悲痛ということ
釈迢空のことはこのブログでも何度か触れているけど、彼の歌集に「硫黄噴く島」というものがある。
これは太平洋戦争のおりに、自分の息子も含めた日本軍が、硫黄島で玉砕していくさまを歌った悲痛な鎮魂の歌集だ。
最近短歌に凝っているわたしは、天気がよくて樹木の緑が美しいこの季節に、ふと飯能まで行きたくなった。
天気がいいと、あるいは緑が美しいと、なんで飯能に行きたくなるのか。
世間にさしさわりがあるので詳しく触れないけど、飯能はわたしの知り合いのSという男の墓標が立つところである。
墓標はあくまで象徴的なもので、具体的な石碑の類があるわけじゃないけれど、彼については忸怩たる思いがあるので、その追悼の意味もあって、ひとりでついふらりと出かけたくなったわけだ。
ということで、以下の歌は “悲痛” ということを知ってる人たちへ。
あの店も記憶にありし飯能の
Sとながめた街並みかなし
この道を歩みつSに聞いたこと
のこる余命は半年たらず!
飯能の道祖神にも祈りおり
甲斐なきことをSは知るらめ
ここでいい、ここにしようと決めた場に
十六羅漢はいまもあるなり
Sの骨こやしにしたかシャガの花
その純白に疑念ぬぐえず
Sはいま天覧山のヤマツツジ
花とならむや葉となりたるや
ウグイスの声さえ聞けばおもほゆる
Sのあの声あのしぐさをも
釈迢空に伍してとエラそうなことは言わないまま、最後に自らを自嘲した1首。
もうすでに分裂症かこのブログ
きのうネットできょう短歌とは
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