アフリカ/ハラール
列車のなかでフランス人とロリコンについて考えているうちにディレダワに到着した。
これがディレダワの駅と街。
駅舎は古いままなので、中国の協力の恩恵は地方の駅まで届いてないとみえる。
この町の中心には市場があるというのて、のぞいてみたけれど、首都から地方都市に行くにつれ、市場も原始的になるみたいだ。
雰囲気は中国の新疆ウイグル自治区で見た市場に似ているけど、あちらはロバばかりだったのに、ディレダワではラクダがうろうろしていた。
セローがディレダワに到着した日は、たまたま「アドワの勝利」を祝う祭日だった。
アドワの勝利というのは、エチオピアを植民地にしようとしたイタリアが、槍や弓(そして前述したようにランボーから購入したライフル)で武装したエチオピア軍に敗退した記念日である。
エチオピアはアフリカ大陸の国としては、ヨーロッパの植民地政策に抵抗して、それをはねつけためずらしい国なのだ。
ただしこれは1896年のことで、40年後の1935年に、リベンジの機会をうかがっていたイタリアは、ムッソリーニの軍隊で再度エチオピアに侵攻した。
イタリア軍は第二次世界大戦のころの最新兵器で武装していたのにくらべ、エチオピア軍のほうは40年まえの武器のままだったから、今度はエチオピアのほうがボコボコにされる番だった。
しかもこのときイタリア軍は禁止されていた毒ガスまで使ったというから、ジュネーヴ議定書の毒ガス禁止条約は、アフリカでは適用されなかったのだ。
これだけみても、ヨーロッパがアフリカを奴隷の供給所としてしか見てなかったことはあきらかで、大谷翔平が登場しなかったらいまでも・・・・あ、またいっちゃった。
そんな因縁があったので、第二次世界大戦でエチオピアがイタリア側につくはずがなかった。
負けた戦争を祝っても仕方がない。
セローが遭遇した祭日は、ひと昔まえの勝利を祝うものだったのである。
ディレダワからハラールまではもう50キロぐらいしかないけど、バスが見つからない。
たまたま出会った西洋人の尼僧にバス乗り場を尋ねると、彼女は自分もいまそこへ行くところだからといって、セローを車に同乗させてくれた。
セローは聖職者がキライなはずだけど、ここではすなおに感謝して乗せてもらう。
尼僧といろいろ会話したところでは、彼女はある日神さまの啓示を受け(ジャンヌ・ダルクみたい)、結婚寸前だった婚約者を捨てて、アフリカで布教に専念することにしたのだそうだ。
捨てられた男は9年間も泣き暮らしたというから、彼女は尼僧にしては美人だったのではないか。
その後の便りによると、相手の男はガンのために47歳で亡くなったそうで、これは小説になりませんかと尼僧はいう。
しかしセローのような有名な作家なら、そんな売り込みは腐るほどあるだろう。
彼はこの場にふさわしい詩を持ち出してはぐらかす。
わたしにも似たような経験がある。
むかしわたしの友人が彼女に浮気されたと血相をかえて、包丁をもってわたしの部屋に押しかけてきたことがある。
これから相手を刺して自分も死ぬのだそうだ。
そのときわたしは中原中也の「妹よ」という詩をひきあいに出し、見ろ、こんな有名な詩人でも、ふられて悶々としたことがあるんだゾと諭したら、話はそれで収まった。
わたしもはぐらかすのは上手なのだ。
ハラールは古い城塞都市である。
この城壁があるおかげで、欧米人によく知られた観光地になっており、とくに市内の市場はストリートビューがよくカバーしている。
市場に興味を持つのはわたしだけじゃないようだ。
それはいいけど、地方都市に行くほど市場は原始的になるというのは、ハラールも例外じゃなかった。
こういう喧騒と混乱のまっただ中というのは、いかにもアフリカ的ダイナミズムを感じさせて、わたしはけっしてキライじゃないけどね。
じつは詩人のランボーが住んだのがこの町で、だからこそセローはここを目標にしたのである。
