アフリカ/鉄道の旅
ポール・セローがムワンザから乗った列車は個室寝台で、相客はいなかったから贅沢な旅になった。
わたしも中国で上海から新疆ウイグル自治区へ行くとちゅう、一部の区間だけ、たったひとりで個室を占領したことがある。
ベッドにひっくり返ったまま、窓外に見知らぬ土地の景色が流れていくのをながめていればいいのだから、鉄道旅の好きなわたしにはほんとうに幸福な体験だった。
同じ列車に欧米人の団体が乗っていて、なかの数人がうらやましそうに部屋をのぞきにきたくらいだ。
列車が走りだすと、セローの描写は鉄道旅行の好きな人間にはコタえられないものとなる。
『低木の茂る青々とした原野は、アフリカの空漠たる広がりを感じさせ、うるんだ月のもとではさながら海原のようだった』
『ときには黒っぽい雲におおわれた空全体が、落雷によって激しく震え、突き刺すような閃光があとに残った』
『その閃光のなかでもはっきり見えた陸地は、やはりなにもなく、嵐はこの大地の破壊しえない空虚さを示しただけだった』
わたしはタクラマカン砂漠のへりを行くときに見た、砂漠の驟雨を思い出してしまう。
雨が降ったあとの砂漠ぐらい清潔さを感じさせるものはなかった。
セローの本のこの章は、ほとんど列車に乗りずくめなので、ビジュアル的におもしろいものがない。
そこでわたしが経験した中国の鉄道旅行と比較しながら話を進めよう。
日本の鉄道と比較すればもっといいけど、あいにくわたしは日本で1泊以上の列車泊をしたことがないもので。
わたしが中国で乗ったのは、もっぱら1等寝台(軟臥)で、日本人からすればめちゃくちゃ安いから贅沢とはいえない。
ひとり旅をする場合、自由席なんかに乗った日には、荷物が心配でおちおちトイレにも行けないけど、個室のある車両には貧乏人は入れないから、荷物はベッドに放り出しておいて大丈夫なのだ。
セローもこの点ではわたしと同じ考えだったと思われる。
中国の長距離列車にも、いちおう食堂車はついていた。
メシは、まあ、オリエント急行の晩餐なみとはいわないけど、腹がへっているときならけっこう食えるというしろものだった。
あるときメシを食いに行ったら、厨房でコックが汗みずくになって、車内販売用の弁当を作っていた。
それでしばらく待たされたけど、わたしもセローといっしょで時間はいくらでもあったから、ビールを飲みながら弁当作りをながめていた。
こういう機会は、日本ではなかなかないものだ。
もっとも食堂車でくつろぐような旅も最近はとんと経験がないけど。
あとで買ってみた弁当は、ご飯の上に肉ジャガを乗っけた土方の弁当みたいで、なかなか美味しかった。
ポール・セローの旅はもうちっと哲学的である。
列車には欧米人のアベックが乗っていて、セローがかたわらを通るとき彼らが「ポール・・・」とつぶやくのが聞こえた。
おお、オレの名声はこんなところまで行き届いているのかと思ったら、ポールはポールでも聖書に出てくるパウロのことで、彼らはキリストかぶれの福音伝道者だった。
神さまギライのセローは、すべてのものには終わりがある、さっさと寝やがれと文章に書く。
ときどき話好きの客がやってくることがあって、せっかく孤独な旅を満喫しているわたしにははなはだ迷惑なことがあった。
セローも孤独を愛する作家だけど、そのわりにはおしゃべりも好きである。
たまたま車内で知り合ったアフリカ人と会話する。
セローが旅をしたころのタンザニアの大統領はベンジャミン・ムカベという人で、写真で見るとウガンダのアミンとヘビー級チャンピオンシップを争いそうな感じの人だ。
しかしタンザニアの歴代大統領には、自分の出身部族ばかりをとりたてるような問題児はあまりいなかったようで、これはアフリカにしてはめずらしいことだけど、理由はウィキペディアに書いてある。
1967年にはアルーシャというところで、初代大統領が社会主義と民族自決を目指そうという演説をぶったそうだ。
民族自決というのは、自立するだけの余裕がなければたいてい挫折することになっていて(北朝鮮を見よ)、もちろんタンザニアも掛け声だけに終わっていた。
セローの話し相手はなかなか教養のある男で、白人から土地を奪って農民に分け与えても、アフリカ人は有効な土地利用の方法を知りませんからねという。
目下のこの国では、自立どころか、いかに晩メシを工面するかということで手いっぱいなんだそうだ。
そのうちタボラの町に着いた。
この町はストリートビューがカバーしていたから、どんなところなのか見てみよう。
ムワンザからセローが乗ってきた鉄道は、タボラでタンガニーカ湖のほとりにある町キゴマから、インド洋に面したダルエスサラームを結ぶ、中央本線と呼ばれる鉄道にぶつかる。
中央本線は戦前にドイツが建設したというから、やはり欧米列強が搾取のために作った鉄道だったのだろう。
タボラからムワンザへの支線を伸ばしたのは英国だったけど、作っただけでその後はまったく手入れや修繕をしなかったというから、列強にとって植民地時代が終わってしまえば、アフリカの鉄道なんてまったく価値がなかったのだ。
タボラに到着して3時間後にもまだ列車はそこにいた。
セローは時間つぶしに町をぶらついてみた。
町のようすはこんな感じで、緑が多く、雰囲気はわるくない。
彼が旅をしたころは、ここに来る手段は徒歩しかなかったそうだけど、それから20年のあいだに、タボラはもういっぱしの都市に成長したようである。
タンザニアには紅衛兵のころから中国が支援してきたそうだけど、タボラ駅の建物は古そうで、まだその金は入ってきてないようだった。
アフリカとしては、まあまあましなスタジアムがあった。
門のわきに創設者かなんかの写真をでっかく飾った学校があったものの、写真の人物がだれなのかわからなかった。
この国の大統領かと思ったけれど、顔つきで該当する大統領はいない(青いカーテンのまえの額に入った写真は初代大統領のニエレレさんのようだ)。
現在の(ひとつ前の)タンザニア大統領はジョン・マグフリという人で、この国の発展に功績があったらしいけど、コロナ・ウイルスは危険視すべきではないという大きな過ちを犯し、自分はさっさと感染して死んでしまった。
現在の大統領は副大統領から自動で昇格した女のヒトである。
ようやく列車が発車した。
窓の外にアフリカ人のダメっぷりを物語るような光景が見られた。
暑い日中に、マンゴーの木かげで休んでいるアフリカ人たちがいたそうだけど、木は1本しかないから、その小さな木かげに数人が身を寄せ合っていた。
なぜもっとたくさん木を植えて、木かげを増やそうとしないのかとセローは考える。
とにもかくにもその日をなんとか暮らせればそれで満足で、余計な努力と明日の心配をしないのがアフリカ人であるらしい。
セローのこの旅は、かって自分が生活したアフリカのその後を見るのが目的だったけど、ほとんどの場合、以前より悪くなってるか、まったく進展がないというものだった。
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