« 報告だけ | トップページ | 伝統行事 »

2021年4月26日 (月)

地中海/キプロス

208208a

世界に分断国家は少なくないけど、地中海のキプロスもそのひとつ。
位置的にはこんな感じだ。
大きさは日本の四国の半分ぐらいで、人口は120万人ほどの小さな島なんだけど、いちおう独立した共和国ということになっている。
住人はむかしからギリシャ系とトルコ系が混在していて、数の多いギリシャ系がトルコ系を圧迫したことがあった。
怒ったトルコが軍隊を派遣して、現在のところ南部はギリシャ系が統治するキプロス共和国のまま、北部はトルコが支援する北キプロス共和国になっている。
こういう分裂騒ぎのとき血を見るのも当然のことで、国連平和維持軍があいだに割って入っているものの、これが火種になった国境紛争は現在でもくすぶった状態だ。
ギリシャとトルコは仲がわるいということは、このブログでも触れていて、となり同士の国はそういうものかなと書いたことがある。

208b1210a

ポール・セローはイスラエルからキプロス島にやってきた。
といっても乗船していたアクデニズ号はトルコ船籍の船なので、彼が上陸したのはトルコが認めている北キプロスの、ガジマゴサという港である。
彼は同じ船に乗っていた3人のトルコ人と町をぶらついた。
3人というのは、かってトルコ空軍のパイロットだった退役軍人、熱狂的な聖書愛好家の若者、47歳にして独身のネクラな放射線専門医だ。

ガジマゴサには港の近くに、ヴェネチア人の築いた古い城壁がある。
せっかくだからその城壁もちっと紹介しておこう。

211a211b212a212b

町はトルコの支配下にあったから、町のなかのニコラス大聖堂は尖塔をつぎ足され、なんとかいうモスクに変えられていたそうだ。
この写真は城壁と、なんとかいうモスク。

ガジマゴサは、町の食堂のほうが安っぽいアクデニズ号の食事よりもさらにまずいという悲惨なところで、セローたちはさっさと100キロほど離れたギルネという町に移動することにした。

208c1

最初はタクシーのつもりだったけど、運転手と3人のトルコ人で料金が折り合わず、バスに乗った。
バスだとニコシア(セローの本ではトルコ読みのレフコサにしてあるけど、ギリシャ読みのニコシアのほうがよく知られているので、このブログではニコシアを使う)の街で乗り換えなければならない。
乗り換えを待つあいだ、こんどはニコシアをぶらついてみた。
ここは以前はキプロスの首都だったところで、現在は街そのものも、かってのベルリンのようにまっ二つに分断されている。
グーグルの地図とストリートビューをながめてみよう(このページのトップにかかげた写真はニコシア)。

213

この街にも古い城郭都市の名残りがあって、水色の◯で囲ったのがそれ、クレパスでひいた赤のラインはそれをまっ二つにした境界線だ。
エルサレムのガザ地区では境界線は立ち入り禁止、ストリートビューでも見ることができなかったけど、ここでは見ることができた。

213a213b213c

この写真が(トルコ側から見た)境界線近くの風景で、ネットや壁で仕切られ、もちろん越境は禁止である。
境界線の上に、運わるく建物ごと分断されてしまった「シナン・カフェ」という気のドクな喫茶店があった。
店主がウチの二階ならあっち側が見えますよという。

213d

このカフェの場所はわからなかったけど、写真の左に見える2本の旗はもう境界だから、まん中の派手派手な建物がそのカフェかもしれない。
ちょっとギリシャ側に行ってみたいんだけどと、セローは監視の国連軍兵士に頼んでみた。
ダメですと、にべもない。
シナン・カフェの店主も、同じ建物のギリシャ側には行けないというから不条理な話だ。

キプロスで紛争がぼっ発して、トルコがキプロスに軍隊を派遣したのは1974年のことである。
当時のギリシャはクーデターや政治の腐敗で、軍隊を効果的に動かすことが出来ず、トルコはたちまち制空権を把握した。
もとパイロットの退役軍人はそのころの話をセローに聞かせる。
だらしないギリシャ軍に比べると、トルコ軍は錬磨されていて、トルコの爆撃機が出動すると目標にはなにも残らなかったそうだ。
ジェット機のエンジンのアフターバーナーを使って、民家のガラス窓をみんな割ってやったよと得意そうに話すから、ギリシャの民家だけですかと聞くと、両方だよ、片方の民家だけってわけにはいかないさという。
まだ巡航ミサイルのないころだから、そりゃそうだ。

ようやくバスを乗り換えて、セローの一行は島の北の海岸にあるギルネの町に行く。
トルコ軍はここから上陸したと退役軍人はいう。
町は荒廃しており、いちばん大きなホテルからでさえ、セローはハワイにいる奥さんに電話をすることができなかった。
町にも住むトルコ人は、自分たちは見放されているとぼやく。
紛争地では経済発展の見込みもなく、トルコも軍隊の派遣以上の支援はしにくいのだろう。
これ以上長居をしても見るものもないようなので、彼らはガジマゴサのアクデニズ号にもどった。

じつはセローはこのあとシリアへ行き、その帰りにギリシャ側のキプロス共和国にも寄るのである。
両側からキプロスを見ようという研究熱心だけど、もともとギリシャに好意的でないセローには感心するようなものはなく、こちら側ではあちらの悪口をいい、あちら側ではこちら側の悪口をいうのを確認しただけだった。

215215a

その帰り道でキプロスに寄ったときのこと、セローはリマソルという港町の英国ふうパブでイッパイひっかける(写真はリマソル港の地図と写真)。
トルコ側に比べるとギリシャ側は観光業がまあまあ盛んで、いくらか活気があるなという印象だったそうである。

これで終わりではおもしろくないので、わたしのブログではキプロスにある二つの世界遺産を紹介しとこう。

216a216b216c216d217b217c217d217f217g

「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれた、とても美しいとされるレフカラ村(最初の4枚)と、景色が絶景とされるトロードス山(あとの5枚)なんだけど、日本の信州や上高地に行ったほうがずっとマシな気がする。
ユネスコを信用するのは危険だという証明かも。

キプロスを出航して、また4人組になったセローたちは、船内でいろいろ話をする。
ちょっとトルコ人に質問するには微妙な問題だけど、セローはアルメニア人についてどう思うと訊いてみた。
トルコとアルメニアの関係は、日本と韓国の関係に似たところがあって、どちらもかっての過ちを相手にねちねちといわれ続けている。
トルコがアルメニア人の大虐殺をしたとされるのは、第1次世界大戦のころで、このころの世界史をみれば(おもてに出てこないだけで)血で塗られているといっていいくらい、世界中に虐殺やジェノサイドがあふれていた。
だからいいというわけじゃないけど、いつまでもそんなものに拘れば、かえって憎しみを増長させる場合もあるように思う。
歴史を忘れないことは重要だけど、前進することはさらに大切だ。
セローと3人のトルコ人の会話も月並みなもので終わっている。
アルメニア人もギリシャ人も、ふつうに付き合う分にはいい連中なんですけどねと。

イスタンブールにもどったポール・セローは、このあとシリアへ向かう。
ここはいまでも激しい内戦が続いているところで、ああん、わたしもいいかげん疲れた。

| |

« 報告だけ | トップページ | 伝統行事 »

深読みの読書」カテゴリの記事

旅から旅へ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 報告だけ | トップページ | 伝統行事 »