アフリカ/ウサマ・ロード
首都ハルツームや旧市街地のオムドゥルマンを見たあと、ポール・セローは、タクシー代わりに雇ったトラックで砂漠のなかを疾駆する。
行く先はこの道路ぞいにある古い遺跡群で、いよいよ一等寝台やリゾートホテルとは縁のないハードな旅の開始だ。
トラックにはテントとかんたんなキャンプ用具が積んであって、夜は砂漠で野宿である。
ここに載せた写真の2枚目は、たまたまストリートビューで見つけたもので、アフリカにはこんなふうな、夜はテント泊というワイルドな団体ツアーもけっこうあるらしい。
つぎの写真は「アフリカ縦断114日の旅」というテレビ番組をキャプチャーしたもので、若い女の子でさえ、寝袋に入って砂の上にじかに寝ている。
道なき道をゆくような旅がほとんどだから、ツアー客のほうもそれなりの覚悟が必要だけど、世界には通常の観光旅行では満足できないという人が増えているのだ。
まあ、ヒマラヤやギニア高地でさえ団体ツアーがあるご時世だから、驚くほどのことはないのかもしれない。
セローのアフリカ紀行は、ハルツームのつぎの章は「ヌビアへのウサマ・ロード」というタイトルになっていた。
ウサマというのは聞いたことがあると思うけど、米国で2001年9月11日に起った同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラディンの名前だ。
テロ事件のまえ、彼はスーダンに住んでいて、新しい道路を作ったり、寄付や慈善活動をしていたから、スーダン人には彼をしたう者が多かった。
ところがアメリカに敵愾心をもやして、ソマリアやアフガニスタンのイスラム過激派を支援することにも熱心だったから、アメリカに遠慮するスーダン政府によって国外へ追放されてしまう。
セローが走っていた砂漠のなかの街道も、そのビンラディンが作った道路だった。
トラックの運転手もビンラディンの崇拝者だったから、もしもこの旅が同時多発テロのあとだったら、アメリカ人のセローは運転手のまえで、テロ首謀者の悪口もいえず悶々としたことだろう。
しかしセローがこの本に書いたアフリカ旅行は、2001年の2月から5月までのことだから、そんな事件が起こるとはまだだれも思っていなかった。
そして帰国して紀行記を執筆し始めたころ、事件は起こった。
こんなふうに、文章を書いているとき劇的な状況変化が起こって、作家が当初の構想を変えなければならないことはままある。
司馬遼太郎の「街道をゆく/北のまほろば」では、それが週刊朝日に連載中に三内丸山遺跡が発見されて、おおむかしの青森県がまほろばの国であったことが物証で証明されてしまった。
同時多発テロが起きなければ、セローの本のこの章もタイトルはたぶん別のものになっていて、彼がビンラディンに触れることもなかったにちがいない。
セローが最初に目指したのはハルツームがら、ナイルにそって300キロほど下ったところにあるメロウ遺跡だった。
ここには、エジプトのギゼーより小ぶりながら、いくつかのピラミッドがある。
このあたりではよく知られた歴史遺産で、観光バスの停まれる駐車場もあるくらいだから、けっして辺鄙な場所ではないようだ。
年を経ててっぺんが崩壊しているピラミッドがほとんどのなかに、鋭角のものも見えるけど、これは観光客のために設置されたトイレらしい。
セローはこのピラミットについて、また博識ぶりをみせる(けどここでは省略)。
このあと問題が起こった。
スーダンの辺境を旅する外国人は、24時間以内に、行った先で警察に届けを出さなければいけないという。
セローの場合、間がわるいことに、地中海をぐるぐるまわってきた彼のパスポートには、イスラエルの出入国スタンプがべたべた押してあった。
これではアラブ寄りの国スーダンでは、おとなしく通してくれないのではないか。
スーダンに入国するまえに読んだ渡航情報によると、この国の警察はぜんぜんアテにならないばかりか、米国人とみると拉致してリンチを加えることもあるそうである。
そうかといって届けをしなかったら、見つかったとき余計まずいことになる。
覚悟を決めたセローは、このあたりでいちばん大きそうな町シェンディの警察署におもむく。
すると警察官は、たまたまテレビで流されていたパレスチナ・ガザ地区の暴動のニュースに見入っていた。
こりゃまずい。
しかし灯台もと暗しというのか、彼らは目のまえの憎むべきアメリカ人には無関心で、イスラエルのスタンプに特別な関心を示さなかったから、セローの心配は杞憂だった。
窮地を脱したセローは町を見てまわる。
シェンディはナイルの河畔にまとまった小さな町で、ここもストリートビューはカバーしてなさそうだったけど、やみくもに捜索してみたら駅のまわりが何ヵ所かヒットした。
これがそうだけど、線路があるだけマシというところで、列車を待つために半日ぐらい待機しなければいけないところのようである。
ほかはネットで見つけたシェンディの町のようすとフェリー乗り場。
セローはフェリー乗り場から数マイル上流に行って、なにやらの王宮を見たというんだけど、彼にとってもよくわからない場所と書いてあって、ストリートビューにも出てないようだった。
この日の夜はまたメロウ遺跡のまわりでテント泊をする。
夜中の遺跡は神秘的で美しいと、セローの記述はなかなか感動的で、全部は紹介できないものの、一読に値する。
『崩れ落ちたこの巨大な遺物のまわりには、寂寥たる砂漠がどこまでも広がっていた』
『夕日を浴びた砂は美しく輝き・・・・不思議なかたちを作るように、大きな砂山が盛り上がったりえぐれたりしている』
英国の女流紀行作家のクリスティナ・ドッドウエルも、ひとりで辺境を旅して、見知らぬ土地でキャンプするのはこのうえない幸福であるといっていた。
そういう気持ちはよくわかる。
少数派かもしれないけど、わたしも孤独を愛し、世間から隔絶するために旅をしたいと願う人間のひとりなので。
翌朝セローはさらに北をめざした。
岩だらけの高山地帯に入ったとか、「第6急湍」を目指したともある。
急湍(きゅうたん)というのはナイルが急流になっている場所らしく、調べていたら、ひょっとするとこれかなという地図が見つかった。
1から6まで番号がふってあって、説明にも川の浅瀬のようなところと書いてあったけど、しかし第6急湍はメロウの近くになっていて、これでは最初の遺跡からほとんど移動していないことになってしまう。
ま、ぜんぜん関係ない地図かもしれないから、あまり信用しないように。
これ以降のセローの足取りは、舗装道路の終点アトバラ、つぎの町はドンゴラ、その先は国境の町ワディ・ハルファというふうに町の名前が出てくるから、なんとか追うことはできる。
ここではゲベル・バルカルというもうひとつの遺跡を紹介しておこう。
これはアトバラとドンゴラの中間にある遺跡で、残念ながらこっちの遺跡のことはぜんぜん本に出てこないけど、セローのウサマ・ロードのドライブは、この先の小さな村で身体障害者の若者に出会ったところでふっつりと終わっている。
幼児のような背丈しかないその若者が、村人からいじめられることもなく、親切に受け入れられているのを見て、セローは安心し、この国の精神性について高く評価するのである。
このあと彼はハルツームにもどって、前項に書いたスーダンの政治家サディク・アル・マフディーと対談することになるけど、見てきたばかりのこの国につける採点があまくなるのは仕方がない。
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