アフリカ/アチムウェネ
ポール・セローのセンチメンタル・ジャーニーは最終章にさしかかった。
彼の旅はまだ3/5ぐらいが終わっただけで、まだまだ続くけど、マラウイから先はもはや彼のセンチメンタルとは関係がなく、あとはただの見物旅行・体験旅行になる。
つまり過去を追う旅は、彼が教師として勤務したこのソチェ・ヒル高校を訪ねて終わりということだ。
彼は首都のリロンゴウェにいるとき、旧知のデヴィッド・ルバディリに電話した。
ルバディリはマラウイの外交官・詩人・小説家として有名な人物で、セローのアフリカでの最初の勤務先だったソチェ・ヒル高校の校長だった人である。
英国の保護領だったマラウイが独立したとき、彼は初代大統領のヘイスティングズ・バンダ大統領と対立して、いちじ亡命を余儀なくされたけど、政権が変わったのちに復権し、このときはマラウイ大学の学長をしていた。
米国大使館が役に立たなかったから、セローはちょくせつ古い友人に電話をして、むかし教えた学校を訪ねたいと相談してみたのである。
相手はよろこんで現地に招待してくれて、そのさいセローのことを“アチムウェネ”と呼んだ。
これはアフリカ語で同志という意味だそうだ。
セローは首都のリロングウェからゾンバという街に向かった。
この地図の〇印がソンバで、首都から300キロぐらい離れている。
セローが教鞭をとったソチェ・ヒル高校はこの町から遠くない。
ドラッグで目がとろんのバス運転手におそれをなしたか、ここでセローはこの旅ではじめてレンタカーを借りることにした。
セローがなんという車に乗ったのかわからないけど、現在ではマラウイでもトヨタや四輪駆動車があたりまえのようだ。
たちまち検問所で警察官に止められた。
トランクを開けろというわれて、ドラッグと銃がないか調べられる。
ここはメキシコかと、ふつうのセローなら官憲をおちょくるところ、このたびはすなおに従ったようである。
レンタカーの旅とはうらやましい。
わたしは車の運転が好きじゃないけど、それは日本の道路がどこも渋滞するからで、アフリカならすいているだろうし、めずらしいものも自由に見てまわれるから、やっぱり車がいい。
セローもあちこち寄り道をしながらのんびり走っていった。
とちゅうの道路はいちおう舗装道路で、景色のなかにメサやビュートと呼ばれる奇岩がそびえていたという。
メサ(mesa)という言葉は、ヘディンのシルクロード探検記を読むといたるところに出てくる地形で、西部劇なんかでおなじみの、侵食されててっぺんが平らになった岩山のことである。
そんな岩山があるということは、ゾンバのあたりは砂漠なのかと思ったけど、写真でながめると、熱帯雨林みたいに樹木の多いところだった。
探せばゾウやカモシカもいそうである。
集めた画像をしげしげとながめると、遠方に特徴のある山塊が見える。
この山には「ウイリアムズ滝」という景勝があるそうで、その滝までの道だけはネット上に写真がたくさんアップされていた。
例によってその滝も見ていこう。
登山道の入口近くにはコンクリート堰のダム湖まであって、ちょっとビックリ。
セローの自伝といっていい「わが秘めたる人生」を読むと、セローはソチェ・ヒル高校に校長待遇で迎えられ、不潔だったトイレをレンガを積んで自分で改築したりしたとある。
そのあたりの事情はよくわからないけど、大学出がめずらしかったマラウイで、校長だったルバディリは政府の役人に引き抜かれ、セローはその後釜だったのかもしれない。
引き抜かれたルバディリは、前述のとおり、大統領のバンダにたてついてマラウイを追われた。
セローは彼に頼まれて、その乗用車を3000キロも離れた亡命先のウガンダまで届けたことがある。
おかげで彼も反体制派の烙印を押されてしまい、マラウイの学校を放逐されることになったのだから、彼らがお互いをアチムウェネと呼び合うのは当然なのだ。
セローはゾンバ・ジムカーナ・クラブでルバディリと落ち合った。
ゾンバは英国の保護領時代にマラウイの首都だったところで、英国はどこの植民地にも、かならずアパルトヘイトの原点のような英国人専用のクラブを作った。
この風習は米国にも引き継がれ、日本の横須賀には米国の軍人専用のクラブがあった(ということをむかし自衛隊にいたわたしは知っている)。
そんなクラブまで地図に出ているはずはないと思ったけど、なんとなくグーグル・マップをながめたら、ちゃんと出ていた。
建物の写真もすぐに見つかった。
セローが訪ねたときでさえ、もうそうとうに古びた建物になっていたらしいけど、そういわれるとこの写真でも建物は傾いているように見える。
このクラブは、マラウイが独立したあともしばらくは白人専用が続いていたけど、現在はまったくアフリカ人のものになっているようだった。
セローはルバディリの自宅に招かれた。
マラウイ大学の学長である彼は、このとき70歳を越えていて、むかし英国人が使っていた官舎に住んでいた。
奥さんのガートルードもセローとは旧知の間柄だ。
彼女が食事をつくってくれているあいだ、セローは近所にある大学クラブに行き、そこでいまは教師になっている、かっての教え子に出会った。
思い出話に花を咲かせているうち、かっての教え子の多くが、いまはマラウイで出世していることを知る。
セローが教師をしていたころのアフリカでは、高等教育を受けられるのは将来を嘱望される人間が多かったから当然のことだけど、先にムズズという町で、サー・マーチン・ローズヴィアという恩師の墓に詣でたとき、自分も教師になるような人物を育てたいと願ったセローの夢はちゃんと達成されていたのである。
ルバディリの家にもどり、奥さんのガートルードと、これはもっぱら家庭的な世間話をした。
最近のマラウイはどうですかとセローは訊く。
いやんなっちゃうわ、うちの息子もぜんぜん礼儀をしらないし、最近の若者はみんなあんなものかしらねえと、彼女はぐちをこぼす。
でもこれって万国共通のぐちをみたいな気がするけど。
ほかにもセローがこのあと訪ねることになるジンバブエの、ロバート・ムガベ大統領の話もした。
彼女はムガベと大学時代の同級生で、そのころ彼は本の虫と呼ばれていたわという。
個人的なことになるけど、わたしも小学校、中学校では、本のシミ(紙魚=害虫)といわれていたものだ。
デヴィッド・ルバディリはセローの旅のあと、2018年に88歳で亡くなった。
彼はマラウイでは有名人だから、英語版のウィキやネット上にいくらでも情報が見つかる。
わたしはガートルードという奥さんのほうに興味をもって、写真を探してみたけど、あちこち手をつくしたのに、はっきりこれが彼女だという写真を見つけることができなかった。
1枚だけ、ルバディリの生誕なん年かの祝いに、関係者が集まったときの写真を見つけた。
主役のとなりにいるのがガートルードかもしれないけど、妻は2人いたそうだから、はっきりしたことはいえない。
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