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2021年11月14日 (日)

アフリカ/ジンバブエ

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タクシーにぼられたポール・セローは、散々な思いでジンバブエにやってきて、国境の町ムタレからバスでマロンデラという町を目指した。
あわてても仕方がない。
あわてても一瞬のうちに文章を消してしまうこともあるくらいだから、まあ、そのあたりの景色をながめながらゆるゆると参ろう。
冒頭にかかげたのはザンベジ川を流れる、リビングストンによって発見されたビクトリア滝。
しかし彼は現地のアフリカ人に案内されてたどりついているから、厳密には西洋式の名前をつけただけである。

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4枚目からはムタレの写真で、モノクロは古い時代、カラーは現在のムタレ。
サバンナというより、日本の東京都の五日市や青梅のような、低山にかこまれた山あいの町という雰囲気。

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彼が聞いたところでは、この国は白人にとってひじょうに危険な国という噂だった。
米国人が旅をするには、アフリカのたいていの国が危険なんだけど、はたしてジンバブエはなぜ危険なのか。
なんでも大統領が大の白人ギライで、ことあるごとに白人に因縁をつけ、白人の農場経営者たちから土地を取り上げたりしていたそうである。
それが問題になるくらい、この国には白人が多かった。
どうして白人が多いのか、いったいぜんたい大統領の憎しみはどこから来たのか、ドロ縄で勉強してみた。
以下の記述はわたしがジンバブエの歴史を要約したもので、記述のどこかに間違いがあったとしても、いちゃもんは受けますが、責任はとりません。

ジンバブエはかって南ローデシアといって、英国の植民地だった国である。
第2次世界大戦のあとに独立紛争が起こり・・・・というところはアフリカのほかの国といっしょだけど、気になったのは(少なくとも紛争の初期には)宗主国とアフリカ人の戦いではなく、白人対白人のゴタゴタだったということだ。
“ローデシア紛争” はベトナム戦争と同じく、わたしの青春時代にリアルタイムで起こった事件で、この言葉は報道等でよく聞いたけど、遠いアフリカが舞台ということで詳しい実情は知らなかった。

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アフリカ大陸の最南端にある南アフリカは、スエズ運河が開通(1869)するまで、ヨーロッパとアジアを結ぶ海運の重要な中継地で、7つの海を制覇した英国は、19世紀のはじめに早くもこの土地を手中に収め、それ以前から入植していたフランス人、オランダ人、ポルトガル人などを圧迫した。
圧迫された白人主体の雑多な民族集団は、さらに奥地の北ローデシア(いまのザンビア)や、南ローデシア(いまのジンバブエ)に移住を余儀なくされた。
この民族集団をアフリカーナとかボーア人と呼ぶ。
ボーア人も英国人も、有色人種に対して徹底したアパルトヘイト(人種隔離政策)をとったことはいっしょだった(どういうわけか日本人は別格だった)。

英国の支配はローデシアにも及び、この国も英国の統治の下に置かれた。
ちなみに「ローデシア」というのは、このブログでも紹介した、南アフリカからエジプトまで大陸縦断鉄道を敷こうとした、壮大な夢想家セシル・ローズの名前から取ったものだそうだ。
移住をしたボーア人はほとんどが農業従事者だったため、金鉱やダイヤモンド鉱山などの利権を求める英国とは、とくに問題を起こさず住み分けができていた。
この国に白人が多いのはこんな事情があったためだ。

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頭の整理をするためにこのへんでコーヒーブレイク。
以前グループで海外旅行に行ったさい、わたしの知り合いのひとりが大きな旅行バッグを持ち込んできた。
表面が黒くてゴワゴワした材質で、これがなんだかわかるかという。
なんですかと訊くと、得意そうに、ゾウの皮だよという。
へえ、これがゾウと驚いたフリをしたけど、まだWWFや保護団体がうるさくなかったころで、ジンバブエあたりで狩られたものらしかった。
セローの旅のころまで、この国は金にあかせた白人猟師たちの天国で、野生動物の狩りはしたい放題、ゾウの足をくり抜いた物入れなどもどうどうと売られていたそうである。
困ったものだけど、現在ではこの国も、野生動物という貴重な資源を保護する方向に舵を切っている。

