3桁
おお、今日はすげえな。
まだ午前中なのに、もうアクセスが3桁だよ。
すこしまえの3桁はわたしが自分で上げたものだけど、今日はなにも手を加えずに3桁だ。
月末の最終日っていうのがうさんくさいけど、原因はなんだろう。
ヒキガエルというのは人気があるんだろうか。
それともオサムシ?
いいや、やっぱりいまのトレンドはネコかねえ。
なんだっていいけど、やっぱりカウンターが増えるに越したことはないです。
おお、今日はすげえな。
まだ午前中なのに、もうアクセスが3桁だよ。
すこしまえの3桁はわたしが自分で上げたものだけど、今日はなにも手を加えずに3桁だ。
月末の最終日っていうのがうさんくさいけど、原因はなんだろう。
ヒキガエルというのは人気があるんだろうか。
それともオサムシ?
いいや、やっぱりいまのトレンドはネコかねえ。
なんだっていいけど、やっぱりカウンターが増えるに越したことはないです。
最近起きると腰に痛みを感じることがある。
知り合いで脊柱管狭窄症で苦しんでいる人がいるけど、わたしもそれじゃないか。
だいたいわたしの歳でわるいところがひとつもないほうがおかしいのだ。
わたしぐらい運動ギライで、寝てばかりいる人間もめずらしいけど。
なにか運動をしたほうがいいと考えて、昼間、自転車で買い物に行くときなど、電動アシストを切って足こぎだけにした。
これは効く。
30分も走って帰宅すると、ひたいに汗がにじみ、足がへなへなとなる。
でもおかげで腰の痛みは解消したし、これを毎日実行すれば、わたしも将来オリンピックに出られるかもしれない。
もうひとつは散歩だ。
iPodで音楽を聴きながら、ぶらぶらと40〜60分ぐらい歩いてくる。
体力をアップさせるつもりではなく、維持するのが目的だから、この程度でも十分なのだ。
夜中に散歩しているといろんなものに出会うよ。
上からヒキ、オサムシ、どこかの家ネコ。
イスラエルの選手が段ボールベッドの耐久性を試そうとして、ひとり、ふたりと数を増やしつつ、ベッドでジャンプしたって映像。
最終的には9人がジャンプしたところで壊れたらしいけど、この映像を見ただれも(世界中の)が段ボールの頑丈さに感じ入ったことだろう。
メーカーは彼らに宣伝料を払わなくちゃいけないね、と思うのはわたしだけかしら。
自粛を求めながらオリンピックは強行する。
支離滅裂じゃないかと、また騒ぐ人たちがいる。
でも、これが日本のやり方だ。
コロナ蔓延初期のころも自粛を求めながら、スーパーは営業していた。
おかげでわたしみたいなずぼらな人間はどれだけ助かったことか。
今回もそうだ。
オリンピックは世界への公約で、はい、止めますじゃ、開会式に熱狂した56パーセントの日本人に申し訳がたたないではないか。
自粛は求めるけど、オリンピックは実施する。
日本はだれもが幸せになれるよう、つねにぎりぎりの綱渡りをしてるんだよね。
人が死んでもいいのかだって?
戒厳令を布くわけにもいくまいし、つきつめればコロナをなめてる国民のほうに責任があるのとちがうか。
とにかく、なんでもかんでも政府に責任を押し付けて満足という人が多すぎる。
わたしはけっして日本政府の肩をもつわけじゃないんだけど、必死になって予期せぬ出来事の連続に対処している政府を責めようって気にはなれないね。
マルサビットでセローは、旅行者を乗せてアフリカを縦断するトラックをつかまえた。
わたしが持っているテレビ番組コレクションの中の「アフリカ縦断114日」に、同じようにバックパッカーなどを乗せて不定期に走っている観光バスが出てくる。
この画像はネットで見つけたものだけど、こういう車はけっこうあるらしい。
セローがつかまえた車にも若いバックパッカーたちが乗り込んでいて、喘息もちの娘や、いつも縁起ではないことばかりつぶやいている変人のカナダ人と、ほかに護衛の兵士もいて、客の総勢は12人だった。
喘息もちの娘はとちゅうで発作をおこして同乗の娘たちに看病されていた。
他人への迷惑というより、わたしはこういう娘でも探求心にもえて、過酷なアフリカの旅に参加することに尊敬の念をおぼえてしまう。
現在はマルサビットからつぎの目的地ライサミスまで、ストリートビューで見るとこんなに立派な道路が出来ていた。
セローにいわせると、まともな道路は現地人のためのものではなく、欧米の観光客のためのものだというから、アフリカ縦断鉄道を敷こうとしたセシル・ローズの夢は、鉄道ではなく道路というかたちで達成されたのかもしれない。
セローの本にはやたらにいろんな部族名が出てきて、無知なわたしを閉口させるけど、ケニアといったら有名なマサイ族の本拠地だ。
部族はたくさんあるのに、どうしてマサイ族だけが有名なのだろうと考えて、子供のころ読んだ山川惣治の「少年ケニア」という絵物語を思い出した。
わたしもめちゃくちゃ愛読した本だけど、まだ外国の情報が少なかった時代に、上半身に布をひっかぶったマサイ族の衣装や、長い刃をもつ槍などを正確に描いた絵に、いま考えるとつくづくおどろいてしまう。
わたしの世代でマサイ族を知らない人がいないとしたら、この物語によるところが大きいんじゃないか。
最近はジャンプばかりして喜んでいるようだけど、かっての彼らは槍一本でライオンとも闘う勇猛な人々だったのだ。
もっとあとになって「ハタリ!」というアメリカ映画を観ていたら、ここにもマサイ族が出てきた。
この映画は猛獣を捕獲して動物園に卸す男たちの物語で、映画のなかでヒロインがお風呂に入っているとき、となりの部屋からチーターがあらわれて、キャー! 喰われるーと悲鳴をあげるシーンがあるけど、じつはチーターは人に慣れやすいおとなしい動物だ。
むやみやたらに動物を殺す映画ではないところは監督のハワード・ホークスの良識だけど、ケニアはむかしから狩猟旅行の目的地として有名だったところで、セローの本には趣味や道楽で動物を殺すハンターたちのことが出てくる。
作家のヘミングウェイや米国の26代大統領のルーズベルト、ニクソン時代の閣僚モーリス・スタンス、そのほか大物ハンターとして有名だったウィリアム・フォーラン、R・J・カニンガム、フレデリック・セルーなどが、いい気になって野生動物を殺しまくった。
おかげで野生動物のなかにはそのまま絶滅してしまったものもいたくらいだ。
そういう時代だったのだと、彼らを弁護する気にはなれない。
安全な場所から高性能の銃で撃つのだから、どう考えたってフェアじゃないし、いつの時代だって罪のない動物を殺すのは “カワイソウ” という意識が働くべきだと思うから。
しかし残念なことに、本格的な産業のほとんどないアフリカには、ハンターたちの落とす金を有力な財源にしている国がたくさんあったのだ。
最新のナショナル・ジオグラフィック(2021.7)にケニアの事情が出ていた。
最近では北部放牧地トラスト(NRT)という組織が、住人の土地を借り上げて住民参加型の野生動物保護区にし、住人に環境と野生動物の保護をやらせ、見返りに公共サービスや報酬を与えるという運動をしているそうだ。
財源にはサファリ観光の収入を充てているらしいけど、セローの旅から20年も経った現在では、やたらに動物を狩ったりせず、持続可能な繁栄(SDGS)を目指すことがトレンドになっていて、状況はじょじょに好転しているようである。
もっとも観光収入に頼りすぎたおかげで、コロナウイルスの影響で観光客が激減すると、せっかくの運動がもとの黙阿弥になりかけているとか。
困っているのは世界のどこもいっしょ、ま、頑張ってとしかいいようがない。
ライサミスに着いた。
ここにはレンディーレ族という派手な服装の部族が多いそうで、女性はごらんのとおり、美人というだけではなく幸せそうでもある。
セローの知っているケニアは、とにかく貧しかったらしいけど、ひょっとすると彼の旅のあとで、援助活動が農業支援などのかたちで軌道に乗ってきたのかも。
それはともかく道路以外をながめても、ひろびろとした平野に民家が点在して、なかなか住みやすそうなところに見える。
これで国が平和で、もうちっと日差しが弱くて、まわりにライオンやヒョウがいないことを保証してくれるなら、わたしでも永住したいところだ。
ここに載せた4枚の写真はサファリ・ツアーのもので、あとの2枚は有名な旅行サイトTripAdvisor の広告写真。
わが社にまかせてくれればこんな楽しいサファリ旅行ができますという宣伝写真。
ナチュラリストのセローはここでバードウォッチングをしていた。
木の枝にふら下がったヤドリギのようなものは、サバンナに多いハタオリドリの巣で、つぎはセローも見た青いきれいなツキノワテリムク。
テリムクの“ムク”は椋、ようするにムクドリ(椋鳥)の仲間で、日本では夕方に大群で飛ぶめずらしくない鳥だけど、こんなにきれいではない。
つぎの目的地アーチャーズ・ポスト が近づくと、道路の右側に南米のギアナ高地のような巨大な山塊が見えてくる。
これはオロロクェ山というらしく、トレッキングルートがあるならのぞいてみようかと思ったけど、残念ながらストリートビューでは、ふもとの幹線道路しかヒットしなかった。
アーチャーズ・ポストの手前でまた車が故障した。
ここには軍の検問所があるので強盗の心配はないけれど、車は板バネ3枚を交換する大修理になってしまった。
やはりセローが旅をしたころは、まだ立派な舗装道路はなく、車もタイヤもものすごいポンコツだったのだろう。
だいぶ修理に時間がかかりそうなので、そのあいだセローは近くの村に出かけて、ヘレンという気のいい現地人女性に、ツアー客全員分の食事を作ってもらうことにした(この写真の女性は関係ない別人)。
彼女は村のゴスペル教会で働いていて、セローは近所で買ったビールを飲みながら世間話をしたというから、まるっきりの原始部落というわけじゃなく、コンビニぐらいあったかもしれない。
そのうち日が暮れる。
このアフリカの小さな村で、現地人の女性と語り合いながら、のんびりと料理ができるのを待っているのは、至福の時間だったとセローは書く。
『日没後の茜色の夕映えの中で腰をおろし、イモの皮を向きながら話をするのが好きだ』
『日中の猛暑が去った空気は穏やかで、炎がゆらめき、鶏肉とジャガイモのいい匂いが漂うなか、あちこちで子供たちがふざけあっている』
そのうち援助活動家の車が通りかかったので、セローはまた同乗させてくれないかと頼んでみた。
後部座席が空いているにもかかわらず、しかも相手は同じアメリカ人だったのに、無視して行かれてしまった。
ちくしょうめ、あんたらがこの先のなにもないところでエンコしても、ぜったいに助けてやらんからなと、セローは背後から憎まれ口をたたく。
アメリカ人がみんなセローの本を読んでいるとはかぎらないようだ。
東京オリンピックの女子バレーを観ていたら、ケニアの選手が出てきた。
日本の選手にも籾井あきのようなかわいい子はいたけど、ケニア選手のほうがかわいい子の割合は高かった。
これじゃポール・セローが女狂いをするのももっともだ。
なんだ、そりゃといわれそうだけど、彼の小説「わが秘めたる人生」を読んでそう思った。
この小説は、主人公のアンディという若者が米国にいるところまでは小説らしいのに、平和部隊に入ってアフリカに派遣されたあとは、まるっきりノンフィクションになってしまう。
先にアフリカ紀行のほうを読んだのがいけないのかもしれないけど、米国では背景にしても登場人物にしても、多彩で、ひねってあって、いかにもフィクションであるという感じがするのに、アフリカでは起こったことをたんたんと描いているだけのような気がするのだ。
