« デイリー新潮 | トップページ | テコンドー »

2021年8月 5日 (木)

見分ける方法

あいかわらず世間には、世を憂いているようにみせて、そのじつ個人のうっぷんを晴らしてるだけの意見が多いねえ。
そりゃだれがどんな意見を吐こうが、表現の自由が確立されている日本では文句をいうスジじゃない。
しかしそんなものにまどわされて、なにが正しいのかと、判断に迷う若い人たちがいるとしたら気のドクだ。
そこで老婆心ながら、人生の大先輩で、とうぜん先にあの世に行くことになるわたしが、そういう意見を見分ける方法を伝授しておこう。
若い人たちが悩んでいると思ったら、無念で、死んでも死にきれんよ。

現在はネットを使ってだれもが自分の意見を主張できる時代だ。
そういう意見のなかから、なにが正しいのかを見分けることはひじょうに重要なことだ。
まず言葉使いに注目しよう。
〇〇の野郎とか、〇〇どもとか、“支那人”は“朝鮮人は”などと、相手に面と向かっていえない言葉が使ってあれは、それだけでもうほとんど無視してかまわない意見だ。
例外はわたしのブログで、たまに意識してイケナイ言葉を使うこともあるんですよ。
先日読んだネット記事では、日本の首相を“貧相な顔”と書いていた。
貧相かどうかは個人の主観に属するものだから、書いた本人はどんな高貴な顔をしているのか、確認するまではこれも無視しよう。
言葉使いはわかりやすいから、まずこれが見分けるひけつだ。

すこしむずかしくなるけど、個人の主観だけにもとずいてないかどうかを考えることも必要だ。
たとえばNHKは偏向しているからキライだという人がいる。
しかしその一方で、NHKしか観ないというわたしみたいな人間もいるのである。
なんでNHKしか観ないのか、理由が必要なら10でも20でも挙げてみせるけど、だいたい民放の番組で偏向してないところがあるだろうか。
そういうことを公平客観的に自分の頭で考えてみよう。

このオリンピックが始まるまえは、コロナのさなかになんでそんなお祭りをして喜んでいるんだという意見も多かった。
判断に苦しんだ若い人たちもたくさんいたにちがいない。
しかし開催してみると、ほとんどすべての外国人選手、関係者から素晴らしいという賛辞の声が寄せられている。
わたし自身も、もしもオリンピックがなかったら、緊急事態宣言をくらって、部屋で畳の目でも数えているしかなかっただろう。
世の中には自衛隊なんてムダだ、廃止してその金を福祉にまわせなんて極端な意見もあるけど、世界に貢献するために国家が担わなければならない義務というものもあるのである。
自分たちだけの判断でかんたんに割り切れる問題なんてないと思っていたほうがよい。

もっとむずかしくなるけど、相手の立場で考えてみることも必要だ。
かんたんそうだけど、人間というのはどうしても自分の立場でものを考えてしまう生きものなので、最近はこれのできない人がますます増えているのである。
これもネットで見た記事だけど、日本政府がコロナ患者に対し、原則自宅療養で、中等症では入院できないと宣言した。
たちまちケシカラン、方針がころころ変わる、日本政府は国民を見捨てた、馬鹿だ、チョンだという意見の洪水だけど、なんで政府はそんなことをいいだしたのかと考えてみればよい。
このままでは病院が満杯になってしまうから、ということはだれでも思いつくだろう。
方針がころころ変わるというけど、相手は変幻自在のウイルスだ。
ぜんぜん予期してなかった感染力の強いウイルスか出現した。
さあ、ワクチン接種は完璧だと思っていた政府、そして2回目の接種を終えて安心していたわたしも大慌てだ。
新しいウイルスには新しい対応を考えなければならない。
あなたが政治家なら、方針をころころ変えずに済ませられるだろうか。

さらにもっと広範囲な視点を持つことも大切だ。
病院が満杯になるなら増やせばよいと単純に考える人がいる。
病院を増やしても、お医者さんや看護師を増やすのはかんたんではない。
そもそも重症者以外は入院させないという政府の方針転換は、じつは、オレたちを過労死させる気かという医療従事者からの要請だった可能性もあるので、それは政府の無能によるものだろうか。
相手の立場を考えるというのは、ようするに自分だったらどうするかと考えることである。
自分ならどうする?と、つねに相手になったつもりで考えることは、それが自分たちの未来を守ることでもあるのだ。

| |

« デイリー新潮 | トップページ | テコンドー »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« デイリー新潮 | トップページ | テコンドー »