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2021年9月12日 (日)

アフリカ/ウモジャ号

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ビクトリア湖は面積が6万9千平方メートルあって、アフリカ最大の湖である。
ここがナイル川の源であることは前項で書いたけど、ウィキペディアには湖が完全に干上がったことがあるとか、現在も水位は減少しつつあるとか、歴史や博物学的におもしろい記述がたくさんあります。
とても全部は引用できないから、そのページにリンクを張っておこう。

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ポール・セローはカンパラからビクトリア湖を渡り、タンザニアに行くことにしたけど、これがまたひと苦労。
船が出ますから港に行ってくださいといわれ、あわてて船着き場までタクシーを飛ばしたものの、船は溶接作業中でえんえんと待たされる。
待たされるぐらいなら、アフリカはそういうものだと心得ているセローにはなんでもなかったけど、どうもただの溶接じゃなさそうだ。
いったいいつから溶接をしてるんだと訊くと、溶接じゃなく修理です、もう3日もまえからやってますという返事。
けっきょく7時間も待たされて、その日は船は欠航ということになった。
セローはべつのところで、じつはわたしは短気な人間であると書いているから、トサカ(頭の上にある)にくるのも当然だ。

それでも運のいいことに、たまたまその晩に出航する「ウモジャ号」という船があり、乗船をそれに振り替えてもらうことができた。
これはなかなか快適な船で、といってもセローの基準ではということで、文明国の旅人がよろこんで乗れるかどうかわからない。
ドゥドゥ(アフリカ語で虫のこと)が船室を目いっぱい飛びまわり、ベッドのシーツもその死骸でいっぱいだったそうだ。
快適というのは船員たちが、善良で友好的で、セローをこころから歓待してくれたということである。
セローは1等機関士の部屋をあてがわれた。

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現在のビクトリア湖にはたくさんの連絡船が就航しているので、またどんな船なのか、ウモジャ号を探してみた。
文章を読むかぎり、これは車も積めるカーフェリーではなく、沿岸の町のあいだを行ったり来たりしている貨物船で、ウガンダでアミン大統領が独裁を極めていたころ、タンザニアと戦争になったことがあり、ウモジャ号は軍艦として多くの兵士を輸送したそうである。
英国の造船所で1962年に進水したとあるから、セローが乗り込んだ時点ですでに40年ちかくが経過していて、たくさんの船のなかからそんな古い船が見つかるかこころもとなかったけど、わたしも探すのが上手になったものだ。
この切手に描かれた船がビクトリア湖のウモジャ号である。
そしてセローの旅よりあとに、英国のBBCがアフリカの紀行番組を作り、わざわざポール・セローが乗った船を見つけたらしい。

夜中に出航して、セローが朝起きると海のまん中のようなところにいた。
ビクトリア湖のまん中にいれば、いちばん近い陸地でも100キロ以上あるから、ちょっともやでもかかっていれば、たしかに陸影は見えそうもない。

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湖のなかにいろんな島がある。
なかにはミギンゴ島という岩礁にすぎないような島に、トタン屋根の漁師の家がびっしり建て込んだ島もある(かなり有名らしい)。
ビクトリア湖には漁業推進のためにナイルパーチが放流されたことがあり、これは周辺国の食生活に大きな貢献をしたものの、当然のように外来魚による在来魚の激減という副作用をもたらした。
なにごとも表があれば裏もあるもんだ。
ナイルパーチの画像はおまけ。

船内でセローは船員たちと食事をする。
そういうときの話題は、うーんと、たとえばベルギーのレオポルド2世をこきおろすことである。
レオポルド2世については、このブログでも取り上げたことがあるけど、アフリカ人の奴隷たちにノルマを課して、それが達成できないと腕を切り落とした残忍な植民地支配者だった。
アフリカの黒人たちにとっては憎むべき相手であり、米国人のセローにはどうでもいい第三者なので、こういう話だとまちがって気まずい思いをすることがなくていい。
航海中にセローは機関室なども見せてもらった。

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とちゅうゴジバ島という島のかたわらを通過したというから、この島も探してみた。
見つからなかったけど、樹木の茂った起伏のない島とあるから、現在チンパンジー保護区になっているンガンバ島と似たようなものだろう。
セローが見たゴジバ島は、政府も警察も税金もない島で、いろんな国の人間が勝手に住みついていたというから、犯罪者たちの絶好の隠れ場所になっていた可能性もある。
ただし湖にはワニもいて、食べられる人間もたくさんいたという。
1996年には「ブコバ号の沈没」という大きな水難事故があり、これはフェリーが転覆し、千人以上の死者を出したというから、ワニたちにとっては盛大な晩餐会だったのではないか。
世の中あまいことばかりじゃない、これがビクトリア湖の掟だとセローはいう。

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また大きな島のわきを通過した。
ウケレウェ島で、島のまわりに三角帆をあげたたくさんのダウ船が浮いていた。
ダウ船はアラブ人の置き土産だという。
ヨーロッパ人より百年もまえから奴隷売買をしていたアラブ人は、すぐれた航海士でもあって、奴隷の買い出しのためにしょっちゅうビクトリア湖界隈にまで遠出をしてきており、彼らの伝統がアフリカに伝わったのだそうだ。
もっともアフリカ人はよき航海士ではないから(むしろその反対)、赤道直下にあって水温が高いため、嵐が発生しやすいこの湖で、突風にあおられて遭難するダウ船も多いらしい。
ワニがますます肥え太ってしまうな。

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ムワンザ港に入港する直前、奇妙な大岩が見えた。
船員の説明ではビスマルク岩というのだそうだ。
ビスマルクというと、日本人が連想するのはドイツの鉄血宰相だけど、アフリカでも辣腕をふるったことは知らなかった。
岩のかたちは、軍隊用のロングコートをひっかけた頑固一徹の老軍人に見えなくもない。
日本の金峰山も大弛峠へのとちゅうから、山頂にある五丈岩を遠望すると、コートをひっかけた乃木大将に見える。
セローの本には、ビクトリア湖には海賊もいると書いてあるけど、湖の周辺は最近ではリゾートとして開発されているようだから、そういうものも一掃されたかもしれない。
なるほど、あれがビスマルク岩かいと、観光客がうなづいているくらいなら平和でいい。
最後の写真?
もち、わたしからのサービス。

出航翌日の夜にようやくタンザニアのムワンザ港に到着して、セローは船員たちから見送られて、ウモジャ号から下船した。
「クワヘリ、ムゼー(アフリカ語で、さよなら、おじいさん)」というのが別れの言葉だったそうだ。
俺はおじいさんではないぞと、セローは腹のなかでわたしと同じようなことを考えている。

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