アメリカ時代は、不良の友人たちにからかわれるちょっと控えめな青年だった主人公が、アフリカに行ってからは、作家のセローそのものの元気で社交的な人間になってしまう。
そのへんのつながりがしっくりしないのがこの本の欠点で、いろいろな体験をしつつ、成長していく人間の物語だろうというわたしの予想ははずれた。
アフリカのニヤサランドに教師として赴任したアンディの境遇を説明しておくと、教養のある白人の彼は、家つき料理人つきという特別待遇で、学校に到着するとすぐに校長に任命される。
1964年のことで、アンディはこのとき23歳だった。
この時代背景も作家のセローにぴったり重なるので、書いてあることはほとんどじっさいにあったことなのだろう。
ふつうなら青二歳といっていい歳ごろだけど、理想にもえる校長の権限でもって、校舎まわりを整備したり、不潔だったトイレも新しくして、生徒の評判はわるくなかったようである。
アンディ校長は、平日は熱心に働き、週末は町のバーに入りびたり、すぐに店にごろごろしている娼婦たちを自宅にひっぱりこむようになった。
娼婦のなかには15歳ぐらいの娘が普通にいた。
日本で校長がそんなことをしたらスキャンダルで、たちまち教師失格だけど、アフリカでは周囲の男も女もみんな同じことをしている人間ばかりだったから、彼は相手をとっかえひっかえしてセックスしまくった。
体を売るのは貧しいアフリカ女性の特権で、彼女たちは早熟で短命なのだと、人種差別と受け取られかねないことまで平気で書いてある。
まあ、アンディも若い盛りの男性だし、きれいごとばかりじゃ人間は勤まらない。
うらやましいなと思っていたら、そのうち彼は毛ジラミを移され、つぎに淋病にかかってしまった。
作家のセローもアフリカ紀行のどこかで、生まれて初めて淋病をもらったと書いていたから、これも自分の体験をそのまま書いたのだろう。
幸せなことにその後のアフリカで猛威をふるうことになるエイズは、彼がアフリカに赴任したころはまだ現れていなかった。
アンディが校長をしているとき、ニヤサランドが英国から独立してマラウイという国になる。
イスラエルに肩入れされた新しい政権は、共産主義のような独裁政治を始め、教育方針に口出しをするようになり、正義感の強いアンディと衝突して、彼はこの新興国を追放されてしまう。
彼はロンドンに移り、その後ふたたびアフリカにもどって、ガーナからナイジェリア、そしてウガンダへと転々として、もう行く先々で白人黒人のへだてなく、やってやってやりまくる。
おかげで2度目の淋病というアクシデントがあるものの、わたしは男がこんなにやりまくる本をはじめて読んだ。
ひょっとすると皮肉屋で、まじめ人間をコケにしたがるセローの誇張の可能性もあるけど、諸般の状況を鑑みると全部事実のようである。
アンディがウガンダでふたたび教師を始めるところまでしか読んでないから、今日の感想はここまで。
この先にまだ未読分が1/3ぐらい残っているけど、おもしろかったらまた続きを書くし、そうでなかったら書かない。
これまで読んだ分だけでも、“アフリカに来た男がアフリカ中の女性と寝る”という、この本を読むきっかけになった言葉の大意や、アフリカ紀行の参考になる部分は汲み取ったのだから、わたしは満足なのだ。
それにしても、品行方正な男だと思っていたセローに(若いころとはいえ)こんな淫奔な部分があったのはオドロキである。
しかしもしもわたしが20代か30代にアフリカに行って、セローと同じ境遇に置かれたら、わたしもきっと同じことをしただろう。
バレーボールでケニア選手の美しさに瞠目したわたしは、つくづくそう思う。
ポール・セローのアフリカ紀行である「ダーク・スター・サファリ」を読んでいると、タンザニアで列車に乗っているとき、たまたま同じ列車に乗っていた白人娘が、セローの本を読んでいるのに気がつくシーンがある。
どう?それおもしろいかいと尋ねると、おもしろいわよ、アフリカに来た男がアフリカ中の女性と寝る話なのと相手は答える。
奇遇だけど、それを書いたのは僕なんだというやりとりがあって・・・・
これを読んでわたしもこの本が読んでみたくなった。
本のタイトルは「わが秘めたる人生」といって、調べてみたら、わたしのよく行く図書館にも置いてあることがわかった。
で、またアフリカ紀行から脱線して、というかアフリカ紀行の番外編として、この本を読んで感じたことを書く。
これは純然たる小説だけど、アフリカで教師をしたことのあるセローの体験に基づいているらしいから、紀行のほうの参考になる部分も多いのではないか。
内容は主人公のヰタ・セクスアリスというべきもので、いろんな性体験をへて成長していく若者の人生が描かれる(らしい)。
まだ1/3ぐらい、アンディという主人公がアフリカに行くまえの、アメリカ時代しか読んでないけど、それでもひさしぶりにおもしろい小説に出会った気がする。
おもしろいというのは、無神論者のセローを反映したのか、物語の最初のほうに教会や牧師を揶揄する文章がたくさん出てくるからだ。
アンディはまじめな牧師をからかう一方で、呑兵衛の不良牧師と仲良くなり、いっしょにクルーザーで海に出たりする。
そして事故って船をつぶしてしまう。
この牧師とはやがて死に別れをすることになるけど、人生の教師としてはこういう人物のほうがふさわしい。
アンディは本ばかり読んでいるわりには、運動神経もそこそこ発達している若者で、よくもてる。
彼はベトナム戦争世代だけど、もうその時代からアメリカって性的に乱れていたのねと思いたくなるくらい、彼も仲間たちもお気楽にセックスをしてしまう。
いや、これはわたしが奥手すぎたのかもしれない。
わたしがアンディと同じ歳のころ、わたしは海上自衛官として広島の呉にいて、同僚のカネコという男と休日のたんびに呉市内を遊びまわった。
わたし自身はひっこみ思案の田舎者でそんな勇気はなかったのに、この友人が都会ずれしたひょうきんな男で、街のなかで反対側の通りを歩いている女の子に、おーいと声をかける。
知り合いかいと訊くと、ぜんぜん知らない相手だという。
こんな調子でも10人に声をかければ、3人か4人ぐらいはデイトに誘えたから、カネコのおかげでわたしの青春もそれなり充実したものだった。
もっとも、セックスまで進んだ相手はほとんどいなかったけど。
小説にもどるけど、アンディは近所の娘とセックスし、ずっと年上の金持ち女性には可愛がられる。
そのうち娘は妊娠して堕すのどうのという騒ぎになり、金持ち女性との付き合いもうっとうしくなってきて、えいっとなにもかも放り出してアフリカに渡ってしまうのだ。
ほんとうはこのあたりに徴兵拒否という事件がはさまり、軍隊に行く代わりに平和部隊に派遣という事実があるはずだけど、それはほとんど語られない。
わたしに興味があったのは、主人公がアフリカでアフリカ中の女性と寝るという部分だから、さあ、いよいよおもしろくなりそうというところで、この先はまだ読んでないからお預けだ。
それでも期待がふくらむのは、きれいごとばかりが人生じゃない、これはそういう類の本だと思うからだ。
ココログからお知らせが来て、あなたのブログは素晴らしいので、ピックアップコーナーで紹介しますってことだったから、アクセスカウンターの桁数を二つ増やして待っているのに、ぜんぜん増えないばかりか、逆に下りぎみだ。
以前は月に2、3回は、アクセスが3桁にとどく日があったのに、ちょいとまえにアクセスカウンターに疑義をつぶやいたら、それ以来2桁ばかりじゃないか。
昨日はひさしぶりに3桁だ。
正直に告白すると、その大半はわたしが自分で上げたものである。
どうも納得がいかないと、じっとカウンターをにらんでいたら、自分で自分のブログのアクセスを上げる方法がわかってしまったのだ。
詳しいことは、これ以上ココログににらまれたくないから書かないけど、アクセスカウンターというのはアテにはならないものであることがよくわかった。
コロナウイルスについて日本に責任があるわけじゃないのに、たまたまオリンピックと重なって、しかも昨今はインターネットで他人を中傷するのがブームという時勢にぶつかって、ここぞとばかりに日本政府を非難する輩の多いこと。
肥大したオリンピックを非難するならわかるけど、たいていは目のまえのつまらないいちゃもんばかりだ。
よく調査もしないで演出家や音楽家を選んだっていうけど、20年もまえの素行や出来事なんて、本人の告白や告げ口でもないかぎり事前に調べろというほうがムリでしょ。
選手村のダンポールベッドにケチをつけている人もいたけど、ムリに力を加えてへっこんだ、ケシカランという人はいても、できるだけ環境にやさしいオリンピックをという崇高な精神について言及する人はいない。
お祭り騒ぎのキライなわたしは、素朴で地味で、できるだけ金もかけない、そんな節約型の五輪をめざす日本の姿勢を歓迎してるんだけど。
東日本大震災のときもそうだったけど、まったく予期されなかった災害に、まったく問題なしに対処できる人がどれだけいるだろう。
関係者は四苦八苦しているのだから、右往左往しているように見えても、あるていどは仕方がないと思えないかね。
コロナはいまなお流動中だ。
毎日毎日、今日は感染者が〇〇人だったという報道がそれを証明している。
けなしているのは個人ばかりで、たとえばつぎのオリンピックを招致する中国やイタリアはだんまり。
そのときになって、また新しいウイルスが蔓延してない保証はないし、ネットを使ってオリンピックばかりか、国家をも中傷しようという傾向はますます強くなっているのだから、彼らは固唾を呑んで東京を見守っていることだろう。
いよいよ開会式だ。
どんなものになるのかタノシミだね。
オリンピックのディレクターが20年以上まえのセリフを理由に解雇されたっていう事件。
現在の本人のスタンスも理解しないで、そんな古いネタをほじくり出していたら、そのうち問題のない人間なんかひとりもいないってことになるね。
来年以降の五輪が、いや、サッカーでもテニスでもいいけど、この社会にある無数の国際大会が、ああタノシミ。
わたしのこういうイヤミも将来問題になるかもって、いや、わたしがそんな役職につくはずがないから無用な心配だけど、この騒ぎがオリンピックを見直す契機になれば、日本の混乱もそれなり有意義だったと、ひょっとすると歴史に残るかもしれない。
ま、このへんまではわたしも世間の大半の意見といっしょで、きわめて健全な考えの持ち主であると自画自賛してんだけど(だよね、そうだよね)。
でもここんところのキチガイじみた風潮を眺めているうち、自信がなくなってきた。
だれが発起人か知らないけど、他人の欠点をあげつらう意見がネットで盛り上がり、それが個人を自殺にまで追い込んだりする。
誰もがオカシイと思っているのに、大勢としては、まともな意見の通らない方向にどんどん流れていく。
他人のことなんざどうでもいい主義のわたしには、ほんと、世界は発狂してるとしか思えないねえ。
これってひょっとすると、わたしのこころの反映じゃないのか。
自分では気がつかないだけで、わたしはどんどん狂気に近づいており、最近のおかしな世相は、そんなわたしのこころのうちを忠実に反映しているだけじゃないのか。
どうせそのうち死んでしまうんだから心配したって仕方がないんだけど、誰か教えてくれないか。
え、わたしの文章ってまともなの? おかしいところはない?