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第2次世界大戦のあと、脱植民地主義の時代になると、アパルトヘイトで国際的な批判にさらされた英国は、ローデシアをアフリカ人に返すことにする。
収まらないのは苦労してローデシアに生活基盤を築いていたボーア人たちだ。
汗水たらして畑を耕してきたのはオレたちじゃないかってわけで、彼らは英国に叛旗をひるがえし、ローデシアの返還に応じなかった。
白人対白人というのはこういう事情によるので、歴史上、英国のおかげで話がややこしくなったという、これも好例のひとつ。

もちろんアフリカ人たちも傍観していたわけじゃない。
約束は守れえと、英国の統治を引き継いだボーア人政府に、抗議はする、デモはする、ゲリラ攻撃はする。
当時はまだ冷戦のさ中だったから、もっけの幸いとソ連が乗り出してくる、毛沢東の中国も割り込んでくる、北朝鮮やキューバも参戦ということで、ローデシアは自由主義国と共産主義国の代理戦争の様相を呈した。
このとき反政府ゲリラの闘士だったのが、セローがジンバブエにやって来たとき、現役の大統領だったロバート・ムガベだった。
活動家だったころ、彼は官憲に捕まり、刑務所でキンタマに焼きを入れられたそうで、彼の白人ギライはこのへんから来ているんだとか。

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ムタレからマロンデラまでの街道はこんな感じで、あちこちで舗装工事がされていて、現在はなかなか快適な場所もあるようだ。
人間にとって快適ということは野生動物にとっては不快ということもあるので、ナチュラリストの視点からはちと疑問。
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ジンバブエの独立は1980年に達成され、最高権力者の地位についたムガベ大統領は、最初はおとなしかったけど、やがてそれまでの白人支配のうっぷんを晴らすように、白人が経営する農場への弾圧を始めた。
このへんの事情は、ジンバブエでじっさいに農場を経営していたキャサリン・バックルの、「アフリカの涙」という本に書いてあるそうだけど、例によって図書館になく、ヤフオクでも見つからなかったから、日本では発売されてない本のひとつらしかった。
ムタレからマロンデラへ移動するとちゅう、セローはバックル一家の悲惨な境遇について触れている。

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ある日とつぜんバックルの農場に、退役軍人だというアフリカ人が押しかけてきた。
彼らは勝手にそこいら中に住みつき、畑を自分のものにし、耕作機械を勝手に使用して穀物を植え、ひどいときにはことわりなしに土地を切り売りしてしまう。
抗議をしたり、止めようとして殺された農場主もいたそうだけど、政府はまったく見ないふりをしていた。
バックルの家族も抵抗してみたものの、侵入者たちに家を放火され、殺すぞと脅かされて、とうとう農場を放棄せざるを得なかった。
ジンバブエは白人にとって危険がいっぱいの国だったのだ。
あ、火事の写真は2019年のユナイテッドメソジスト学校のもので、紛争とは関係ありません。
平和な時代にも厄災は起こるってことで。

ただし、これもセローが旅をした20年まえ以前の話である。
ロバート・ムガベ大統領は37年間という長期にわたって政権の座にあったけど、2017年(まだ4年まえだ)にクーデターで失脚した。
現在のジンバブエはそんなにムチャな国ではない(ように見える)。
この大統領については次項でもっと詳しく書く。

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最後の4枚の写真はネットで集めた現在のマロンデロのようす(古いモノクロ写真も混じってます)。
最近の写真で見ると、まるでゴルフ場みたいに広々とした景色のいいところで、空気は清明、空はきれいで、これなら喘息持ちでもいっぺんでよくなりそう。
ジンバブエにも野生動物の保護区はいくつもあり、動物の見学ツアーも開かれているから、ゾウももはや足をぶった切られることはなさそうだ。

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