« スミレ | トップページ | これっきり »

2021年3月21日 (日)

カイロ三部作

900

ポール・セローの地中海紀行に引用されていたナギーズ・マフフーズの「カイロ三部作」について書く。
三部作に分かれた大作なので、お終いのほうではめっちゃ駆け足の読書になってしまったから、あらかじめいっておくけど、これは書評じゃない。
 
いきなり第一部を読み始めて、そこに出てくる父親の暴君ぶりにたまげて、これはいったいいつごろの物語なのかと思った。
この父親は女房に向かって、オレに反抗するな、口答えは禁止だ、おまえは家でじっとしてろと宣告し、そのくせ自分は外で酒を飲んだり、女遊びばかりしているのだ。
奥さんのほうはハイハイとすこぶる従順である。
いくらエジプトでも、いまどきこんな暴君の亭主がいるだろうか。
あとがきを読んでみたら、この小説は第一次世界大戦から第二次世界大戦のころを背景にした大河小説ということだった。
日本なら大正時代からスタートするようなものだから、似たような専制亭主は日本にもいたかもしれないし、向こうはイスラムという特殊国家だから、こういう家庭はフツーだったのかもしれない。
 
父親は暴君だけど、日本でいえば中小企業の社長さんていどの階級らしく、一家を養うだけの経済力はあり、はじめのうちは専制亭主の三人の息子、ふたりの娘、女中などのいる当たり前の家庭が描かれる。
大河小説というから、ラクダに乗ってアカバ要塞を急襲するアラビアのロレンスのように、ちょくせつ歴史に身を投じ、それに翻弄される人間を描いたものかと思ったけど、そんなたいそうなものではなかった。
専制亭主の家族には、それぞれ結婚だとか失恋だとか家庭不和、息子の放蕩、出産と死産だとか、どこにでもあるような平凡な問題がつぎつぎと起きる。
 
上流階級の家の母親が押しかけてきて、ここんちの娘をうちの息子の嫁にすることに決めたよと、勝手に宣言する場面がある。
若い娘が、結婚相手は自分で決めるわなんてゴタクを言い始めたのは、人間の長い歴史からみればまだほんの最近のことなので、イスラムも例外でないことにホッとする。
親父が若い娘をめかけにすると、息子がそれに手を出して、親子どんぶりみたいになる愛憎劇さえあり、とても禁欲的なイスラム国家とは思えない。
まあ、あれもダメこれもダメというのはたてまえで、こういうことは人類の普遍の法則といっていいものだからこそ、作者はノーベル文学賞をもらったのだろう。
じつはわたしはノーベル文学賞と平和賞(ついでに最近のアカデミー賞と芥川賞)はあまり信用してないので、これをもって作家や作品を評価しようって気はないんだけど、マフフーズの受賞は1988年というから、この賞もまだそんなに堕落してなかったかもしれない。
わたしは歴史好きだし、イスラム国家の市民生活がどんなものかという関心も人一倍つよいほうなので、そういうことを知るためにはなかなか有益な本である。
 
物語はおおむね時系列にそって進行するので、わかりやすいけれど、ほとんど上記の家族とその関係者の対話だけしかない。
世はまさにエジプトが国家として独立するさなかであり、デモに参加して射殺されるとか、危険な反体制派と思われて逮捕されたりといった、歴史に関わる事件がたまに起こるけれど、そういうことは世間のうわさ話のようにあっさりと触れられるだけである。
だからけしからんというわけじゃない。
小説の内容や構成に決まった方程式があるわけじゃないし、おもしろければわたしはたいていのことを受け入れてしまうのだ。
でも、トルストイの「戦争と平和」や、五味川純平の「人間の条件」みたいな大河小説とは違うねえ。
 
著者のマフフーズはイスラムの原理主義者に襲われて重傷を負うことになるけど、その原因になったのは彼の「街角の子供たち」という小説で、これは日本では翻訳されてないらしく、本屋にも図書館にも、ヤフー・オークションにも見つからなかった。
サルマン・ラシュディの一件があって、出版社もビビっちゃったのか(「悪魔の詩」の日本人翻訳者は、はるばる中東から出張してきたテロリストに殺害された)。
ポール・セローは、著者を襲撃したテロリストも、マフフーズの本を発禁にした中東の各国政府も同罪だといってるけど、日本の場合は政府が発禁にしたわけではなく、あくまで民間の出版社の自主規制なので、判断がむずかしい。
イスラムの国に生まれた作家が不運だったのかもしれない。
 
この本についてこれ以上書かない。
そもそもポール・セローの紀行記の参考になればと思って読み始めた本だし、エジプトの歴史やイスラムに深く立ち入っているときりがない。
わたしはエジプト人の生活の一端がのぞけただけで満足だし、どんな文学でも読める自由のありがたさについては、おとなりの韓国を顧みて、よくごたごたと発言しているので。
 
話が関係ない方向にそれるけど、この本を読んで感じたわたし自身の心痛について書いておこう。
「カイロ三部作」の最後では、やがて暴君の父親も年老いて死に、従順なその妻も死をむかえる。
それでも最後まで家族のきずなが途切れることはない。
わたしは家族のきずなというと、つい余計なことを考えてしまう屈折した人間なので、この小説に描かれたような大家族制度は、現在のエジプトでも大切に守られているだろうかと思う。
日本もかっては一軒の家に3代の家族が普通だった時代があるし、家族制度の本家のような中国でもそれはいびつなかたちで崩壊しつつある。
こんなふうになんにでも疑問と不信感を持ってしまうので、ただいまのわたしは親戚中から村八分だけど、しかしこれは考え方が先走りしすぎたということではないか。
そのうち田舎でももう盛大な冠婚葬祭は行われなくなり、それに参加する義務もなくなり、だれもが現在のわたしのように自分の生活を優先させるようになる。
べつにわたしがそうしてくれと願ったわけじゃないけど、家族のきずなというものが、アナログ時計のように古くさいものになっていくことは間違いがないようだ。
わたしは核家族が極限まで行った未来を見ることなく、時代の境目でこの世からオサラバすることになるのかも。

| |

« スミレ | トップページ | これっきり »

深読みの読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« スミレ | トップページ | これっきり »