だれかのブログを読んでいたら、今日から連休ですって書いてあったな。
あわててカレンダーを見たけど、べつに赤い数字にはなってないぞ。
その人だけ、勤め先がなんかの記念日で休みなんじゃないか。
うーん、うとうとうと・・・・
二度寝のぼんやりした頭で、そういえば4、5日まえにNHKのニュースで、今年は五輪で休みがずれて、なにがなにしてどうにかなって、カレンダー屋さんも印刷が間に合わなかったから、注意しましょうなんていってたことを思い出す。
そうかそうか。
だけど連休だからってどうすりゃいいんだ。
暑いからエアコンの効いた部屋でごろごろしてるに決まっている。
国民というのは勝手なものである(いまにかぎったことじゃないけど)。
オリンピックなんかやめちまえという人が国民の80パーセントもいたそうだ。
じゃやめようと日本の首相が決断したとする。
単純に考えれば、これで首相の決断を支持する人は80パーセントにならなければいけない。
ところがそんなことをした日には、なんでやめるんだ、横暴だ、独裁だ、国際的な恥さらしだという人が、すくなくとも国民の半分以上はいるだろう。
しかもその半分以上のなかには、やめちまえといっていた人も大勢いるにちがいない(そうでなければ計算があわない)。
こういう手前勝手の国民を相手にして、いったい何をどうすりゃいいのか。
首相としては、なんとか五輪を大過なく終了にまで持ち込めれば、起死回生の目もあり得るのに対し、やめたら徹底的に叩かれるだけで、ほめてくれる人なんかいっこない。
菅クンの悲劇はこういうところにあったのだ。オワカリ?
前項でエチオピアからケニアへの道はろくなもんじゃないと書いたけど、ケニアに入ったポール・セローは、国境の町モヤレから首都のナイロビを目指した。
この道路は、わたしはまだ本の後ろのほうを読んでないからわからないけど、ひょっとすると「ダーク・スター・サファリ」のなかでいちばん危険な道かもしれない。
鉄道はなし、バスも走ってない、めちゃくちゃ荒れた道で、さらに恐ろしいのは、この道路ぞいには銃をもったシフタと呼ばれる強盗が出没することだった。
じっさいにセローはシフタに襲われるけど、さてどうなるか。
そんな物騒なケニアの北部ってどんな景色なのと思い、衛星写真をながめてみたら、まるで火星のような茶褐色の大地がひろがっていた。
しかし地上でながめると、大半は短い草や灌木の生えたいわゆるサバンナという地形で、これならゾウやライオンが飛び出してきても不思議じゃない感じ。
でもセローの旅はサファリ・ツアーではないから、野生動物はあまり出てこない。
交通の便としてセローは家畜運搬用のトラックを見つけた。
これは冷凍トラックのないこの地方で、牛を生きたまま運ぶための車で、現地のアフリカ人にとっても貴重な交通の足だった。
トラックはもちろんポンコツで、スピードは20キロしか出せず、牛が20頭と少数の現地人、ライフルを持った用心棒の兵士まで乗り込んできて、料金は3ドル。
牛を運ぶというと、馬で追いながら旅をするアメリカのカウボーイを連想するけど、アフリカでそんなことをしたら、とちゅうでみんなライオンにでも食われてロスが大きいのかもしれない。
バスのなかでセローはまた美しいアフリカ女性に見とれており、とちゅう立ち寄った村でもしょっちゅう現地の女性に見とれているから、彼の黒人フェチは本物のようである。
モヤレからしばらくはシフタの危険地域で、外国人が乗った車がこのあたりを走る場合は、武装兵士の同乗が義務づけられていた。
この写真は「アフリカ縦断114日の旅」というテレビ番組をキャプチャーしたものだけど、欧米人観光客が乗っているバスに、いままさにライフルを持った兵士が乗り込むところ。
この道にはあちこちに検問所があって兵隊が駐屯していた。
シフタの危険を回避するにはいいけど、彼らは通りかかる車から非合法の通行税を徴収するそうで、運転手からは嫌われている。
それでも検問所は安全だから、そこに着くとトラックの全員が安心する。
とちゅうでパン!と銃声がした。
と思ったらタイヤのパンクだった。
ただのパンクではなく、古いタイヤが裂けてしまったのだ。
「アフリカ縦断114日の旅」にも、同じコースと同じようなトラックが出てきたけど、タイヤはぼろぼろだったから、ミシュランだ、ピレリだと寝言をほざける国ばかりじゃないってことだ。
家畜運搬車は何台も走っているので、運転手らが修理にもたもたしているのを見て、セローはさっさと後続のトラックに乗り換えてしまう。
とちゅうでまたパン!とバンクの音がした。
と思ったら強盗だった
こっちの車に乗っていた用心棒の兵士が発砲すると、相手はすぐにあきらめたようだった。
このあたりの強盗は近郷の住人が、家業のあい間のアルバイトとしてやってるそうで、命を賭けてまで仕事をしようって気はないらしい。
ところで強盗の狙いは靴だそうである。
時計やハンドバックを奪ってもあまり使い道はないし、砂漠を移動するには靴のほうが大切だからとセローは書いている。
セローはできるだけ粗末な服装で旅をするようにしているけど、このあと砂漠を歩くこともあったから、靴だけはいいものを履いていたかもしれない。
マルサビットという町に着いた。
セローが旅をした20年まえはどうだったか知らないけど、この町の近くには、現在は立派な舗装道路が走っている。
しかし幹線道路以外を舗装する余裕は、ケニア政府にはないようで、一歩郊外に出るともうサバンナまっただ中という感じ。
ここには定点撮影の全方位カメラではなく、めずらしく移動しながら撮影したストリートビューがあったので、思い切りのぞいてみた。
最初はただの町並みだけど、どんな感じのところなのか雰囲気はわかるだろう。
町の清潔度について日本と比較しちゃ気のドクだから、しない。
それでも現在のマルサビットは、なかなか快適な観光地になっているようで、これならわたしももっと若ければ、ひとりで町のなかを歩いてみたいところだ。
セローが泊まったのは1泊が3ドルの「ジェイジェイ」というホテルだったというから、ストリートビューで町を見てまわるついでにこのホテル探してみた。
見つからなかったかわり、ほかのホテルやゲストハウスがいくつかヒットした。
泊まってみたいホテルもあれば、ちと遠慮したくなるホテルもあるし、バックパッカー御用達の安くて便利なホテルもある。
セローの本を読んで思うのは、これは貧乏旅行をする若者たちのバイブルになり得る本だということである。
マルサビットは援助活動家や慈善団体などのベースキャンプにもなっていて、彼らのピカピカの四輪駆動車が集まっていた。
こういうグループに対するセローの目はきびしい。
家畜運搬車で四苦八苦しながら旅をしているとき、そういう車に出会って、乗せてくれないかと頼んでみたらハナもひっかけてもらえなかったから、恨んでいるのかもしれない。
そうでなくても彼は若いころ援助団体で働いたことがあって、そのしくみや実態、そして欺瞞や偽善などについてもよく知っていた。
もちろん相手は善意でやっているんだろうけど、組織が大きくなると善意さえビジネスになってしまうものらしい。
セローの本にはあっちこっちにこういう団体への批判や皮肉が出てきて、それをまとめればそれだけで一冊の本になってしまいそうである。
たまたま出会った慈善団体の娘ふたりに話を聞いてみると、飢えた人々に補助栄養食を与える仕事をしていますという。
これがちょっと驕慢な言い方に聞こえたから、まるで動物保護区でゾウやサイに餌を与えるみたいだねと、セローは揶揄する調子でいう。
これでは相手は気をわるくしてしまう。
しかし動物に餌をやるような援助でも、ぜんぜんやらないよりはマシだろうし、この問題はあとでもういちど出てくるから、ここではこれ以上この問題に口をはさまないことにしよう。
マルサビットの郊外に国立公園があって、木々の葉がこんもり茂った森のなかに、地殻変動の時代に生じたらしい丸い池があった。
現地の女の子がバッファローの頭蓋骨をかかげているけど、マルサビットはかって欧米からやってくる、大物狙いのハンターたちのベースキャンプとしても有名だったところである。
ナチュラリストでもあるセローにとってこれはゆゆしき問題で、金持の道楽ハンターをさんざんにこきおろさずにはいられない。
しかしゾウやライオンの数には限りがあるので、最近ではそれを鉄砲で撃つより、おとなしく動物を観察しようというツアーのほうが主流のようである。
この問題については次項で。
夏をうたった詩人は多い。
そして記憶に残る作品も多い。
たとえば中原中也の “夏は青い空に白い雲を浮かべてわが嘆きをうたう” という作品・・・・
伊東静雄の “夜来の台風にひとりはぐれた白い雲が” という詩・・・・
そして散文詩のような原民喜の「夏の花」・・・・
みんなわたしの脳みその同じ部分に訴えてくるものばかりだ。
やはり、もっとも派手さを感じる季節であるところへ持ってきて、自分はもはやそれに縁がなくなったという苦い感慨があるからだろう。
今日は川の流れにそってどこまでも下ってみた。
とうとう関越高速が見えてきたので引き返したけど、とちゅうで見かけたなつかしい景色を4枚ばかり。
ああ、あのなかに子供のころのわたしがいないだろうかというのは宮沢賢治だけど、わたしはいったい何を求めて、ひたすらペダルをこいだのだろう。
あああ、いよいよオリンピックが目前だよ。
わたしはそんなもの、やってもやらなくてもどうでもいいってほうだから(どうせチケットも申し込んでないし)、やりたいっていう選手が多いのならやればいいんじゃない(ワクチン接種も終わっちゃったし)。
