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2021年10月20日 (水)

アフリカ/ソチェ・ヒル高校

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かなり以前のことだけど、たまたま帰省したおりに、わたしはむかし通っていた小学校をのぞいてみたことがある。
校舎や周辺の景色は大きく変わったのに、校庭に生えていた松の木や、黒い粘板岩の慰霊塔など、むかしの記憶を呼び覚ましてくれるものがいくつか残っていた。
そういうものにひじょうな懐かしさを感じたのは、わたしが郷里をはなれて半世紀も経っており、その間小学校なんてまずのぞいたことがなかったせいかもしれない。
なにもかもが目まぐるしく変化する時代から、ほとんど変化のなかった時代を顧みると、いったいわたしたちはこれからどこへ行くのかと考えてしまう。

ポール・セローが、かって勤めていたソチェ・ヒル高校に向かったのは30数年ぶりのことだった。
ここは彼の人生を決定づけたたくさんの思い出のあるところで、ソチェ・ヒルというのは、日本でいえば桐ヶ丘や鶴ケ丘というような、由来のよくわからない地名の名前かと思ったけど、グーグルの地図にその名前がはっきり出ていたから、じっさいにそういう場所があるようだ。
彼の自伝によると、セローは若干22歳でこの学校の校長待遇として迎えられ、汚いトイレを改良するためにせっせとレンガを積んたそうである。
夜になるとあまり感心しない先生だったけど、昼間はまじめに勤務するいい先生だったらしい。
ここまでゾンバから70キロぐらいあり、セローはレンタカーを運転して行った。

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とちゅう、手前にあるリンベという町の銀行でキャッシングをしていくことにした。
リンベというのは南部の都市ブランタイアの一部で、ブランタイアというと、商業都市として首都のリロングウェをしのぐ大都市であり、首都と同じくらい大学や教育施設が集中しているところだ。
どんなところなのか参考のために、リンベを含むブランタイア一帯の写真を紹介する。

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銀行で並んでいると、処理に3日かかりますといわれ、そんなにかかるわけないだろと文句をいってくれたのは、後ろに並んでいたアフリカ人だった。
たちまちセローは彼と仲良くなり、世間話をする。
相手は求職中で里帰りをしていたアフリカ人だった。
大学の面接を受けて不採用になったばかりで、そのせいではないだろうけど、マラウイの政治に悲観的だった。
ここにはあまりにたくさんの支援者がいます、それが全部引き上げないかぎり状況はよくなりません。
やはり外国の支援はアフリカを救済することにはなっていないとのこと。

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けっきょく銀行で現金化できたのかどうか知らないけど、セローはさらにこの町にあった検閲局にも立ち寄ってみた。
どこの国の作家でも、自分の本が検閲に引っ掛かってないかどうか気になるものだ。
彼がもらった発禁図書の目録がおもしろい。
ジョン・アップダイク、クレアム・グリーン、ノーマン・メイラー、三島由紀夫、D・H・ロレンス、カート・ヴォネガット、ウラジミール・ナボコフ、ジョージ・オーウェル、サラマン・ラシュディ、そしてポール・セローの本もあった。
国が違えばこのほとんどが学生への推薦図書になるのになと彼はつぶやき、自分が発禁本の著者であることに気がつかれないうちこっそり逃げ出した。

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セローがトイレの改良をしたソチェ・ヒル高校はうらぶれていた。
ぬかるんだ空き地でぼろぼろの姿をさらし、屋根には亀裂が入り、木々は切り倒され、草は胸の高さまで伸び放題。
セローはむかし住んでいた家に行ってみた。
たまたまそこで現在の住人と出会って、35年まえにここに住んでいたんだよというと、そりゃ大昔だなといわれる。
35年が大昔かどうかは人によるだろうけど、アフリカ人の人生は短いのだから、彼らにとっては間違いなく大昔だとセローは思う。

ここにはサー・マーチン・ローズヴィア夫妻の住んでいた家もあった。
しかし夫妻は完全に忘れられていた。
ふたりの亡魂はいまなお学校をさまよっている、つくづく諸行無常であると思いつつ、セローも亡霊のようにあたりをさまよう。

そのへんで現在教師をしているスコットランド人と、マラウイ出身の新人教師に出会った。
英国人のほうはセローの本を読んだこともあるという。
どうなんだろう、将来はもっとよくなるとみんな言っていたんだけどねとセローは訊く。
ぜんぜんよくなっていませんよと2人。
教師になりたがる人なんていやしません、給料は安いし、優秀な人間はみなNGOに引き抜かれますと。
どうやら悪いのは徹底的に外国の支援団体らしかった。
たとえやる気のある新人教師がいたとしても、校長や副校長にはやる気がなかったから、外国人がここでものを教えるのは徒労にすぎないとセローは結論づける。

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しかし私見になるけど、これまでもあちこちで見てきたとおり、彼が以前より悪くなったとなげく町や学校は、現在はそれほどでもなく、かえって立派になっている場合が多い。
わたしは現在のソチェ・ヒル高校の画像を探してみた。
ここに載せたのはようやく見つけた写真で、校舎はいわれるほどボロでもないし、生徒たちも楽しく学んでいるように見える。
もちろんセローの旅から現在まで20年の歳月が流れているから、むかしのままであるはずがないけれど、現在の写真で見ると、そんなに零落した学校にはみえないのである。

教師時代のセローが勤務していたころは、まだマラウイが独立して間もないころで、もっとやる気があった時代だったのか、どっちにしても彼はがっかりしてゾンバにもどることになった。
翌日はルバディリの知り合いたちを招いて、彼の家で夕食会だ。
見てきたものがひどすぎたせいか、セローはマラウイ出身者たちを前にして、この国の欠点を列挙し、なんとかしなくちゃと熱血漢ぶりを発揮してしまう。
つまりすぐトサカに来ることを人々に証明してしまったわけだ。

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どうも彼は性急にすぎるようである。
アフリカの国がいきなり日本のように行儀のよい国になれるわけじゃない。
わたしはちょくせつ現地を見たわけではなく、ストリートビューでのぞいたたり、画像を集めただけだけど、それで見ると現在のマラウイは教育に熱心で、あちこちに大学があり、生徒たちは欧米と変わらない明るいキャンパス・ライフを享受しているように見える。
わたしはセローほど悲観的にはなれなかった。
ものには順序というものがあるし、アフリカの時間はゆっくり流れているのだ。
彼らにとって35年という歳月は長いと書いたばかりけど、アフリカの変化は一世代のうちになし遂げられるものではなく、短い人生がいくつか重なったのちに現れるものなのだろう。

夕食会の最中、天井でネズミが暴れる音がしたそうだから、もと英国の官舎といってもルバディリの家はそんな豪華な邸宅ではなかったようだ。
政治家や役人の腐敗ははげしく、大学に政府の支援はなく、学生たちはそのうちストを始める直前だった。
ルバディリはセローにぽつりぽつりと話す。
きみの息子のどちらかをマラウイに教師として派遣してくれないか。
セローにはインドやジンバブエで活躍している優秀な息子が2人いたけど、彼はすでにこの国の教育環境に愛想をつかしていたから、どうしてぼくの子供なんだ、君の(9人もいる)子供のほうがふさわしいじゃないか、アフリカはアフリカ人の手でどうにかすべきだといってしまう。
アチムウェネ(同志)の関係も冷えてしまったようである。

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このブログは個人の生活に踏み込まない主義だけど、まだ子供のころなら誰なのかわかる人は多くないだろうと、あえてセローの最初の妻と子供たちを紹介してしまう。
ええ、ネット上にもどうどうと公開されているんだし。

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