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2021年10月13日 (水)

アフリカ/リロングウェ

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マラウイの首都リロングウェに行くとちゅう、セローはムズズの町に寄った。
ストリートビューはカバーしてないけど、ネット上に画像がいくつか見つかり、それによるとまあまあ大きな町である。 

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この町には彼の古い知り合いがいる(はずだった)。
セローが初めてマラウイに赴任したころ知り合った、サー・マーチン・ローズヴィアとその夫人である。
マーチン・ローズヴィアは英国人で、公務員を勤め上げたあと、アフリカに渡って教員養成学校を営んだ。
マラウイでまだ若造のセローと知り合ったとき60代で、ホッケーとパイプを愛する闊達な紳士だったそうだ。
どんな人なのか調べてみたら、サーがつくくらいだから英国では著名人らしく、写真がすぐ見つかった。

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この人もまたアフリカ人を救済しようという善意と献身の人だったけど、ただタンザン鉄道の列車のなかで知り合ったフィンランド娘のように、夢敗れて帰国するような理想主義者とは違っていた(とセローは書く)。
その古いスタイルの教育方針はセローも手本とするものだった(とセローは書く)。
つまりこれまでさんざん支援団体やそれに従事する人々をこきおろしてきたセローとしては、自分の尊敬する人と、そういう連中とは一線を画したかったのだろう。
自分が教えた生徒が出世して、この国のために貢献しているのを見るのは人間の生き方として最高ではないか。
自分も彼のような生き方をしたいと、セローは願っていた。

ローズヴィア本人は90歳あまりで亡くなっていたけど、せめて夫人は生きていないだろうか。
夫人は未亡人になったあと、ムズズで中学校を経営していたと聞いていたから、セローはそこへ行ってみた。
残念なことに夫人も2年まえに亡くなっていた。
亭主が “サー” なら夫人も “レディ” の称号がつく著名人のはすだけと、どこを探しても彼女の写真は見つからなかった。
夫妻はムズズに葬られたというので、地中海をめぐっていたときイタリアのアリアーノ村でカルロ・レーヴィの墓を見つけたわたしは、ここでも夫妻の墓を探してみた。
墓も見つからなかったけど、ムズズのアングリカン教会の墓地にあるということがわかったので、その教会だけは見つけた。
マーチン・ローズヴィアの写真の背後にあるのがその教会。

セローが墓に詣でてみると、それは手入れする人もなく草に埋もれていた。
几帳面な性格だった夫妻の墓が草茫々だなんてと無念に思いながら、セローは墓をおおった草をむしって彼らをしのぶ。
ムズズと、このあとじっさいに彼らが知り合うことになったソチェ高校を訪ねるくだりは、彼のアフリカ紀行の中でももっとも感傷的な部分である。

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墓参りをしたあと、セローは首都のリロングウェに向かう。
首都に行くバスは、どれもドラッグをやってとろんとした目つきの運転手ばかりだったそうだ。
こんな運転手のバスに乗ったら命がいくつあっても足りやしない。
そうぼやきながらようやく少しはマシなバスに乗り込むと、看護師をしているという初老の白人女性と隣り合わせた。
彼女は夫とともにリロングウェイで慈善病院に勤務しているという。
もっけの幸と、セローは彼女にマラウイの医療事情についていろいろ尋ねてみた。
ひどいものです、給料が安いので医師になり手がいません、うちの病院もそのうち医師がいなくなります、政府はなんの対策もとっていませんと彼女は窮状を訴える。

「薬がないのでエイズ患者は見殺しにするしかありません」
「うちの病院では9年まえの救急車を使っていますが、車の部品や病院の必要品を買いにいったとき、泥棒にそれをみんな盗まれました」
こんな荒廃した国でそんなことをして何になるんですかという質問に、看護師は「ただ小さい蝋燭をともすだけです」と答える。

この白人看護師の、ほとんど無償といっていい献身的行為には、尊敬の念を抱かざるを得ない。
しかし献身ということについて、たとえば森鴎外などはもっと辛辣だ。
聖女とよばれた尼さんを例にあげて、その自己犠牲は倒錯した精神病の一種じゃなかったかとさえいう。
司馬遼太郎の「街道をゆく」には、老年になってから北海道の開拓に身をささげた老医師の話が出てくるけど、読んでいると尊敬というより鬼気せまるものを感じてしまう。
本人たちは満足だったのだろうから、他人がごたごたいうことではないけど、人間性の本質についていろいろ考えさせられることである。

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リロングウェもストリートビューがよくカバーしているとはいいにくいところだったけど、まるで全体が公園のように、広々として緑の多い美しい街だった。
へそまがりのわたしははじっこのほうに行けば汚い場所もあるだろうと思ったけど、ストリートビューでは不潔な場所をほとんど見つけられなかった。
こんな美しい都市がどうして犯罪多発都市になるのだろう。
セローが旅をしてから現在までの20年間で、劇的な変化があったのだろうか。

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ここでセローはハイクラスのホテルに泊まった。
名前は出てなかったけど、なんでも国連職員や難民問題の専門家、慈善団体の代表などが泊まるホテルだったそうだ。
ここまで来るバスでも彼は、もう二度とこんな乗り物で旅をするのは御免だとぼやいているから、贅沢はしないという初志を貫徹するのは大変らしい。
ここに載せたのはそんなプールつきの豪華ホテルの1例。

宿泊料を払うとき、勘定にサービス料が含まれているのを見て、セローは文句をいう。
べつに彼がケチなわけではなく、高い金を取るくせに部屋は汚く、掃除をした形跡がなく、荷物まで自分で部屋に運んだので、いったいどこにサービスがあったんだということである。
ええ、じつはサービス料というのは名目でして、たんなる上乗せですと、ホテルのほうも正直だ。
上記のような、外国から来ているロクでもないやつらがこういうふざけた慣習を教え込んだんだろうと、セローは怒り狂う。

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ひととおり文句をいったあと、セローはアメリカ大使館に電話した。
リロングウェの米国大使館にはあらかじめ、市内の学校で短期の講師をしてみたいので、どこかの学校と話をつけておいてくれないかと連絡してあったのだ。
そうすることで、むかし世話になったこの国にささやかな恩返しができるのではないかと彼は考えていた。
ふつうなら有名な作家であり、かってこの国で教師をしたことのある彼の申し出は、歓迎されるはずのものだったけど、ところが大使館では広報係りの女性が、あたしは忙しいんです、そんな斡旋をしているヒマはありませんとにべもない対応。
世界的作家もかたなしである。
セローは憤まんやるかたなしだけど、まあ、善意の押し売りが日常になってるんだろうなと、あきらめる。

いや、あきらめない。
すぐにあきらめるのはわたしの悪いクセだった。
セローはあとでじっさいの米国大使をつかまえて文句をいう。
しかもふつうなら「消息筋」とか「上級外交官」というふうに相手の名前がわからないように気を使うところ、彼が旅をした2001年当時の米国大使といえば、調べればだれだったのかすぐにわかってしまう。
ここではそのP・T・S・カンディエロ大使のほうが礼儀をわきまえたおとなで、いきなりどなりこんできた世界的作家は、そつなくあしらわれてしまった。
韓国のもと外交官のオンナの人にどなられて、じっと我慢をしていた日本の冨田浩司大使みたいに、大使というのは理不尽な相手にじっと耐えるすべを心得てなければ務まらないのである(短気なわたしにはムリよ、ムリ)。

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最後に初心に帰ってリロングウェの市場を紹介。
いちばん最後の写真はタバコ市場だそうだ。

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