自分のことしか考えてないのかっていわれそうだけど、反対する連中というのは、日本政府のやることはなんでも反対する連中だから、まじめに意見を聞こうって気にもなれないし。
どうせ反対するならもっと基本的な部分に反対すればよい。
バッハ会長を始めとした五輪貴族の面々、世界がこれだけコロナに振りまわされているのに、自分たちの待遇だけはケチられちゃ困るってつもりらしい。
それで金がかかりすぎるって、世界中からオリンピックの開催に二の足を踏まれてリゃ世話ないや。
いい機会だから肥満しすぎたオリンピックの贅肉落としをしたらどうだ。
テニスとサッカーなんてしょっちゅう大大会をやってる感じで、しかもそっちのほうが五輪より権威がありそうで、あんなもの削ってもらってだれも困らないし、五輪関係者は安いホテルに雑魚寝してもらっても、すくなくともわたしゃぜんぜん困らんよ。
オリンピックに反対するなら、そういう主旨でやってもらいたいねえ。
これならわたしももろ手を上げて賛成だ。
韓国のオリンピック代表団が、宿舎に反日的な意味を思わせる横断幕を掲げたといって、また一部の日本人が騒いでいるけど、これは豊臣秀吉の朝鮮侵攻を食い止めた朝鮮の李舜臣提督の言葉だそうで、「臣にはまだ5千万国民の応援と支持が残っています」という意味だそうだ。
べつに問題にするような言葉じゃないね。
相手はいやがらせのつもりでやっているのだから、気にすると相手の思う壺だ。
それよりも、ああ、李舜臣ですね。知ってますよ。
日露戦争のさい、東郷平八郎提督が必勝祈願のためにその名前を挙げた人ですね。
ええ、敵ながらあっぱれな人でしたと返事したらどうなるか。
どうなるか知らないけど、いやがらせに対してこころの広さで応じる。
日本人ならこのくらいのことができないかねえ。
ネトウヨ諸君を見ていると、いつも相手とレベルがちょうど同じくらいに思えてしまう。
さっそく右翼の街宣車まで集まっているらしいけど、彼らがもっとも尊敬する東郷平八郎提督が、朝鮮の武将を尊敬していたということをきちんと知ってんだろうか。
うちから近いところに「空堀川」という、このあたりじゃけっこう立派な川がある。
ところがこの川、読んで字のごとく、水が流れているのを見たことがない。
夏の暑いときに乾いた川底を露出してるのを見ると、よけいクソ暑い。
けしからんと思いつつ、その両岸がいい散策コースになっているので、今日はひさしぷりに自転車でサイクリングに出かけてみた。
おお!
なんと、なんと、とても2、3日まえの降雨のせいとは思えないほど、さわやかなせせらぎの音まで立てて、とうとうと水が流れているではないか。
それで思い当たったけど、すこし下流で、わたしがいまの団地に越してきてからずうっと川の改修工事をやっていた。
水が流れてなかったのはそのせいだったのだろう。
その工事が終了して、子供たちが安全に水遊びができるように川のかたちまで変えちゃって、ようやくまた放流が始まったのにちがいない。
昨今のこういう公共工事だと行政も頭を使う。
川の両岸に散歩コースを作るだけではなく、流れそのものを市民の憩いの場にするべく、いろいろ工夫をする。
その成果がこの写真だ。
夏に散歩をするのにふさわしい川になった。
気の早いアオサギが狙っているけど、そのうち魚ももどってくるだろう。
うん、税金が無駄に使われてないなと思うのはこういうときだ。
アディスアベバにもどったポール・セローは、つぎの目的地ケニアについて調べてみた。
これまでもろくな道じゃなかったけど、どうもますますひどい道になるみたいで、会う人、会う人、みんなあんな危険なところへ行くべきじゃないという。
ライオンに食われるとか、ゾウに踏みつぶされるというわけじゃなく、ナントカ族やカントカ族というような山賊・強盗が出没する土地だからという理由だった。
セローの文章には部族について具体的な名前が出てくるけど、わたしがそれを正直に書かないのは、どうせわたしにはアフリカ人の部族なんかわかりっこないからだ。
エチオピアからケニアには鉄道は通じてないのだろうか。
鉄道があれば、今回のセローはエジプトでもそれを利用しているのだから、のんびり本でも読みつつ、車窓の景色を楽しみながら行けるのに。
鉄道について調べてみたら、セシル・ローズという、男なのか女なのか、名前だけではわからない人物の名前が出てきた。
この人物はアフリカ最南端のケープタウンからエジプトまで、アフリカ大陸を縦断する鉄道を引こうとした気宇壮大な男だった。
しかしそんなロマンチックなことよりも、南アフリカでダイヤモンド鉱山や金鉱山の利権を一手ににぎり、人種差別で名高いアパルトヘイトの原型を作った男という悪評のほうが有名だ。
植民地時代、あるいは開発の初期にはよくこういう豪傑があらわれるものである。
彼は48歳で早世したので、その夢は後継者たち(最近の中国も含まれる)によって、少なくともケープタウンからケニアのナイロビまでは完成した。
これでもアフリカ大陸の半分くらいは鉄道で縦走できることになったわけだ。
しかし残念ことに、いまセローがいるアディスアベバからナイロビまでの鉄道はまだ開通してなかったし、その予定もないようだった。
とりあえずケニアの入国ビザが要る。
セローはケニア大使館に行って、受付のナントカ族の女の子にゴマをすってみたけど、またここで待たされることになる。
ヒマをもてあましたセローは、アディスアベバ市内をうろついて時間をつぶすことにした。
ある骨董屋に入ったら、店の女性と客の中国人が象牙をめぐって、まけろ、まけないと言い争っていた(ちなみにこの値引き交渉は中国人の負け)。
象牙はセローが旅をしたころ、すでにワシントン条約の取り引き禁止商品だったけど、闇で売買されており、エチオピアでもこれを扱う店は普通にあったそうだ。
ここでセローは各国の外交官たちが、外交官特権を使って密輸に手を染め、金儲けをしている実態を皮肉る。
貧乏性のわたしは一文にもならないブログを書くのがせいぜいだけど、人間エラくなると、ほんとに金儲けの種はあちこちに転がっているものらしい。
アメリカ大使館の広報係は、若いころフィリピンの平和部隊で働き、そこでフィリピン妻をもらい、その後は世界を放浪してきたという、セローに似た人生を歩んできた男だった。
彼の紹介で4人のエチオピア人と食事をすることになる。
4人とも前科持ちだった。
といっても全員が政治犯で、しかも理由もわからず投獄された人もいた。
彼らに囚人時代の苦労話を聞いているうち、「ラスタファリアン」という言葉が出てきた。
これはエチオピア皇帝を神としてうやまう人たちのことだそうで、日本人には縁がないばかりか、ほとんど聞いたこともない言葉だ。
セローはこの言葉に興味を持って、つぎの訪問先でこの主義者を探しまわる。
ようやくケニアのビザが取れた。
問題は危険がいっぱいで、バスも走っていない道を、どうやって国境まで行くかだ。
飛行機を使えばかんたんだけど、それでは安直すぎるので、セローは知り合いから、商売でしょっちゅう砂漠を往復しているトラック運転手を紹介された。
乗り心地はわるいけど、運転手は道に熟知しているから、これならなんとか無事に国境まで行けるだろう。
こうしてポール・セローは、おんぼろトラックに便乗して、800キロ彼方のケニアの国境を目指すことになった。
アディスアベバを出発すると、まもなく湖がいくつか並んでいる。
景色を見たいけど、ストリートビューはほとんどカバーしておらず、湖のうちのひとつ、ランガノ湖のわきでようやく発見したのがこの画像だ。
ん、あまりアフリカらしくないね。
トラックはシャシェメーネという町に寄った。
ここはラスタファリアンにとっていわくつきの町だったので、セローは彼らに会って話を聞くことにした。
いわくというのはこういうことである。
ハイレ・セラシエ皇帝は世界中に散らばっているラスタファリアン、つまり自分を崇拝する者たちに、エチオピアに永住すれば土地を与えると約束したのだそうだ。
イスラエルがユダヤ人に約束された土地だとすれば、シャシェメーネはラスタファリアンに約束された土地だったのだ。
そういうわけでこの町には、ラスタファリアンとエチオピアを象徴する赤・黄・緑の帽子や衣装を身に着けた人が多かった。
それにしたって、北朝鮮の盲目的崇拝者にどうして正恩クンが好きなんですかと訊くようなもので、そんな話に価値があるとも思えないけど、なんでセローはラスタファリアンに関心を持つのだろう。
じつは日本の天皇が日本の歴史と切り離せないように、エチオピアの皇帝とエチオピアの歴史は切り離せないものだったのだ。
ハイレ・セラシエ皇帝はソロモンとシバの女王の末裔であると、本気で信じているエチオピア人も多いそうで、セローはこういう無知蒙昧といっていい人たちの心理を研究しようと思ったのかもしれない。
しかし個人崇拝なんてものが本質的にきらいなセローにとって、ラスタファリアンというのはカルト信者と変わらなかったようだ。
彼らのひとりは地球の終末日を予想していた。
その日はもう過ぎましたよとセローがいうと、いや、エチオピア暦は西洋のものより遅れているから、これからです、6年後に終末がきますと相手はいう。
セローの旅は20年もまえのことだから、6年後のその日もとっくに過ぎたけど、彼らはいまでもそんなネゴトをこいているのだろうか。
ニワトリのように絞め殺されたセレシエ皇帝の遺骸は、その後発掘されて、現在はべつの場所に葬り直されたそうである。
ディラ、ヤベロ、メガ、モヤレ、国境までに小さな町や村がつぎつぎと現れる。
セローは途中で何泊かしたけど、いずれも泊まったのは貧相なホテルばかりなので、ストリートビューで探してみることは最初からあきらめた。
