひとつあって、このあと寄った「アルテミスの神殿」もそうだった。
ここには石の柱が立っていて、そのてっぺんでコウノトリが抱卵していたのを双眼鏡でながめただけだったけど、ストリートビューで見ると、いまでもやはりコウノトリの巣があるようだ。
船が出てしまわないように慌ててもどったセローは、出航は夜の9時に変更になりましといわれ、時間があるのでイズミールの街をぶらぶらすることにした。
ここにはムスタファ・ケマル・アタチェルクの家があるという。
彼は例のガリッポリの戦闘で、連合軍をくいとめたトルコ救国の英雄であり、いまでもトルコでは国父とされていて、トルコの団体ツアーではガイドさんからイヤっというほどその功績を聞かされる。
聞かされただけで、わたしのツアーでは家まで立ち寄らなかったから、わたしはそれを見たいと思った。
なんでも海からちかい各国の領事館が集まった一角にあるらしいので、そのへんをストリートビューで探して、ほどなく見つけた。
わたしも目標を見つけるのが上手になったものだ。
これがアタチェルクの家。
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