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2021年4月 9日 (金)

悲楽観屋サイード

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「悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事」というのはイスラエルの作家エミール・ハビビの小説だ。
このおかしなタイトルは誤植じゃない。
それはこういうことであると、主人公が物語のはじめに説明している。
たとえば彼の兄貴は港の作業中に、ウインチもろとも海に落ちて死んだけど、泣き叫ぶ新婚まもない嫁さんのまえで母親は、死ななければ女房に浮気されていたかもしれないから、そうされなかったのは幸運ともいえるではないかという。
こうなると楽観的というよりモンスターだけど、自分はこういう家族の血を引いているのだから、悲観的でもあるし、楽観的でもあると彼はいうのである。

この本の主人公はサイードという、ちょっと気の弱い、お調子者のパレスチナ人で、彼は同時にイスラエル人でもアラブ人でもあるという、日本人からするとどこにルーツがあるのかわからない人物だ。
わたしはこの本を読むまで、イスラエルという国について、漠然としたイメージしか持っていなかった。
イスラエルは世界中から逃れてきたユダヤ人によって建国された国であり、もともとそこに住んでいたパレスチナ人(大半はアラブ人)は、ユダヤ人が定めた自治区の中に押し込められている。
押し込まれて抑圧に苦しむパレスチナ人は、PLOのような抵抗組織をつくってユダヤ人に抵抗し、それが今日でもミサイルや自爆のテロを産む原因になっているというのがそのイメージだ。

ところがこの小説によると、これ以外の第三の勢力が登場するというのが、おどろきの新知識。
イスラエルに逆らわず、正規のイスラエル国籍を持ち、ユダヤ人のあいだで暮らしているパレスチナ人もけっこういるというのである(イスラエルの人口の2割ぐらいだそうだ)。
その大半はやむを得ない事情から、イスラエルに組み込まれてしまった人々で、立場としてはイスラエル、アラブの双方から警戒されたり、軽蔑されるという屈辱的な地位に置かれている。
作家のハビビもそうしたパレスチナ人のひとりであって、「悲楽観屋のサイード」は、そういう宙ぶらりんのパレスチナ人の悲哀を、ほろ苦いユーモアで描いた小説なのだ。

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サイードには学生時代に知り合った初恋の人ユアードがいた。
ユアードとの恋はトントン拍子で、やがて夫婦になる約束をするんだけど、その後活動家を捜索するイスラエル軍によって、結婚まえに彼らは引き裂かれてしまう。
こんな具合に悲観的な人生と楽天的な人生が交互にあらわれるから、サイードが不幸なのか幸運な男なのかわかりにくい。
もっともこういうことは誰にでも(わたしにも)起こることだから、わたしだって悲楽観屋のはしくれといえる。
この写真は彼と彼女の初恋の街アッカ。

時代はイスラエルが独立宣言をして、まわりのアラブ諸国からフルボッコにされた、と思いきや、とちゅうから逆襲をしてドローに持ち込んだ第1次中東戦争のころから、イスラエルがゴラン高原、シナイ半島を占領した第4次中東戦争のころまでで、多くのパレスチナ人が砂漠で路頭にまよっていたころだ。
サイードは初恋の人と離れ離れになったまま、イスラエル軍司令官に取り入ったり、パレスチナ労働者同盟のリーダーにかつぎあげられたり、刑務所に叩っこまれたり、そこでタレコミ屋をさせられたり、ようやく釈放されたりと、運命にもみくちゃにされたまま20年が経過した。

彼はバーキヤという新しい娘を見つけて結婚し、ひとり息子をもうける。
このままおさまれば彼の人生もまあまあというところだけど、彼の息子は成長すると過激派パレスチナ人になって、イスラエルへの抵抗運動に身を投じてしまう。
しかし武運つたなく、息子はイスラエル軍に包囲されて地下室に立てこもった。
イスラエル軍は息子の母親、つまりサイードの妻のバーキヤを呼んで、息子が抵抗を止めるよう説得させるんだけど、ここで息子は、この小説のハイライトともいうべき、全パレスチナ人の本音を代表するような言葉を吐いて、降伏を拒絶し、母親もろともイスラエル軍の攻撃で死んでしまう。
父親のサイードはなすすべもなくこれを見守るだけだった。

女房と息子に死なれたサイードは、海岸で孤独な釣りに明け暮れる。
彼がぼそぼそと独り言をいってると、そのへんにいたユダヤ人の子供が、おじさん、何語で話してるのと聞く。
アラビア語さと答えると、子供は、魚ってヘブライ語もわかる?と聞く。
わかるとも、海には国境がないし、世界とつながっているから魚はどんな言葉も理解するんだよ。
やれやれ。
上記の章のタイトルは「最後の物語 —— あらゆる言語を解する魚の話」というんだけど、この文章から惻惻とした心情だけではなく、詩を感じるのはわたしだけかしら。

年老いたサイードは初恋の人ユアードと再会するけど、じつはユアードと思ったのは彼女によく似たその娘だった。
彼はもうろうとした頭で、目のまえの娘の正体を信じられないまま・・・・・
というか、このあとの結末はいささかわかりにくい。
主人公は階段から落ちて死んだともいえるし、もうすこし生きながらえたようでもある。
サイードはいつのまにかハーズークという処刑用の塔のうえで述懐しており、彼の目のまえに初恋の人や死んだ女房と息子など、かっての知り合いがつぎつぎと現れる。
「歴史と真実によせて」という最後の章を読むと、これはすべて精神病院に収容されたサイードの幻想だったともいえる。
これはいったいどういうことなのか。

わたしにわかったのは、この小説はほらふき男爵の話のようでありながら、ところによってはひじょうに悲痛なものであることぐらいだ。
おそらく作家のハビビは、パレスチナ人の運命を象徴するような深い意味を持たせたのだろうけど、わたしはたまたまポール・セローの本に誘発されてこれを読んだだけで、イスラエルやパレスチナについてごたごたいうほどの知識も資格もない。
だからわたしはまた適当にこの本の感想を打ち切ることにする。
ずるいといわれそうだけど、この本を読む終えるのにずいぶん時間をとられたし、わたしには早くつぎの仕事に取り掛かりたいという事情もあるのだ。

むずかしい理屈をさておけば、この本にはいくつかの新知識があった。
第1次から4次にかけての中東戦争をなぞって、イスラエルとパレスチナの紛争の歴史をかなり具体的に知ったし、イスラエルにはユダヤ人と共存の道を選んだパレスチナ人もたくさん住んでいること、浮気なんかしたら鼻をそがれるか石打ちの刑にされるはずのアラブ社会が、けっこう自由放埒なものであったこと、イスラエルが建国されたとき、すでにユダヤ人によるアラブ人の大量殺戮が行われていて、第1次中東戦争はそれが原因ともいえることなどだ。

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おしまいに、これはハビビが晩年をすごしたナザレの街。
ポール・セローは彼の家を訪ねるんだけど、坂の上にある作家の家といえばわかるといわれて、当然のように道に迷う。
わたしも坂の上ということだけを頼りに探してみたけど、とてもじゃないけど無理だった。

ハビビは、たとえ不愉快であっても、ユダヤ人と共存するしか選択肢はないという現実を見つめた。
唐突に話が飛ぶけど、いまの世界にはパレスチナ人以外に、同じような境遇の民族が、しかも日本からそれほど遠くないところにいる。
その国の国民の大半は、ハビビと同じ心境じゃないだろうか。

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