ディラ(国境まで420キロ)という町で泊まったホテルの名前がわかっているけど、不潔でエアコンもなく、いやな臭いのする部屋が一泊12ドルというので、そんなところがストリートビューに載っているはずはない。
ここで日本人と出会ったけど、彼は無線機器を設置する技術者で、ぜんぜん本を読まない人間らしく、セローに腹のなかで馬鹿野郎呼ばわりされていた。
つぎはメガという町の近くで見つけた不思議なクレーター。
ひとつではなく、このあたりにいくつかまとまっているから、落下した隕石穴というより火山の噴火口跡ではないか。
そういえばこのあたりには大むかしの地殻変動のなごりである「大地溝帯」が走っているな。
国境の町モヤレでトラックとはお別れである。
数日間行動を共にした運転手とその助手とは、自然と友情のようなものが生じて、お互いに別れるのがつらかった。
しかしセローは国境を越えてさらに南下しなければいけないのである。
ケニアに入ってからのセローにはなんのあてもなかった。
ジミー・ウェルズ(Jimmy Wales)君から感謝のメールが届いたよ。
彼はあのネット上の無料百科事典ウィキペディアの創設者だ。
無料であると同時に不偏不党の原則から、ウィキペディアは広告をつけないので運営は苦しいらしく、ときどき寄付のお願いが来る。
貧乏人のわたしは、あまり相手の顔の見えない寄付には応じないことにしてるんだけど、またわたしぐらいウィキペディアを利用する人間もいないだろう。
だからお願いされるたびに300円ぐらい寄付をすることにしている。
たった300円でも、相手は世界をまたにかけた巨大サイトなのだ。
そのへんの事情は過去にもこのブログに書いたことがあるので、それも参照してくれる?
もちろんあなたが寄付することを止めはしない。
カピバラって動物知ってますかと訊けば、日本人ならたいてい知っていると答えるだろう。
冬になると動物園のプールでよくユズ湯に入っているでっかいネズミみたいな動物だ。
しかし、じゃマーラは?
ビスカーチャは、ミナミヤマクイは、マゼランツコツコはと訊かれて、すぐにその動物のイメージがわく人がどのくらいいるだろう。
じつは今日図書館に行って、とくに読みたい本もなかったから、ハドソンの「ラ・プラタの博物学者」を借りてみた。
むかし読んだことのある本だけど、じっくり読むと時間のかかる本なので、ひとつポール・セローのアフリカ紀行が終わったら、つぎにこの本をいじくってみようかと思ったのである。
ただこれは紀行記とはいえないから、どうやってブログに載せるかはまだ思案中。
でも冒頭の部分を読んでいるうちに展望が開けてきたことも事実。
生きているかぎり、ヒマつぶしのネタは尽きまじだね、わたしって。
わたしは昨日がコロナ・ワクチン2回目の接種日。
1回目はえらく待たされた経験があるから早めに会場へ行ってみた。
ところがこういうときにかぎって行列はぜんぜんなし。
いちばん時間がかかったのが、接種を終えたあと15分様子をみてくださいっていう待機の時間。
1時間ぐらい並ぶだろうと、iPodをたっぷり充電して持っていったものの、音楽を聴いている時間もなかったワ。
ワクチンはたっぷりありますから慌てて来ないでくださいっていわれていたし、先に死んでしまった人は気のドクだけど、ひとりも死なずに済むはずがないことは外国を見ればわかるし、これからは先は順調に行くんじゃないか。
たったいまニュースを観ていたら、オリンピックで来日した選手たちがコンビニを利用できるのはマズイでしょ、そのへんを見直せって立憲民主党がゴネているそうだ。
あいかわらず思わず微笑みが湧いてしまう政党だねえ、あそこは。
列車のなかでフランス人とロリコンについて考えているうちにディレダワに到着した。
これがディレダワの駅と街。
駅舎は古いままなので、中国の協力の恩恵は地方の駅まで届いてないとみえる。
この町の中心には市場があるというのて、のぞいてみたけれど、首都から地方都市に行くにつれ、市場も原始的になるみたいだ。
雰囲気は中国の新疆ウイグル自治区で見た市場に似ているけど、あちらはロバばかりだったのに、ディレダワではラクダがうろうろしていた。
セローがディレダワに到着した日は、たまたま「アドワの勝利」を祝う祭日だった。
アドワの勝利というのは、エチオピアを植民地にしようとしたイタリアが、槍や弓(そして前述したようにランボーから購入したライフル)で武装したエチオピア軍に敗退した記念日である。
エチオピアはアフリカ大陸の国としては、ヨーロッパの植民地政策に抵抗して、それをはねつけためずらしい国なのだ。
ただしこれは1896年のことで、40年後の1935年に、リベンジの機会をうかがっていたイタリアは、ムッソリーニの軍隊で再度エチオピアに侵攻した。
イタリア軍は第二次世界大戦のころの最新兵器で武装していたのにくらべ、エチオピア軍のほうは40年まえの武器のままだったから、今度はエチオピアのほうがボコボコにされる番だった。
しかもこのときイタリア軍は禁止されていた毒ガスまで使ったというから、ジュネーヴ議定書の毒ガス禁止条約は、アフリカでは適用されなかったのだ。
これだけみても、ヨーロッパがアフリカを奴隷の供給所としてしか見てなかったことはあきらかで、大谷翔平が登場しなかったらいまでも・・・・あ、またいっちゃった。
そんな因縁があったので、第二次世界大戦でエチオピアがイタリア側につくはずがなかった。
負けた戦争を祝っても仕方がない。
セローが遭遇した祭日は、ひと昔まえの勝利を祝うものだったのである。
ディレダワからハラールまではもう50キロぐらいしかないけど、バスが見つからない。
たまたま出会った西洋人の尼僧にバス乗り場を尋ねると、彼女は自分もいまそこへ行くところだからといって、セローを車に同乗させてくれた。
セローは聖職者がキライなはずだけど、ここではすなおに感謝して乗せてもらう。
尼僧といろいろ会話したところでは、彼女はある日神さまの啓示を受け(ジャンヌ・ダルクみたい)、結婚寸前だった婚約者を捨てて、アフリカで布教に専念することにしたのだそうだ。
捨てられた男は9年間も泣き暮らしたというから、彼女は尼僧にしては美人だったのではないか。
その後の便りによると、相手の男はガンのために47歳で亡くなったそうで、これは小説になりませんかと尼僧はいう。
しかしセローのような有名な作家なら、そんな売り込みは腐るほどあるだろう。
彼はこの場にふさわしい詩を持ち出してはぐらかす。
わたしにも似たような経験がある。
むかしわたしの友人が彼女に浮気されたと血相をかえて、包丁をもってわたしの部屋に押しかけてきたことがある。
これから相手を刺して自分も死ぬのだそうだ。
そのときわたしは中原中也の「妹よ」という詩をひきあいに出し、見ろ、こんな有名な詩人でも、ふられて悶々としたことがあるんだゾと諭したら、話はそれで収まった。
わたしもはぐらかすのは上手なのだ。
ハラールは古い城塞都市である。
この城壁があるおかげで、欧米人によく知られた観光地になっており、とくに市内の市場はストリートビューがよくカバーしている。
市場に興味を持つのはわたしだけじゃないようだ。
それはいいけど、地方都市に行くほど市場は原始的になるというのは、ハラールも例外じゃなかった。
こういう喧騒と混乱のまっただ中というのは、いかにもアフリカ的ダイナミズムを感じさせて、わたしはけっしてキライじゃないけどね。
じつは詩人のランボーが住んだのがこの町で、だからこそセローはここを目標にしたのである。
しかしハラールに住んでいるナントカ族、カントカ族は、たいてい外国人(ファランジ)がきらいだそうで、セローも外国人ということであちこちで意味もなく怒鳴られていた。
しかし彼の旅はもう20年もまえのことだ。
観光客が撮った最近の写真を集めてみると、そんなものがむかしからあったかいといいたくなるカラフルな建物や、派手な民俗服の女性などが行きかっていて、有名になりすぎていささか観光ずれしているように見える。
尼僧の勧めにしたがって、セローは「ラス・ホテル」というところに泊まった。
このホテルは朝食つきで一泊が15ドルだったそうだ。
ホテルの外ではちょうどコプト人が四旬節の最中だった。
コプト人というのはイスラム世界内のキリスト教徒とでもいうか、イスラムではないくせにやせ我慢をして、断食をともなう宗教上の伝統(四旬節)を遵守しているという。
セローは宗教ギライだから、彼らが腹をすかせているあいだも、ホテルのエチオピア料理をむしゃむしゃ食べ、ヒマつぶしに官能小説を書いていた。
彼がハラールにいるあいだにこの禁忌が明けた。
すると市内には食べ物があふれ、大勢の人々が繰り出し、このときとばかり施しを義務とするイスラムを言い訳にした物乞いも集まったという。
それを見ながらまたエチオピア料理を・・・・どうも無神論者というのはみんな人がわるいらしい。
ハラールはまわりを山にかこまれた高原の町で、この環境が「カート」という、興奮作用のある換金作物の育成に向いているという。
あまり興味はないものの、一見するとお茶の葉のようでもあり、日本なら加工して玉露にでもしそうな感じだけど、なにしろアフリカだから、ただもうそのままぐちゃぐちゃ噛んで、酒代わりの嗜好品として利用するらしい。
エチオピアの特産品であるコーヒーの価格が不安定なので、伐採してカートに植え替える農家があとを絶たず、いろいろ問題を引き起こしているということがウィキペディアに書いてあった。
人付き合いのよいセローはたちまち現地の住人と仲良くなり、勧められてこれを試してみて、ほろ酔い気分になったと書いていた。
いつも酒やコーヒーを飲みつけている人には、この葉は効果が薄いらしいから、セローはふだんから品行方正な男なのだろう。
セローはランボーが住んだという家に行ってみた。