しかしハラールに住んでいるナントカ族、カントカ族は、たいてい外国人(ファランジ)がきらいだそうで、セローも外国人ということであちこちで意味もなく怒鳴られていた。
しかし彼の旅はもう20年もまえのことだ。
観光客が撮った最近の写真を集めてみると、そんなものがむかしからあったかいといいたくなるカラフルな建物や、派手な民俗服の女性などが行きかっていて、有名になりすぎていささか観光ずれしているように見える。
尼僧の勧めにしたがって、セローは「ラス・ホテル」というところに泊まった。
このホテルは朝食つきで一泊が15ドルだったそうだ。
ホテルの外ではちょうどコプト人が四旬節の最中だった。
コプト人というのはイスラム世界内のキリスト教徒とでもいうか、イスラムではないくせにやせ我慢をして、断食をともなう宗教上の伝統(四旬節)を遵守しているという。
セローは宗教ギライだから、彼らが腹をすかせているあいだも、ホテルのエチオピア料理をむしゃむしゃ食べ、ヒマつぶしに官能小説を書いていた。
彼がハラールにいるあいだにこの禁忌が明けた。
すると市内には食べ物があふれ、大勢の人々が繰り出し、このときとばかり施しを義務とするイスラムを言い訳にした物乞いも集まったという。
それを見ながらまたエチオピア料理を・・・・どうも無神論者というのはみんな人がわるいらしい。
ハラールはまわりを山にかこまれた高原の町で、この環境が「カート」という、興奮作用のある換金作物の育成に向いているという。
あまり興味はないものの、一見するとお茶の葉のようでもあり、日本なら加工して玉露にでもしそうな感じだけど、なにしろアフリカだから、ただもうそのままぐちゃぐちゃ噛んで、酒代わりの嗜好品として利用するらしい。
エチオピアの特産品であるコーヒーの価格が不安定なので、伐採してカートに植え替える農家があとを絶たず、いろいろ問題を引き起こしているということがウィキペディアに書いてあった。
人付き合いのよいセローはたちまち現地の住人と仲良くなり、勧められてこれを試してみて、ほろ酔い気分になったと書いていた。
いつも酒やコーヒーを飲みつけている人には、この葉は効果が薄いらしいから、セローはふだんから品行方正な男なのだろう。
セローはランボーが住んだという家に行ってみた。
さすがは有名な詩人の住まいで、古風な三階建ての邸宅だったけど、じつはこれは詩人が死んだあとに建てられたものだという。
有名人と縁故のあった名所旧跡というと、世界中から見学者が集まるから、それをでっち上げて観光資源にするというのは、日本でも熱海の「お宮の松」みたいな例があるし、北朝鮮のようなカルト国家では、偉大なる首領サマがお生まれになった家なんていって、めちゃくちゃな捏造をする場合もある。
ここでもランボーに関する記述が出てくるけど、外国人ぎらいの多いハラールで、この詩人は愛人までつくってうまく立ちまわり、銃器商人であっただけではなく、アフリカ奥地を歩きまわった探検家、冒険家でもあったと、ますますわたしたちの期待する詩人像から遠ざかってしまう。
ここに載せた画像は彼の邸宅と探検家のころランボー。
赤い花は沖縄でも街路樹として使われている鳳凰木(デロニックスレジア)。
ハラールの町で有名なのはランボーだけではなかった。
この町にはハイエナが徘徊しているそうである。
ハイエナ・・・・そう、あの草原にいて、ライオンと餌を奪い合っているイヌ科の動物だ。
セローのこの紀行記で、初めてアフリカらしい野生動物の話題が出てきた。
ハラールではハイエナが、日本のキツネやタヌキのように民話の主人公扱いされ、餌づけなんかされて観光客の誘致に一役買っていた。
わたしもあとから作られたランボーの住まいよりはハイエナが見たい。
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