地中海/チュニジア
歴史にくわしい人ならだれでもカルタゴの名将ハンニバルのことを知ってるだろう。
彼は紀元前200年ごろ、大国ローマを相手に闘いをいどみ、相手を攻めるのに象を連れてアルプス越えをしたという軍人だ。
わたしは彼がてっきりヨーロッパのどこか、まだ野蛮人が割拠していたガリア地方あたりの武将だと思っていた。
じつはカルタゴはアフリカの一部(現在のチュニジア)の都市だということを知ったのはだいぶあとのことである。
誤解していた原因は、映画なんかで見ると、彼が白人として描かれていたからだ。
アフリカ=黒人 むかしのわたしもステレオタイプな考えにとらわれていたのよね。
しかし、ということは彼が連れていた象はアフリカ象だったのか。
アフリカ象は飼いならすのがむずかしいというし、それともわざわざインドから輸入したのだろうか。
だとしたらたくさんの象を乗せるほど大きな船があったのか、それともパキスタン、イラン、イラクの砂漠を陸路で連れてきたのだろうか。
どうものっけからムズカシイ問題で恐縮だけど、このブログの主旨とは関係ないから、これ以上この問題に触れないことにしよう。
ポール・セローがチュニジアにやってきたコースははっきりしている
彼が地中海沿岸の旅をしていたころ、チュニジアのとなりのアルジェリアでは、過激派のイスラム教徒が猛威をふるっており、反対どなりのリビアには反米の闘士カダフィが健在で、欧米人が安全にチュニジアに入国するには、海路でちょくせつ入るしかなかった。
というわけで彼はシチリアからフェリーで、チュニジアの首都チュニスに上陸した。
これがチュニス港と市街地である。
地図を見ないで頭だけで考えた場合、ちょっと想像しにくいけど、イタリア半島のつまさきにあるシチリア島からチュニジアまでは、東京から静岡の先ぐらいの距離でしかない。
地中海をまたにかけたギリシャ人やローマ人にすれば、充分に自分たちの勢力圏といっていいところで、ハンニバルが白人であってもぜんぜん不思議ではないのである。
チュニスは快楽の都として、日本人にもちょっとだけ有名だ。
「カスバの女」という歌に “明日はチュニスかモロッコか” という、娼婦のなげきをうたった歌詞がある。
チュニジアはフランスの植民地だった期間が長く、租界だった中国の上海をみてもわかるように、フランス人は植民地を自分たちの退廃的な遊び場として最大限に活用したのだ。
チュニスは地中海をはさんで、フランスのすぐ向かいなのである。
セローにいわせると、チュニジアが旅の分岐点だったそうで、これまで比較的順調だった彼の旅は、この先不運につきまとわれることになる。
チュニスで、まず口のうまいベルベル人の絨毯売りにひっかかって店内に連れこまれてしまう。
ベルベル人というのはこの地方に古くから住む砂漠の民で、ウィキペディアあたりを参考にしてもらうと勉強になるけど、わたしのブログでは説明しているヒマがない。
ここに載せたのはベルベル人の見本で、こんな顔をした背の高い人々らしい。
絨毯売りはわたしにも経験がある。
トルコのイスタンブールに行ったとき、あそこの絨毯売りもしつこかった。
イスタンブル・カルト(トルコのSUICA)を売ってるところ知らないかと尋ねたら、知ってる知ってると、連れていかれたのが絨毯屋だったこともある。
わたしの場合、買わないというより、買っても置くところがないという事情があったので、彼らの期待には応じられなかった。
続いてセローをおそったのは悪質の風邪で、これもわたしは経験があるけど、外国をひとり旅しているとき、病気になるのはとてもツライことである。
セローは複数の外国語に堪能だからいいけど、そうでないわたしはよろよろと起き上がって、近所の薬局で得体のしれない薬を買うしかなかった。
意外なことにチュニジアにはかなり完備した鉄道があった。
とくに目的のないセローが、どこかおもしろいところはないですかと聞いてまわると、◯◯がいいよとか△△がおもしろいよという人はいたけど、スファックスだけは行かないほうがいいといわれることが多かった。
それじゃスファックスに行ってみようと速断するのだから、ひねくれもここまでくると立派なものだ。
わたしもまともな観光地は行く気がしないほうだから、どんなつまらない町なのか、ひとつこの町をのぞいてみることにした。
これがスファックスで、欧米人が自由に入国できる国では、ストリートビューもOKの場合が多いようだ。
じっさいに何もないところだったけど(セローによると)、ふらふら歩きまわるには旧市街もあるし、静かで車も走ってないから、ホテルで病気休養をするつもりの彼にはこのほうが都合がよかった。
病気が治りかけると、いろいろ思案したあげく、まったくあてもないのに、今度はスファックスの目のまえにあるカルカナ諸島へ行く。
ここはストリートビューがカバーしてないようなので、ネットで見つけたその写真を紹介しておくけど、リゾートの雰囲気と同時に素朴な人間の生活もあるようで、こんなところならわたしもじっくり滞在したい。
カルカナ諸島の「グランド・ホテル」は、オフシーズンの旅だったせいもあるけど、セローはたったひとりの客だった。
何もないのが気に入って、彼は長期滞在をする気になり、島内をあちこち歩きまわったり、バードウォッチングをしたりして時間をつぶす。
でっかい鳥がいたと書いているけど、それはアオサギのことで、そんなものは日本にもいくらでもいる鳥である。
壺はタコツボで、カルカナ諸島はタコも有名らしい。
チュニジアもこのへんまで来ると、事件も紛争も歴史もないところだから、今回ばかりはセローも書くことに窮したようで、どうでもいい話題ばっかりだ。
このあとチュニスにもどったセローは、場末のカフェでサッカーのアフリカ・カップ戦をテレビ観戦したり、たまたまやっていた「カルタゴ映画祭」で、パレスチナやボスニア製の、アフリカではあまり重要でなさそうな映画を観る。
ホントかウソか、チュニジアの映画祭は百年まえからあるらしいけど、これまでのところ、セローは文学ほどには映画に関心があるとは思えない人だ。
わたしの経験では、こんなふうにどうでもいいことで時間をつぶしているときは、たいてい行き場がなくなって、もうやけっぱちになっているときである。
そういえばセローのこの旅も、もうあと残すところ1章だけというところまで来た。
そんなわけでポール・セローの地中海紀行も、最後は平穏無事に、ネタ不足のまま終わりそうだけど、じつはもっとあとなら書くことはたくさんあったのだ。
2010年にチュニジアで勃発したジャスミン革命は、国の体制を崩壊させ、周辺国に飛び火し、すぐとなりのリビアでは最高権力者のカダフィが殺された。
セローが旅をしたのは1995年ごろだったから、そんなことは知るよしもない。
ぐっすり寝て元気を回復した彼は、いよいよ最後の目的地モロッコを目指すのだけど、まだまだ不運は続いていた。
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