さすがは有名な詩人の住まいで、古風な三階建ての邸宅だったけど、じつはこれは詩人が死んだあとに建てられたものだという。
有名人と縁故のあった名所旧跡というと、世界中から見学者が集まるから、それをでっち上げて観光資源にするというのは、日本でも熱海の「お宮の松」みたいな例があるし、北朝鮮のようなカルト国家では、偉大なる首領サマがお生まれになった家なんていって、めちゃくちゃな捏造をする場合もある。
ここでもランボーに関する記述が出てくるけど、外国人ぎらいの多いハラールで、この詩人は愛人までつくってうまく立ちまわり、銃器商人であっただけではなく、アフリカ奥地を歩きまわった探検家、冒険家でもあったと、ますますわたしたちの期待する詩人像から遠ざかってしまう。
ここに載せた画像は彼の邸宅と探検家のころランボー。
赤い花は沖縄でも街路樹として使われている鳳凰木(デロニックスレジア)。
ハラールの町で有名なのはランボーだけではなかった。
この町にはハイエナが徘徊しているそうである。
ハイエナ・・・・そう、あの草原にいて、ライオンと餌を奪い合っているイヌ科の動物だ。
セローのこの紀行記で、初めてアフリカらしい野生動物の話題が出てきた。
ハラールではハイエナが、日本のキツネやタヌキのように民話の主人公扱いされ、餌づけなんかされて観光客の誘致に一役買っていた。
わたしもあとから作られたランボーの住まいよりはハイエナが見たい。
図書館でナショナル・ジオグラフィックの3月号を借りてきた。
この号の特集は「火星」。
おもしろそうだから借りてきたけど、じつは新しい事実はあまりない。
わたしはこういう分野にも興味があって、ニュースを見逃さないようにしてるんだけど、最近とくに火星についての目立ったニュースはない(はず)。
と思っていたら、昨夜のテレビのコズミック・シリーズは、火星探索車パーシビアランス(不屈の精神)のこと。
これは今年の2月に火星に着陸したばかりだから、最新の火星報告といっていいだろう。
ここに載せたのがパーシビアランスの写真だけど、これは自律走行して火星の表面を探査するロボットで、あっちこっちに鼻をつっこんでかぎまわるワンちゃんみたいで、なかなか可愛らしい。
あ、写真で足もとに写っているのは、動物の骨じゃありませんからね。
火星には水が流れた跡がある。
こんなことはだれでも知っている。
残念ながら火星人がいないことも周知の事実だ。
パーシビアランスの探査目的はは火星人ではなく、バクテリアや細菌のような原始的な生物なんだけど、今回の番組は探査車や火星ヘリコプター、探査車のデータを回収するシステム、さらに将来人間が火星に住むための準備など、技術的な話が多く、生命の存在について新発見の報告はなかった。
なにか生きものの痕跡が発見できるかというと、それは、たぶん、むずかしいんじゃないか。
外惑星にまで探査の手がのびたいま、わたしたちはこの先なにに期待すればいいだろう。
ときどき不思議な気分になる。
かって火星にも大河があり、海もあったらしい。
しかしそこに生きものはひとつもいないのだ。
川があってもサケもドジョウもカゲロウの幼虫もいない。
海があってもクジラはおろか、イワシもクラゲもプランクトンさえいない。
こうなると地球人としては、それがかえって異様な景色に思えてしまう。
水はまんまんとたたえているのに、ただのひとつも生きものが存在しない海、そんなものが想像できるだろうか。
ああとわたしはつぶやく。
火星はそこに住む生きもの以外の奇怪さでわたしの好奇心をかきたてるけど、残念ながらわたしは火星について、いま以上のことをなにも知らないまま、この世からおさらばすることになるんだろうね。
テレビで首相の記者会見を見ていたら、こんな状況をいつまで続ければいいのですかと、どこかの記者が聞いていた。
聞くほうも聞くほうだけど、首相のほうも、それはですねえとまじめに答えていた。
考えればわかると思っているらしい。
死活問題の飲食店関連業者には気のドクだけど、人間が相手なら、考えればあるていど予測は立つ。
ウイルスが相手じゃ、それも新手がつぎつぎと湧いてくる状態じゃ、考えたってわかりっこない。
救いがあるとすれば世界が等しい災難で、どこかの国、どこかの国民、どこかの飲食店だけの災難じゃないってことだ。
わたし明日が2回目のワクチン接種だけど、いつになったら安心して旅行ができるかなんて、答えをぜんぜん期待していません。
前項の「闇の奥の奥」を読んでいると、欧米の植民地主義の権化のような人物として、まずレオポルド2世という人物が登場する。
彼はベルギーの国王だったけど、まったく個人の私利私欲のため、植民地獲得に血まなこになった。
ただ彼がその気になったとき(1800年代後半)、すでに列強の世界分割はほとんど終了していて、後発のベルギーが植民地にできる場所はかぎられていた。
彼はほかの国が手をつけてない空白の部分がないかと、自らアジアやアフリカに足をのばして、ハゲタカのように植民地を物色した。
当時のアフリカはまだ暗黒大陸といっていいところで、その中央部分にようやく探検の手が入ったばかりのコンゴがあった。
この先はレオポルド2世の謀略と、列強のかけひきの産物になるけど、ベルギー国王はまんまとコンゴを自国領、実体は彼の私有地として、各国に認めさせることに成功する。
日本でも律令制時代には、中央にいる貴族はちょくせつ手を出さず、子分を使って国を治めるということがよくあった。
こうなると親分が強欲な人間だった場合、泣く子と地頭には勝てないということわざのごとく、統治される側には苛斂誅求になる場合が多かった。
レオポルドの植民地政策はまったく暴力団そのもので、現地のアフリカ人労働者にノルマを課し、それが達成できないと腕を切り落とすという見せしめを加えた。
その証拠は、当時まだ黎明期だった写真によってはっきりと記録されている。
この写真は手を切られたアフリカ人と、人権保護の活動家に頭からペンキをぶちまけられたレオポルド2世の銅像。
ふうん、ひでえやつがいたもんだねえと、今日は歴史の勉強だけど、こういう知識がわたしの残りの人生に、なにか役に立つとは思えないね。
レオポルド2世は若い妾をこしらえて天寿をまっとうし、ベルギーで銅像まで建ててもらい、いじめられる黒人のほうは、いったいどれだけの数が救いもないままに大地の肥やしになっていったことか。
歴史を教訓にすべしとはよくいわれるけど、ペンキをぶちまけられるくらいだから、教訓はほかの人にまかせておいて大丈夫だろう。
わたし自身は、やれ打つな蠅が手をする足をするの一茶みたいな人間で、他人が苦しむのを見るのもキライだし。
こうなるとレオポルド2世という人は、わたしにとって一時のひまつぶしの対象で、人生の皮肉を感じさせるために存在していたようなもん。
「闇の奥」にもいちおう目を通してみたけど、川をのぼって下るだけのつまらない小説だったワ。
ただいま「闇の奥の奥」という本を読んでいるトコ。
奥という文字が重なっているのは誤植じゃない。
これはコンラッドの小説「闇の奥」を論じて、アフリカ大陸における西洋の植民地主義のブラックな部分を批判しようという本だったから、「『闇の奥』の奥」なのである。
ポール・セローのアフリカ紀行をブログでなぞっているわたしは、そこに「闇の奥」がしょっちゅう引用されているので、参考のために読んでみようと考えた。
ところがいきなりとっかかると、文字が小さく活字は古臭い岩波文庫で、おまけに文学的でもあったので、ひじょうに読みにくい本だった。
これがアフリカ探検のドキュメントで、事実をそのまま書いただけの本だったら、もっと興味を持てて、すらすら読めただろうにと思う。
なんかお手軽に内容を知る方法はないかと、図書館を検索してみたら、“奥” が二段重ねのこの本が見つかった。
「闇の奥」を論じる本だというから、きっとあらすじも要約されているにちがいない。
それでこっちのほうを先に読むことにした。
読み始めてすぐにコッポラの「地獄の黙示録」が出てきた。
わたしはコッポラという監督がキライで、「黙示録」や「ゴッドファーザー」をほめる文章を見つけると、とたんに不愉快になる。
この本の冒頭に、米国が予防接種をした子どもたちの腕を、ベトコンが切り落としたと書かれた箇所があるのを読み、そんな事件は聞いたことがないと、ますます不愉快になった。
これだけでこの本はろくなもんではないと決めつけてしまったくらいだ。
しかしわたしは早まっていた。
この本の著者もベトコンが子供の腕を切り落とした事実はないと書いていて、けっして「黙示録」をいい映画だと断じてないのである。
そして冒頭の部分をクリアしてしまえば、こんなにおもしろい本はなかった。
書かれている内容は悲惨なものだから、おもしろいというのは不謹慎だけど、西洋の植民地主義がどんなものであったかということに関心を持てば、やはりこんなおもしろい本はないのである。
わたしはアメリカ大陸やアジアにおける植民地の歴史なら多少は知っていた。
しかしアフリカというと、せいぜい奴隷の供給基地であったということぐらいで、そこでどんなことが行われたかについてはほとんど無知だった。
大航海時代から近世にかけて、西洋が行った植民地からの搾取の方法は、アフリカ大陸でもまったく変わることがなく、スペインが南米でしたことと大差のない事例すらあったのだ。
ケシカランと左翼的怒りに燃えたまま、今日のところはこのへんまで。
ほんとは「闇の奥」について書きたかったんだけど、そっちはまだ手をつけてないもんで。
録画しておいたマイケル・サンデル教授の「白熱教室」を観た。
ずっと以前にもこの教授の番組が放映されたことがあるけど、そのときは12回分がまとめて放映されたので、量が多すぎてじっくり観られなかった記憶がある。
今回はひさしぶりで、1回だけの放映(100分)だから、このくらい間隔を空けてくれると観るほうには都合がいい。
あいかわらずテーマは「公平」ということで、今回のテーマは日本(東大と慶応)と米国(ハーバード)、中国(清華大)の名門大学の俊英・才媛をそれぞれ6人ずつ集めて、あなたがその大学に入れたのは努力のたまものだったのか、それとも家庭が裕福だったりした幸運のせいかと尋ねる。
じっさいにデータをみると、日本と米国では名門大学に、裕福な家庭の子女の割合が多いことがはっきりする。
中国の場合はデータがないというけど、優遇のある農村や少数民族を差し引くと、やはり都会出身者の割合がずっと多いらしい。
模範的な返事ばかりの中国の大学生が気になるのは、やっぱりいまの中国じゃエリートが本心をべらべらしゃべれないのだろう。
これを観ていていちばんおもしろかったのが、上記の設問の答えが日本と中国でまったく逆だったこと。
日本の学生は全員が幸運だったからと答え、中国の学生は多くが努力のたまものですと答えていた。
わたしはこれこそ中国人の思考を端的に物語るものと思う。
日本の学生だって本心はどう考えているかわからないけど、少なくとも人前でそんなことをいわないだけの謙虚さがあるのに比べ、中国では自分が夜も寝ないで勉強したせいだと堂々と答える。
ガリ勉をしたのは当人だけじゃあるまいに、こういう人間が将来の国政を担うとしたら、中国はまぎれもなくアメリカ型の格差社会になる。
挫折した(挫折しかかっている)米国の社会実験を、中国が引き継いでいくことになるんじゃないか。
わたしはつねづね米国というのは、いろんな意味で実験中の国だと思っていた。
たとえば資本主義をとことん放置しておくと格差はどのくらい広がるか、国民皆保険がないと国民はケガや病気にどう対処するのか、銃器が野放しだと治安はどうなるのかなんてことである。
この実験は挫折しようとしている。
原因は、それでも米国にはまだ良識や謙虚さを残した人間が一定数はいて、行きつくところまで行くことをかろうじて抑えているからだ。
その実験を中国が引き継ぐとしたら、結果はどうなるだろう。
自分は努力したからエラくなったんだ、おまえは努力しないからいつまでも底辺なんだという考えが主流の国はおそろしい。
同情も哀れみもなく、強い者のすべて取りという社会、中国はもともとそういう傾向のある国なのだということは、第二次世界大戦まえの上海などにすでにその兆候が現れていた。
いまやIT時代だ。
監視社会だとよくいわれる中国だけど、日本だって強盗でもアテ逃げでも、カメラの映像を追いかけるだけですぐ捕まる。
問題はわたしたちを見張るカメラにあるわけじゃなく、IT技術がますます発達して、それが完璧なものになり、ほんのひとにぎりの階層の地位ががっちりと固定されることだ。
これこそ現在のアメリカの有産階級が夢見ている社会じゃないか。
わたしが日本に生まれたことはほんとうに幸運だった。
わたしがまだ生きているのは、このブログを見ればわかる。
えっ、ほかのみんなは生きてんのか。
電話もしないし、出かけて会うのはさらにおっくうというわたしには、古いなじみの消息を知る機会がない。
わたしがもういちど会いたいと考える人の半分(女は1/4)はもう死んでいそうな気がする。
それを考えるとブログというのは、他人にこちらの安否を知らせるためのじつに効率的な道具だ。
それなのに最近ぜんぜん更新しない人がいるねえ。
死んだのか?
ランボーという詩人がいる。
スタローンの映画とは関係なく、たしかミュージシャンのみなみらんぼうサンの名付け親だったような・・・・
でたらめはさておいて、わたしは外国の詩人というのがどうも苦手で、というのはわたしの場合、外国の詩はどうしても翻訳者を介して読むことになる。
詩というデリケートなものは、それだけてオリジナルとは異質なものになってしまうような気がするのである。
ランボーの詩は叛逆の詩というから、わたしみたいな偏屈にぴったりと思うんだけど、そういうわけでいちども読んだことがない。
日本人の詩なら萩原朔太郎や中原中也などもたくさん読んでいるんだけどね。
ポール・セローのアフリカ紀行「ダーク・スター・サファリ」を、エチオピアまで読み進んだら、ランボーの名前が出てきた。
しかも詩人らしからぬ予想もしないかたちで。
彼の経歴も今回セローの本を読んではじめて知ったんだけど、早熟の天才といわれた彼は、若くして文学界の寵児になったあと、詩を放り出してアフリカに渡り、エチオピアで商売を始め、なんと武器商人になって現地人にライフルまで販売したという。
しかもこのライフルが、エチオピアを植民地にしようとしたイタリアの野望をくじくことになったのだそうだ。
いろいろ変転きわまりない人生を送った人みたいで、おもしろいけど、わたしたちが期待する詩人のようではない。
わたしも知り合いから分裂症と思われているらしいから、これからはランボーをひきあいに出して、多面性こそ詩人のあるべきすがたと抵抗することにする。
ハルツームで政治家のサディク・アル・マフディーと対談したセローは、晴れ晴れとした気分でエチオピアにやってきた。
晴れ晴れというからたぶん飛行機で飛んできたのだろう。
それで画像はまずエチオピア全図と、首都アディスアベバの空港から。
エチオピアというと、わたしの世代では東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手が思い出される。
三位に入賞した日本の円谷選手が、ゴールしたとき息も絶え絶えだったのに比べ、ゴールで一回転してみせるほど余裕があった人である。
セローのアディスアベバの印象はわるい。
もうコテコテに汚い街だったそうだ。
どれどれとストリートビューをのぞいてみる。
街の中心部を見るかぎり、日本の地方都市とたいして変わらない大きな街だ。
しかしセローが汚いというのだから、汚いところも探さなければならないと、あいかわらずナントカのわたしは郊外もながめてみた。
もうついでに人の家の庭まで入ってしまったのだ。
汚いというか、第三世界の雰囲気はたしかにある。
エチオピアはアフリカにしてはめずらしく、古い時代から独自の文字が使用されていて、そのために自国の歴史を記録することができた。
国民の誇りは現存するアフリカ最古の独立国ということで、ヨーロッパが野蛮人の巣窟だったころから、自分たちはキリスト教徒だったということだそうだ。
日本の皇室より古いのかと訊く人がいるかもしれないけど、あっちは紀元前1000年以上まえの、ギリシャ神話のトロイ戦役でも、当時の王がわざわざトロイア(現代のトルコ)にまで援軍を送ったとあるから、とっても比較にはならない。
さらに中東に近いアフリカとしてはめずらしく、イスラムの浸透も拒否して、いまでもモスクより正教会のほうが多いのである。
第二次世界大戦では、とにかくイタリア側でなければどっちでもいいという事情があって、連合国側に所属した(その事情はあとで述べる)。
大戦のあと皇帝ハイレ・セラシエは、ソ連と中国を天秤にかけるような政治していたけど、社会主義(を標榜する)革命が起こって、帝政は打倒され、皇帝は部下の将校にニワトリのように絞め殺された。
絞められたとき83歳だったというから無慈悲なことをしたものだけど、このへんは粛清の大先輩であるロシア軍事顧問団のアドバイスがあったらしい。
この写真は権勢を誇っていたころのセラシエ皇帝と、彼の忠実な部下たち。
そういえばマラソンのアベベ選手も、本業はこの皇帝の親衛隊員だったっけ。
帝政が打倒されたあと、しばらくは社会主義政権が続いたけど、アフリカではだれが政権を担っても、たいていは独裁政権になるのがフツーだから、また革命が起こって政権がひっくり返った。
現代のエチオピアは、ひとり勝ちの中国にしがみつき、中国の資本が怒涛のように流れ込んでいるらしい。
中国の一帯一路政策を心配する人もいるけど、つぎの革命が起これば、エチオピアはそんな債務はみんな踏み倒すに決まっている。
街を散策していたセローが、エチオピア人の主婦に話を聞くと、社会主義の時代にはキューバの兵隊さんがたくさんいて、わたしたちはみんな彼らが好きだったのよという。
子供をつくったヒトもいたんですかと、セローはつかぬことまで訊く。
もちろんよという返事だから、エチオピア人とウマが合うのはキューバ人らしい。
キューバ人のなかにはアフリカを故国にする者、つまり先祖が奴隷として海を越えてきた者もたくさんいただろうし。
中国人はどこまでいっても人気がないようだ。
セローのエチオピアでの目標は、列車でディレダワという街まで出て、そこからバスでハラールという城郭都市に行くことだった。
なんでもハラールは気位の高い美男美女が多いところだそうで、これでは期待がいやがうえにも増してしまうけど、そのまえにまず列車に乗らなければならない。
エチオピアに鉄道なんてあんのか。
調べてみたら、1900年代のはじめにスイス人が敷いた鉄道があるにはあったけど、セローがみたところ、列車はアウシュビッツ行きの囚人列車みたいで、ホテルの支配人の話では、人気がないから切符はいつでも取れますヨとのこと。
この写真はセローがながめたころの旧駅舎と、2016年に中国の協力で開通した新型車両と、アフリカらしからぬ新しい駅舎。
新しくなったから切符が買えなくなったかどうかはわからない。
つぎの画像はテレビ番組をキャプチャーしたものだけど、アディスアベバで見かけた女性たちで、気位の高い美女というのは彼女らのことかもしれない。
この鉄道はエチオピアからジブチ共和国までを結んでいる。
ジブチはセローの旅に出てこないから、どうでもいいんだけど、そこについて触れたセローの文章のなかに、ちと気になる個所が。
ジブチは少しまえまでフランスの植民地だった国で、このころまだフランス兵が駐留していた。
そのせいで児童買春でも有名だと書いてある。
たしかに映画「レオン」や、コミック「Hypocrite」を見ればわかるように、わたしはむかしからフランスの映画・コミックに登場するヒロインたちが、米国みたいなマッチョ・ガールではなく、どこか幼い少女の雰囲気をただよわせているのが気になっていた。
どうもフランス人というのは自他ともに認めるロリコンであるようだ。
ユニクロがまた災難だ。
いや、韓国がらみじゃない。
今度は新疆ウイグル自治区で、ウイグル人を搾取するその片棒を担いでいるのがケシカランと、フランス当局あたりからにらまれているらしい。
つまり、いまの新疆では、かってのに日本の女工哀史みたいな過酷な奴隷労働が行われていて、ユニクロの製品はそうした状況のうえに製造されているのだそうだ。
というニュースが昨日の昼に流れていた。
おもしろいのはこのニュースの背後に、ふだんのままの新疆の映像が流れていたこと。
にぎやかな通りの歩道にずらりとオートバイが停められ、たくさんの車が往来し、ウイグル人がなにごともない感じで歩いていた。
ここに載せた写真はたまたまネットで見つけたものだけど、見ての通りチベットのラサである。
最初は合成じゃないかと目を疑ったくらいで、もはやかってのラサじゃない。
街が繁栄すればすべての層に恩恵が行き渡る、といわなくても、少なくとも全体がかさ上げされて、チベット人の生活も以前よりはマシになるだろう。
かっては煮炊きや暖房のために、小さな子どもたちが谷底まで水を汲みに行ったり、ヤクの糞を集めていたのだ。
はっきりいって、中国が少数民族を迫害しているというのはデタラメだと思う。
わたしはできるだけ客観的に、公平にながめようと思っているけれど、ものごとはいちどには進まない。
以前よりよくなっているなら、他人が文句をつけるものではないと思うし、相手がそれなり努力しているなら、協力したほうがうまく行く場合もある。
北朝鮮やミャンマーの問題でも、中国を反発させるより、引き込んだほうが得だと思うのだ。
首都ハルツームや旧市街地のオムドゥルマンを見たあと、ポール・セローは、タクシー代わりに雇ったトラックで砂漠のなかを疾駆する。
行く先はこの道路ぞいにある古い遺跡群で、いよいよ一等寝台やリゾートホテルとは縁のないハードな旅の開始だ。
トラックにはテントとかんたんなキャンプ用具が積んであって、夜は砂漠で野宿である。
ここに載せた写真の2枚目は、たまたまストリートビューで見つけたもので、アフリカにはこんなふうな、夜はテント泊というワイルドな団体ツアーもけっこうあるらしい。
つぎの写真は「アフリカ縦断114日の旅」というテレビ番組をキャプチャーしたもので、若い女の子でさえ、寝袋に入って砂の上にじかに寝ている。
道なき道をゆくような旅がほとんどだから、ツアー客のほうもそれなりの覚悟が必要だけど、世界には通常の観光旅行では満足できないという人が増えているのだ。
まあ、ヒマラヤやギニア高地でさえ団体ツアーがあるご時世だから、驚くほどのことはないのかもしれない。
セローのアフリカ紀行は、ハルツームのつぎの章は「ヌビアへのウサマ・ロード」というタイトルになっていた。
ウサマというのは聞いたことがあると思うけど、米国で2001年9月11日に起った同時多発テロの首謀者ウサマ・ビンラディンの名前だ。
テロ事件のまえ、彼はスーダンに住んでいて、新しい道路を作ったり、寄付や慈善活動をしていたから、スーダン人には彼をしたう者が多かった。
ところがアメリカに敵愾心をもやして、ソマリアやアフガニスタンのイスラム過激派を支援することにも熱心だったから、アメリカに遠慮するスーダン政府によって国外へ追放されてしまう。
セローが走っていた砂漠のなかの街道も、そのビンラディンが作った道路だった。
トラックの運転手もビンラディンの崇拝者だったから、もしもこの旅が同時多発テロのあとだったら、アメリカ人のセローは運転手のまえで、テロ首謀者の悪口もいえず悶々としたことだろう。
しかしセローがこの本に書いたアフリカ旅行は、2001年の2月から5月までのことだから、そんな事件が起こるとはまだだれも思っていなかった。
そして帰国して紀行記を執筆し始めたころ、事件は起こった。
こんなふうに、文章を書いているとき劇的な状況変化が起こって、作家が当初の構想を変えなければならないことはままある。
司馬遼太郎の「街道をゆく/北のまほろば」では、それが週刊朝日に連載中に三内丸山遺跡が発見されて、おおむかしの青森県がまほろばの国であったことが物証で証明されてしまった。
同時多発テロが起きなければ、セローの本のこの章もタイトルはたぶん別のものになっていて、彼がビンラディンに触れることもなかったにちがいない。
セローが最初に目指したのはハルツームがら、ナイルにそって300キロほど下ったところにあるメロウ遺跡だった。
ここには、エジプトのギゼーより小ぶりながら、いくつかのピラミッドがある。
このあたりではよく知られた歴史遺産で、観光バスの停まれる駐車場もあるくらいだから、けっして辺鄙な場所ではないようだ。
年を経ててっぺんが崩壊しているピラミッドがほとんどのなかに、鋭角のものも見えるけど、これは観光客のために設置されたトイレらしい。
セローはこのピラミットについて、また博識ぶりをみせる(けどここでは省略)。
このあと問題が起こった。
スーダンの辺境を旅する外国人は、24時間以内に、行った先で警察に届けを出さなければいけないという。
セローの場合、間がわるいことに、地中海をぐるぐるまわってきた彼のパスポートには、イスラエルの出入国スタンプがべたべた押してあった。
これではアラブ寄りの国スーダンでは、おとなしく通してくれないのではないか。
スーダンに入国するまえに読んだ渡航情報によると、この国の警察はぜんぜんアテにならないばかりか、米国人とみると拉致してリンチを加えることもあるそうである。
そうかといって届けをしなかったら、見つかったとき余計まずいことになる。
覚悟を決めたセローは、このあたりでいちばん大きそうな町シェンディの警察署におもむく。
すると警察官は、たまたまテレビで流されていたパレスチナ・ガザ地区の暴動のニュースに見入っていた。
こりゃまずい。
しかし灯台もと暗しというのか、彼らは目のまえの憎むべきアメリカ人には無関心で、イスラエルのスタンプに特別な関心を示さなかったから、セローの心配は杞憂だった。
窮地を脱したセローは町を見てまわる。
シェンディはナイルの河畔にまとまった小さな町で、ここもストリートビューはカバーしてなさそうだったけど、やみくもに捜索してみたら駅のまわりが何ヵ所かヒットした。
これがそうだけど、線路があるだけマシというところで、列車を待つために半日ぐらい待機しなければいけないところのようである。
ほかはネットで見つけたシェンディの町のようすとフェリー乗り場。
セローはフェリー乗り場から数マイル上流に行って、なにやらの王宮を見たというんだけど、彼にとってもよくわからない場所と書いてあって、ストリートビューにも出てないようだった。
この日の夜はまたメロウ遺跡のまわりでテント泊をする。
夜中の遺跡は神秘的で美しいと、セローの記述はなかなか感動的で、全部は紹介できないものの、一読に値する。
『崩れ落ちたこの巨大な遺物のまわりには、寂寥たる砂漠がどこまでも広がっていた』
『夕日を浴びた砂は美しく輝き・・・・不思議なかたちを作るように、大きな砂山が盛り上がったりえぐれたりしている』
英国の女流紀行作家のクリスティナ・ドッドウエルも、ひとりで辺境を旅して、見知らぬ土地でキャンプするのはこのうえない幸福であるといっていた。
そういう気持ちはよくわかる。
少数派かもしれないけど、わたしも孤独を愛し、世間から隔絶するために旅をしたいと願う人間のひとりなので。
翌朝セローはさらに北をめざした。
岩だらけの高山地帯に入ったとか、「第6急湍」を目指したともある。
急湍(きゅうたん)というのはナイルが急流になっている場所らしく、調べていたら、ひょっとするとこれかなという地図が見つかった。
1から6まで番号がふってあって、説明にも川の浅瀬のようなところと書いてあったけど、しかし第6急湍はメロウの近くになっていて、これでは最初の遺跡からほとんど移動していないことになってしまう。
ま、ぜんぜん関係ない地図かもしれないから、あまり信用しないように。
これ以降のセローの足取りは、舗装道路の終点アトバラ、つぎの町はドンゴラ、その先は国境の町ワディ・ハルファというふうに町の名前が出てくるから、なんとか追うことはできる。
ここではゲベル・バルカルというもうひとつの遺跡を紹介しておこう。
これはアトバラとドンゴラの中間にある遺跡で、残念ながらこっちの遺跡のことはぜんぜん本に出てこないけど、セローのウサマ・ロードのドライブは、この先の小さな村で身体障害者の若者に出会ったところでふっつりと終わっている。
幼児のような背丈しかないその若者が、村人からいじめられることもなく、親切に受け入れられているのを見て、セローは安心し、この国の精神性について高く評価するのである。
このあと彼はハルツームにもどって、前項に書いたスーダンの政治家サディク・アル・マフディーと対談することになるけど、見てきたばかりのこの国につける採点があまくなるのは仕方がない。
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